姫路城を歩こう。<前編> -「軍師官兵衛」ゆかりの城③-

2014-02-24 00:28:41 | まち歩き
姫路城の「平成の保存修理」も、いよいよ終盤に入りました。



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今年1月から、大天守を覆っていた巨大な素屋根(すやね)の撤去が始まりました。
8月には撤去が完了し、大天守が4年ぶりに姫路の空にそびえ建つことになります。
(天守内部の公開は、平成27年3月27日からの予定です。)



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こちらは、「平成の保存修理」の前の姿です。

姫路城が「白鷺城」の別名で呼ばれるのは、白漆喰をふんだんに使ったこの外観に由来します。
素屋根が撤去されて出現する大天守は、各層の壁および軒下、さらには葺き替えた屋根瓦の目地まで、真新しい白漆喰です。
きっと、まばゆいばかりの白さでしょう。

ところで、姫路城がこうした「白鷺城」の姿になったのは、江戸時代初期のことです。
慶長5年(1600)、徳川家康の女婿・池田輝政が姫路城主となります。
輝政は、五層の天守を建てるなど、ほとんど新規の築城に近い大改修を行いました。
元和3年(1617)、池田氏に替わって姫路城主となった本多忠政は、西の丸造営や帯郭の高石垣を築くなどして、姫路城を完成しました。

では、黒田官兵衛が居た時代の姫路城は、どのような姿だったのでしょうか。



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砦(とりで)のようだった? 黒田氏の姫路城


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上の写真は大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場する姫路城です。(大河ドラマHPより)
「白鷺城」のイメージとは程遠い砦のような姿です。

実際には、黒田氏が居城としていた時代の姫路城の姿は、史料が無くて定かではありません。
ドラマのセットは、同時代の他の中世城郭の発掘調査成果などをもとに、推定したようです。

天正3年(1575)夏、官兵衛は主君・小寺政職をはじめ重臣たちを説き、織田信長の傘下に入ることを決定します。
このことが、やがて姫路城を大きく変貌させることになるのです。



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秀吉の入城で、天守のそびえる城に変貌


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天正5年(1577)、織田信長は羽柴秀吉に中国地方の平定を命じます。

天正8年(1580)、秀吉は播磨国で最大の敵対勢力だった三木城の別所氏を滅ぼしました。
秀吉は当初、三木城を拠点にしようと考えたようです。
その時、官兵衛は秀吉に対し、姫路城を拠点にするよう勧めました。
そして、秀吉に姫路城を譲り、自らは家臣団を率いて、姫路の南にある国府山城(こうやまじょう)に移りました。

姫路城に入った秀吉は、翌・天正9年(1581)にかけて姫路城の大改修を行います。
官兵衛も、おそらく姫路城の大改修には積極的に関与したことでしょう。

竹中半兵衛の息子・重門(しげかど)が記した『豊鑑』(とよかがみ)によると、姫路城は
「石垣で山を包み、水堀をめぐらせ、多くの櫓を建てた。」
「天守を高くそびえさせ、城門の構えを厳重にして、瓦葺きの建物が軒を連ねた。」
といった姿に変貌したようです。

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上の写真は、秀吉が建てた姫路城天守の推定復元模型です。(姫路市立城郭研究室蔵)

昭和31年(1956)から行われた姫路城の「昭和の大修理」では、国宝の大天守を一旦解体しました。
すると、その地下から秀吉時代の天守のものと推定される石垣と礎石が発見されました。
また、小天守や渡櫓の中に、多くの古材の転用が確認され、やはり秀吉時代の天守の材木であると推定されました。
それらを基に推定復元したのがこの模型です。

なお、この時代の天守や櫓の外壁は、下見板張りが一般的だったと考えられています。
そこで、この模型も黒い姫路城となっています。



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さて、江戸時代初期に姫路城は、ほとんど新規の築城に近い大改修をされたと先に述べました。
しかし、それ以前に秀吉が築いた石垣なども、新たな姫路城に取り込んで活用されています。
上の写真の中で、赤色で記した範囲に現存する石垣が、秀吉の時代に築かれたと考えられています。

それでは、次回は姫路城を歩いて、官兵衛が秀吉のもとで活躍した時代の遺構をたどってみましょう。

<以下次号>


龍野城を歩こう。  - 「軍師官兵衛」ゆかりの城② -

2014-02-11 22:59:43 | まち歩き
大河ドラマの悪役の城?


