yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

百年兵を養うは平和を守るため 山本五十六

2021-06-29 06:05:48 | 歴史
 山本五十六連合艦隊司令長官は出撃する艦隊の全指揮官を集めて次のように言いました。「昭和15年12月X日をもって、米英に戦端をひらく。X日はいまのところ12月8日の予定である。しかし、いまワシントンで行なわれている日米交渉が成立したならば、12月8日の前日の午前1時までに、出動全部隊に即時引揚げを命ずる。その命令を受領したときには、たとえば攻撃隊の発信後であってもただちに収容し、反転、帰投してもらいたい。何があっても、である」
すると機動部隊司令長官南雲忠一中将が反対の声をあげました。「それは無理です。敵を目前にして帰ることなどできません。士気にも影響します。そんなこと、実際問題として実行不可能です」
二、三の指揮官が同調してうなずき合い、なかに「出かかった小便は止められません」と下世話なことをいうものもありました。
山本は、一瞬、キッとなった表情をして、かつてない激しい口調でいいました。
「百年兵を養うのは何のためだと思っているのか!一(いつ)に国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるのなら、ただいまより出動を禁止する。即刻辞表を出せ!」
山本がこの戦争に反対であることは幹部の人たちには知れ渡っていましたが、最後の最後まで強い信念で反対しているとは、だれも思っていなかったようです。全指揮官がこの強い言葉にシュンとなって、山本の顔を見守るばかりでした。
それにしても「百年兵を養うは平和を守らんがためである」とはじつにいい言葉でしょう。いまの日本にもそのまま通用します。自衛隊は文字どおり自衛のための兵力なのです。国家の平和を守るための存在であり、それで営々として陸海空の三自衛隊はこの国は養っているのです。こちらから他国へ攻めていくというようなことがあってはなりません。山本ではありませんが、一に国の平和を守らんがためなのです。
現実には、山本の願いも空しく日米交渉は結局は破綻しました。12月2日午後5時30分、山本五十六長官の名をもって出動している全艦隊にたいして電報命令が発せられました。「ニイタカヤマノボレ一二○八」12月8日、戦争は開始されました。「作戦どおりに全軍突撃せよ」ということ、この日の太平洋は終日南から烈風が吹き荒れていました。
 
     半藤一利「戦争というもの」PHP研究所
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五計

2021-06-26 05:58:12 | 文学
中国、南宋の官史、朱新仲(1097~1107)がとなえた言葉で、人生をよりよく生きるために5つの計画のことです。すなわち、生計、身計、家計、老計、死計です。
生計の「生」とは「生理衛生」の「生」であり、「いかにして健康な毎日を送るか」という計画です。また、身計の「身体」とは「立身出世」の「身」であり、いかにして世に立つか、処世上の計画であるとのことです。家計、老計、死計は文字の通りの意味です。五計のそれぞれはみな相互に関連をもっており、一つだけ抜けてもいまくいかないようです。
 
 明治時代の書物『芳譚』は、10歳から60歳までの人の人生においてなすべきことに五計がある、とし、次のように説明しています。10歳のころは、父母の養いで成り立っているから、父母の教えに背かない(生計)。20歳は身を慎んで、学問、芸、家学を学び、身を立てる計画をすべし(身計)。30~40歳は家庭を営み、保つ計画をすべし(家計)。50歳では、世事に慣れていない子孫のために父親として計画をすべし(老計)。60歳になったら死後のことを計画すべし(死計)[1]。
昭和初期の陽明学者・安岡正篤は、この五計をいかに生きるべきか(生計)、いかに社会に対処していくべきか(身計)、いかに家庭を営んでいくべきか(身計)、いかに歳を取るべきか(老計)、いかに死すべきか(死計)と解釈しています。

