yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

高適 除夜の作 霜鬢明朝又一年

2022-12-31 06:27:07 | 文学
毎年、大晦日になると決まって想い起こす漢詩、除夜の作(高適)です。

旅館の寒燈獨り眠らず 
客心何事ぞ轉(うた)た凄然
故郷今夜千里を思ふ 
霜鬢明朝又一年

詩人 高適(こうせき)は四川省成都に流浪して来た杜甫を温かく援助し親交を結びました。晩年は不遇でした.

結句 霜鬢明朝又一年    
白髪に又 一年がむなしく加わる、にしみじみとしたものを感じます。

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飯沼貞吉

2022-12-28 06:24:27 | 歴史
飯沼貞吉(いいぬまさだきち)は、会津戦争に備え、16歳・17歳の少年たちを中心に組織された部隊が白虎隊員で、
中には13歳の幼い少年までも参加していました。白虎とは中国の伝説にある  
 方角を司るという霊獣である四聖獣の、北・玄武、南・朱雀、東・青龍、
西・白虎から用いられたものです。そのため会津藩では白虎隊の他にも玄武隊・朱雀隊・青龍隊も組織されていました。白虎隊は士中隊・寄合隊・足軽隊の約340名によって編制されました。しかし、装備された銃などの武器は旧式のものばかりであり、近代兵器を装備した新政府軍に対抗できる戦力には到底成り得なかったのです。それにもかかわらず、新政府軍によって逆賊の汚名を着せられた松平容保と会津藩は、もはや新政府への恭順の道も閉ざされ、藩の名誉と存亡を賭けた戦いへと突入していきました。

「白虎隊士たちの自刃の真実と、会津戦争を生き残った白虎隊士・飯沼貞吉のその後の生涯について」

これまで語り継がれてきた飯盛山で白虎隊士が自刃した理由は、会津藩の拠点である鶴ヶ城(若松城)とその城下周辺から戦闘によって上がった炎や煙を飯盛山から目撃した隊士たちが、それを城が陥落したためだと誤認し、絶望するとともに、会津藩への忠義から自ら命を絶ったとされています。つまり衝動的な感情による集団自殺とされているのです。しかし実際には鶴ヶ城はまだこの時点では陥落しておらず、会津藩降伏までには1ヶ月を要しています。この時に実に19名が命を落とし、喉を突いて自刃を図った飯沼貞吉だけが命を取り留めていました。その飯沼貞吉は、出発に先立って母から下記の一首をもらい、大いに喜び、短冊を軍服の襟に縫い込み決意を新たにして出陣しています。

 梓弓向ふ矢先はしげくとも引きな返しそ武士(もののふ)の道

しかし、この飯盛山の自刃から命を取り留めていたとされる白虎隊士・飯沼貞吉が残していた手記によると、これとは異なる真相が語られています。飯沼貞吉の証言から記された記録に飯沼が自ら修正を加えた「白虎隊顛末略記(びゃっこたいてんまつりゃっき)」には、白虎隊士の自刃は鶴ヶ城陥落による絶望という衝動的な自殺ではないと記されています。むしろ会津藩はまだ敗北していないことを信じていたというのです。そこでは隊士たちの間で、城に戻り鶴ヶ城を死守するために戦うことを主張する者、または最前線に乗り込み玉砕するまで抗戦することを主張する者とで激論が交わされたといいます。しかし、戦いで戦力を失い負傷し、命からがら飯盛山まで落ち延びてきた自分たちが参戦したところで、もとより負けを覚悟の上の戦いでしかない。武士として会津の足手まといになることを恥とし、少年たちは武士の本分なるものを明らかにするため、自ら自刃の道を選んだというのです。
自刃の後、会津藩士である印出新蔵(いんでしんぞう)の妻・ハツは飯盛山でまだ息のあった飯沼貞吉を見つけて救出したといわれています。ハツの介抱により一命を取り留めた貞吉は、後に新政府軍に捕らわれの身となりますが、会津と敵対していた長州藩士である楢崎頼三(ならさきらいぞう)に見込みがあるということで引き取られ、長州・長門国(現・山口県美祢市)の庄屋(高見家)に預けられ庇護されました。しかし、会津藩の少年を長州で庇護することは会津・長州双方にとって都合が悪かったのです。そこで会津では貞吉の母にのみにその事実を知らせ、長州でも楢崎の他には高見はじめごく限られた者以外にはこのことを隠したのです。
生き残った貞吉は飯盛山で自刃した仲間と共に死ぬことが出来なかった自分をゆるすことができず、その後も自殺を図るなど自ら命を絶つことを考える日々でしたが、それを思い止まらせたのも楢崎頼三だったといいます。
楢崎は「今の日本は諸外国からの脅威にさらされている。もはや会津や長州といって争っている時ではない。これからの日本は皆が心を一つにしてこの国を豊かで強い国にしていかなくてはならない。そして貞吉、その中心となるのはお前たち若者なんだぞ。貞吉、助けてもらった命を大事にしなさい。そして、これからの日本のために勉強しなさい」と言いました。それを聴いた貞吉は、生まれ変わったように勉学に励んだといいます。そして貞吉は名を「貞雄」と改名しました。
その後、飯沼貞雄は電信技師となり、東京の工部省技術教場、下関の赤間関、新潟の逓信省(郵便・通信を管轄する中央官庁)など各地での勤務を経て、日清戦争には大本営付の技術部総督として出征もしています。それから札幌郵便局工務課長、仙台逓信管理局工務部長に就任するなど、近代日本における電信電話の技術発展に大きく貢献しました。1931年(昭和6)2月12日、飯沼貞吉(貞雄)は宮城県仙台市にて77年の生涯に幕を閉じました。

