yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

詰将棋解答選手権

2018-06-28 06:25:14 | 将棋
詰将棋解答選手権という催しがあります。全国の強豪が集まって詰将棋の問題を解きます。
2004年から日本将棋連盟等の主催で始まりました。初級戦、一般戦、チャンピオン戦があります。谷川元名人を始め、プロ棋士やアマチュアの強豪が参加する大会です。藤井聡太七段は、2015年から毎年参加しており、2018年の大会(3月25日開催)では全問正解で4連覇を果しました。
常連の行方尚史八段は、藤井七段の活躍にあきれて、「自分は人間部門で勝ちたい」と言いました。
さて、チャンピオン戦の問題の例が下図(相馬慎一作)の37手詰です。
持ち駒の金金銀銀をどの順序でいつ打つか、角が2回も成らず、という趣向がこらされています。
詰め手順は、下記です。
5六金、同玉、6七銀、4六玉、5五銀、同玉、6六銀、4四玉、3四成桂、同玉、3七飛、同角不成、1六馬、3五玉、2五馬、4四玉、5六桂、5三玉、2六馬、同角不成、
6四金、6ニ玉、8二飛成、7二桂合、7三金、5三玉、5二銀成、同玉、7二竜、6二歩合、
6四桂打、5一玉、6二竜、同角、5二歩、6一玉、7二金まで。


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老子と孔子の会見

2018-06-25 06:13:03 | 文学
「史記」の「老荘申韓列伝」には老子について次のようにあります。
老子は楚の苦県郷曲仁里の人なり。姓は李氏、名は耳、字は伯陽、諱(いみな)して「たん」と曰う。周の守蔵室の史(し)なり。
孔子、周に適(ゆ)き、将(まさ)に礼を老子に問わんとす。老子曰く、子の言うところの者は、その人と骨とみなすでに朽ちたり、独りその言在るのみ。かつ、君子は、その時を得れば則ち駕(が)し、その時を得ざれば則ち蓬累(ほうるい)して行(さ)る。吾これを聞く、良こは深く蔵して虚しきが若(ごと)く、君子は盛徳あるも容貌愚なるが若しと。子の驕気と多欲と態色と淫志とを去れ。これみな子の身に益無し。吾れの子に告ぐるゆえんはかくのごときのみと。
老子が孔子を痛烈に批判しています。儒家にとっては、受け入れ難いことなのでしょう。

後世の儒者は、老子が孔子に諭した、この会見が気に入らないのです。
「史記」の記述は間違っている、とか、老子という人物は実在しなかったとか、老子という書は偽物だとか言いつのることが多々あります。しかし後世、中国において民間信仰にまで大きい影響を与えたのは、むしろ老子だと思われます。

    山田 統 「老子」 角川新書



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月夜見梅花 菅原道真

2018-06-22 06:06:39 | 文学
菅原道真の「菅家文草」の最初に載っている漢詩を紹介します。

月夜見梅花

月耀如晴雪
梅花似照星
可憐金鏡転
庭上玉房馨

月夜梅花ヲ見ル

月耀 晴雪ノ如ク
梅花 照星ニ似タリ
憐レムベシ 金鏡ノ転(めぐ)リテ
庭上 玉房ノ馨(かお)レルヲ

「訳」
輝く月の光は晴れた日の雪のようだ。
梅の花は照り輝く星に似ている。
月が動いて、庭の梅を隠し(梅の花が見えなくなり)、梅の香が
馨ってくるのはしみじみ心に浸みて何ともいえない。

「鑑賞」

「月耀」は月の光が輝くこと。「金鏡」は月の異称で「金鏡転」は月が動くこと。
前半で天上の月・星、地上の雪と梅を視覚で捉え、後半で梅の薫り、と嗅覚で結んでいる。
梅は中国原産で奈良時代以前に渡来したといわれ、現在では、その園芸品種が300以上あります。平安遷都の際に、御所の紫宸殿の前に植えられたのは、左近の梅、右近の橘でした。その後、「左近の桜」に変わりましたが、梅は宮廷などでもてはやされ、多くの詩に詠まれています。
吉崎一衛 「吟道」 平成30年5月号

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戊辰150周年

2018-06-19 06:07:29 | 歴史
2018年の今年は、明治元年(1868年、戊辰の歳)から150年目にあたります。それを記念してさまざまな行事が企画されています。明治維新を評価する人々は「維新150周年」と称して祝うかもしれませんが、明治維新をあまり評価しない人々もいます。彼らにとっては「戊辰150周年、徳川幕府終焉150回忌」という呼び方がふさわしいのです。以下は新聞からの引用です。