     小島直記 「老いに挫けぬ男達」新潮文庫



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「爛柯(らんか)」 囲碁の別称

2021-06-23 15:32:42 | 将棋
囲碁にはいろいろな別名があります。坐陰(ざいん)、手談(しゅだん)、方円(ほうえん)、爛柯(らんか)、その他、「烏鷺(うろ)の争い」、「橘中(きっちゅう)の楽」などです。中でも爛柯は難しい漢字であり、味わいがあります。これに関する故事を述べます。
昔、中国の晋という国に、王質という木樵(きこり)がいました。ある日、山へ行ったら、童子が碁を打っていました。王質は斧をおいて勝負を見物しはじめました。すると一人の童子が王質に棗の実をくれました。それを食べたら、もう腹がへらない。いつまでも見物していました。そのうちに童子が「何故帰らんのか?」といったので、立って斧をとって見ると、柄が腐っていました。爛は朽ちるの意味、柯は斧の柄のこと。つまり、斧の柄が朽ちてボロボロになるまで見物していたのでした。村へ帰ったら何百年も経っていて、知り合いは誰も生きていなかったのです。遊び事に夢中になると現実や生活基盤が夢のように消え失せることの戒めでしょうか。

    小島直記「君子の交わり 紳士の嗜み」新潮社

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演説

2021-06-20 06:03:39 | 歴史
慶応塾の小泉信吉はアメリカ留学の後、『アメリカン・デベーション 』という原書を福沢諭吉に贈りました。福沢は数日かけてその大要を訳し、『会議辨』と名付けました。福沢は原書を訳す過程で、「スピ-チ」をどう訳したらよいか、苦心を重ねました。そしてふと思い出したのが、旧中津藩の習慣でした。
藩士たちは一身上または公務上の事柄について、正式の「願」、あるいは「届」でない書面を提出するとき、その書面のことを「演舌書」といっていました。そこで、「スピ-チの訳語は演舌でどうか」と福沢は考えました。そして「舌」という字はあまりに俗なので「説」にしました。さらに「デベ-ト」は、「弁論」もしくは「討論」としました。ついで集会のやり方も『会議辨』の中で解説しています。
「だが問題は知識ではなく実践である。」と福沢は考え、そこで演説、討論の練習のためにつくられたのが三田演説会(写真下、三田演説館)です。こうして演説は明治6年(1973)に誕生しました。
一方西洋では、『プルタ-ク英雄伝』によれば、古代ギリシャやロ-マにキケロ(106~43BC)やデモステネス(384~322BC)という有名な雄弁家がおり、演説が定着していました。「演説」は西洋から2000年以上遅れて日本に誕生したのです。そして日本では福沢諭吉に続いて、尾崎行雄、犬養毅といった雄弁家が現れました。




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白虹 日を貫く

2021-06-18 06:06:42 | 歴史
『戦国策、魏策』より、白い虹が太陽を貫いてかかる現象。白い虹を兵、太陽
は君主を象徴すると解釈され、兵乱が起こり、君主に危害が加わる予兆とされました。

1918年に「大阪朝日新聞」に掲載された記事に「白虹 日を貫く」の文があったことから、政府当局によりおこなわれた言論統制事件、白虹事件がありました。

当時「大阪朝日新聞」は、大正デモクラシ-の先頭に立って言論活動を展開し、寺内正毅内閣を厳しく批判していました。1918年8月25日米騒動問題に関して大会が開かれ、各社から内閣への批判が巻き起こりました。問題となったのは、大会を報じた8月26日の夕刊の記事の一節に、「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」とありました。大阪府警察部新聞検閲係は、新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、筆者大西利夫と編集人兼発行人山口信雄の2人を大阪区裁判所に告発し、検察当局は「大阪朝日新聞」を発行禁止(新聞紙法43条)に持ち込もうとしました。当時、世論の激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたとも指摘されています。関西では「大阪朝日新聞」の不買運動が起こり、さらに憤慨した右翼団体・黒龍会の構成員七人が、通行中の大阪朝日新聞社の杉山龍平社長を襲撃する騒ぎまで発生しました。また後藤新平は右翼系の『新時代』誌に朝日攻撃のキャンペーンを張らせ、他誌も追従しました。
事態を重く見た「大阪朝日新聞」では10月15日、村山社長が退陣し、上野理一が社長となり、編集局長や社会部長ら編集局幹部が次々と退社。社内派閥抗争で上野派の領袖であり、村山・鳥居派と対立して総務局員の閑職にあった西村天囚が編集顧問となり、編集局を主宰することになりました。12月1日には西村の筆になる「本社の本領宣明」を発表し、「不偏不党」の方針を掲げました。こうして「大阪朝日新聞」は、発行禁止処分を免れることになりました。これは「大阪朝日新聞」の国家権力への屈服を象徴しており、これ以降、「大阪朝日新聞」の論調の急進性は影をひそめていきました。