さて、今回もNHK大河ドラマ・「軍師官兵衛」ネタでお話を始めてみます。

ドラマの今の段階では、まだ織田信長の勢力は播磨国(現在の兵庫県南西部一帯)には及んでいません。
播磨国は、この地に代々続いてきた中小規模の大名たちが、それぞれの領地を治めています。
そんな中、黒田官兵衛やその主君・小寺政職(こでら・まさもと)に対し、執拗に戦いを挑んでくる宿敵がいます。

その宿敵の名は、赤松政秀(あかまつ・まさひで)。
龍野城の城主です。

ドラマで赤松政秀を演じるのは、団時朗(だん・じろう)さんです。
団さんは、昭和46年(1971)放送の『帰ってきたウルトラマン』で、主人公・郷秀樹(ごう・ひでき)を演じていました。
まさに私の幼児期、「正義とは何か」を教えてくれたヒーローだったのです。
しかし今、団さんが演じている赤松政秀は、なかなかの悪人面です。
いえ、顔つきだけでなく、ホントに毎週毎週、悪行の限りを尽しているのです。

第1話「生き残りの掟」では、子供時代の官兵衛が、病身の母のために必死で薬草を探しに出掛けます。
そして赤松家の武士たちに捕えられてしまいました。
赤松政秀は、官兵衛を人質にして、官兵衛の父・黒田職隆(柴田恭兵さん)に無理難題を吹っ掛けます。
まるで誘拐犯です。

第2話「忘れえぬ初恋」では、政秀の襲撃を受け、官兵衛の幼なじみ・おたつ(南沢奈央さん)が命を落とします。

第3話「命の使い道」では、官兵衛は おたつを失った悲しみと怒りで自暴自棄になります。
そして、政秀への復讐心にかられ、祖父・黒田重隆(竜雷太さん)に諭されます。

第5話「死闘の果て」では、ついに黒田勢が赤松勢の大軍と激突します。
官兵衛は苦戦の末に勝ちました。
しかし、母里武兵衛(もり・ぶへえ/永井大さん)を始め、多くの黒田家臣団が戦死してしまいました。

こうしたストーリー展開によって、大河ドラマ視聴者の頭の中には、「赤松政秀 イコール 悪の権化」みたいなイメージがすっかり定着しているかも知れませんね。



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赤松政秀の言い分


ところで、もし赤松政秀に「どうして、そんなに攻撃的なのですか?」と質問したならば・・・、
きっと、
「いやいや、悪いのは小寺じゃよ。 主家の領地を奪って独立しやがって!その家老・黒田もケシカラン!!」
といった答えが返ってくるんじゃないでしょうか。

そもそも赤松氏は、室町幕府の設立に功績があり、足利将軍より播磨国の守護職に任じられ、代々続いてきた家柄です。
赤松氏はその後、将軍に反抗して、一時没落しましたが、応仁の乱を契機に播磨国の大名として再興しました。
しかし、そうした時代の流れの中、赤松氏の有力家臣の何家かが、次第に実力を蓄え、播磨の各地で独立した大名に成長してゆきました。
御着城の小寺氏もそのひとつでした。
そのため、かつて赤松氏が治めていた播磨国も、独立した元・家臣たちの領地が錯綜し、「虫食い状態」となります。
戦国時代になると赤松本家が置塩城、分家が龍野城を拠点に、東播磨の数郡をやっと支配する有様でした。

そんな事情で、赤松政秀にも言い分はあるのですね。


では、今回はその赤松政秀の居城・龍野城をご案内いたしましょう。

龍野城は、明応8年(1499)に赤松村秀が築城したと伝えられています。
村秀の息子で2代目の龍野城主になったのが、赤松政秀です。
羽柴秀吉の播磨平定後、赤松氏は龍野から去ります。
その後、蜂須賀小六、福島正則など、秀吉配下の武将が入城しました。



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龍野城  たつのじょう    (兵庫県たつの市)




