福岡城を歩く。  <お城好きの社長さんが作った、精密復元模型で城歩き>  ~ 軍師官兵衛ゆかりの城

2014-08-24 19:34:32 | うんちく・小ネタ
福岡城  ふくおかじょう    (福岡県福岡市中央区)


今から20年ばかり前の、残暑の厳しい日のことでした。
8泊9日で北部九州の城郭踏査の旅をしていた私は、福岡城に来ていました。
城内を歩いていると、たまたま行き会った地元の方から、
「お城に興味をお持ちなら、ぜひ見に行かれては?」
と、ある耳寄りな情報を頂いたのでした。

それは、福岡城の外堀の北側、明治通りに沿ったビルの1階ロビーに、福岡城の全景を復元した模型が展示してあるとの情報でした。
さらに聞くところによると・・・

その会社の社長さんはお城が大好きで、とりわけ郷土の福岡城に深い愛着を持たれています。
そこで、専門家に依頼して福岡城の復元模型を作製し、本社ビルのロビーに展示しました。
合わせて、関連書籍を閲覧できる「福岡城資料室」も設置しました。
そして、ロビーを一般開放し、会社の営業時間中なら誰でも自由に見学できるようにしています。

・・・との由。
早速、行ってみることにしました。

ビルに入って、受付で来意を告げると、博多人形のような綺麗な顔立ちをしたお嬢さんが、どうぞごゆっくり見学して下さいと言ってパンフレットを手渡してくれました。
その挨拶文は、
「福岡城と城下町の昔の様子を見ていただき、郷土の町の歴史を見つめなおす契機となれば幸いです。」
という言葉で結ばれていました。

民間企業が地域貢献として行う活動には様々な形がありますが、こうした郷土の歴史に親しめる場所の提供というのは、とてもユニークな発想です。
何より、郷土への深い愛着が籠っている所に、とても魅力を感じました。

1年ほど経った頃、社長さんの名前でお手紙を頂きました。
どうやらこの手紙、芳名帳に名前と住所を書いた見学者全員に発送されたようです。
内容は、「福岡城には、天守は建てられなかったというのが通説でした。しかし最近、新史料の発見により、築城当初は天守が存在した可能性が高まってきました。そこで、模型に幻の天守の姿を追加してみました。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。」というものでした。




近年、会社は移転しました。
しかし、ビルの所有者が変わった後も、模型の一般開放は継続されていました。
その後、平成24年(2012)に福岡城三の丸跡に「福岡城むかし探訪館」がオープンしたのを機に、模型はそこに移設されました。
そして、今も多くの見学者に福岡城の盛時の姿を伝えています。



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以下は、模型が会社のロビーに展示されていた時、許可を頂いて撮影したスナップ写真です。
(「幻の天守」は、まだ追加されていません)
映りが粗い写真ですが、これをもとに盛時の福岡城を城歩きをしてみましょう。


模型は400分の1スケールで、江戸時代後期の三の丸以内を再現しています。
櫓や御殿などの城郭建築から武家屋敷に至るまで精密に考証・復元されています。
全国の歴史博物館の中でも、これほど高水準な城郭全体の模型は、なかなか類がありません。


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南西側の上空から見た構図です。
最も高い所が本丸、一段下がって二の丸が周囲を囲んでいます。
二の丸の南西部は、特に「南の丸」と呼ばれ、独立性の高い一角となっています。
これらの区画は総石垣です。

そして、その西から北、さらに北東(画面奥)を広大な三の丸が取り巻く構えでした。


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北西側の上空から見た構図です。
画面右手の塀を廻らせた区画は、三の丸御殿です。
寛文10年(1670)、3代藩主の黒田光之がこの場所に御殿を造営して以降、歴代藩主の居館となりました。

その西側(画面右手)の堀は、現在の大濠公園の池です。



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東側の上空から見た構図です。
三の丸の東部には、重臣屋敷が建ち並んでいます。



