yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

「荒城の月」のモデル

2020-02-26 06:45:26 | 歴史
日本を代表する歌の一つ「荒城の月」は、明治34年(1901)に土井晩翠(1871~1952)作詩、瀧廉太郎(1879~1903)作曲により完成しました。この歌詞のモデルとなった城はどこか、多くの説があります。中でも次の5説が有力です。
1.岡城 大分県竹田市、瀧廉太郎の故郷
 2.富山城 富山県富山市、瀧廉太郎が少年期を過ごした地
 3.青葉城 宮城県仙台市、土井晩翠の故郷
 4.七尾城 石川県七尾市、上杉謙信がこの場所で、漢詩「九月十三夜」を賦しました
 5.鶴ヶ城 福島県会津若松市 土井晩翠が感銘を受けたという城です。

 「白虎隊記念館」を創立した早川喜代次(若松市)が旧知の土井晩翠夫妻を会津に招待したことがありました。(1946)戦後の荒廃とした雰囲気の残る中、何か明るい話題で暗いム-ドを一新しようと考え、晩翠夫妻を迎えて「荒城の月48周年記念音楽祭」を開催したのです。11月3日に参加者、数千名が「荒城の月」を大合唱した後、土井晩翠が次のようにスピ-チをしました。
 「今、皆さんが歌ってくださった荒城の月の基は、皆様方の鶴ヶ城です。」
 晩翠が東京音楽学校の依頼を受けて「荒城の月」を作詩したのは明治31年(1898)、28歳の時。真っ先に思い浮かべたのが、数年前に、二高の修学旅行
で会津を訪れた際に間近に目にした鶴ヶ城の美しくも悲しい荒城の姿だったのだと、語りました。もちろん、故郷の青葉城をはじめ、今まで訪れた事のある城も思い浮かべはしましたが、心を最も動かしたのは、たった一度きりの鶴ヶ城の鮮烈な印象だったのです。

栄枯盛衰の城を語る時、鶴ヶ城は、それにふさわしいと不肖も思います。

 ちなみに、岩波書店によれば、土井晩翠のふりがなは、「つちい ばんすゐ」です。



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法則探し、穴埋め クイズ 解答篇

2020-02-24 06:30:03 | パズル
前回、紹介したクイズの問題の解答篇です。

 問題図において、左上隅から右下の方向に順次記号を移動させます。

左上隅から2個を第1段のように書き移します。(下図)
3個から5個目までの3個を第2段に書き移します。
6個から9個目までの4個を第3段に書き移します。
10個から14個目までの5個を第4段に書き移します。
15個から20個目までの6個を第5段に書き移します。
21個から27個目までの7個を第6段に書き移します。
28個から35個目までの8個を第7段に書き移します。
36個目を第8段に書き移します。

この図を縦方向に見ると、黄色の升に入る記号は★だと分かります。





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法則探し、穴埋め クイズ 問題篇

2020-02-21 06:42:40 | パズル
以前、脳科学者の中野信子教授が出題したクイズです。
下の方眼の中の記号は、ある法則にしたがってならんでいます。その法則を探して、法則にしたがって黄色のマスに入る記号を考えて下さい。




ずっと、解答が分からなかったのですが、最近、ようやく、明確な解答に到達しました。解答はこのブログの次回に紹介します。

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虚無僧

2020-02-18 06:20:14 | 歴史
天蓋をかぶり、尺八を持ち、明暗と書いた食箱(けばこ)を提げる虚無僧という人がおります。(写真 下)子供の頃に、実際に見た記憶があります。今は実在しないようですが、時代劇ではお馴染みです。大抵 スパイであったり、刺客であったり求道僧であったりします。室町時代の普化宗(ふけしゅう)の僧、朗庵が宗祖・普化の風を学んで薦(こも)の上に座して尺八を吹いたから、薦僧(こもそう)と呼ばれました。また、一説に、楠正成の後胤・正勝が僧となり虚無と号したからともいわれます。普化宗の有髪の僧。深編笠を被り、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首に袈裟をかけ、刀を帯し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚した普化僧。梵論(ぼろ)ともいいます。
ところが、明治4年の太政官布告によって、廃宗の憂き目にあいました。廃仏毀釈の犠牲になったのです。しかし、普化宗の精神は生き続けました。没己(ぼっき)に徹し、漂泊のうちに悟りを求める道です。本来の普化宗こそ達磨大師の精神を踏襲する最も真摯な宗教ともいわれます。

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桂林荘雑詠諸生に示す 広瀬淡窓

2020-02-15 06:18:23 | 文学
広瀬淡窓(1782~1856)江戸時代末期の学者、詩人です。豊後(大分県)日田の人。26歳の時に塾、桂林荘を開き、それが後に咸宜園となりました。入門者は四千余人にもなりました。九州第一の塾であり、門下生に、高野長英、大村益次郎、清浦奎吾などの逸材がいました。下記に広瀬淡窓の七言絶句を紹介します。

