「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。ただ一燈を頼め。」江戸時代の大儒佐藤一斎の「言志晩録」にある言葉です。高校の恩師にも餞の言葉としていただきました。川上正光の訳注によれば、暗夜とは人生行路、一燈とは堅忍不抜な自己の向上心ではないかとあります。川上氏の解釈もありますが、私は一燈とは、自分が信ずるもの、信念または信義のようなものではないかと思います。とてもいい言葉だと思います。<o:p></o:p>
将棋の羽生善治(よしはる)二冠が2007年12月24日に公式戦1000勝を達成しました。これは歴代の棋士で8人目となる偉業です。それに記録づくめです。<o:p></o:p>
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まず、最年少で達成、37才2ヶ月。2位は中原誠で44才7ヶ月です。<o:p></o:p>
次に速度記録、 22年0ヶ月。2位は中原誠で26年3ヶ月です。<o:p></o:p>
それと勝率記録、通算勝率 0.728。2位は大山康晴0.678です。<o:p></o:p>
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神武以来の天才と言われた加藤一二三でも1000勝を達成したのは、49才7ヶ月。<o:p></o:p>
無敵の大山康晴でも54才1ヶ月でした。<o:p></o:p>
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羽生は、どの記録を見ても特に抜きんでています。いかに強いかがわかります。<o:p></o:p>
彼にとっては1000勝は通過点の一つでしょうが、今後、どこまで記録を伸ばすか楽しみです。<o:p></o:p>
京都の通りの名は地元の人でも覚えにくいので便法としてわらべ唄風の覚え唄が工夫されました。<o:p></o:p>
東西通りの名は北から南へ、丸太町から十条東寺まで次のように言います。<o:p></o:p>
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丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、<o:p></o:p>
まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき<o:p></o:p>
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四条、綾小路、仏小路、高辻、松原、万寿寺、五条、雪駄屋、ちゃらちゃら、魚の棚、<o:p></o:p>
しあやぶったかまつまんごじょうせったちゃらちゃらうおのたな<o:p></o:p>
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六条、三哲、とおりすぎ、七条こえれば八九条、十条、東寺でとどめさす。<o:p></o:p>
ろくじょうさんてつとおりすぎひっちょうこえればはちくじょうじゅうじょうとうじでとどめさす<o:p></o:p>
南北の通りの名は東から西へ、寺町から千本通まで次のように言います。
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寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町<o:p></o:p>
てらごこふやとみやなぎさかい<o:p></o:p>
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高倉、間ノ町、東洞院、車屋町<o:p></o:p>
たかあいひがしくるまやちょう<o:p></o:p>
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烏丸、両替町、室町、衣棚<o:p></o:p>
からすまりょうがえむろころも<o:p></o:p>
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新町、釜座、西洞院、小川<o:p></o:p>
しんかまんざにしおがわ<o:p></o:p>
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油小路、醒ケ井、堀川<o:p></o:p>
あぶらさめがいでほりかわのみず<o:p></o:p>
葭屋町、猪熊、黒門、大宮<o:p></o:p>
よしやいのくろおおみやへ<o:p></o:p>
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松屋町、日暮、智恵光院<o:p></o:p>
まつひぐらしちえこういん<o:p></o:p>
浄福寺、千本、西陣<o:p></o:p>
じょうふくせんぼんはてはにしじん<o:p></o:p>
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他愛のない知識ですが、覚えておくと、京都の町への理解と馴染みが多少、深くなります。<o:p></o:p>