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続いて、福岡城の中枢部を見てみましょう。
総石垣作りの本丸・二の丸を北西から見た構図です。
手前の区画は、二の丸御殿です。

二の丸御殿は、次の藩主、すなわち若君様が住む御殿でした。
しかし、江戸時代中期以降の黒田家では、なぜか男子の若死にが相次ぎました。
そのため、他の大名家から養子を迎えることが多くなり、二の丸御殿は使われなくなりました。



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北から見た本丸・二の丸です。

本丸御殿は、当初は藩主が住む御殿でした。
しかし、三の丸に新たに藩主の御殿が構えられた後、本丸御殿は重要な儀式の時に限って利用されるようになりました。

本丸御殿の背後には、天守台の石垣がそびえています。



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福岡城の南側は、元は丘陵続きであったため弱点ともなり兼ねません。
そこで、特に防御に重点を置いた構えが見て取れます。

画面左手奥の大規模な三重櫓は、「南三階櫓」です。
かつて筑前国の中心であった名島城の天守を移築したものとする伝承もあります。
この櫓が建つ二の丸南西部は、独立性の高い区画で「南の丸」と呼ばれ、防御の要でした。

また、画面中央のやや右手に建つ長大な櫓は、武具櫓です。
二重の渡り櫓で、二棟の三重櫓を連結した独特の姿をしています。



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武具櫓付近の拡大写真です。
天守台は石垣のみです。

少し前までは、福岡城は初めから天守が無い城だったというのが通説でした。
しかし、築城当初はここに天守が建っていたとも解釈できる史料(「細川家史料」)もあり、論争を呼んでいます。

なお、最近は福岡城跡の整備計画の一環として、武具櫓の復元計画が具体化しつつあります。
武具櫓は、明治維新後も残っていて、大正5年(1916)には福岡市浜の町の黒田家別邸に移築・保存されていました。
惜しくも昭和20年(1945)6月19日の福岡大空襲で焼失しましたが、写真などの資料が多く残り、正確な復元が可能として注目されています。


福岡城を歩く。  <隠居屋敷の跡で、官兵衛と妻・光のスローライフを垣間見る>  ~ 軍師官兵衛ゆかり

2014-08-06 01:43:43 | うんちく・小ネタ
「第31回 全国城郭研究者セミナー」で福岡市に行った時のことです。

福岡空港も博多駅も、人の集まるあらゆる場所は、大河ドラマ「軍師官兵衛」のポスターで飾られていました。
さすがに、熱の入れ方が違いますね。
また、黒田家ゆかりの地の案内地図やパンフレットなども万端整えられ、観光案内所やホテルのフロントなど、要所要所に置かれていました
官兵衛ブームの追い風で、この夏、大勢の観光客が福岡を訪れているようです。




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福岡城  ふくおかじょう    (福岡県福岡市)




福岡城は、官兵衛の長男・長政が築いたお城です。
江戸時代を通じて、福岡藩主・黒田氏の居城でした。


長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で徳川家康の東軍に属して戦い、その戦功で筑前一国52万石を与えられました。
筑前国には、既に名島城(なじまじょう/福岡市東区名島)がありましたが、海に突き出した岬に立地しており、城下町の建設に限界がありました。

そこで、官兵衛・長政父子が着目したのは、中世以来の商業都市・博多の西側にある福崎(ふくさき)の地でした。
ここに新たな城と城下町を築き、博多と一体となった政治・経済の中心地とすることを考えたのです。
そして、地名の福崎を「福岡」と改めました。
これは、官兵衛の祖父・重隆が諸国を流浪中、備前国の福岡で家運を開いたという由緒に因むとされます。

慶長6年(1601)より築城を開始、足掛け7年を経て完成しました。
既に隠居して、如水(じょすい)と号していた官兵衛も、この城内に屋敷を構えて、晩年のひとときを過ごしました。


