田辺城を歩く。 <紀州徳川家の付家老・安藤氏の居城>

2014-10-06 23:52:22 | 旅行記
田辺城  たなべじょう    (和歌山県田辺市)



所用があって、和歌山県の田辺市へ行ってきました。

田辺は、温泉地として有名な南紀白浜に隣接しています。
風光明媚な海岸の風景が、目の前に広がる街です。

江戸時代には、紀州徳川家の付家老・安藤家3万8800石の城下町でした。


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二日目の朝、少し早起きして街を散策してみました。



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宿を出て少し歩くと、美しい砂浜に出ました。
その名も「扇ヶ浜」。

なんとも風雅な地名です。 



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田辺湾の沖に目をやると、遠く水平線が見えました。



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海岸の通りを西に向かって歩きました。
少し行くと、道路脇に小高い丘のようなものが見えてきました。

幕末、田辺城に隣接して築かれた砲台・扇ヶ浜台場(おうぎがはま だいば)の跡です。

欧米列強の侵攻に対する危機感が高まる中、
紀伊半島の先端に近い田辺領では、沖を航行する外国の軍艦がたびたび目撃されるようになっていました。

安政元年(1854)、領主の安藤直裕(あんどう なおひろ)は、田辺の町を防衛するため、江戸で砲術を学んだ家臣・柏木兵衛(かしわぎ ひょうえ)に命じて、扇ヶ浜台場の構築と大砲数十門の鋳造に着手しました。



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完成した扇ヶ浜台場の規模は、全長約180メートル、幅90~100メートル。
海に面する側には、約9メートルの高さに土塁を築き、巨大な大砲を配備していました。
大砲の試射を行ったところ、砲弾は田辺湾入り口の白浜半島沖に着弾するという威力を発揮しました。

幸い、扇ヶ浜台場は戦場となることなく明治維新を迎え、やがて廃されました。
その後、土取りで大きく形を変えました。

現在は、カトリック教会の敷地となっています。






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さて、いよいよ田辺城へと向かいましょう。

扇ヶ浜台場の前を過ぎると、ほどなく会津川河口に架かる田辺大橋のたもとに着きました。
南に海岸、西に会津川が接するこの一帯が、かつて田辺城の跡です。




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城跡は、埋め立てと道路建設によって、水際から切り離されています。
一見したところ、ここが城跡だとは、ちょっと気付き難いほどの変貌振りです。


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田辺城の歴史は、慶長11年(1606)に浅野氏定(あさの うじさだ)によって築かれた湊城(みなとじょう)に始まります。

元和5年(1619)、氏定は主君・浅野長晟(あさの ながあきら/和歌山城主)が芸備(安芸国・備後国=現在の広島県)へ領地替えとなったのに従い、田辺を去りました。

代わって、紀州の新領主として和歌山城に入城したのが徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)です。
ここに、紀州徳川家の歴史が始まります。
田辺は紀州徳川家の重臣・安藤直次(あんどう なおつぐ)の領地となりました。

新たな領主となった直次が初めて田辺に来た時、湊城はすでに無く、民家に宿泊したと伝えられています。(『田辺大帳』)
おそらく湊城は、元和元年(1615)の一国一城令で破却されていたのでしょう。
そして、直次が湊城の跡に再興したのが田辺城です。



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田辺城の本丸の復元図です。
本丸御殿が建ち並んでいます。

田辺城は、近世の城としては規模が小さく、天守や高層の櫓も建てられていませんでした。
しかし、石垣の上に連なる白壁の土塀が海に映えて、美しい景観を構成していました。

そうした景観に由来するものでしょうか。
錦水城(きんすいじょう)の別名があります。

本丸の北から東にかけては、本丸を取り囲むように二の丸が構えられていました。


 
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田辺城本丸跡の一角は、小さな公園になっています。

鳥居の左手に櫓を模したような構造物がありますが、この中に珍しいものが展示してありました。


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それは、田辺城の屋根を飾っていた一対の鯱瓦です。
写真はそのうちの一つ。


