聚楽第 -付近を散策すると、町中に意外な痕跡が-

2012-12-31 17:05:01 | まち歩き
聚楽第 じゅらくだい (京都府京都市上京区)



現地説明会の後、付近を少し散策してみました。



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今回、本丸南側の遺構が発掘された場所の西側には、南北方向に智恵光院通が通っています。
智恵光院通を南に向かって200メートル弱歩くと、道は東西方向の出水通と交差しています。








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その交差点の先で、智恵光院通は急に下り坂になり、また平坦になって続いてゆきます。
聚楽第の立地は、大まかに言うと北から南に下がる傾斜地になっています。
そのため、聚楽第の北の端と南の端とでは、標高差はおよそ6メートルもあります。

ここは聚楽第の南の端に近いと考えられている辺りで、特に土地の高低差が大きく現れている場所です。







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坂を下ったところで新出水通を右折し(西方向)、少し行くと、松林寺の門が見えてきます。
門の脇に 「此付近 聚楽第南外濠跡」 と記した石碑が建っています。





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松林寺の門前に立ってみると、この寺が珍しい造りになっていることに気付きます。
寺の敷地が周囲より1.5メートルほど低い凹地になっているため、石段を下って境内に入るようになっています。 

この凹地は、聚楽第の外堀の名残と考えられています。

平成9年(1997)に松林寺本堂の再建に先立って行われた発掘調査では、この凹地は元の地形ではもっと深く、新出水通よりも約3.5メートル低かったことが確認されています。



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まだまだ謎の多い聚楽第ですが、地道な発掘調査によって少しずつその姿が解明されてゆくのが楽しみです。




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「蛇足」


ところで、このブログに聚楽第のことを書くと、「聚楽最中」(じゅらくもなか)というお菓子の広告が登場してきます。
当意即妙、何とも興に満ちた広告とのコラボレーションではありませんか!
名古屋のお菓子屋さんのようなので、今度名古屋に行った折に是非お土産に買ってみたいです。






聚楽第 -発掘調査現地説明会Ⅱ ② 石垣の特徴をじっくり観察しました-

2012-12-29 11:12:53 | まち歩き
聚楽第 じゅらくだい (京都府京都市上京区)



今回(12月24日)の現地説明会で見聞した石垣の特徴を写真に収めてみました。


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石垣は、加工されない自然石を使用しています。
自然石を安定良く据えるとともに、比較的平らな面が石垣の表面に出揃うように巧みに積み上げています。





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この角度から見ると、石垣の表面がいかにピッタリと揃っているかが良く分かります。
まるで定規で線を引いたように、見事に一直線に築かれています。
表面加工しない自然石をここまで自在に扱ってしまう職人技には、本当に驚嘆させられます。





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この写真は、検出された石垣の最も西側の部分です。





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そして、こちらは石垣の最も東側の部分。


西と東の両端の石垣を、それぞれの石垣からほぼ同じ距離に立って撮影してみました。

写真を並べて比較すると、東側ほど大きな石材が使われていることが明確に見て取れます。

この石垣の東の端から、さらに20mほど東に本丸の大手門があったと推定されています。
来訪者に見せることを意識して、大手門に近い石垣ほど大型の石材を配置したと考えられています。




 ・・・・・・・・ 参考 ・・・・・・・・



「見せることを意識して、大手門に近い石垣ほど大型の石材を配置した」 という点について、参考に八幡山城 (滋賀県近江八幡市)の石垣を見てみましょう。

八幡山城は、天正13年(1585)に秀吉の甥・秀次の居城として築かれました。
聚楽第が築かれるのは翌・天正14年(1586)ですから、この二つの城郭の石垣は兄弟分のような関係と言えます。



(参考①/八幡山城)
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八幡山城の中で、山腹に設けられた秀次居館の石垣です。
この撮影地点の西方(画面左側)に、居館の正面入り口の門に通じる通路が設けられています。





(参考②/八幡山城)
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そしてこちらは、①の撮影地点より20mほど西方(画面左側)、つまり門に近づいた場所で撮った写真です。

石垣の高さは、①・②どちらの撮影地点もほぼ同じです。
しかし、②の石垣は石材の一つ一つが大型のため、詰まれた石の段数は①の石垣よりもかなり少なくなっています。

主要な門に近い石垣ほど大型の石材を配置する傾向が、ここでも見て取れます。



聚楽第 -発掘調査現地説明会Ⅱ  ① 長さ32メートル、「秀吉の城」の豪快で迫力ある石垣を検出-

2012-12-24 23:33:37 | うんちく・小ネタ
聚楽第 じゅらくだい (京都府京都市上京区)



平成24年12月24日、本丸南端で2回目の現地説明会が行われました。
前回10月7日に現地説明会を行った石垣を対象に、遺存状況確認のため調査区を拡張して発掘が行われました。
その結果、予想以上に良好な状態で続きの石垣が検出され、再度の現地説明会が実施されることになりました。

2回目の現地説明会があるとの情報を得て、朝一番で見学してきました。
以下、その要旨をご紹介致します。


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今回検出された石垣の状態と、そこから見えてきたことは以下の通りです。



(1)石垣は東西方向に長さ32m。3~4段が遺存し、残存高は最大で約2.3m。

(2)石垣の傾斜角度は、約55度と緩やか。

(3)加工されない自然石を使用。高度な技術で積み上げ、石垣の表面が平らに揃っている。

(4)石仏などの転用石は使用していない。

(5)石垣の石材は、東に向かって大型化する傾向がある。

※ 石材の大きさは、西側では長さ約0.7~0.8mであるのに対し、東側では長さ約1.4~1.5m(体積では西側の石材の3~4倍)と大きくなる。
検出された石垣の東端部から東へ約20m先の地点あたりに本丸の南北の主軸線が通り、ここに本丸大手門があったと推定されている。
聚楽第への来訪者の目を意識して、大手門により近い石垣に大ぶりの石材を配したと考えられる。(逆に、大きい石材の配置が本丸大手門の位置を考える手がかりにもなる)