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さて、全国城郭研究者セミナー2日目の朝。

博多駅前のホテルを少し早めに出て、福岡城に立ち寄ってみることにしました。
しかし、あまり時間も取れないので、大手門に相当する「下之橋御門」(しものはしごもん)付近に絞って歩いてみることにしました。



B3

地下鉄の「大濠公園駅」で下車し、5番出口から地上に上がると・・・
そこは、もう福岡城の堀端です。



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B17

堀端を東へ歩くと、下之橋御門が見えてきます。
見事な眺めです。

なお、二重櫓は本来は福岡城内の別の場所に建っていたものです。
大正時代、一旦城外に移築されました。
昭和31年(1956)に再び福岡城の下之橋御門の脇に移築され、現在に至っています。


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B66

福岡城全体の中で、下之橋御門はここに位置します。


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B40

それでは、この門から城内に入ってみましょう。
左折れの枡形になっています。


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B57

正面から見た下之橋御門です。
平成20年(2008)に復元整備されたので、まだ新しく見えます。

この門が建てられたのは、江戸時代後期の文化2年(1805)でした。


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B3

明治時代に上部の櫓が撤去されました。
そして、この写真(平成9年撮影)のように、門柱と梁の上に直接屋根が載る薬医門(やくいもん)に改築されました。
それでも、福岡城内で元の位置のまま建つ唯一の城門遺構として、福岡県指定文化財となっていました。

しかし、残念なことに平成12年(2000)に不審火で全焼してしまいます。



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B55

その後、平成18年(2006)より復元整備に着手。
平成20年(2008)江戸時代後期に建てられた櫓門の姿がよみがえりました。

焼損した部材も、極力修復して再利用しました。
そのために竣工まで年月を要したそうですが、文化財保存において、この真摯さは立派です。



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B82

内側から見た下之橋御門です。

門をくぐると、今度は右折れの枡形になっています。
左に右に、かなり厳重な門です。



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B66

さて、下之橋御門を入った先に、小さな丘が有ります。
この丘の上に、官兵衛の隠居屋敷であった「高屋敷」(たかやしき)がありました。

屋敷は質素な侘び住まいでした。
丘の周囲には石垣が築かれていませんが、あえて自然に近い風情を残したのでしょう。



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B900


官兵衛の隠居屋敷跡に建つ石碑です。
「御鷹屋敷」と表記されています。


官兵衛は晩年のひとときを、この隠居屋敷で妻の光(てる)とともに暮らしました。

この時期、黒田家一族が催した「連歌百韻の会」(れんがひゃくいんのかい)で、官兵衛が
「朝夕の けぶりもかすむ 浦半にて」
と詠むと、光は
「長閑(のどか)に風の かよふ江のみず」
と続けています。
遠く海を眺める隠居屋敷で、ゆったりとした日常を過ごす官兵衛夫妻の姿が見えて来そうです。

また、屋敷には、家臣の子供たちが出入りし、官兵衛もその相手をするのが楽しみだった。
というような、微笑ましい話も伝わっています。
その他、庭で薬草の栽培をしたり、お供を一人だけ連れて町を散策したり・・・・
まさにスローライフを楽しんだ官兵衛でした。

若き日に志を立て、智謀の限りを尽くして秀吉の天下取りを支えた官兵衛は、天正17年(1589)に長男・長政に家督を譲って隠居していました。
そして、文禄2年(1593)頃から、「如水軒圓清」(じょすいけん えんせい)の号を名乗るようになりました。
「水の如く」とは、あるいはこうした自然体の生き方を志向する心境を示していたのかも知れません。


しかし、官兵衛が福岡城で過ごした年月は、そう長くはありませんでした。

慶長9年(1604)、京に上っていた官兵衛は、体調を崩して床に伏せます。
そして3月20日、伏見屋敷において58歳でその生涯を閉じたのでした。





「第31回 全国城郭研究者セミナー  ~ 近世城郭をどう捉えるか ~ 」 私の見聞録。

2014-08-04 23:51:01 | うんちく・小ネタ
8月2日(土)、3日(日)の両日、九州大学・西新プラザで開催された「全国城郭研究者セミナー」に参加してきました。
これは、全国の城郭研究者が一堂に会して、全国を視野におさめた研究成果の交換と、研究者同士の交流を深める目的で、毎年夏に行われているものです。
なお、第31回目にあたる今年は、初の九州地区での開催でした。
台風の影響で、ずっと雨続きでしたが大勢の参加者で賑わっていました。

