yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

丹羽宇一郎氏の提言

2014-03-29 06:21:55 | 文化
元・中国駐箚特命全権大使の丹羽宇一郎氏が、ある講演会で次のような卓見を披露されていました。
 「日中の友好関係は、多くの政治家の努力により築かれてきたものです。日中友好四十年の歴史を壊す権利は誰にもありません。安倍総理にも習近平国家主席にもない。先人が営々と築いて来た努力の結晶を、意地や反感から、一瞬で水泡に帰すかもしれない決断をしてよいのですか。歴史の重さを認識していますか。」(中略)最後に、歴史認識の話をします。「互いに歴史を認め合う」ということはあり得ません。何故なら、歴史とは征服者、権力者が描く叙事詩だからです、何故、中国共産党の歴史やソ連共産党の歴史を日本が認めなければいけませんか。それと同じで、日本現代史を書くのは日本であり、日本が作った歴史教科書について韓国や中国の了承を得る必要は全くありません。歴史的事実は共通としても国によって歴史認識が違うのは当たり前です。しかし、唯一つ世界に共通しているのは「戦争をしない」という一言です。これが共通の歴史認識です。戦争をしないために何をしたらよいか、どうやって仲良くするかを考えるのが、共通の歴史認識の上に立つ政治です。私も一刻も早く、遅くとも2014年春までに両国首脳が直接会談し不戦を誓うことを提言しています。聴講をされている皆様方にも是非理解していただきたいのです。声なき声は「今の政権と政策の全てに賛成」ということになります。本当の自分の考えを声は出さなければ伝わりません。皆様方も是非、今後の日中関係について「住所は変更できない。和すれば益、争えば害。日中は大局に立って仲良くすべき」と出来る範囲で声を発して頂きますようお願いいたします。

  丹羽宇一郎 「日中関係の真実とその展望」 學士會会報 No.905, 2014―Ⅱ

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南禅寺の決戦

2014-03-26 09:08:32 | 将棋
昭和12年(1937)に京都にある名刹、南禅寺で行われた将棋史に名高い「南禅寺の決戦」というのがありました。戦ったのは阪田三吉翁(66)と木村義雄八段(31)です。以下敬称略。
阪田は、関西の後援者らに推されて独自に名人を名乗ったため、東京の将棋界から絶縁されていました。一方、木村は、実力で名人位を争う制度の下で好成績を挙げており、名人の座に近づいていました。この決戦でもし、木村が破れると、名人の権威に傷がつく上、木村は名人位につけなくなります。しかし、阪田と決着をつけないままでは二人の名人が併存することになります。木村は周囲の反対を押し切って対局を決断し、決戦に臨みました。
対局は、一番勝負で2月5日に開始されました。
 木村の初手、7六歩に対して阪田が指した手は9四歩でした。(下図)
これは棋史に残る奇手でした。普通は3四歩とか8四歩と指すところです。阪田の孫弟子にあたる内藤國雄九段(74)は「『この手でも勝てると』という自信の表れでは」と言いますが、木村は全く動じることがなかったということです。1週間に及ぶ死闘の末、95手で阪田を破りました。消費時間は木村が25時間22分、阪田が28時間であったということです。その年の末、
勢いそのままに木村は第1期実力制名人の座につきました。
 後日、木村は阪田との将棋を振り返り、こう語っています。「私にとって空前にして絶後のものでではなかったかと思う。9四歩の一手を見た刹那、呆れもしたが、内心「ははん、これは」
と思った。これは大したことはないと思ったのだ。そして一面、何故もっと素直な謙虚な気持ちでやってこられないのか?と阪田翁のために惜しんだ。油断はしなかったが、その一手で気持ちが幾分楽になった。三日目頃には、勝負のことだから結果は分からないが、この将棋は少なくとも自分より上の将棋ではない、という確信を持つようになった。中略 将棋というものは、どんな一手をやってもそれを生かせばよい。それは事実だが、高段同士の将棋ともなれば
ほんのちょっとした緩手でも容易にその手を生かすことはできないものだ。この時も、端歩突きは最後まで無意味に終わった。」

        木村義雄 「勝負の世界」恒文社



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問梅閣 高啓

2014-03-23 06:55:52 | 文学
高啓の五言絶句 「問梅閣」を紹介します。高啓(1336~1374)は明初の詩人、明初の四傑といわれました。博学で詩に巧みで、歴史にも精通していました。「故隠君を尋ぬ」という詩も有名です。

問梅閣

問春何処来
春来在何許
月堕花不言
幽禽自相語


春ニ問フ何レノ処よりか来タル
春来ツテ何レノ許(ところ)ニカ在る
月堕チテ花言ハズ
幽禽自ラ相語ル

 「訳」

春に尋ねる。春はいったいどこから来るのだろうか、春は来て、いまはどこにあるのだろうか、と。月は西の空にかくれ、梅の花は何も答えてくれない。ただ鳥だけが静かにさえずっているだけだ。

