yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

秋月悌次郎 五高教授時代の逸話

2007-11-29 07:40:41 | 歴史

秋月悌次郎は第五高等学校(熊本)で教授の職にありました。明治26年(1893年)1月の末に宮内省の顕官である高崎正風が秋月を訪ねて来ました。高崎は陸軍中将北白河宮能久(よしひさ)親王が熊本第六師団長に任じられて熊本入りされたのに随行して熊本にいたのでした。<o:p></o:p>

高崎は30年前の文久3年(1863年)8月に京都で秋月胤永(かずひさ)を訪ね、會薩同盟締結を提案した薩摩藩士でした。その後、御歌所の長官を経て、この時には北白河宮第六師団長の副官になっていました。<o:p></o:p>

秋月を訪問したその夜は、漢詩の贈答などをしながら、往事を偲んで盃を傾けました。<o:p></o:p>

翌朝、いつものように黒い官服で第五高等学校の教室にあらわれた秋月悌次郎は、登壇して書物を包んである紫色の風呂敷を空けましたが、本を開いて講義を始めようとしませんでした。かなり時間が経ってから「実は昨晩、文久以来の友人が30年ぶりに訪ねて来たので、終夜、酒を酌みかわしてしまった。そのため、今日の講義の下調べができなかった。それ故、諸君には誠にすまないが、今日の講義は勘弁してもらいたい」と言うと丁寧に一礼し教室を出てしまいました。<o:p></o:p>

教授控え室でこの話を知った同僚が、辺りに悌次郎の姿が無いことを確かめてから言いました。「それにしても漢学者というのは融通の利かないものだ。あれほどの大学者なら「論語」など暗誦しておられるだろうに。何とか講義ができなかったものでしょうか。」すると傍で聞いていた法文の教授、末広厳太郎(いずたろう、後に東京帝大教授)が反論しました。「いや、そうじゃない。秋月先生のように良心的であって初めて、本当の先生になり得るのだ。私は今の話を聞いていて深く反省させられた。秋月先生は偉いと思うよ。」<o:p></o:p>

ただ、「休講」と宣言してもよいところなのに、さらに言えば下調べをせずとも講義することは可能なのに、律義にこう述べて学生達に陳謝する。これが秋月胤永という人間なのだということを末広厳太郎はよく知っていました。<o:p></o:p>

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秋月悌次郎 日本一の学生

2007-11-27 06:44:09 | 歴史

會津藩士、秋月悌次郎は秀才の誉れ高く、19才の時、藩より選ばれて江戸に上り、23才で幕府の大学、昌平黌に入学して学業を積み、頭角を顕しました。27才にして書生寮の舎長助役、30才で舎長に任じられました。当時、全国の各藩から選抜されてきた俊秀な大学生の指導監督役でありますからとても重要な役職であり、秋月は日本一の学生といわれました。このようにして秋月の交友は全国規模のものとなり、容保公の京都守護職時代に公用方として、藩の外交に無くてはならない存在となりました。<o:p></o:p>

親友の南摩綱紀が記した文章に「その昌平黌に在るや、燭を以って日陰に継ぎ、終夜<o:p></o:p>

兀兀(こつこつ)、或は机に凭(よ)って眠る、覚むれば則ちまた読む、人其の就枕を見ず」枕をして寝ているのを見た人がいないとは、誠に激しい勉強振りでした。<o:p></o:p>

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蛤御門の変と町野主水

2007-11-25 07:24:24 | 歴史

文久3年(1863年)8月18日の政変で、會薩二藩により長州藩は京都を追われ、権威を失墜していました。それを回復するべく元治元年(1864年)、長州藩尊攘急進派の志士が藩を動かして京都に出兵しました。そして御所を守る會津藩、薩摩藩、桑名藩と蛤御門周辺で激しい戦闘が行われ、長州藩は敗北して朝敵となり、引き続き長州征伐へと歴史は動いて行きました。この蛤御門の戦に會津藩士、町野主水が手柄を挙げました。  この事は町野の三番槍として會津藩では誰一人知らぬ者のない出来事でした。會津藩は表高28万石ながら、幕府への忠誠が認められ、逐次、封土や職俸を加増されて実質67万9000石という東国随一の大藩になっていました。町野家は蒲生氏郷以来の家で町野源之介重安(後に主水となりました)は越後小出島(越後魚沼には會津藩の飛び地がいくつかありましたが、その1つ)27000石の郡奉行でしたが、京都に召し出されます。往路、富士川の渡しで、無礼な桑名藩士2名を成敗した罪により、京都で入牢していました。主水は蛤御門の変の時、外が騒がしいので、じっとしていることができず、脱牢して蛤御門にかけつけ、會津藩兵団にこっそり加わりました。まず一番槍、窪田伴治(戦死)、続いて二番槍、飯河小膳、続いて三番槍の町野主水が飛び出しました。宝蔵院流の槍術の達人の飯河、町野が大身の槍を振り回して、命を捨てて槍を振るうので、その足許にはたちまち、七、八人の長州兵が転がりました。怯んだ敵に會津兵は全員突撃を敢行して長州勢の敗北を決定的にしました。<o:p></o:p>