以下、私の個人的な感想ですが、簡単に触れてみたいと思います。



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先ず始めは、選抜された6名の研究者による調査・研究報告。
自治体でお城の研究に携わる本職の方から、本業の傍ら二足の草鞋で研究活動を続けている方まで、立場は様々です。
しかし、どの方からも地域に根差した研究に打ち込む熱意が共通して感じられました。

研究の方法も様々で、地域の城跡を丹念に踏査して地域性・時代性の分類を試みた研究、統計学的な手法を用いて数値でお城の特性を表そうとする研究。徹底した文献調査により通説の見直しに挑む研究などなど・・・。
目からウロコの新知見の数々に、時間の経つのも忘れるほど聞き入ってしまいました。

中には、報告後に鋭い質問が入り、コンセプトの理論が危うくなってしまったようなケースもありましたが、いえいえ、こういうプロセスを経て学問は発展してゆくものと信じています。



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そして後半は、「近世城郭をどう捉えるか 」をテーマとしたシンポジウム。

現代のお城の研究は、お城を「史料」として社会構造を読み解く、つまり、お城の形やその変遷から、その時代がどんな時代だったか、どんな社会が営まれていたかの追求を目的として、1980年代から90年代にかけて発展しました。
しかし現在、その目的が忘れられ、細かい形の追及にのみに終始するようになり(ある意味で、オタク化)、その時代の全体像へと視野が向かない傾向にあるとされます。

(・・・確かに、私もそうですが、お城好きな人は個人差はあれど「凝り性」なので、ついそうした傾向に向かうのかもしれません。)

そこで、研究目的の原点の確認の意味も込めて、今回のテーマが選定されたそうです。

シンポジウムに先立ち、4名の研究者からの基調報告。
こちらは大学、博物館等で研究活動をされている本職の先生方で、最後は奈良大学の千田嘉博先生。
近世城郭とは、「石垣が築かれている」とか「天守が建っている」とかのハコモノの有無ではなく、城主→家臣の上下関係を厳然と示す構造になっているか(たとえば安土城の場合、山上の信長居館と、そこに続く坂道に沿ってひな壇状に築かれたか家臣団屋敷群の存在)で定義づけるという解説は、とても分かり易かったです。
シンポジウムでもこの説がコンセプトになりました。


 
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なお、千田先生が「余談」として紹介された
<海外のお城と、日本のお城との意外な共通点>
には、大変興味深いものがありました。

たとえば、武田信玄が信濃の海津城(松代城)をはじめ、重要拠点のお城に「丸馬出」(まるうまだし=城門の外側に、半円状に堀や土塁を構えた防御施設)を築いています。
これと同じものが、紀元前のイギリスの城塞都市に存在したり・・・。
13世紀のシリアの城郭で、しつこいくらいに屈曲を繰り返す城門の構造が、
熊本城の飯田丸から本丸に至る連続枡形に似ていたり・・・。

時代も国も全く違う中で、
似たような社会情勢が出現し、
似たような政治的立場の人々が居て、
自分たちの生命、生活基盤、地位などを守るため、
考えに考え抜いた結果、よく似た建造物が誕生した。
・・・そうした例が、世界には数多く見られるそうです。

このような国際比較によって、
<日本のお城がその時代時代でどんな役割を果たしたか、何を求めらていたか>
が見えてくる。

という話には、大変感銘を受けました。




次回の「全国城郭研究者セミナー」は、来年の夏、東京で開催の予定だそうです。
一般参加OKですので、興味のある方はぜひ行ってみてください。


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