楽毅は燕の将軍となるや宿敵の隣国斉を攻め、破竹の勢いで七十城を攻略し、名将振りを世に示しました。その名将が何故莒(きょ)・即墨の二城を落とさなかったのか、落とせなかったのか。もし、落とせなかったのであれば、楽毅はけっして名将ではなかったのではないかという議論が三国時代にありました。この時、<o:p></o:p>
魏の夏侯玄がそういう議論の軽薄さを嘆き、敢然と筆を執り、楽毅の広器を再認識<o:p></o:p>
させようとしました。これが「楽毅論」です。<o:p></o:p>
楽生方(まさ)に大綱を恢(ひろ)くし、以って二城を縦(ゆる)し、民を牧(やしな)い信を明らかにし、以て其の弊(おとろ)ふるを待つ。<o:p></o:p>
でした。これは正論であり、書聖、王羲之もこれに心を打たれて<o:p></o:p>
これを典麗な書に残しています。この書は彼の代表作として今日まで残っています。<o:p></o:p>
中国・戦国時代、燕の国で昭王は郭隗(かくかい)等に助けられて、王に即位することができました。そこで昭王は次に父と国の仇、斉を討ちたいと考え、そのためにはどうすれば良いかと郭隗に聞きました。それに対する郭隗の答が名言「先従隗始(せんしょうかいし)」でした。これは「戦国策」の燕の部に見られる言葉です。<o:p></o:p>
「先従隗始」とは「王必ず士を致さんと欲っすれば先ず隗より始めよ」という意味です。この郭隗の言葉には続きがあり、「そうすれば、隗より優れた者が、千里を遠しとせずに燕にやって来るでしょう。」昭王は直ぐにはその真意が納得できませんでしたが、やがて郭隗の予言の通り、楽毅という名将が燕に現れ、燕の繁栄の基を築くことになりました。<o:p></o:p>
楽毅は文武両道に優れた名将で、中国でも我が国でも他にあまり類を見ない型の人物だと思われます。強いて言えば、後世の蜀の諸葛孔明が似ているでしょうか。我が国の武勇の源義経と知略の竹中半兵衛を足して、さらにスケールを拡大すると、楽毅像が描けるのではないかと思います。<o:p></o:p>
「唇亡歯寒」は「春秋左氏伝」に出ている言葉です。唇亡びて歯寒し、とも読みます。互いに助け合い、補い合う関係にあるものの一方がくずれると、他の一方も直接、危険にさらされるようになってしまうことを言います。中国・戦国時代の中山国が、擡頭してきた西の強国、趙に攻め込まれて滅亡の危機にあった時、中山の楽毅が隣国の燕に赴き、燕の昭王に謁見して、「中山が趙に滅ぼされると、隣接する燕にも直接、脅威になるので、今、中山に援助の手を指し延べていただきたい」と説きました。この時、楽毅は「唇亡歯寒」の語を使用しています。<o:p></o:p>
現状を冷静に分析して歴史に学んで、今後の方策を的確に策定し、未来への展望<o:p></o:p>
を開く。その時、周囲への説得には故事、名言も活用することがしばしばあります。これは最近の指導者にも見られ、中国流と言えるでしょう。<o:p></o:p>
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會津藩で智恵山川、鬼佐川と言われた智将、山川浩にも西南戦争への出征が求められました。その際、浩は弟の健次郎に<o:p></o:p>
「戦うことはおれにまかせて、お前は学問一筋で行け」<o:p></o:p>
と言いました。そして出征にあたり<o:p></o:p>
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薩摩人みよや東(あずま)の丈夫(ますらお)が提げはく太刀の利きか鈍きか<o:p></o:p>
と、詠みました。薩摩憎しと言うよりは、戦になればいかなる敵も打ち砕くという決意を示しています。<o:p></o:p>
山川が熊本に到着すると、谷干城が守る城は薩軍に包囲されていて、籠城は五十日を越えており、城内の食料、弾薬は尽き果てようとしていました。山川は城への突入を決意しました。かつて彼岸獅子を先頭に、鶴ケ城に入城したことを思い出し、今回も成功する自信が彼にはありました。濃霧に隠れて目の前の緑川に手早く浮橋をかけた山川隊は、敵に悟られる前に渡河を敢行し、一里半の市街地を走り抜けて、熊本城に入城しました。山川隊の一番乗りで城内は歓呼に湧いたと言うことです。山川は西南戦争の後、陸軍に戻り、會津人としては異例の昇進を遂げましたが、東京の山川家にはいつも會津人が溢れていて、彼等を助け続けたという事です。<o:p></o:p>
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佐川官兵衛、會津藩では鬼佐川と言われました。忠節一筋、立派な人物です。<o:p></o:p>
戊辰戦争で新政府から「首謀者三家老の首を出せ」、との命令があり、それに対して萱野権兵衛の首を差し出すことに決まったことを官兵衛が耳にした時、<o:p></o:p>
萱野氏は家老の長であり、拙者は末席の家老に過ぎませぬ。されど徹底抗戦を主張したのは拙者であり、ことここに至った罪は拙者が負うべきものでござる。斬首の儀は、拙者にお命じ下され。西兵を最も多く殺めたのもおれなら、わが藩士を最も多く死なしめたのはこのおれだ」<o:p></o:p>
しかし、その願いは聞き届けられず、結果として、萱野国老が死の座につきました。<o:p></o:p>
それから官兵衛は鬱々とした日を過ごしました。彼のその後の人生は死に遅れた者の<o:p></o:p>
余生だったのでしょう。<o:p></o:p>
