yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

山河 小椋佳

2021-01-31 05:38:25 | 文学
「山河」は、2000年に成立した歌。歌 小椋佳、作詞 小椋佳、作曲 堀内孝雄です。このクル-とその歌は不肖の好みに合っていて、しびれます。小椋氏は今年喜寿とのこと。シニアの星です。山河の哲学的な歌詞を紹介します。

        人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み
        人は皆 山河を信じ 和み 愛す

        そこに生命をつなぎ 生命を刻む
        そして終いには 山河に還る

顧みて 恥じることない 足跡を山に残したろうか
        永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
        愛する人の瞳(め)に 愛する人の瞳に
        俺の山河は美しいかと美しいかと

        歳月は 心に積まれ 山と映り
        歳月は 心に流れ 河を描く

        そこに積まれる時と流れる時と
        人は誰れもが 山河を宿す

        ふと思う 悔いひとつなく悦びの山を築けたろうか
        くしゃくしゃに嬉し泣きするかげりない河を抱けたろうか

        愛する人の瞳(め)に 愛する人の瞳に
        俺の山河は美しいかと

        顧みて 恥じることない 足跡を山に 残したろうか
        永遠の 水面の光増す夢を河に浮かべたろうか
        愛する人の瞳(め)に 愛する人の瞳(め)に
        俺の山河は美しいかと美しいかと

この歌は小椋佳氏の持ち歌でもあり、五木ひろしも歌います。

東大法学部を卒業して、みずほ銀行の銀行マンであった実学能の
人が珠玉のような詩を紡ぎ出す文学脳を併せもつことに驚きます。
しかも、歌唱もすばらしい。


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半藤一利

2021-01-28 07:18:06 | 文学
去る1月12日に作家の半藤一利氏(90歳)が逝去されました。ご冥福を祈ります。
半藤氏は不肖の郷里の長岡高校の先輩でもあり、なお、奥様の末利子様(漱石の孫)も中学、高校の先輩です。半藤氏の先祖は長岡藩士。昭和5年(1930)に東京向島生まれ。東京の昭和20年(1945)3月の大空襲にもあいました。戦時中には長岡に疎開して長岡高校に通いました。そして剛健質朴、剛毅木訥を謳うこの高校を愛しました。東京大学を卒業した後、文藝春秋に入社し、1965年に大宅壮一名義で「日本のいちばん長い日」を出版し、ベストセラ-になり映画化もされました。「週刊文春」「文藝春秋」の編集長を務め、ロッキ-ド事件報道の指揮をとりました。「文藝春秋」を退社後、作家活動を本格化させ、多くの犠牲者を出したノモンハン事件での軍指導者らの無責任体質を描いた「ノモンハンの夏」で山本七平賞を受賞しました。昭和史に光をあてる作品を書き、敗戦へと突き進むまでの時代をりおろしした「昭和史」も話題を集め、戦後篇とともに2006年に毎日出版文化特別賞を受賞しました。司馬遼太郎が明治史に関する著作が多いのとは対照的に、昭和史の著作が光るので、昭和史を照らしたの語り部といわれています。




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 地球の大きさと伊能忠敬(再掲)

2021-01-25 19:55:56 | 科学
地球の大きさを世界で初めて求めたのはギリシャのエラトステネス(BC276-BC196)です。エラトステネスは数学・天文学・地理学者です。当時、ギリシャでは既に地球は丸く、球であることが認識されていたということは驚ろくべきことです。紀元前230年頃、まず、エラストテネスはアレクサンドリアからシエネまでの距離を歩幅と歩数から900スタジアであることを求めておりました。1スタジアは当時のギリシャにおける長さの単位です。人が2分間に歩く距離で約180mに当たります。次にアレクサンドリアとシエネの両地における太陽の南中高度の差、7.2度から900X(360/7.2)=250,000スタジアと計算しました。この距離は、今日で言う45,000kmです。この値は現在、知られている、地球の周囲の長さ40,000kmに比べて、誤差は僅かに約10%ですから、すばらしい成果だと言えます。
 地球の周囲の長さが40,000kmというのは学校で学びましたが、これは、1mという長さの根拠になっています。フランス革命の頃、パリを通る経線に沿って、
赤道から北極の距離、10,000kmの1千万分の1を1mとすることが決められました。
 実際の地球は真球ではなく、赤道半径(地球の中心から赤道面までの距離)は6378.4km、極半径(地球の中心から極までの距離)は6356.9kmであり、極半径の方が若干短いという事は、真球よりやや扁平につぶれた形をしているということです。ところで世界の長さの基準となるメートル原器という物が、長い間パリに保管されて来ました。しかし、あらゆる物質は経年変化をするので、現在では物理現象から長さや時間の基準を定められています。