 「鑑賞」
高啓は梅を愛し、梅の詩を多く賦しています。「問梅閣」というのは梅の花を眺めるに良い閣なのでしょう。月は「堕ちる」とありますから、中天に懸っているのではなく低いところから光を投げかけています。鳥も「幽禽」といっていますから、ここは人里ではなく、奥深い谷川のような場所であることを暗示しています。

    「吟剣詩舞道漢詩集(続 絶句編) 日本吟剣詩舞振興会編

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真田氏

2014-03-20 06:05:52 | 歴史
子供の頃、猿飛佐助、霧隠れ才蔵、三好晴海入道など、真田幸村が率いる真田十勇士の武勇伝に夢中になりました。真田十勇士の主君は有名な真田幸村です。真田家は信濃の小豪族でしたが、上杉、武田、北条という大大名の領地のはざまにあって家を保ち、なんと明治維新まで
続いています。特に、真田氏三代、幸隆、昌幸、信之そして幸村は際だっていました。その生き様は持続力の強さです。昌幸、信之、幸村は、各々、武田家、徳川家、上杉景勝家で人質同然の暮らしをしました。

関ヶ原の戦いの前には、幸隆、昌幸軍は中仙道を関ヶ原に進軍する徳川秀忠軍を翻弄し、遂に、秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わない事態となり、徳川家康を激怒させたということです。徳川方に人質となっていた長男の真田信之は徳川将軍家の信頼を得ることに成功し、真田家は江戸時代を生き抜きました。一方、真田昌幸の次男、幸村は、豊臣秀頼にしたがって大阪冬・夏の陣で奮戦し、家康を追いつめたこともあります。真田家の家紋は六文銭(下図)ですが三途の川の渡し賃だけを持って、目の前の戦いに決死の覚悟と知略の限りを尽くして立ち向かったということです。


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「風立ちぬ」余話

2014-03-17 06:18:25 | 文学
宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」は良い作品でした。ゼロ戦を設計した堀越二郎(1903~1982)と、同時代の文学者 堀辰雄(1904~1953)の小説「風立ちぬ」の世界を融合した佳品です。さて、最近、この堀越二郎と堀辰雄が旧制の第一高等学校の理科で同期であったことを知りました。1921年に堀越二郎は理科甲類、堀辰雄は理科乙類にいました。当時の理科は東京帝大の工学部や医学部に進むコースで約200名でした。今日の理科一類、二類、三類の合計定員、1704名(平成25年度)と比べると当時は僅かに200名(現在の約1/10)ですから、いかに狭き門であったかがわかります。堀越二郎は群馬県藤岡市の出身で、旧制藤岡中学から一高に合格しました。
堀辰雄は東京生まれで東京府立三中(現・都立両国高校)を4年終了した時点で一高に合格し堀越二郎に追いつきました。(いわゆる飛び級)二人とも超秀才です。堀越二郎は工学部航空学科(現・航空宇宙工学科)に進み、卒業後、請われて三菱内燃機製造(現・三菱重工業)に入社してゼロ戦の設計に携わりました。学生時代から探求心が旺盛なため、「根ホリコシ、葉ホリコシ」と言われたそうです。一方、堀辰雄は、三中、一高の先輩である芥川龍之介の知遇を得て、芥川に傾倒し、文学部国文科に進学し、理科から文科に転進しました。堀辰雄、は結核の療養所で婚約者と生と死を見つめて過ごした日々を元に小説「風立ちぬ」を書いたということです。

   山田博政 「アニメ映画「風立ちぬ」余聞」 學士會会報 No. 905 2014―Ⅱ

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第3回 将棋電王戦

2014-03-14 06:31:09 | 将棋
コンピューターと人(プロ棋士)が戦う「将棋電王戦」今年は、第3回目ですが、3月15日から始まります。

3月15日 菅井竜也五段 対「習甦」
3月22日 佐藤伸哉六段 対「やねうら王」
3月29日 豊島将之七段 対 「YSS」
4月 5日 森下卓九段  対 「つつかな」
4月12日 屋敷伸之九段 対 「ponanza」

回を重ねるごとに、本気度が増すように思われ、今回も熱戦が期待されます。

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良寛の辞世

2014-03-11 07:09:40 | 文学
慈愛の人、良寛の辞世を紹介します。

辞世の句

裏を見せ表を見せて散るもみぢ

これは、実際は良寛作の句ではないそうです。他人の句を借りてこられて、それを辞世の句として亡くなられました。

告げた相手は、良寛のかたわらに常侍すること、影が形に添うようであった貞心尼である。この貞心尼に対してだけでなく、すべての人に対して良寛上人は自分をあけすけに見せていられた。それこそ裏も表も、いいところも悪いところもすっかり見せてしまい、するだけのことは全部やってしまって、もみじ葉が大地に帰るようにひらひらと散って行かれたのです。

