yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

五常訓 伊達政宗

2021-05-29 06:18:25 | 文学
戦国武将、仙台の伊達政宗公は、「五常」について自分流に解釈を加えて人生訓としました。五常とは儒学の徳目で仁、義、礼、智、信のことです。
伊達政宗の五常訓とは下記のようなことです。
 
     仁に過ぎれば弱くなる。
義に過ぎれば固くなる。
礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる。
智に過ぎれば嘘をつく。
信に過ぎれば損をする。
気ながく心穏やかにして、よろずに倹約を用い、金を備うべし。
倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば何の苦もなし。
朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。
今日の行くを送り、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆(しゃば)の御暇 
申するがよし

また、文豪、漱石は『草枕』の冒頭に次のように書いています。

山道を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。

理知だけで割り切っていると他人と衝突するし、個人的な感情を優
先させれば足下をすくわれてしまう。意地を通そうとするとがんじがらめになってしまう。何にせよ世間は生きづらい。
といった意味でしょう。

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西郷どんの愛犬

2021-05-26 06:05:59 | 歴史
東京・上野公園に西郷隆盛の銅像があります。1898年(明治31年)に薩摩出身の吉井友実(よしいともざね)の発案により立てられました。彫像は高村光雲、犬の彫像は後藤貞行、鋳造は岡部雪聲、西郷さんの愛犬は「ツン」という名のメスの薩摩犬でした。この犬は、兎狩りのお供にと、薩摩の前田善兵衛からやっと譲り受けた犬です。薩摩川内市にはツンの銅像があります。明治初期のある日、明治天皇が、西郷の肥満を心配し、東京大学の教授であったお雇いドイツ人医師、テオド-ル・ホフマンを西郷邸に派遣しました。医師は食事療法と散歩を勧めました。西郷は散歩を天皇の指示と思い、日課に散歩を取り入れました。今日でいうダイエットです。西郷は、渋谷を出発して代官山から駒場に至って渋谷にもどる合計4キロメ-トルを散歩しました。愛犬は西郷どんの散歩のお供でした。ところが、西郷どんの愛犬はツンの他にもいたと、作家の柿川鮎子氏が取材して発表しています。それは洋犬で、元徳川将軍家で「お虎」と呼ばれていたメス犬です。徳川将軍家の犬が西郷どんの愛犬になった経緯は残念ながら私には不明です。また、犬の彫像を作るにあたり、洋犬より薩摩犬がふさわしいとされ、急遽、彫像のモデルが探されて、オスの薩摩犬が選ばれました。それが薩摩藩士の子弟で、後に海軍中将になった仁礼景範(にれかげのり)の娘、春の愛犬の「サワ」でした。西郷どんと関係のある犬は、ツン、虎、サワの3匹がいたことになります。春は、後に総理大臣になった斎藤實(まこと)に嫁ぎましたが、訪れた賓客に愛犬を披露したそうです。
 


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12球

2021-05-23 06:07:50 | 文化
友人がクイズ問題を出題してきました。古典的な問題らしいです。答は簡単そうに思えるかも知れませんが、やや難解です。

問題:形や外見の同じ球が12個あります。この中に重さが異なる球が1個だけあります。他より重いか軽いかは不明です。天秤を3回だけ使って、どの球が他の球より重いか軽いかを特定して下さい。

解答:12球に便宜上、番号をつけます。仮に①から⑫とします。まず、12個の球を4個ずつ3つにわけます。

天秤1回目
① ~④と⑤~⑧を比べます。
3通りの結果(下記A、B、C)が出るでしょう。
A、 バランスする。
その場合、⑨~⑫の中にクロがあるとわかります。
そこで天秤2回目。①~③と⑨~⑪を比べます。
バランスすれば、⑫がクロだとわかります。
天秤3回目 ⑫と①を比べ増す。⑫が下がれば⑫が重い。⑫が上がれば⑫が軽いとわかります。
⑨~⑪が下がったかった場合は、⑨から⑪の中に重い球があるとわかります。
天秤3回目 ⑨と⑩を比べます。下がった方が重いとわかります。
 バランスした場合は⑪が重いとわかります。

B. ①~④が重い場合。すなわち、①から④の中に重い1球がある。

天秤2回目 ①~③と⑨~⑪を比べます。下がった方に重い球があるとわかります。
バランスした時は④が重いとわかります。
① ~③が重い時は、
天秤3回目、①と②を比べます。下がった方が重いとわかります。
     バランスした時は、③が重いとわかります。