 さて、日本で最初に地球の大きさを決めたのは、幕末の頃の伊能忠敬です。
 伊能忠敬(1745-1818)の生家は漁師でしたが、長じて下総佐原の造り酒屋を継ぎ、財をなしました。50歳で隠居して、家督を子供に譲ったあと江戸に上り、幕府の天文方暦局に入って学問に没頭し、幼い頃からの夢であった天文学の研究にも携わりました。彼は当初、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算しました。ところがその値は誤差が大きくて信頼できないと、天文方の上司に一笑に付されてしまいました。そして「せめて、江戸と蝦夷くらいに離れた場所で観測しなければ正確な値が得られないであろう」と言われました。そこで忠敬は日本地図を作成するための測量をしながら、江戸から蝦夷地まで行くことを思いたち、56歳から測量の旅を始めました。それから蝦夷まで行って観測を続けて緯度1度が111kmであることを求め、これから地球の大きさを39,960kmと計算しました。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果でした。
忠敬は71歳で、ほぼ地図を完成させましたが、これが「大日本沿海輿地全図」であり、その後昭和の時代まで100年に亘って使用された、いわゆる「伊能図」です。しかもこの図は彩色された美しいものでした。これを完成させるまでに忠敬が歩いた長さは、奇しくも地球1周分でありました。幼い頃の夢を生涯持ち続け、日本地図に結実させた熱意と努力は誠に偉大であったと思います。


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明智光秀 異聞

2021-01-22 06:45:10 | 歴史
1582年の本能寺の変で、明智光秀が織田信長を討ち取ったことはよく知られています。こうした有名な歴史の周辺にも異説があると知りました。
  明智光秀、実は、惟任(これとう)日向守と改姓していました。天正3年(1575)に惟任(これとう)の賜姓と、従五位下、日向守の任官を受け、惟任日向守となっていました。織田信長は、後に九州を攻めることを計画しており、配下の武将に朝廷からの賜姓や任官を奏上していました。その結果、木下藤吉郎、明智十兵衛光秀、丹羽長秀は、それぞれ、羽柴筑前守、惟任日向守、惟住(これずみ)長秀となりました。惟任は九州の名族の姓です。
明智光秀は土岐源氏の末裔と自負していましたから、今更、惟任姓を賜っても片 腹痛く思ったかも知れません。本能寺の変の首謀者の名前は明智光秀ではなく、惟任日向守であったのです。
      さて、本能寺の変においては、明智光秀率いる明智軍が寺を襲撃したというイメ-ジが一般的ですが、近年の研究の結果、明智光秀は本能寺に行っていなかったという説があります。明智勢2千を指揮したのは、明智家の重臣、斎藤利三(としみつ)であり、利三の三男の斎藤利宗(としむね、16歳)も明智勢の中にいました。この利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったことを記録した古文書、「乙夜之書物(いつやのかきもの)」によれば、寄せ手の指揮官は斎藤利三であり、光秀は本能寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたということです。本郷和人、東大資料編纂所教授(日本中世史)は、光秀が本能寺に赴かなかったことは、十分にあり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話していました。
他にも異聞があります。本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の家臣の一人、 明智弥平次秀満をめぐる新説が出てきました。秀満は、本能寺の変の直後に起きた山崎の合戦で、光秀が豊臣秀吉に敗れた後、馬に乗って琵琶湖を渡り、対岸まで逃れたとする「左馬助の湖水渡り」の伝説で知られます。これまで左馬助は秀満の通称とみられてきましたが、「乙夜之書物」には二人は別人として書き分けられています。本郷和人教授は「弥平次と左馬助が別人と考えると、2人を巡る様々な資料の齟齬がきっちりとおさまる。非常に興味深い資料だと思う」と話していました。