    紀野一義 「禅 現代に生きるもの」 NHKブックス

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「戦い」の表現

2014-03-08 09:20:12 | 歴史
「戦い」や事件を表現する言葉は多様です。
「役」「乱」「変」「寇」「戦」「戦争」「事件」などがあります。
「役」 民衆を徴集して兵として権力者が戦う戦、上から目線の表現です。
        前九年の役(1051~62)、後三年の役(1086~1088)
        文禄・慶長の役(1592~1597)

「乱」  戦により世の中がみだれることからこのように称するようです。
やはり上から目線の表現です。
        保元の乱(1850~1901)
        平治の乱(1159)
        応仁の乱(1467~1477)
「変」  乱と似ていますが、意外性や驚愕が感じられる表現です。
        承久の変(1221)
        本能寺の変(1582)
「寇」  外国に侵攻する戦いです。元寇、和冦
「戦」 普通の表現ですから、よく使われてます。
白村江(はくすきのえ、663)の戦
        桶狭間の戦(1560)
        川中島の戦(1553~1564)
        長篠の戦い(1575)
        関ヶ原の戦 (1600)
「事件」一般的な表現ですから広く使われます
             元禄赤穂事件 (1701) 四十七士の討ち入り
             池田屋事件(1864)
             寺田屋事件(1862)
 たかが、戦の表現ですが、豊臣秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役は、朝鮮側から見ると
 日本の侵略であり、朝鮮では、自国の年号を用いて「壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱」といわれているそうです。

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良寛の漢詩

2014-03-05 06:42:08 | 文学
慈愛の人、良寛の漢詩を紹介します。
まず、在俗の弟子、三輪左一が他界したという報せに接して作った漢詩です。

左一の順世を聞く

微雨空濛芒種節
故人捨我行何処
寂寥不堪則尋去
万朶青山杜鵑鳴

微雨空濛タリ芒種ノ節
故人我ヲ捨テテ我何処カ行ケル
寂寥ニ堪ヘズ則チ尋ネ去レバ
万朶ノ青山、杜鵑鳴ク 

 「訳」

びしょびしょと雨の降り止まぬ梅雨の頃、死んだ左一はわたしを捨ててどこに行ったのか。
さびしさに堪え切れなくなった私は左一を探しに行く。二人で歩いた山道をここ、かしこと尋ね歩いているうちに、どこかでひょっこり左一に出会うような気がしたのであろうか。越後の山々は枝いっぱいに緑の若葉をつけて、いつまでも振り止まぬ雨の下に煙っていた。その山波の上でほととぎすが啼く。

 心の友を相次いで失った打撃に打ちのめされて良寛は病気になった。良寛は心身ともに病気になったのである。長い長い越後の冬があけて桃の花夭々と咲い匂う春の訪れとともに良寛はやっと病気かた起ち上がる。その時が「病より起きて」である。

  一身寥々枕衾に耽る
  夢魂幾回か勝遊を逐う
  今朝、病より起きて江上に立てば
  無限の桃花 水を逐うて流る

病気になって以来、良寛上人は孤独であった。かたわらにあるのは夜具と枕ばかり。夢の中
で良寛は、幾たびも景色の美しいところに遊んだ。つまり、亡くなった左一らと夢の中で幾
たびも語りあった。それは良寛の執念であった。つ愛するものを最後まで追うて行きたいという人間の執念であった。友を忘れることのできない良寛上人の愛執が、夢の中まで良寛を
蝕んでいたことになる。良寛はようやく病から起きた。それは体の病気が治ると同時に良寛
の心の病が癒えたことでもある。こうして良寛上人は、思い出深い中ノ口川のほとりに立つ。いくたびか通った中ノ口川の流れは、今、良寛の眼下を静かに流れる。川の面は一面の桃の
花びらである。上流から下流へと無限の桃花が水を逐うて流れる。

鑑賞
花びらは人のいのちである。逝った者のいのちが川面いっぱいにあふれて流れているではないか。まわり一面がいのちの渦ではないか。良寛はそのことにようやく眼をひらいたのであった。
愛別離苦の果てにやすらぎを得た良寛の姿があります。仏教では悟道というそうです。

    紀野一義 「禅 現代に生きるもの」 NHKブックス

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祝婚歌

2014-03-02 06:34:19 | インポート
吉野弘氏は1926年に生まれた山形県出身の詩人です。詩「祝婚歌」は結婚する
姪に贈る詩として作られたということです。
 
 祝婚歌       吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
ずっこけているほうがいい
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
相手を傷つけやすいというものだと
気づいているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張に色目を使わず

ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい

そしてなぜ胸が熱くなるのか
わかるのであってほしい

多くの結婚式でよまれ共感を呼んでいるということです。
自分のような年代になって、ようやく腑に落ちる言葉もあります。

 

 

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