江戸時代、「槍は東に會津、西に柳河」という言葉があるほど、會津藩士には槍に秀でた人が多くいました。また町野主水は剣術は義兄の佐川官兵衛とともに溝口派一刀流の剣法を学び免許皆伝の達人でした。後に、飯盛山で自刃した白虎隊士を改葬したり、荒れ果てた會津の再生に力を尽くし、最後の會津武士と言われました。<o:p></o:p>

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萱野国老の殉国

2007-11-23 07:18:04 | 歴史

新政府から明治元年の春、會津戦争の責任を取って首謀者三家老の首を差し出すよう命令がありました。西郷頼母はこの時行方不明、神保内蔵助と田中土佐は若松城下で既に自刃しておりました。席次からいうと次は萱野権兵衛が相当しました。梶原平馬、山川大蔵もこの話を聞き、覚悟を決めていたのですが、権兵衛は「拙者が切腹いたす」と言い、「梶原と山川はまだ若いから、貴殿らにこれからの會津を託したいと」述べて従容と死につきました。<o:p></o:p>

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 夢うつつ思ひも分す惜しむそよ<o:p></o:p>

 まことある名は世に残るとも<o:p></o:p>

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照姫は、この歌と「気の毒言語に絶し惜しみ候事に存じ候」と認めた手紙を送り、<o:p></o:p>

権兵衛の死を悼みました。<o:p></o:p>

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これによって、新政府内の容保極刑論は消え、9月には容保と喜徳の謹慎が解かれて斗南藩立藩への道が開かれました。<o:p></o:p>

萱野権兵衛には誠に気の毒としか他に言うことばがありませんが、彼は一死をもって會津藩と藩主を救いました。<o:p></o:p>

武士道というものは、何と厳しく切ないものかと思います。それを平然と実践した権兵衛は誠に武士の鑑でした。<o:p></o:p>

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斗南藩

2007-11-21 07:51:23 | 歴史

鶴ケ城落城のあと、明治2年11月、容保の嫡男容大(かたはる)に家名相続が許され、陸奥国に封ぜられました。會津藩23万石は20万石削減され、本州最北の地に3万石で移封されました。3万石とは名ばかりで実際は酷寒、不毛の地で、まさに挙藩流罪です。新政府の長州派の憎しみが招いた処置でありましょう。<o:p></o:p>

「北斗の南、皆帝州」という中国の文献の言葉が斗南(となみ)の由来です。<o:p></o:p>

會津は朝敵にあらず、ともに北斗星を仰ぐ帝州(天皇の治める土地の意)の民である、という思いが込められていると言われています。<o:p></o:p>

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かつて、秋月悌次郎が蝦夷の斜里代官所に左遷された時に詠んだ漢詩もその下地になっているのではないかと思います。<o:p></o:p>

 京洛斯(こ)の時に合い謀を献ず<o:p></o:p>

 謫居(たっきょ)病に伏す北蝦州<o:p></o:p>

 死して枯骨を埋めるも還た悪しくは非ず<o:p></o:p>

 唐太以南皆帝州<o:p></o:p>

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秋月悌次郎は左遷された地にあっても、誰に不平を言うこともなく、このような詩を賦して悠々と過ごした大人物でありました。同じく左遷の地にあった秋月の親友の南摩羽峰綱紀(なんまうほうつなのり)も後に学者として栄進しました。會津藩には有能な士を時に冷遇する狭隘な悪弊がありました。<o:p></o:p>