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明治10年正月、岩倉使節団の帰国により、岩倉具視、三条実美、大久保利通、木戸孝允らの反対にあって西郷隆盛は征韓論で敗れました。かねて、西郷は折角作った明治政府が自分が理想としたものとかなり異なるもであった事に不満を懐いていました。西郷は参議陸軍大将の顕職を捨てて鹿児島に帰りました。江藤新平、副島種臣、板垣退助らも西郷に同調して下野しました。勿論、桐野利秋、篠原国幹らも憤然として西郷を追いました。桐野の部下には薩摩士族の4000人もの邏卒がいましたが、彼等が職を放棄して一斉に鹿児島に向かい、ここに、鹿児島私学校を中心にして集まり、反政府団体、あたかも独立国、西郷薩摩国が誕生したようなものでした。桐野利秋とその配下が抜けたため東京警視庁は機能しなくなりました。かねて司法と行政の分離の必要を感じていた川路利良(としよし)この機会に大久保利通に進言して新たに地方自治の東京警視庁を誕生させました。ところが、頭領以下必要な約4000の部下がいません。川路は會津藩士に人望が厚い佐川官兵衛が若松県に隠棲していることを思い出し、彼に出廬を懇請しました。會津藩の元家老の処遇は悩ましい問題でしたが、ともかく佐川を大警部とすることで決着しました。彼の下に多数の元會津藩士が採用され首都の警備に当たりました。山川浩は、佐川を評して<o:p></o:p>
佐川さんの人望は、まるで薩摩士族における西郷さんのようだ」<o:p></o:p>
と語っています。<o:p></o:p>
西南戦争が本格化すると政府軍は兵士が不足しましたので、東京警視庁の人々も応援<o:p></o:p>
に行かざるを得なくなりました。元、會津藩士の多くは、薩軍と戦うことができるので<o:p></o:p>
喜んで出征して行きました。西郷対大久保という薩摩閥内の争いに巻き込まれるのは不愉快であるとの考えもありましたが、會津人は敢えて出陣しました。佐川官兵衛もその一人でした。薩軍との戦いで、惜しくも阿蘇山麓で戦死しました。享年45才でした。<o:p></o:p>
死を覚悟して戦の前に詠んだ辞世。<o:p></o:p>
君がため都の空を打ちいでて阿蘇山麓に身は露となる<o:p></o:p>
秋月悌次郎は自分を西門豹になぞらえていましたが、ある日『韓非子』に「西門豹の性は急也、ゆゑに韋(い)を佩びて己を緩くす」とあるのを読み、それ以後は常に「韋」を懐中か袖の袂に入れておき、激怒しそうになるとその韋を撫でて心を静める習慣をつけました。韋はなめし皮の紐でやわらかく緩やかな物の象徴です。悌次郎の号「韋軒」の謂われでもありましょう。激動の時代を生きた悌次郎ですが、生涯、他人と激しく争うことがなかったと言われています。<o:p></o:p>
秋月悌次郎は安政6年(1859年)、藩命で中国、四国、九州を遊学し、萩の明倫館を訪問しました。奥平謙輔(当時19才)が夜、秋月の宿所に、「昌平黌で日本一の学生」の盛名を慕って訪ねてきました。奥平は秋月悌次郎に漢詩の添削を乞いました。悌次郎は、一目で奥平がただならぬ人物であることを見てとりました。その漢詩も見事でした。悌次郎は気さくに<o:p></o:p>
「少し平仄(ひょうそく)の合わないところがありますが、そこを直せば格段に出来映えが良くなりますな」<o:p></o:p>
と指摘しました。それを聞くと奥平は嬉しそうに礼を述べて帰ったとのことです。<o:p></o:p>
僅か一夜の邂逅でしたが、これがこの二人および幾人かの會津人のその後の人生に大きく関わって来ることになったのです。<o:p></o:p>
鶴ケ城落城の折、悌次郎は主君、會津松平家のお家再興のために奔走し、当時越後、水原(すいばら)の総督府に居た奥平に、その嘆願をしました。その折に秋月は<o:p></o:p>
「會津藩において国家のために有為となる人材を預け、学を成就させてやって欲しい。ついてはその者をここに同道したので、面倒を見て下さらないでしょうか」<o:p></o:p>
と懇請しました。そして會津の若い俊秀、小出鉄之助、山川健次郎を託しました。お家再興の問題は奥平一人では処理できない事情があったと思われ、この時は不首尾になりました。その帰路、束松峠(たばねまつとうげ)で悌次郎は傷心の気持ちを詠みました。それが生涯の絶唱となる會津三絶の一つ「北越潜行の詩」です。その後、悌次郎の山川らの教育についての願いについて、奥平は律義にそれを果たしました。奥平らの後援で、山川健次郎のアメリカ留学、ついでエール大学入学が実現し、山川は日本の教育の基盤を創る中心人物になりました。山川健次郎は奥平の好意ある行動を多として、奥平が後に「萩の乱」で処刑されたことなど意に介することなく恩師として敬い、自宅の座敷に生涯、奥平謙輔の軸を掛けてその恩を忘れることが無かったとのことです。<o:p></o:p>
一方、維新政府において、前原一誠は木戸孝允の政策に異論を唱え、遂に下野して「萩の乱」を起こしました。学者であり、かつ誠を貫く快男子、奥平謙輔も前原に同調したので、捕えられました。獄中にありながら死を前にして詠んだ辞世の詩は、悌次郎の「北越潜行の詩」に次韻するもので、内容に共通点が数多くあり、名詩と言われています。<o:p></o:p>
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