C. ⑤~⑧が重い。すなわち、⑤から⑧の中に重い1球がある。

天秤2回目 ⑤~⑦と⑨~⑪を比べます。
バランスした時は⑧が重いとわかります。
⑤から⑦が下がった時は、⑤から⑦に重い球があるとわかります。

天秤3回目 ⑤と⑥を比べます。下がったほうが重いとわかります。
バランスした時は⑧が重いとわかります。

以上は、不肖が理解している解答例です。解答は唯一ではなく、複数個あるようです。

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今村 均 大将

2021-05-20 05:58:40 | 歴史
昭和の陸軍大将、今村均(1886~1968)は多くの人に尊敬されています。作家の小島直記氏は次のように書いています。
今村均は大将にまでなった陸軍のエリ-トである。しかし私がこの将軍を心から敬慕する理由は二つある。その一つは、戦後自宅の庭の一隅に三畳位の小屋を建てられ、そこに籠って世捨て人同様の姿で戦没者の冥福を祈ったという人間的姿勢である。
陸軍の大ボス山県有朋は、西南戦争のとき四十歳の中将で政府軍の指揮をとり、文字どおり命の恩人であった西郷隆盛をはじめ多くの若者を戦死させた。それは公務上やむを得なかったとしても、東京に凱旋した翌年、何をしたかといえば、目白に椿山荘という豪邸を構え、天下を睥睨したのである。この山県に比較すれば、今村均の人間的美しさがよくわかる。
第二はその自伝のすばらしさだ。ここにいう自伝とは『今村均回顧録』と『続 今村均回顧録』の二冊である。これはオ-ルド・ニッポン最強最大の組織体の中で、知能はいうに及ばず、人間的にも最高の境地に達した人物が、よく澄んだ涙をたたえた眼で、人間と出来事を過不足なくとらえた回顧録である。旧職業軍人の自伝として、石光真清の『城下の人』『曠野の花』
『望郷の歌』『誰のために』の四部作、水野広徳の『剣を吊るまで』『剣を解くまで』の二部作、そして、この今村均の自伝がベスト三だと私は信じている。特に今村自伝は、組織の幹部とはどうあるべきかを教えてくれる点で、現代のトップマネジメントの好参考といえるように思う。

また、作家の半藤一利氏は今村大将について次のように述べています。派閥抗争やら出世争いやら、足の引っ張り合いが日常であった昭和の陸軍という組織の中で、こんなに飾らない人が、よく大将にまで上りつめたものです。戦前戦後を通してブレなかったのはその「正直さ」によるものでしょう。

  小島直記 「逆境を愛する男たち」新潮社
  半藤一利 「半藤一利の昭和史」文藝春秋

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州と洲

2021-05-16 06:06:04 | 文学
さんずい無しの「州」とさんずい有りの「洲」があります。この字は、す、しゅう、しま、なかす 等と読みます。地方の行政区画のこと。中国古代、天下を十二州または九州に分けていたとされます。州が集まって郡、郡が集まって国ともいわれます。日本では、本州、九州、奥州、尾州(尾張)、駿州(駿河)、甲州(甲斐)、房州(上総、下総)、信州(信濃)、紀州(紀伊)などがあり、「北斗の南皆帝州」(帝州は天皇の土地の意味)などとも使われます。アメリカ合衆国の州もテキサス州、カリフォルニア州などと呼ばれます。州の都は州都です。
では、さんずい有りの洲を使った例ですが、直ぐに思いつかない程、意外に少ないのです。 

(1)西郷隆盛の号が西郷南洲(南の孤島、沖永良部島に流罪になったこと  に由来)
(2)関八洲(由来不明。徳川将軍家のお膝元である武蔵、相模、上総、下総、安房、上野、下野、常陸)長谷川平蔵の八洲火付け盗賊改め方が有名です。
なお、畿内は5つの国。四国は四つの国、九州は九つの州。毛利氏は西国11カ国の太守でした。
(3)千葉県館山市の洲崎(すのさき)。由来は地形から。
(4)兵庫県淡路島の洲本(すもと)。由来は地形から。
(5)洲嶼(しゅうしょ)は島の別称。