飯盛山での白虎隊士自刃の真実は貞吉の残した記録にあったのか、それとも己に言い続けたのかは不明です。しかし彼がただ一人蘇生したために、白虎隊士が自刃に到った経緯が後生に伝えられることになりました。彼は戊辰戦争のことについては一切語ることなく、死に後れた辱めに耐えつつ苦しみの多い生を全うし、次の辞世を残しました。
すぎし世は夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそ知れ
白虎隊の友に遅れること六十三年にして、彼の遺骨は友の待つ飯盛山に埋葬されました。
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早春賦  吉丸一昌

2022-12-25 06:41:33 | 文学
名歌「早春賦」は、吉丸一昌が作詞しました。中田章作曲です。
この曲は、長野県安曇野の早春をうたっています。

一、春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず
二、氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空

三、春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か 
 

吉丸一昌は豊後国、臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれました。小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどでした。1889年大分中学に入学、1854年卒業。
その後第五高等学校に進学しました。教授に夏目漱石、湯原元一、小泉八雲などがおり、当時剣道に熱中しました。1898年、第五高等学校を卒業した吉丸は東京帝国大学国文科に進学。下宿先で「修養塾」という私塾を開き、その後生涯に渡り、地方からの苦学生と生活を共にして衣食住から勉学、就職に至るまでを世話しました。1902年、帝国大学を卒業し、東京府立第4中学校へ教師として赴任。当時の教え子の中には芥川龍之介もいました。また、この時、私財を投じて下谷中等夜学校を創立しました。そして1908年、東京音楽学校の校長に就任した恩師湯原元一は、吉丸を同校の倫理、歌文、国語の教授に抜擢ましした。吉丸はまた、同校の生徒監に任命されました。
1911年から1914年にかけて発行された、『尋常小学唱歌』編纂委員会の歌詞担任委員主任になって以降、本格的に作詞家としての仕事に取り組みました。『尋常小学唱歌』の歌詞編纂に際し、その多くを作詞したという伝聞のある高野辰之よりは、責任の高い位置にありまた。尋常小学唱歌の題名原案を作成したのは吉丸である。後に臼杵音楽連盟会長の吉田稔が吉丸についての研究を行い、『望郷の歌 吉丸一昌』(臼杵音楽連盟刊)を出版しました。その後も、尋常小学唱歌の中の「桃太郎」(作曲 岡野貞一)、「日の丸」、「池の鯉」、「かたつむり」などが吉丸の作詞であることを論証しました。ただし、これらの作詞者については異説もあります。





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神田川 

2022-12-22 06:30:47 | 文学
神田川(かんだがわ)は、東京都を流れる一級河川で、荒川水系の支流です。井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して東へ流れ、台東区中央区を経て墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流します。流路延長24.6km、流域面積105.0km2と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず、全区間にわたり開渠であることは極めて稀です。
フォークグループ「かぐや姫」の楽曲「神田川」になり、ミリオンセラ-となったほど有名であり、不肖にとっても青年時の境涯と重なる処があって愛唱歌の一つです。
歌詞は次の通りです。

    神田川
  貴方はもう忘れたかしら
  赤い手拭マフラ-にして
  二人で行った横町の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った
貴方は私の身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方の優しさが 怖かった

貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレバス買って
貴方が書いた私の似顔絵
巧く書いてねって 言ったのに
いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の 指先見つめ
悲しいかいって きいたのよ
若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