福島県会津地方には祝賀ム-ドはない。薩長軍率いる新政府軍から「賊軍」と攻撃された無念の年だからだ。「義の想いつなげ未来へ。戊辰150周年」。駅頭や役所に掲げられたのは、戊辰戦争の悲劇を語り継ぐ幕や幟ばかり。「幕府に忠義を貫いた会津藩にとって維新は祝うものではない。辛酸の時代の始まりでしかありません」と元・会津若松市教育長の宗像精(むなかた ただし)さん。江戸の無血開城後も会津藩は「朝敵」の役を押しつけられた。薩長の軍勢が攻め入り、砲弾の雨で多くの命が奪われた。降伏後も下北半島へ集団移住を強いられる。宗像さんはいまでも討幕軍を「官軍」とはいわずに「西軍」と呼ぶ。以下略。

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将棋 奨励会 三段リ-グ

2018-06-16 06:26:08 | 将棋
将棋のプロ棋士の養成機関を奨励会といいますが、プロ棋士(四段以上)になるための最後の関門が三段リ-グです。奨励会は将棋の天才達が集まる集団です。入会の時点で、既にアマ五段程度の実力があるそうです。「21歳までに初段、26歳の誕生日を含む三段リ-グにおいて、
昇段して四段になることができないと退会」という、厳しい年齢制限があります。ですから、多くのプロ棋士は、四段になった時が人生で最もうれしい時であったと言うそうです。
三段リ-グは1年に2期あり、三段の全員が戦い、上位2名が四段に昇ります。すなわち、1年に4人だけがプロになれるという戦です。
天才中の天才である藤井聡太七段の場合、2012年に小学校4年生で奨励会に入会、2016年前期の三段リ-グを戦い、9月3日に14歳2か月で四段になりました。こうして、加藤一二三九段の記録14歳7か月を62年振りに塗り替えました。この藤井七段にしても、三段リ-グの成績は13勝5敗であり、5つの黒星を喫しています。四段になったプロ棋士の多くが語っているのは、世話になった師匠、家族、支援者への感謝の言葉です。
   
     「四段昇段の記 セレクション」将棋世界 7月号






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胡蝶の夢

2018-06-13 06:16:26 | 文学
司馬遼太郎の作品に「胡蝶の夢」があります。これは幕末の知識階級で語学の天才、司馬凌海や医師の松本良順等を描いています。
さて、「胡蝶の夢」とは「荘子・斉物論」の最後にある寓話です。
 昔は荘周 、夢に胡蝶と為れり。ひらひらとまいて胡蝶なり。自ずから喩しみて志(こころ)に適えるかな。周たるを知らざるなり。俄かにして覚むれば、まぎれもなく周なり。周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。周と胡蝶とは則ち必ず分め(けじめ)有り。此を之れ物化(ぶつか)と謂う。

「訳」
いつのことだったか、ひと寝入りした荘子は、夢の中で一匹の胡蝶となっていた。ひらひらと空を舞う胡蝶。彼は何とも言えず楽しい気持ちになって、胡蝶の自由を心ゆくばかりひらひらと舞っていた。自己が夢に胡蝶となっていることも忘れて・・・。やがて彼はふと目がさめた。彼はその目ざめの中で、まぎれもなく荘周である彼自身に返る。しかし我に返った荘周は、はてなと考えてみる。一体、いま目ざめているこの自分は何であろう。このいま目ざめている自分が胡蝶となった夢を見ていたのか、それとも、今までひらひらと舞っていた胡蝶が夢の中で今、人間となっているのであろうかと。
彼には結局、今までの胡蝶であった夢が本当の現実なのか、今人間である現実が実は夢なのか、さっぱり分からない。しかしそれが一体自己にとってどうだというのだろう。なるほど世間の常識では、夢は現実と区別され、現実は夢とは違うとされる。また胡蝶はあくまで胡蝶であって人間ではなく、人間はあくまで人間であって胡蝶ではないとされる。しかし、その夢が現実でなく、その現実が夢でないと誰が保証し得るのか。実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周もであろう。一切存在が常識的な分別のしがらみを突きぬけて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。

 福永光司 「荘子 内篇」 毎日新聞社





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ニ桃三士

2018-06-10 06:50:09 | 文学
桃で三人の豪傑が倒せるとは、考えにくいのですが、中国の書「晏氏春秋」に「ニ桃三士を殺す」という逸話があります。奇策、鬼謀をさした言葉です。

中国・春秋時代にあった「斉」という国に、公孫接・田開疆・古冶子という三人の豪傑がいましたが、同時に疎まれてもいました。そこで斉の君主景公は、宰相晏嬰の進言により、三人を集めて桃を二つ渡し、「武功の優れているものから食べろ」と命じました。公孫接と田開疆の二人が先に桃をとると、古冶子が「自分には武功が無いというのか」と憤激、公孫接と田開疆は真っ先に桃をとった欲深さを恥じて自害し、古冶子は自分が文句をつけたことで二人を死なせたことを悔やみ、後を追って自害しました。あえて三人に罪を着せることなく自ら進んで自害させたということで、名宰相晏嬰の名はいよいよ高まり、「二桃三士を殺す」は「策略を仕掛けて他人を自滅させること」の意味で使われるようになりました。
己の言行を恥じたら死をも辞さない、士という身分の人が中国の古代に存在したことがわかります。この士は日本のサムライに通じるようにも思われます。