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澁澤榮一の書

2021-06-14 05:46:02 | 文学
澁澤榮一の揮毫に登場する言葉です。(下 写真)
成名毎在窮苦日 敗事多因得意時
『名を成すはつねに窮苦の日に在り、事に敗るは多く得意の時に因る』

 これは「物事に成功したり、立派な行いや人間としてよりよく成長するのは、困ったり苦しんだり窮したりしている時にこそ達成される。 また反対に失敗したり、敗れたりすることの多くは、得意になって慢心・油断している時に起こる」という意味です。

 厳しい時こそめげずに努力すれば、道が開け成功につながる。厳しい時こそチャンスと、勇気づけられます。また、調子のいい時は油断せずに気を引き締めよ、という戒めのことばでもあります。

 なお、この書の原典は、書物『酔古堂剣掃』にあります。陸紹珩という人が古今の金言、警句を収集編纂したもので、原文は「敗事多因得志時」とあったものを、渋沢翁が書き換えられたようです。




  
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曲江、杜甫(再掲)

2021-06-11 06:04:07 | 文学
盛唐の詩人 詩聖・杜甫の漢詩です。「曲江」という二首の作品の「其の二」で、「古稀」の由来となった七言律詩です。

  曲江   其二
 朝回日日典春衣
 毎日江頭尽酔帰
 酒債尋常行処有
 人生七十古来稀
 穿花蛺蝶深深見
 点水蜻蜓款款飛
 伝語風光共流転
 暫時相賞莫相違

朝より回(かへ)りて日日(ひび)春衣を典(てん)し、
毎日 江頭(かうとう)に酔ひを尽くして帰る
酒債尋常 行く処に有り
   人生七十 古来稀なり。
   花を穿つの蛺蝶(きょうちょう)は深深として見え、
   水に点ずるの蜻蜓(せいてい)は款款として飛ぶ。
   伝語す 風光 共に流転して、
   暫時 相賞して 相違ふこと莫(なか)れと


「訳」

朝廷を退出すると、毎日春の衣服を質に入れ、
 曲江のほとりで泥酔して帰る。
  酒代(さかだい)の借金は普通のことで、行く先々にある。
  この人生、七十歳まで長生きすることは昔から滅多にないのだから、
  今のうちにせいぜい楽しんでおきたいのだ。
  花の蜜を吸うアゲハチョウは、奥のほうに見え、
  水面に尾をつけて卵を生むトンボは、ゆるやかに飛んでいる。
  私は自然に対してこう言づてしたい、
  「春の風光よ、私とともに流れゆき、暫くの間このよい季節を楽しみ合う
  ようにしよう」と。 

この詩は杜甫47歳の作、当時、左拾遺という職にありました。彼は生真面目な性格でしたので剛直に諌言してしまい、皇帝粛宗からうとまれて次第に酒でうさをはらすようになりました。「どうせ人生は短い、せいぜい楽しくやろう」という、杜甫には珍しいデカダンな気分が見られる作品です。老境を想像して賦したのでしょう。
 
この詩からは、杜甫の官吏としての生活ぶりと飾らない人柄が伝わってきます。「古稀」の由来となった詩ですが、杜甫は758年に59歳で病没しました。

    石川忠久 「NHK漢詩紀行」 日本放送出版協会
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一燈を提げて行く 佐藤一斎