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野風増の詩 芹沢博文

2021-01-19 06:52:38 | 将棋
「破天荒の盤外記(野風増の詩)」という本に出会いました。(写真 下)故・芹沢博文氏の著作です。見返しに毛筆の揮毫(写真 下)がありました。
 「のふうぞ」は中国地方(岡山県など)の方言で、やんちゃ、生意気などという意味です。河島英伍氏に、このタイトルの歌があります。
芹沢博文氏は将棋のプロ棋士です。昭和9年(1936)静岡県沼津市生まれ、14歳で高柳俊夫九段の内弟子になり、18歳で四段、プロデビュ-、24歳で八段になり、天才といわれました。1984年に九段となりましたが、1987年に51歳で他界しました。将棋は本格的、正統派でしたが個性が強くて、自由奔放な発言もありましたのでファンも敵も多いでした。酒豪。入退院3回。無頼派ともいわれました。「将棋は苦し酒は楽し人生は哀し」(写真下)をよく揮毫しました。日本酒に関する次の文もありました。
酒はうまいということがわかった。俗人どもが新潟の越乃寒梅、峰ノ白梅、雪中梅などを、確かに名酒であるが宝物のように扱っているこの風潮、ケッケラケ、である。新潟の三梅といい名酒には違いないが、八海山という大きな山がある。この酒、冷やして飲んだら、三梅は三倍ふっ飛ぶ。この八海山は、まれに見る名酒である。ご賞味あれ。
私は自分用の冷蔵庫があり、そこにウイスキ-でもブランデ-でも八海山でも放りこんでおく。キ-ンと冷えきった八海山をグイ呑みに注ぎ、それこそグイットと飲むと胃の腑にしみ渡る。実にうまい。だが、日本酒はうますぎて困る。あまりにうまい。止まらない汽車に乗ったようなもので、どこまでも飲んでしまうのが日本酒である。

 不肖もこの正月にこの「八海山」を少し賞味しました。






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プロ棋士とAI

2021-01-16 07:37:33 | 将棋
囲碁と将棋のトップ棋士、柴野虎丸二冠(21歳)と藤井聡太二冠(18歳)が対談した記事の中に、AIに関する興味深い発言がありましたので紹介します。

      柴野虎丸氏:1990生まれ、神奈川県出身。1914年にプロ入り。1919年、史上最年少の18歳11ヶ月で初の10代名人に。1920年、史上最年少の20歳7ヶ月で三冠を達成。現在は王座と十段の二冠を保持しています。

  藤井聡太氏:2002年生まれ、愛知県出身。1916年、史上最年少でプロ入り。1919年、朝日杯将棋オ-プン戦で2連覇を達成。1920年、史上最年少で初タイトルを獲得(17歳11ヶ月)と二冠(18歳1ヶ月)を達成。王位と棋聖の二冠。