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尋胡隠君 高啓

2018-06-07 06:33:06 | 文学
明の詩人 高啓の絶句を紹介します。

尋胡隠君

渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覚到君家

胡隠君ヲ尋ヌ

水ヲ渡リ復タ水ヲ渡リ
花ヲ看(み)還タ花ヲ看ル
春風江上ノ路
覚エズ君ガ家ニ到ル

「訳」
あちらで川を渡り、またこちらで川を渡り、
そして、あちらで花を眺め、またこちらで花を眺める
このようにして、ここちよい春風のそよ吹く川のほとりの道をのどかに歩いてうちに、
いつのまにか、あなた(胡隠君)の家にたどりついてしまったことだ。

「鑑賞」

高啓は明代第一の詩人で「小杜甫」の称があります。彼の詩は古人の長所を兼ね備え、南方的なしとやかさで美しい詩情と慷慨(こうがい)の意気に満ちています。しかし、皇帝・太祖の怒りにふれ、39歳の若さで刑死しました。著書に「高太史大全集」などがあります。
隠者を訪ねるには、それにふさわしい訪ね方があるようです。春風の吹くままに、花のさそうままに足が自然にそちらのほうに向く、というたずね方。そこに深い味わいが醸し出されます。なお、「胡」は姓、「隠君」は仕官しないで隠棲している人を言います。


「吟剣詩舞道漢詩集 絶句編」日本吟剣詩舞振興会

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迦陵頻伽 米長邦雄

2018-06-04 06:08:13 | 将棋
1992年に、将棋の故・米長邦雄氏は、尊敬する唐招提寺の鑑真和上座像の前に座りました。(鑑真は、日本に渡航を試みて5回失敗、6度目に成功を果たした「不屈の人」です)。その日の夕食の席で、米長氏は「和上像の前で突然、鳥の声が響いた。すごかったね」と漏らしました。「何も聞こえなかった」と不思議がった同行者は「迦陵頻伽(かりょうびんが)の声かも」と言いました。迦陵頻伽とは、仏教で極楽にいるという想像上の鳥で、妙なる鳴き声を持つとされています。米長氏はこれを吉兆と受け止めました。翌1993年春、米長氏は7度目の名人挑戦権を勝ち取りました。中原誠名人には5度名人戦で敗れていましたが、6度目に中原氏を倒して名人位につきました。49歳11か月での名人奪取は史上最年長記録でした。その後、米長氏は、寺に「お礼をしたいと」と申し出ましたが、寺の長老は「お金は結構です」と辞退したそうです。そこで米長氏はお気に入りの長野県の店から毎月1回、豆腐を贈りました。修行僧や職員が昼食時の楽しみにしたという豆腐の贈り物は十数年続いたそうです。


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宗教の効用

2018-06-01 06:14:36 | 文化
近年の紛争の多くの原因として宗教、宗派の対立があり、戦争になると凄惨な結果を生むこともあります。宗教の負の面が多いので、宗教があることに疑問を持つこともありました。
しかし、現世人類(げんせいじんるい)が今日まで生存できたことに宗教が大きい役割を果したことを知りました。地球上で生き延びてきた私達の祖先、ホモ・サピエンスとネアンデルタ-ル人は、生き残りを争ったライバルでした。従来、ホモ・サピエンスのほうが、知力、体力において、ネアンデルタ-ル人より優れていたという説がありました。しかし、最近の研究では、ネアンデルタ-ル人のほうが、脳の体積が大きく、かつ体力も強かったとの新しい知見があります。それでは、どのようにしてホモ・サピエンスが生き残ったのでしょうか。その理由の一つとして、ホモ・サピエンスが集団の構成員の数が多く、集団能力に優れていたといわれます。ホモ・サピエンスの集団は数百人、ネアンデルタ-ル人の集団は数十人でした。一度、集団が構成されると、構成員の数が多いほうが、狩猟のための道具が発明される可能性も高く、それが子孫に伝承されやすくなります。また、構成員が役割分担をして狩猟を行い、獲物を多く獲ることができます。
また、ホモ・サピエンスには祭祀の儀式を行った形跡があり、こうした宗教の原型が存在したことが構成員の数の多い社会集団としてまとまることができたのではないかと考える学者がいます。これは宗教の効用の一つと言えるのではないでしょうか。現在でも多くの人の一体化の拠り所の役目をはたしているのでしょう。


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