2021-06-07 06:02:30 | 文学
幕末の大儒、佐藤一斎の『言志晩録』に次の文があります。
「一燈を提(さ)げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。ただ一燈を頼め」

川上正光氏の訳注によれば、暗夜とは人生行路。一燈とは堅忍不抜の自己の向上心とあります。不肖は、一燈とは自分が信ずるもの、信念または信義のようなものではないかと思います。硬派の作家、小島直記氏の『一燈を提げた男たち』という良書があります。

  川上正光 校注「言志晩録」 講談社
  小島直記   「一燈を提げた男たち」 新潮社

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徳川家康の子供とその嫁

2021-06-04 06:15:10 | 歴史
徳川家康は艶福家で、20人の妻と、16人の子供に恵まれました。
正妻は2人(最初の妻、築山殿は今川家からきましたが、長男信康とともに
死別しました。)16人の子供は11男5女です。

長男 信康:織田信長に武田家との内通を疑われ成敗されました。
次男 結城秀康:越前松平家の祖
三男 秀忠: 浅井長政の三女の江を妻にしました。家光と保科正之の父でも
あります。保科正之は会津松平家の祖
四男 忠吉:  井伊直政の娘を妻にしました。
五男 武田信吉:  
六男 忠輝:  伊達政宗の娘、五郎八(いろは)姫を妻にしました。越後高田60万石に封ぜられました。
七男 松千代: 早世
八男 仙千代 早世
九男 義直:  尾張徳川家の祖。
十男 頼宣:  加藤清正の娘八十姫(やそひめ)を妻にしました。紀州徳川家の祖。
十一男 頼房: 水戸徳川家の祖。

 長女 亀姫
 次女 督姫
 三女 振姫
 四女 松姫
 五女 市姫

 日本の要所に親族を配置して統治する家康流です。こうして江戸時代約三百年にわたり、徳川家は日本を支配しました。

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春夜喜雨 杜甫(再掲)

2021-06-01 06:11:50 | 文学
盛唐の詩人、杜甫の五言律詩を紹介します。

 春夜喜雨

好雨知時節
当春乃発生
随風潜入夜
潤物細無声
野径雲倶黒
江船火独明
暁看紅湿処
花重錦官城

 春夜 雨ヲ喜ブ

好雨 時節ヲ知リ
春ニ当ツテ乃(すなわち)チ発生ス
風ニ随ヒテ潜(ひそ)カニ夜ニ入リ
物ヲ潤シテ細ヤカニシテ声無シ
野径 雲ハ倶(とも)ニ黒ク
江船 火ハ独リ明ラカナリ
暁ニ紅(くれない)ノ湿(うるお)エル処ヲ看レバ
花ハ錦官城ニ重カラン
 
「訳」

よい雨は降るべき時節を知っており、春になると降りだして、万物が萌えはじめる。雨は風につれてひそかに夜まで降り続き、こまやかに音もたてずに万物を潤している。野の小道も雲と同じように真っ黒であり、川に浮かぶ船のいさり火だけが明るく見える。夜明けに、赤くしめりをおびたところを見るならば、それは錦官城に花がしっとりぬれて咲くいている姿なのだった。

「鑑賞」

35歳の杜甫は官を求めて都長安を出て放浪しましたが、48歳で四川省の成都に到り、浣花渓(かんかけい)のほとりに草堂を築いてしばしの安らぎを得ました。この詩は浣花草堂での春の雨をうたって、もの静かなうちにも喜びのあふれた作となっています。前半は春雨に育まれる自然を、後半は夜と翌朝の景をうたい、いさり火の一点の赤から紅の花びらへと拡散していく。詩句の中に「喜」の語は一つもないが錦官城(=成都)の町いっぱいに咲く花に目を細める姿が偲ばれます。

 石川忠久 「漢詩紀行」日本放送出版協会

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