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今時の若者 石橋幹一郎

2021-05-14 06:04:13 | 文化
作家の小島直記氏は、今時の若者について以下のように述べています。

「近頃の若者はダメだ」という大人がいます。しかし、たとえば、石橋幹一郎(ブリヂストンタイヤ会長)の「すばらしい国民」(『青少年問題』六月号)は、そういう断定の性急さ、一面性を反省させる。昭和49年夏、氏は全文連(全国文化団体連盟)の洋上スク-ルの団長として、サイパン島の日本戦没者慰霊碑に詣でた。一行460名、働く青年男女で、65%が女性である。個人参加の催しなので、夏休みの利用として参加したものが大多数で、嬉嬉そのにぎやかなことはひととおりではなかった。
「慰霊碑の前に集合しても、まったくのガヤガヤで手のつけようがない不安があった。ところが、私が代表としてお花とお酒を捧げ、『黙祷』の声がかかると、それまでの喧噪が一瞬に消え,瞑目した耳に入る音は太平洋の浪音と、耳朶をすぎる風音だけになった。
約1分間、完全な沈黙がそこにあった。私は戦没者への哀悼とともに、大きな感動が胸にみなぎるのを覚えた。あの玩具箱の人形たちのような集団にこのような静粛があることに」
氏はまた、その経営する工場の青年従業員たちが、総合的品質管理(QTC)の導入によって、「参加の誇り」を持ち、自分たちのサ-クルで自発的にとり上げたテ-マに、自ら挑戦し、解決する姿をのべ、「この力が日本の工業製品を世界の最高レベルに高めた最大の要因ではなかろうか」と書いている。
青年はダメだ、という前に、おのれ自身の姿勢を正すこと。これこそ、日本の各界における最喫緊の要務ではないか。
 
     小島直記 「出世を急がぬ男たち」 新潮社
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地球の自転は1年に何回か

2021-05-11 06:06:48 | 科学
「地球は1年に何回自転するか」というクイズ問題があります。実は。日頃この答をあまり考えたことがないのですが。1年の日数である365回と、うっかり答えると失敗なのです。正解は366回です。(地球の自転365回プラス太陽の周りの公転1回、合計366回)
 地球は太陽系の惑星として、太陽を中心に公転しています。公転の開始を太陽が正面に来た時、終了を公転軌道を一周して再度太陽が正面に来た時とします。1年後の正午と言ってもよいかもしれません。このとき、太陽の回りを公転で大きく1周してきたので、自転は1回余計に必要です。つまり、1年間に地球は365日をかけて、366回転して太陽のまわりを回ったのです。
 「そんなぁ」と思いますよね。「どこで1回余計に回ったの?」と疑問をもつかも知れません。
 調べてみましょう。実は地球の自転周期は約23時間56分なんです。
 「え! 1日は24時間じゃないの?」
 1日を24時間と決めたのは太陽が真南を通過してからまた真南に戻ってくるまでの「太陽日」という考え方で、これを1日として24時間と決めているのです。だって、そのほうが生活には便利ですからね。
 実際には、地球は隠れて(ということもないですが)1日に4分余計に回って(自転して)太陽を正面に見ているのです。せっかく1回転(自転)したのに、自分が公転した分、太陽は少し後ろ(東)に行ってしまったのです。だから、4分多く回って正面に持ってくるのです。これが私たちの「1日」で24時間なのです。4分×365日=1460分(24.33時間)からもわかります。

 



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西郷隆盛像(山形県)

2021-05-08 06:14:57 | 歴史
西郷隆盛の像は東京の上野公園にあるのが有名ですが、その他、鹿児島市や
酒田市(山形県)にもあります。(写真 下) その像は、山形県酒田市の南洲公園にあります。左は庄内藩の家老、菅実秀(すげさねひで)で、右は西郷隆盛の対座像です。ところで、なぜ山形県に西郷像があるのか不思議に思われます。

戊辰戦争で庄内藩は、会津藩など東北・北陸の31藩と「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍と戦いました。庄内藩は、北前船で財をなした豪商、本間家の支援もあり、最新の武器をそろえ、秋田藩、新庄藩などを相手に奮戦します。負けることなく、戦況を乗り切りますが時勢には逆らえず、厳しい処罰を覚悟の上で慶応4年(1868年)9月に新政府軍へ降伏を申し出ました。しかし、参謀の黒田清隆より伝えられた庄内藩への処分はきわめて寛大なものであったといいます。 庄内藩家老である菅実秀は明治2年(1869年)のはじめ、新政府軍参謀であった黒田と東京で面会し、その寛大な措置へ感謝の意を伝えました。しかし、黒田は、その指示は自分ではなく、西郷隆盛によるものだといいました。黒田も含め新政府軍の中では庄内藩の反逆の危険性を考え、藩主は隣国の大名などに預けるべきだという意見が多くあった中、西郷は一貫して寛大な措置を指示したというのです。この話をきいた菅は、西郷隆盛が庄内の恩人であることを知り、その懐の広さに感銘を受けたのです。
菅は、この後、明治4年(1871年)に西郷との対面が叶います。この酒田市にある南洲翁・西郷隆盛をまつる「南洲神社」は、長谷川信夫氏が創建しました。彼もまた西郷隆盛の教えに学び、それを心の支えとし、憧憬を寄せた一人です。長谷川氏は、昭和44年(1969年)に岩波文庫版の「南洲翁遺訓」を私費で頒布し、没する前年には、その数は2500冊に達しました。昭和51年(1976年)には「財団法人荘内南洲会」を設立し、翌年にこの南洲神社を創建。境内には「敬天愛人」を刻んだ石碑のほか、西郷隆盛と菅実秀の対座像などがあります。また、南洲会館、南洲文庫も運営され、南洲翁に関する遺墨、遺品、研究資料をはじめ、明治維新関連の資料や庄内出身の偉人傑士の書画など数多くが収蔵されています。





