不肖が特に好む歌です。大正六年に小口太郎(おぐちたろう)が作詞しました。第三高等学校の学生が歌い始め、現在まで歌い継がれているロマンと抒情に溢れた名曲です。加藤登紀子の歌唱でヒットしたのは周知のことです。
(一番) われは湖(うみ)の子さすらひの 旅にしあればしみじみと
昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば
(二番) 松は緑に砂白き 雄松が里の少女子は
赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや
(三番) 波の間に間に漂へば 赤い泊火なつかしみ
行方定めぬ浪枕 今日は今津か長濵か
(四番) 瑠璃の花園珊瑚の宮 古い傳への竹生島
仏の御手に抱かれて ねむれ少女子やすらけく
(五番) 矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと
(六番) 西国十番長命寺 汚れの現世(うつしよ)遠くさりて
黄金の波にいざこがん 語れ我が友熱き心
大正六年六月、第三高等学校(現京都大学)の二部のクルーは学年末(当時は七月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の美保ケ崎を漕ぎ出して一日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、二日目の六月二十八日は、今津の湖岸の宿で疲れを癒していました。その夜、クルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と同行の漕友に披露し、その詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節にのせるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。
小口太郎は明治三十年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校に学び、後に東京帝国大学物理学科に進みました。「有線および無線多重電信電話法」の特許を取るなど多才でしたが僅か二十六才で他界しました。
ところが驚いたことに最近、平成七年になって、この歌の作曲者は吉田千秋だということが判明しました。吉田千秋は明治二十八年に歴史地理学者吉田東伍の次男として新潟県新津市に生まれました。東京農科大学(現東京農業大学)に入学しましたが体調を崩して一年ほどで退学、その後郷里で療養生活を送りましたが二十四才で他界しました。
大正四年に「音楽界」八月号に琵琶湖周航の歌の原曲となる「ひつじぐさ」を発表しました。ひつじぐさは睡蓮(Water Lily)の和名です。
千秋は音楽や文学に非凡な才能を持っていましたが、この歌が広く歌われていることを知ることもなく病気で夭折してしまいました。惜しいことでした。
作詞が小口太郎 二十才、作曲が吉田千秋 二十才、奇しくも同じ二十才でした。若い二人は青春の一瞬を煌めきましたが、その後二人とも余りに短い生涯を閉じました。しかし、この名曲は百年も愛唱され続けており、今後も歌われることでしょう。
(一番) われは湖(うみ)の子さすらひの 旅にしあればしみじみと
昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば
(二番) 松は緑に砂白き 雄松が里の少女子は
赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや
(三番) 波の間に間に漂へば 赤い泊火なつかしみ
行方定めぬ浪枕 今日は今津か長濵か
(四番) 瑠璃の花園珊瑚の宮 古い傳への竹生島
仏の御手に抱かれて ねむれ少女子やすらけく
(五番) 矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと
(六番) 西国十番長命寺 汚れの現世(うつしよ)遠くさりて
黄金の波にいざこがん 語れ我が友熱き心
大正六年六月、第三高等学校(現京都大学)の二部のクルーは学年末(当時は七月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の美保ケ崎を漕ぎ出して一日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、二日目の六月二十八日は、今津の湖岸の宿で疲れを癒していました。その夜、クルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と同行の漕友に披露し、その詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節にのせるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。
小口太郎は明治三十年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校に学び、後に東京帝国大学物理学科に進みました。「有線および無線多重電信電話法」の特許を取るなど多才でしたが僅か二十六才で他界しました。
ところが驚いたことに最近、平成七年になって、この歌の作曲者は吉田千秋だということが判明しました。吉田千秋は明治二十八年に歴史地理学者吉田東伍の次男として新潟県新津市に生まれました。東京農科大学(現東京農業大学)に入学しましたが体調を崩して一年ほどで退学、その後郷里で療養生活を送りましたが二十四才で他界しました。
大正四年に「音楽界」八月号に琵琶湖周航の歌の原曲となる「ひつじぐさ」を発表しました。ひつじぐさは睡蓮(Water Lily)の和名です。
千秋は音楽や文学に非凡な才能を持っていましたが、この歌が広く歌われていることを知ることもなく病気で夭折してしまいました。惜しいことでした。
作詞が小口太郎 二十才、作曲が吉田千秋 二十才、奇しくも同じ二十才でした。若い二人は青春の一瞬を煌めきましたが、その後二人とも余りに短い生涯を閉じました。しかし、この名曲は百年も愛唱され続けており、今後も歌われることでしょう。