藤井: 柴野さんはAIをどのように使っていますか。
柴野: 囲碁界は3年ぐらい前にAIが人間を超え、AIによって勉強することが増えました。でも自分は、対局の後や、どうしてもわからない部分がある時だけ聞くようにしています。藤井さんはどのように使っていますか。
藤井: AIが示す読み筋、評価値(局面の優劣を示す値)を見て、自分の考えと合わせながら解釈していくのが基本です。囲碁のAIは棋風というか、AIによって手の評価が違うと聞いたことがあるのですが。
柴野: そうなんです。あるAIは勝率70%だけど別のAIは55%ということがあります。だから普段使うAIを決めて、その評価値に慣れてやっていくという人が多い気がします。
藤井: それで使う人の棋風が出る。
柴野: 何を使うか、というところで棋風に出てきますね。藤井さんは、AIを使う時に気をつけていることがありますか。
藤井: 評価値を見て「終わり」ではなくて、自分なりに考えを持つことでしょうか。
柴野: AIの手をうのみにしないということですか。
藤井: 評価値を見ても、すぐにはわからないことの方が多いので、その理由を考える  ようにしています。
柴野: 囲碁の棋士はAIの数字だけを見て判断する人が多い気がするので、そこはどうかなと思っています。藤井さんの考え方をみんなに伝えたいと思います。藤井さんは自分でパソコンを組み立てるそうですね。
藤井: AIを使うために組みました。
柴野: どうやって組みたてるんですか。
藤井: CPU8中央演算処理装置、(写真 下)とか、マザ-ボ-ドなどのパ-ツを購入して自分で組みたてます。全くおすすめはしませんが。
柴野: 1台作るのに、どれくらい時間がかかるんですか。
藤井: 自分は2,3時間かかるんです。早い方だと30分とか。
柴野: そうやって作ったパソコンは速いんですか。
藤井: そうですね。

不肖が聞いているところ、藤井さんが使用しているCPUは、米国AMD社製、ライゼン・スレッド・リッパ-3990Xという製品で、世界一の速さといわれています。価格も破格で、54.6万円です。スピ-ドと価格はほぼ比例しますので、不肖の約5万円のCPUに比べて、約10倍のスピ-ドがあります。このパソコン上で「水匠2」というAIを動かしているそうですが、数分で8億手も読むことができるそうです。
さて、藤井さんは2,3時間で組みたてたそうですが、これは超速です。このCPUは水冷ユニットなどが付属していますから、一般のCPUのパソコン組みたて以上の難しさがあるかも知れません。


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牛頭天王(ごずてんのう)と蘇民将来

2021-01-13 06:08:26 | 文化
牛頭天王は、日本における神仏習合の神です。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされました。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされました。京都東山祇園や播磨国広隆寺に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ、現在の八坂神社にあたる感心院祇園社から勧請されて、全国の祇園社・天王社で祀られています。また陰陽道では天道神と同一視されています。上記の蘇民将来説話の蘇民将来とは、神話に登場するスサノオノミコトに旅の宿を提供し、貧しいながらも精一杯もてなしました。その恩でスサノオは蘇民の子孫を末永く疫病から守る。その伝承がもとになって、「蘇民将来の子孫」と書いた札が厄除けに使われるようになりました。
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将棋プロ AIを翻弄

2021-01-10 06:27:26 | 将棋
2013年、AIと人間が対決した電王戦ファイナル5番勝負というイベントがありました。第2局ではAIが反則負け、第5局ではAIが悪手を指して、僅か21手で敗北しました。このイベントは結局、3勝2敗で人間の勝利となりましたが、これ以後AIの進歩は大いに捗り、今では人間を抜いています。

さて、電王戦の第2局は、AIの「Selene」と永瀬拓矢王座(現在)の戦いでした。88手目に永瀬氏が、2七角成らずと王手をしたのに対して、「Selene」は「成らず」という概念がプログラムされていなかったので、王手されたことが認知できず、王手を放置して反則負けになりました。この将棋は、もともと永瀬氏が優勢でしたから、反則負けがなくても永瀬氏勝利であったということです。ちなみに、Seleneはセレ-ネと読み、ギリシャ神話の月の女神を指します。
       第5局は、2勝2敗で迎えた決勝戦で阿久津主税八段とAIの「AWAKE」が対戦しました。20手目、AWAKEは2八角と指しました。(下 図面)将棋を指す者ならば、2八というスペ-スに角を打ち込む手をまず考えるのは当然です。これですと、阿久津氏が指した1六香と香車を逃げられてお手上げになります。「AWAKE」の開発者の巨勢氏は1六香を見て直ちに投了しました。2八角は悪手で、打った角では駒を取ることができない上、数手後には先手に捕獲される運命にあり、敗北が確定します。プロは2八角を打たないものだそうです。21手目、開始から僅か49分で終局したのは、電王戦史上における珍事でした。これは、プロがAIの悪手を誘導した1局でした。時間が余ったので、エキシビジョン・マッチで、この2八角の一手前の図から、阿久津氏と永瀬氏が戦い、阿久津氏が勝利しましたので、阿久津氏は、AIが2八角以外の手を指しても、阿久津氏がAIに勝った可能性があります。
      今日のAIは、プログラムが修正されていますから、2013年時代のようなミスはしないと思われます。当時も今もプロ棋士が勝ちに拘る熱意には並々ならぬものがあります。ちなみに、この対局を題材にして、「AWAKE」という映画が制作され、今、映画館で上映されています。