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独逸日記 森鷗外

2021-05-05 06:04:39 | 文学
森鴎外は明治14年20歳で東京大学医学部を卒業、陸軍軍医副(中尉相当官
)となり、17年23歳の時、衛生制度調査ならびに軍隊衛生学研究のためドイツ留学を命ぜられた。このドイツ行について、東京出発の日からベルリン到着の日までを漢文で書いたのが『航西日記』であり、ベルリン到着以後を雅文体で書いたのが『独逸日記』である。
食事がはじまり、ナウマン(招待客の一人)がスピ-チに立つ。「余は久しく東洋にありしが、仏教には染まざりき。(その理由は)、仏の曰く、女子には心なしと。貴婦人よ、余はこれを信じること能わず。余の仏教に染まざりしはこれがためなりと」鴎外はおどろき、かつよろこぶ。演説は反論を許されなかったが、「酒間の戯語は弁ずべし」。鴎外はロオト(主催者)に発言を求め、ロオトは会長につげ、会長も承諾。鴎外は起って演説する。「在席の人々よ、余が拙き独逸語もて、人々殊に貴婦人の御聞に達せんとするは他事に非ず。余は仏教中の人なり。仏者として演説すべし。・・・それは仏とは何ぞや。覚者の義なり。経文中、女人成仏の例多し。これ女人もまた覚者となるなり。女人すでによく覚者となる。あに心なきことを得んや。貴婦人方よ、余はいささか仏教信者のために冤を雪ぎ、余が貴婦人方を尊敬することの、決してヤソ教徒に劣らざることを証せんと欲するのみ。請うらくは人々よ、余とともに杯をあげて婦人の美しき心のために傾けられよ」 言葉がまだおわらぬうちに、一等軍医エエルスはその夫人とともに鴎外のそばにきていう。「荊妻婦人の総代となり、君の演説を謝す」
「その他一等軍医バアメル、キルケ等みな余が演説を賞す。余の快知るべし。ロオト笑を含めて曰く、Immer Verschmitz!」

明治時代、ドイツの社交場においてドイツ語でこのように堂々と日本文化について演説ができた立派な日本人がいたことに敬意をいだき誇りに思います。 

    小島直記 「出世を急がぬ男たち」新潮社


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自伝 新田次郎

2021-05-02 06:08:46 | 文学
作家の故・新田次郎の作品に「小説に書けなかった自伝」があり、2012年に出版されました。小説を書くようになった「そもそもの動機は『筆の内職(アルバイト)』をしたいということから発生した生活上の要求であって、文学とか小説とかいうものとはなんのかかわりもない出発だった」「サンデ-毎日」の懸賞小説に応募しようとおもった。一等は二十万円、「昭和26年の二十万円は現在の五百万円ほどの価値があった」。玄人も競争相手になることが予想される。「玄人と勝負して勝つには、まずその手の内を研究せねばならない。流行作家の小説を原稿用紙にそのまま書き写してみた」 新田次郎は、中央気象台の課長補佐だったがつとめをおえて、その筆写を毎晩つづけるのは大変な苦労だった。しかし、これをやってみて、「既成作家がそれほど恐るべき競争相手ではないと思った」、「私は私で好きなように書けばいいのだと分かると、もうなにものにも恐れなかった」。「強力伝」八十枚を書き、それが一等当選した。

新田次郎氏は62歳の時、アラスカ取材旅行を綿密に行い「アラスカ物語」を書きあげた。
作家の小島直記氏から見て新田次郎氏の作品、自伝は何を語っているか。小島氏曰く、「それは要するに、『モトデをかけない仕事にホンモノはない』ということだ。インスタント作家はもって肝に銘ずべきであるが、しかしこの教訓はなにも小説の世界だけに限る話ではない」。
 
 参考  新田次郎「小説に書けなかった自伝」新潮文庫
 小島直記 「出世を急がぬ男たち」新潮社



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