yoshのブログ

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「管見」 山本覚馬

2024-04-03 05:40:36 | 歴史
幕末の会津藩士、山本覚馬は、山本八重(新島襄夫人)の実兄です。八重より17才年長で、藩公の京都守護職就任に随行して京都に滞在中に、「管見」という文を著しました。拙い見解のことを「管見」というのですが、これは謙遜であり、覚馬の「管見」は、実は驚くような卓見であり、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、岩倉具視は、一読して深く感嘆し、明治政府でこれの実現を目指しました。覚馬は眼が不自由であったので上京しませんでしたが、京都府庁に出仕して、幕末動乱後の京都の発展に尽力しました。
 覚馬は、青年時代に江戸に遊学し、佐久間象山に洋学・砲術を学び、蘭学・英学を極めました。後年には読書から、あるいは西周・津田真道・神田孝平らの新進の学者と交わって、西洋の事情に通じ、国士ともいうべき諸藩の名士と往来し、その思想は実に当時の封建思想を超えていました。「管見」には、専ら対外的見地から政見が述べられています。

近年、防衛省の防衛研究所(東京)に、この原本が保存されていたことがわかりました。この事は政府において重要文書と認識されていたことを意味しているのです。
 「管見」は、延々数万言、次の23項目について論じていました。すなわち、政権・議事院、学校、変制、撰吏、国体、建国術、製鉄法、貨幣、衣食、女学、平均法、醸造法、条約、軍艦国律、港制、救民、髪制、変仏法、商律、時法、暦法、官医 などです。
日本の近代化の方策を具体的に述べたもので、その根幹は殖産興業を中心とする物づくりと教育による人づくりでした。当時、誰もが発想もしなかった女子教育にまで話が及んでいる先見性が特長です。  
次のようなエピソ-ドもあります。義弟の新島襄が同志社大学の建地を探していた時に、今出川の広大な薩摩藩邸の跡地を紹介しました。西郷隆盛が、かつて、覚馬に「好きに使ってよか」と許可していたというのでした。同志社大学の設立には西郷と覚馬の恩恵が大きく関わっています。

早乙女貢 「明治の兄妹」 新人物往来社


日本の近代化の方策を具体的に述べたもので、その根幹は殖産興業
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