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平成22年(2010)1月、龍野城を訪ねました。

JR姫新線の本龍野駅を出て、西へ10分ほど歩くと、揖保川(いぼがわ)の畔に出ます。
対岸のひときわ目を引く山が、龍野城が築かれた鶏籠山(けいろうさん)です。

鶏籠山は標高218メートル。
こうして見ると、なだらかな山容ですが・・・・、
さにあらず、後でその険しさをさんざん思い知ることになりました。

ちなみに、「鶏籠」とは、ニワトリを飼う時に使う竹製のカゴのことです。
昔の農家は、ニワトリを庭先で放し飼いにしていて、夜はイタチなどに襲われないよう大きなカゴを伏せた中に入れて眠らせていました。
鶏籠山の名は、そのカゴの形に似ていることに由来しています。


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龍野の城下町です。
鉄道が揖保川の対岸を通っているため、江戸時代の面影がよく残っています。


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城下町には、龍野城の防衛を意識して要所要所に大きな寺院が配置されています。
こうした寺々は、有事には砦として機能させる構想でした。

奥の山は鶏籠山です。
山麓の高台には、江戸時代に築かれた龍野城の本丸が見えます。


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鶏籠山麓に築かれた江戸時代の龍野城です。

龍野城は、江戸時代初期の万治元年(1658)、一旦廃城となりました。
その後、寛文12年(1672)に脇坂氏が新たに領主となり、山麓に城を再興しました。
その時に築いた石垣が、今も見事に残っています。
なお、隅櫓は昭和50年代に建てられた模擬建築です。

歴史的に見ると、龍野には2つの城が存在します。
鶏籠山上に築かれた戦国時代の龍野城と、山麓に築かれた江戸時代の龍野城です。
両者を区別して、戦国時代の龍野城を「龍野古城」(たつのこじょう)と呼ぶ場合もあります。


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まずは、江戸時代の龍野城跡を見てみましょう。
本丸の正面入り口にあたる埋門(うずみもん)です。

現在の門は、昭和50年代の復興建築で、史実に基づく復元ではありません。
建っている場所も、本来の位置より少し北にズレています。
ただし、木造・漆喰塗りの伝統技法を生かした建築なので、見た目は美しいです。

門前を右に進むと、市立歴史文化資料館があります。
龍野城の歴史がよく分かるので、お薦めです。


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本丸御殿です。

こちらも昭和50年代の復興建築です。
内部は若干の史料展示の他、集会所に利用されています。

本丸御殿の左裏手に、鶏籠山の登山口がありました。

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それでは、いよいよ鶏籠山の上に築かれた、戦国時代の龍野城(龍野古城)に向かいましょう。
これは、その推定復元図です。

登山口に設けられた説明板にも掲載されています。
登る前に、イメージをふくらませてみましょう。


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登山道には、要所に「古城大手道」の立て札が設けてありました。
有難いことです。


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しばらく登ると、大手道は次第に急勾配となってゆきます。
また、道がどこなのか分かり難い所も多くなってきます。
案内の立て札を目当てに、ひたすら登ります。

ついには、岩や木の根をつかんで這い登るような場面も・・・。
トレッキングシューズを履いてきて正解でした。


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そして、ようやく鶏籠山上の尾根筋に到達しました。

ここは山の上の龍野城の最南端にあたります。
尾根を人工的に削って造成した、曲輪(くるわ)の跡がよく残っています。
曲輪の縁が盛り上がっているのは、防御のための土塁です。


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推定復元図の中では、この辺りです。
山を攻め上ってきた敵に対し、最初に迎撃を仕掛ける重要地点です。

なお、推定復元図では土塁を水を溜めるための土手と解釈しています。
在りし日の姿をいろいろと想像してみるのも、古城めぐりの楽しみです。


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この辺りには、城に使われていたと思しき瓦の破片が散乱していました。


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尾根筋を進んで行きましょう。

幾段にも曲輪群が連なっています。
この城を攻める者は、常に一段上の曲輪から迎撃を受ける構造です。

左右は削ぎ落としたような急傾斜で、思わず足がすくみます。

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ようやく、鶏籠山の支峰(標高200メートル)が見えてきました。
ここには、二の丸が構えられています。


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二の丸です。

しっかりと整地され、原形を留めています。
木が茂っていて、周囲の展望は今ひとつでしたが、往時は遠くまでよく見渡せたのでしょう。

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二の丸を過ぎると、一旦、鞍部への下り坂になります。


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鞍部も造成され、曲輪になっています。

そして、再び上り坂。
いよいよ本丸を目指します。


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ちょうど、この辺りまで来ました。


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本丸の南側は、二段の曲輪で守りを固めています。
これは、それらのうち下段の曲輪に残る石垣です。