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電気学会

2021-01-07 06:33:54 | 文化
不肖が在職中、及び退職後の現在も参加しております電気学会を紹介します。電気学会は会員数、約2万人であり、日本における大規模学会の一つです。
ちなみに、他の学会の会員数も調査しましたので下に記します。
  機械学会  3.5万人
  土木学会  4万人
  建築学会  3.5万人
  化学会   4万人
  物理学会  5000人
  数学会   5000人
  応用物理学会 2万人
  宇宙航空学会 3000人

明治時代初期に佐賀県出身の志田林三郎は東京帝国大学に入学して、ウイリアム・エアトン教授から電信学を学びました。卒業した後、明治13年(1880)にスコットランドに渡り、グラスゴ-大学でケルビン教授の薫陶を受け、数学、物理学を修めて帰朝しました。帰朝の後、日本の電気技術の進歩のために学会が必要であることを確信し、函館五稜郭で新政府軍と戦った後、逓信大臣の任にあったあった榎本武揚を会長に迎えて、明治21年(1888)に電気学会を創設しました。
志田は、電気学会の第1回の総会で、電気工学が実現しうる未来技術(無線通信、長距離電送、映像音声記録など)について演説し、その後、その予測を次々に実現してきたため、先見性が高く評価されました。爾来、今日まで133年間、技術の進歩の重要性が失われることは一度もありませんでした。








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遊嵐山  頼山陽

2021-01-04 06:31:46 | 文学
江戸時代後期の儒者、頼山陽(1780~1832、らいさんよう)の七言絶句を紹介します。頼山陽は芸州(広島県)竹原の人。学問、詩文に優れましたが、常軌を逸するところもありました。18歳にして「日本外史」を完成させました。加賀藩の儒官で博学多識で、著書も多数の才人です。

  遊嵐山

清渓一曲水迢迢
夾水櫻花影亦嬌
桂楫誰家貴公子
 落紅深處坐吹簫

清渓一曲 水迢迢(ちょうちょう)
水ヲ夾(はさ)ムノ櫻花 影モ亦(また)嬌(きょう)ナリ
桂楫(けいしゅう)誰ガ家ノ貴公子ゾ
 落紅深キ処 坐シテ簫ヲ吹ク

  「訳」
 清らかな大堰川が、一曲りして遙かに流れていく。その水をはさんで桜が花をつけ、流れに映る景色もまた美しい。この川を美しい桂のかいを使って舟遊びをしているのは、どこの家の貴公子であろうか。紅の花びらの深く積もるあたりに座り、笛を吹いている。

「鑑賞」
青く澄んだ水がめぐり、両岸の桜の影をうつす。美しい舟に乗った貴公子が、花びらの積もるあたりで笛を吹く。と、まるで一幅の絵を見るような心地だ。それだけに、やや作りものめいた感じがしないでもない。ただ、作者のねらいは、作りものを承知で典型的な“京の嵐山の春”を描くところにあったのだ。杜甫や杜牧の意匠を借りているが、これぞ正しく日本の春にちがいない。日本漢詩の美意識が、ここにある。

吟剣詩舞道漢詩集「続 絶句編」  日本吟剣詩舞振興会

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