(6)予想以上に良好な石垣遺構が遺存。

※ 今回検出された石垣は、上部の石材(2~3段ほどか)が撤去されているが、遺存状況は良好。
撤去された石材は、堀の中に投棄したか、あるいは伏見築城のために持ち去ったかは今後の研究課題だか、従来考えられてきたような徹底的な破壊が行われたとする見方には再考が必要である。





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岸岳城 ② -土地の人々の思いは、伝説に語り継がれて-

2012-12-18 23:23:42 | うんちく・小ネタ
岸岳城 きしだけじょう (佐賀県唐津市)


岸岳城は、数多くの伝説を持つお城です。

今回は、そうした伝説の中から主なものを紹介してみましょう。


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まず、城が築かれた山・岸岳の名前の由来には、こんな伝説があります。

「昔々、この山には山賊どもが住み、里の人々への乱暴狼藉を極めておった。里人はこの山を鬼が住む山と言って恐れ、いつしか鬼子岳(きしだけ)と呼ぶようになったそうな・・・」

さらに別の伝説によると、

「この山賊(鬼)どもの悪事に業を煮やした朝廷は、大江山の酒呑童子退治で有名な渡辺綱(わたなべの つな)の長男・源久(みなもとの ひさし)を大将に討伐軍を差し向けた。そして、見事に山賊どもを討ち果たした源久は、褒美として松浦郡を領地として与えられた」

となっています。

この源久の次男が源持(みなもとの たもつ)です。
源持は、松浦郡の内から波多郷を分与され、波多氏を名乗り、岸岳城を築いたとされます。
ここから話は、岸岳城の歴史へとつながってゆきます。

そして歳月は流れて四百余年、持(たもつ)の17代目の子孫・波多親(はた ちかし)は、戦国時代を生き抜き、豊臣秀吉の政権の下で領国を安堵されます。
しかし、文禄2年(1593)、朝鮮出兵からの帰国の船上で突然に領地の没収と常陸国・筑波山麓への配流を命じられます。
親(ちかし)は筑波山麓で没し、波多氏は滅亡してしまいます。

突然の領地没収。

一体、何があったのでしょう。

伝説は、そこに意外な理由があったことを語り伝えています。

「波多親(はた ちかし)の妻は、名を秀の前(ひでのまえ)といい、たいへんな美人でした。悪いことに、その評判が岸岳城からほど近い名護屋城に滞在中の豊臣秀吉の耳に入ってしまいます。
秀吉は、親(ちかし)が朝鮮半島へ出陣した留守を狙い、秀の前を名護屋城に呼び付けました。秀の前はやむなく名護屋城で秀吉の前に出ますが、もしもの時は自害をしようと覚悟を決め、懐に短刀を忍ばせていました。
そのことが秀吉の怒りを買ってしまい、波多氏は領地を没収されてしまいました・・・。」

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こうした数々の伝説は、波多氏が滅亡後も土地の人々から追慕され続けた証だと見て良いでしょう。

波多氏の後、その遺領には寺沢氏が入封して新たに唐津城を築きます。
寺沢氏が改易された後、唐津藩主は、大久保氏・大給松平氏・土井氏・水野氏・小笠原氏と代わってゆきます。
しかし、土地の人々にとっては、我らが郷土の殿様は四百余年にわたって続いた波多氏であって、寺沢氏以降の殿様は皆、よそ者という感覚だったのかも知れません。


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岸岳城 ① -謎多き天険の名城-

2012-12-16 22:12:24 | うんちく・小ネタ
岸岳城 きしだけじょう (佐賀県唐津市)


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岸岳城は、佐賀県唐津市にある山城です。
標高320メートル(比高310メートル)の岸岳山頂の尾根筋に、延長1キロメートルに渡って曲輪群を連ねる大城郭です。



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城が立地する岸岳は、標高200メートル辺りから上は切り立った急崖になっています。





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山頂の尾根筋は、広いところは幅が十数メートル程あって曲輪を構えるのに都合良く、




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逆に狭いところでは幅がわずか数メートルしかなく、露出した岩盤が侵入路を塞ぎ、まさに天険の要害と呼ぶにふさわしい名城です。




その一方で、岸岳城は謎の多い城でもあります。
いつの時代に築城され、どのような経緯で大城郭に発展していったか、確かな史料が無くて明らかではありません。

通説では岸岳城の歴史は、平安時代末期に松浦郡波多郷を分与された源持(みなもとの たもつ)が波多氏を名乗り、岸岳に築城したことに始まるとされています。
戦国時代、波多氏は大友氏・龍造寺氏の二大勢力の軍事的圧力に晒され、またある時は、相続をめぐる一族の内紛という危機にも見舞われました。
こうした軍事的な緊張の中で、岸岳城は次第に大城郭へと改修されていったと考えられます。

持から数えて17代目とされる波多親(はた ちかし)は、龍造寺隆信と和議を結びその傘下に入り、上松浦地方を領有する大名となります。
しかし文禄2年(1593)、波多親は豊臣秀吉によって突然改易され、常陸国の筑波山麓に配流されます。
こうして波多氏は断絶してしまいました。




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地元の伝承では、波多氏の改易によって岸岳城は廃城となったとされています。
しかし、現存する石垣や縄張の遺構は、岸岳城は少なくとも江戸時代の初期まで存続し、さらに堅固な城に改修されていったことを示しています。