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いよいよ本丸です。

これは、石垣で固められた城門の跡と思われます。
廃城の際に、破壊を受けたものでしょう。

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本丸西側の石垣です。

破壊された石垣が延々と続いています。
往時は、かなり大規模な石垣だったようです。


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本丸に到達しました。

鶏籠山の山頂、標高218メートルです。


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「龍野古城」の石碑が建っています。


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本丸も樹木に妨げられ、眺望は今ひとつです。

木々の間から、揖保川と東方の平野が見えました。
往時は、360度の眺望が利いたことでしょう。


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本丸の北西隅の石垣です。
角石の部分が見事に残っています。

この方面は尾根続きになっています。
つまり、敵の攻撃を受け易いので、特に石垣を立派にして守りを固めています。


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本丸を北西方向に下ったところにある曲輪です。
石垣で守りを固めています。


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さらに北西方向に下ったら、鞍部に出ます。
ここから鶏籠山西側の谷間・紅葉谷沿いに下る道が続いています。
道の左右には、江戸時代の武家屋敷跡が並んでいます。

このまま下ると、山麓の龍野城の西側、模擬隅櫓(4枚目の写真)の下に出ます
手軽に鶏籠山に登りたい人は、このルートから登ることをお薦めします。


御着城を歩こう。  - 「軍師官兵衛」ゆかりの城① -

2014-02-02 23:47:30 | まち歩き
御着城 ごちゃくじょう  (兵庫県姫路市)


NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」、出だし好調ですね。
久々に戦国モノの力作で、毎週楽しみにしています。

ちなみに、黒田官兵衛を演じる岡田准一さんは、大のお城好きなんだそうです。
最近、仕事で熊本に行ったときも、
「時間が無いから!」
と渋るマネージャーさんを
「ちょっと見れるだけでもいいから・・・」
と、拝み倒して、車で熊本城の周りを一周してもらったんだとか。


さて、ドラマの今の段階で、主要な舞台として登場するお城が二つあります。
まずは、黒田家の居城・姫路城。
のちの「白鷺城」のイメージとは程遠い、未だ砦のような姿の姫路城です。
もうひとつは、官兵衛の主君・小寺政職(こでら・まさもと)・・・片岡鶴太郎さんが演じる、いつも鼻が赤い殿様ですね。
その小寺政職の居城・御着城(ごちゃくじょう)です。

関西在住の人でも、御着城なんて知らないという人は多いかもしれません。
今回は、その御着城をご案内致しましょう。



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御着城の跡は、姫路市御国野町御着にあります。
姫路城から東南東へ約5キロメートル。
JR山陽本線の姫路駅から、大阪・神戸方面へ向かって一駅目の御着駅が最寄りです。


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御着城は、城の西側から南側を天川が大きく蛇行して流れていて、これを天然の堀として活用しています。
また、北側から東側にかけては外堀を廻らし、防衛ラインを形成していました。

御着城は、永正16年(1519)に小寺政隆が築城し、則職、政職と小寺氏3代の居城でした。
しかし、羽柴秀吉の播磨侵攻により、天正6年(1578)から翌7年頃に、小寺政職は御着を追われ、やがて御着城も廃城になりました。


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御着城跡を描いた絵図です。
江戸時代中期の宝暦5年(1755)に描かれたものです。
この絵図から、御着城は本丸・二ノ丸を中心に、2重ないし4重の堀を廻らせた堅固な城だったことが分かります。
現在、堀は残っていませんが、所々にわずかな高低差でその痕跡を留めています。


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それでは、御着城を訪ねてみましょう。
JR御着駅の改札を出て、正面の道を北へ200メートルほど直進すると、東西方向の道と交わります。
この東西方向の道が、かつての山陽道(西国街道)です。
山陽道を右折(東進)して、さらに200メートルほど進むと、天川橋があります。
天川橋を渡れば、そこはもう御着城内です。


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天川橋の上から見た天川です。
御着城の天然の堀でした。


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天川橋を渡った先に延びる山陽道です。
御着城は、街道を城内に取り込んだ城郭でした。
この地が軍事上のみでなく、交通・経済の要衝でもあったと言えるでしょう。
城が廃された後も、この街道沿いの一帯は宿場町「御着宿」として賑わいました。