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斗南藩立藩に関与した広沢富次郎が、秋月悌次郎の漢詩を知っていて、唐太以南を北斗以南との読み換えに気付き、藩名を決める時に使ったのではないかと推測されます。 <o:p></o:p>

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 明治になっても會津のために活躍した永岡敬次郎が戊辰戦争の時、仙台から兵を率いて會津に救援に向かいましたが、入国できず、無念の涙を流しました。その時、白石城で詠んだ詩は會津三絶の一つとして永く読みつがれています。<o:p></o:p>

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  独木誰か支えん大厦の傾くを<o:p></o:p>

  三州兵馬乱れて縦横たり<o:p></o:p>

   羈臣空しく包胥の涙をながし<o:p></o:p>

  日は落ち秋風白石城<o:p></o:p>

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一本の木で、誰が大家の傾くのを支えることができるでしょうか。<o:p></o:p>

奥羽越は戦いに敗れ、乱れてしまいました。<o:p></o:p>

かつて中国の包胥(ほうしょ)が、自国の崩壊の危機に隣国に赴き、涙ながらに救援を乞いましたが不首尾に終わりました。<o:p></o:p>

つい、先頃まで奥羽列藩同盟の中心であった白石城にも秋風が吹いている<o:p></o:p>

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西郷頼母邸における集団自刃

2007-11-18 07:35:04 | 歴史

慶応4年8月23日の朝、西軍が鶴ケ城下に侵入して来ました。西郷頼母邸は郭内の中でも最も大手門に最も近い所にありました。そこで頼母の妻、千重子をはじめ家族の全女子9人と、その頃西郷邸に身を寄せていた親戚の者12人を加えて合計21人が自刃しました。その数は白虎隊19人の飯盛山での自刃を凌ぐ大きさであり、誠に正視するのが憚かられる壮烈悲惨な最期でありました。頼母の母の律子が、妻の千重子とその子女に向かって「私共も入城して殿様のために尽くしたいと願っておりますが、幼い者まで連れて行っては、反って籠城の妨げになります。それよりも藩のために身を捧げて、自刃する覚悟を致しました。そなた達も今こそ、その覚悟をする時です。ただ、生きることばかり考えて、女として最大の恥辱を受けることがあってはならないと思います」と話したとのことです。子女達は快く同意して、それぞれ辞世の和歌を認めて自刃しました。無理もないことですが、この頃から西郷頼母の言動は常軌を逸したものになり、「君命」という温情ある口実をもって城外に追放となりました。<o:p></o:p>

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彼岸獅子

2007-11-16 11:36:16 | 歴史

日光口を守備していた総督山川大蔵(おおくら、後の浩)は若松城下に西軍が侵入したことを知ると直ちに若松に戻りましたが、鶴ケ城は西軍により既に十重、二十重に包囲されており、容易に入城することは誰の目にも不可能でした。山川は沈思默考しますが、しばらくして愁眉を開き「我に一策有り」と言いました。若松郊外の青木村に彼岸獅子の楽隊がいることを想起していたのです。彼らは春、雪が解けると會津の街角を練り歩きます。春を告げる風物詩として地元ではそのお囃子に馴れ親しんでいました。山川は彼岸獅子の衣装と楽器の借用を村人に頼み、笛と太鼓の楽隊を編成しました。この楽隊を先頭にして全兵員が隊列を組んで入城するという奇策でした。「気合い」です。実戦経験を多く積んだ山川には勝算がありました。城下に攻め込んだ各藩兵士の軍装はまちまちで、特に決まった服装があるわけではないので、楽隊を先頭に堂々と行進すれば、まさか敵とは思わず、味方と思って見とれるに違いない、一方、城内の味方も會津のお囃子隊を敵と思うはずがない、と計算していました。一行は楽隊を先頭に見事な演奏をしながら、西追手門から城門に近付きました。その時になって、敵は初めて謀られたことに気付きましたが、その時既に山川隊の先頭は、大歓声に迎えられて城門をくぐっていました。土佐藩兵が気づいて発砲しようとしましたが、土佐藩総督が「武士の情だ、通してやれ」と言って発砲を止めさせたとか。ともかくこの入城劇は、数百人の山川隊が一発も撃たれることなく、また自ら撃つこともせずに成功しました。8月23日の奇跡と言ってもいい出来事だと思います。城内の容保公や守備隊の喜びは一方ならず、城内の志気は一気に高まりました。これは、悲惨な守城戦において、殆ど唯一とも言える明るい話題となりました。<o:p></o:p>