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そして、城主・安藤氏の家紋 「下り藤に安」(さがりふじにあん)が入った軒丸瓦です。
名字の「安」という字がそのまま入った家紋というのが、なかなか面白いです。


ちなみに安藤直次は、幼少の頃から家康に仕え、側近中の側近として江戸幕府の政治に関与していました。
その後、家康は、いまだ若年の十男・頼宣を大名とするため、その補佐役の一人として直次を頼宣の家老として配属しました。
これを付家老(つけがろう)と言います。

今風に言うと、親会社の「江戸幕府」から子会社の「紀州藩」へ役員として出向・・・といったところでしょうか。
(ただし、現代のサラリーマンとは異なり、この「出向」は、安藤家代々の世襲となるのです)

安藤氏は、こうした特異な立場にあったため、紀州藩に仕える身でありながら、特例として居城を構えることが許されました。
しかし、田辺城を天守がそびえ建つ派手な城にすることは、さすがに遠慮したようです。
また、安藤氏の当主は、常に和歌山城に詰め、付家老としての執務を行わなければなりません。
城主不在が常なので、必然的に田辺城はコンパクトな城になったのでしょう。
また、城普請も徹底しておらず、石垣の上に土塀が造られず、仮に柴垣や竹垣を廻らせた部分もあったようです。

前述した「錦水城」の別名を持つ、美しい城として完成したのは、江戸時代後期の天保2年(1831)のことでした。


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さて、本丸跡の一角に、全国的に見ても珍しい「水門」(すいもん)の遺構があります。

水門といっても、水を塞き止める堰(せき)のことではなく、船付き場に通じる専用の門のことです。



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本丸の隅にある石段を下ります。
その先は、トンネル状の通路になっています。



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石段を下りきった所です。
門の礎石と石製の敷居が残っています。
ここに扉がありました。

かつては、この水門を出たら会津川の畔で、その場から乗船できました。

現在、向こうにもうひとつトンネル状の通路がありますが、これは現代の道路工事に伴うものです。



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道路の下のトンネルを抜けて、会津川の畔に出てみました。

水量は豊かで、ひたひたと打ち寄せています。
船が本丸に直接乗り付けていた時代を彷彿とさせます。



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田辺大橋の先に、海の波頭が見えます。
水門が、海上交通と直結していた様子が良く分かります。



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再び水門の前に戻ってみました。

外から見た水門の石垣です。



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この部分の石垣は、独特な積み方をしています。

外側は、波や増水時などの水圧に耐えるように緩い傾斜で石を積んでいます。
一方、トンネルの壁面となる内側は、垂直に石を積み上げて門の密閉性を高めています。

また、天井には丁寧に加工した石の角材を架け渡しています。



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門の礎石です。
この礎石の上に、門の両脇の柱が建っていました。

ここに興味深い遺構があります。
礎石に柱が建っていると想像して、柱に接する石垣を見てみましょう。
柱が石垣にしっかりとフィットするように、石垣の表面にへこみが付けられているのが分かります。


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門をくぐった先の石段です。

二十段で本丸に達するように造られています。
十三段目までは幅が広く、十四段目から急に幅が狭くなっています。

一般的に、お城の中でこのように通路が急に狭くなっている場所は、敵の侵攻速度を鈍らせるための防衛上の工夫と解釈されます。
しかし、この水門の石段の場合は規模が小さく、こうした構造にしてもあまり防衛上の効果は無いように思えます。
むしろ、ステータスとして軍学の理論を取り入れたものと見るべきでしょう。



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石段が急に狭くなっている部分は、もちろん登り下りする人の足に踏まれる頻度も高くなります。
それが石段のへこみになって、しっかりと現れています。

江戸時代にこの石段が築かれてから、現代までの数百年。
幾多の人々の歩みが刻み込んだ、貴重な歴史遺産です。










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