桂林荘雑詠諸生ニ示ス 其ノ三
幾人負笈自西東
両筑双肥前後豊
花影満簾春晝永
書聲断続響房櫳

幾人カ負笈(きゅう)ヲ負ウテ西東自(より)リス
両筑双肥前後ノ豊
花影簾(れん)ニ満チテ春晝永ク
書聲断続シテ房櫳(ぼうろう)ニ響ク
 「訳」
ここ桂林荘の塾生になろうとして諸方から集まって来た者の数は、数えきれぬほど多い。また、出身地も、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後と多岐にわたっている。それら多くの塾生たちが、簾いっぱいに梅花の影のうつる、うららかな春の日の昼さがりにも勉学に励んで倦むことを知らず、読書の声が、あるいは高くあるいは低く、窓外に響いてくる。

「鑑賞」
外には春の好風景。内には、塾生の読書の声の好風景です。

「吟剣詩舞道漢詩集 続・絶句編」日本吟剣詩舞振興会






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池上四郎

2020-02-12 06:09:47 | 歴史
池上四郎は、会津藩士、池上武輔の四男です。若松が政府軍に攻められた時は12歳で、白虎隊に入隊を志願したのですが、年齢が若いため入隊を認められませんでした。そこで、剛胆にも鶴ヶ城内で凧を揚げ、味方の士気を鼓舞したというエピソ-ドがあります。その後、会津藩は青森の斗南藩に流罪になり、生活は窮乏を極めました。その中で、父、武輔は、四郎に「困苦にあっても武士の道は刻苦、忍耐、魂の錬磨である、日新館の安部井帽山(ぼうざん)先生や高津淄川(しせん)先生の教えを忘れずに勉学に励め」と諭しました。四郎は精励努力をして、後に政府で頭角を顕し、6代目の大阪府長にもなって大阪府の発展に尽力し、不世出の大阪府長といわれました。現在、天王寺公園にある銅像が下に示す写真です。六女の紀子(いとこ)さんは、後に内閣統計局長となった川嶋孝彦氏と結婚しましたが、孝彦氏の孫の紀子(きこ)様は、秋篠宮文仁親王(皇嗣)の妃となられました。



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麒麟

2020-02-09 06:15:30 | 歴史
「麒麟がくる」は今年のNHKの大河ドラマの題名です。
さて、「麒麟児」は才能に優れていて、将来が期待される少年を言います。
某国立大学のN教授は、若い頃、「横浜の麒麟児」と呼ばれたそうです。
それにしても麒麟児とは、大層な賛辞と思われます。

古代中国では、 動物を鱗蟲(虫)・毛蟲・羽蟲・甲蟲の四つに分類していました。 この四つの分類のそれぞれを統括する長(王)が、龍・麒麟・鳳凰・霊亀で、四霊獣とよばれます。 四霊獣は、瑞獣(縁起の良い獣)とされ、世の中が瑞気に満ちて、平和な時代にのみ出現するとされました。(下の写真は中国・頤和園にある麒麟像)
なお、麒麟は、毛蟲(獣類のような毛を持つ生物)の長。体は鹿、頭は狼、尾は牛、足は馬、頭に角。頭脳が優れ、虫も踏まず、草を折ることもない仁獣。聖徳の為政者の出現と共に現われるといわれます。麒麟の麒は雄、麟は雌。

 現在でも実在する動物のキリンは優しい動物で人気があります。キリンはビ-ルの銘柄の名前になったり、「麒麟児」は力士の四股名にもなりました。


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正解を疑う

2020-02-06 07:05:41 | 文化
元 宇宙飛行士の毛利衛氏は北海道大学を目指して受験勉強をしていた時、正解が一つしかない問題をうさんくさいと思ったそうです。教科書通り同じ答にマルでいいのか、疑問を憶えました。大学に入学後、そんな思いを裏打ちしてくれる言葉に出会いました。自然科学概論の講義で、故・岡不二太郎教授は大学の教科書は間違いだらけだと語りました。
「研究者が書いているから間違いはある。現時点で矛盾がないということであって、永遠の真理ではない。真理とは合目的的な偉大なる誤謬(誤り)である。」別の条件が加わったり、環境が変わったりすれば、真理とされてきたことが真理でなくなることがある、という教えでした。毛利氏は、岡不二太郎教授の言葉で、自分の感覚は大丈夫だと信じることができたそうです。
物理学者が探求している物理学の法則も、自然現象を矛盾することなく表現するための説明(又は仮説又は主張)であり、必ずしも この法則を真理と断定することはできないのかも知れません。


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梵鐘

2020-02-03 06:56:10 | 歴史
「梵鐘」は、東アジアの寺院で使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)で、撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある荘厳な響きが特徴です。一般には除夜の鐘で知られています。 「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものです。 一般に、「梵鐘」とは、口径が一尺八寸以上の物をいい、それ以下の物を「半鐘」といいます。また、高さが二尺から二尺五寸の物を「喚鐘」といいます。江戸時代、半鐘や喚鐘を火の見櫓に吊るしたことから、消防用に用いる鐘のことを「半鐘」と呼ぶようになりました。青銅製の鋳物です。
日本最古の鐘は京都・妙心寺の鐘(698年造)であり、京都・神護寺の鐘(875年造)、奈良・東大寺の鐘、京都・平等院の鐘、その他、京都・大雲寺、鎌倉・建長寺、円覚寺など、合計13種の国宝に指定された鐘があります。(写真 下 東大寺の鐘)

なお、富山県高岡市の1600年代初期創業の「老子(おいご)製作所」は、国内シェアの約7割を占める梵鐘の大手メ-カ-です。


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