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婦女薙刀隊

2007-11-14 19:36:27 | 歴史

慶応4年8月23日朝、西軍は鶴ケ城下に侵入して来ました。それが余りに早かったので、中野平内の妻孝子、長女竹子、次女優子、依田菊子姉妹、岡村すま子は追い手門から城に入れずに、照姫が立ち退いたという坂下(ばんげ)に向かいました。そこにいた藩の軍事方に従軍を懇請したが許されませんでした。軍事方は、會津藩では女子まで動員するというのでは藩の体面に関わると考えたのでしょう。しかし、藩のためになりたいという彼女達の決死の至誠の志に動かされ、軍事方は折れて、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊に合流させることになりました。古屋佐久左衛門は英語が堪能で、江戸で英学塾を開いていたこともある俊秀でした。後に函館、五稜郭にまで転戦しました。ところで彼の実弟には徳川将軍の侍医であった高松稜雲がおり、函館で病院を作り、敵味方の区別なく平等に手当てを行った信念の人でありました。<o:p></o:p>

さて中野竹子は書道、剣道にも優れていて出陣に先立って、下の辞世を詠んで達筆を残しています。<o:p></o:p>

ものゝ夫の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我身ながらも<o:p></o:p>

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薙刀隊は涙橋で西軍と戦いましたが、竹子は銃弾に斃れました。薙刀隊はその後、鶴ケ城に入城し、籠城すること30日、その間、怪我人の看護、洗濯、水汲み、食事の準備、不発銃弾の始末などで忙しく立ち働きました。中野姉妹の母、孝子(こうこ)は容保公の御前に召し出され、お褒めの言葉を賜った上、「その方は酒を嗜むという、之にて過ごせよ」と大杯に御酒をなみなみと賜わりました。それを一気に飲み干してしまったので、殿様をはじめ、見守って居た人々も「女ながら天晴れ」と褒めそやしたという豪快な女傑でした。<o:p></o:p>

 

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母成峠破れる

2007-11-12 09:07:15 | 歴史

白河城を落とした後、新政府大総督府の大村益次郎は、仙台、米沢を攻め、枝葉を切り取った後で幹(會津)を枯らす方針を立てていました。ところが冬季が迫っており、奥州が降雪に埋まると攻めにくくなると現地軍は判断しました。現地参謀の板垣退助と伊地知正治が、南国育ちの西軍は積雪下の戦いでは不利になると主張したため、彼等の會津攻めの意見が通ったわけです。一方の會津軍は日光口と勢至堂峠(白河口)の守備に重点を置き、また二本松城から最短距離で若松に通ずる中山峠(二本松口)に西軍が来ると予測していました。母成峠は最も険阻であり、突破が困難であると考えており、守備は大鳥圭介の伝習隊と新選組など、僅か700人でした。慶応4年8月21日、西軍の主力2000人は最も難しいと考えられた険峻な母成峠から攻撃を開始し、兵力差で東軍を圧倒しました。母成峠が破れると続いて猪苗代城も陥落し、西軍は8月23日の朝、怒濤のように若松市街に殺到しました。<o:p></o:p>

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白河城陥落

2007-11-11 08:09:52 | 歴史

白河は奥州の玄関口です。慶応4年5月に白河城をめぐる戦闘が開始されました。奥州における最初の合戦に東西両軍は全力を注ぎました。特に東軍は容保公のお声掛かりで、西郷頼母を総督とし、横山主税を副総督にして最高の首脳陣を組織しました。西郷頼母は上席の門閥家老でしたので実戦経験に乏しく、戦争指揮には向かない人物でした。京都では出番のなかった西郷を起用するという、容保公の温情ある処置がここでは仇となりました。會津藩に人材が乏しいわけではなく、せめて山川大蔵(おおくら)か佐川官兵衛を登用すべきでした。東軍は仙台藩一千、會津藩一千数百の大軍団で、この時動員できた最大数と思われます。対する西軍はわずか七百でしたが、西軍の銃器、大砲の威力が炸裂して死者約千人、東軍は横山副総督も戦死するという惨敗を喫して白河城はあえなく陥落してしまいました。西郷頼母は責任を取って自決しようとしましたが、従者の飯沼時衛(白虎隊士飯沼貞吉の父)の機転で果たせませんでした。<o:p></o:p>

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