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天川橋から100メートルほど山陽道を歩いたら、左折する道との交差点があります。
ここで、一旦山陽道から外れ、左折(北進)してみましょう。
少し歩くと、道の右手に一段高くなった土地があります。
これが本丸の名残です。


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本丸跡は、今は小寺大明神の境内で、遊具が置かれた小公園です。
宝暦5年(1755)に描かれた絵図には、本丸と二ノ丸の跡はおよそ3~4間(約5~7メートル)の高さがあったと記されています。
かなり削られて、敷地も狭くなっています。

小寺大明神は、御着城主・小寺氏一族をはじめ、城に関係した人々を祀っています。


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本丸跡から国道二号線を挟んだ向かい側(北側)は、二ノ丸跡です。
模擬天守のような建物が見えます。
歩道橋を使って、二ノ丸跡へ渡ってみましょう。


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歩道橋の上から、かつての御着城の中心部を見下ろしてみました。
現代の「山陽道」である国道二号線が、城跡を縦断しています。
道路の開削による段差から、この一帯が高地になっていたことが分かります。


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二ノ丸跡は「御着城跡公園」になっています。
入り口には、「御着城址」の石碑があります。


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二ノ丸跡に建つ模擬天守のような建物は、昭和52年(1977)に建てられた姫路市役所の東出張所です。
御着城跡の一角が、今も役所として機能しているというのが何だか面白いです。

ちなみに、大河ドラマ「軍師官兵衛」のオープニングで流れるCG映像の中に、これによく似た建物が出てきます。
御着城を表現しているのでしょうか?
今度、大河ドラマを観られる時に、探してみて下さい。


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出張所の西側に、石塀で囲まれた立派な墓所があります。
官兵衛の祖父・黒田重隆(大河ドラマでは竜雷太さん)と、官兵衛の生母・明石氏(同じく、戸田菜穂さん)が祀られています。
子孫にあたる福岡藩主・黒田家によって、江戸時代後期の享和2年(1802)に建てられたものです。


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墓所の中、向かって左が黒田重隆、右が生母・明石氏の五輪塔です。


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さて、出張所の裏側(北側)にも珍しい遺構があるので、ぜひ見学していきましょう。

この石橋は、江戸時代後期の文政11年(1828)に建造された天川橋です。
御着城跡へ来る途中に渡った、あの天川橋の位置に架けられていました。
昭和47年(1972)の洪水で中央部が崩落したため、新橋の架け替えに伴いここに移築されました。


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ちなみに、この石橋が架かっている凹地は、御着城の堀跡です。


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二ノ丸跡の「御着城跡公園」の北側から東側にかけては、城の輪郭が比較的良好に残っています。
段丘の裾には、堀跡の凹地が続いています。


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堀跡の凹地をたどって、南に歩いてみましょう。


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国道二号線を越えて南に進むと、右手(西側)に大歳神社(ださいじんじゃ)があります。
少し寄り道してみましょう。


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大歳神社の絵馬堂には、色鮮やかな絵馬が数多く掛けられています。
江戸時代の御着宿の繁栄を物語るものです。

それぞれの絵馬に描かれているのは、日本の歴史上の名場面です。
ちなみに、これは ..... 「清須会議」ですね。
秀吉が三法師を抱いて登場するクライマックスシーンです。
絵馬を一点ずつ見ながら、これは何の場面だろう? と、考えてみるのも楽しいひと時です。


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大歳神社の南側で、再び山陽道に戻ります。
西に向かって歩いてみましょう。
このあたりは、江戸時代の御着宿の面影がよく残っています。


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少し行くと、山陽道が不自然に屈曲しているところがあります。
今は自動車の通行の安全のため、ゆるいカーブに改修していますが、もとはクランク状の屈曲でした。
即断はできませんが、あるいは戦国時代の御着城の防衛に関する遺構の可能性も考えられ、興味深いです。

では、このまま山陽道を西に歩き、JR御着駅に戻りましょう。

なお、御着は歴史の宝庫で、他にも見どころのある遺跡がいくつか有ります。
余力があったら、播磨国分寺跡、壇上山古墳などにも足を延ばしてみて下さい。