1973年、喜多條忠(きたじょうまこと)氏は歌詞を発想し、手許のチラシの裏に書きとめました。僅か30分程度でした。電話で南こうせつ氏に伝えると、こうせつさんが5分後にはギタ-で曲をつけ終えました。歌詞に詠まれたのは喜多條氏自身の恋。東京・早稲田の学生街にある狭いアパ-トで同級生の女性との暮しでした。曲はミリオンセラ-となりましたので、南は「天から授かった曲」と言っています。
横町の風呂屋「安兵衛湯」は、今は廃業しているとのことです。三畳一間の下宿と神田川と言われている写真例は下です。
第24回の紅白歌合戦(1973)に出演候補になった際に、「24色のクレバス」が特定商標にあたるとNHKに言いがかりのようなクレ-ムをつけられ、「24色のクレヨン」に変更することを求められたのですが、レコ-ド会社はそれを拒否しました。その結果「神田川」の曲は紅白出場を逃しました。しかし、その19年後の第43回紅白歌合戦(1992)には出場を果たし、初出場の南こうせつ氏がソロでこの「神田川」を歌いました。自由奔放に生きた無頼派の詩人・放送作家の喜多條氏は2021年11月22日に74歳で他界されました。ご冥福を祈ります。


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幕末の三舟

2022-12-19 06:15:46 | 歴史
山岡鉄舟 (1836~1888)
剣の達人で剣禅一如を唱えました。書も能くし、勝海舟らと徳川氏存続のために奔走し、静岡で西郷隆盛と会見、ここで山岡鉄舟の至誠が西郷を動かし、江戸城の無血開城の基をつくることになりました。維新後は明治天皇の侍従となりました。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が山岡鉄舟を指して語った言葉といわれています。

高橋泥舟 (1835~1903))
山岡市郎右衛門の次男ですが母の実家、高橋家に養子に行きました。泥舟は後年の号です。山岡家は槍の自得院流の名家で百石取り、精妙を謳われた長兄山岡紀一郎静山とともに槍を修行し、海内無双と呼ばれ、まさに神業に達したとの評を得るほどでした。妹の英子の婿養子に小野鉄太郎を迎えましたが、これが義弟山岡鉄舟です。泥舟は明治元年の江戸城の開城後も慶喜を護衛しました。新政府任官の誘いには、
「総理大臣にならなってもいいが」
と、断ったと言います。主君の前将軍が二度と世に出られない以上、自分は官職に上り新しい栄達や叙爵を求める事はできないという姿勢を貫きました。号の「泥舟」の由来を聞かれて、自分は狸ではないので、泥で作った舟などで、うかうかと海に漕ぎ出さぬ方が良いと、「かちかち山」の例を引いてとぼけたとのことです。

木村芥舟 (1830~1901) 
江戸浜御殿奉行の子として生まれました。幕臣で名は喜毅。1856年に目付に就任し、長崎伝習所の監督となり、1859年、軍艦奉行に任じられました。翌年、アメリカへの使節派遣で、提督として咸臨丸に乗り込みました。帰国後、海軍の発展に努力するも、幕府解体とともに引退しました。「忠臣は不事二君、前朝の遺臣は新王朝に仕えず」
と、言って、新政府に任官しませんでした。
高橋泥舟と木村芥舟は風景の似た人物です。 


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前朝の遺臣は二君に仕えず

2022-12-16 06:25:15 | 歴史
「忠臣不事二君」という言葉があります。前朝の遺臣は新王朝に仕えないという意味です。幕臣で明治政府に任官しなかった人々。代表的なのが福沢諭吉、古賀謹堂、そして高橋泥舟、木村芥舟、栗本鋤雲、箕作阮甫などですが、皆、清貧で、潔くさわやかな生涯を送りました。これらの人物と対極にあったのが勝海舟と榎本武揚です。後年、福沢諭吉が「丁丑公論」において勝海舟等を公然と非難したのは良く知られています。勝海舟は、「行蔵(出処進退)は我に存す、毀誉(他人の論評)は我に与らず、関せずと存じ候。」すなわち、己の行動はおのれの責任、自分への評判は自分があずかり知らないことである、という意味でしょう。わかりにくい釈明であり、不肖には誠実な応答をしているとは思えません。
福沢諭吉は榎本武揚に対しても公然と批判をしました。澁澤榮一の元主君はやはり、徳川慶喜公であり、榮一は新政府の財政を担当しましたが、その功績があまりに偉大であったためか、二君に仕えたと非難されたという話は聞きません。

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椰子の実

2022-12-13 06:28:58 | 文学
明治31年(1898年)の夏、東京帝大の2年だった柳田國男(後に民俗学者)は愛知県渥美半島の突端の伊良湖岬に1か月滞在しました。岬に隣り合う恋路が浜で、風の強かった翌朝に黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ流れ着いたのを発見しました。そして岬付近の潮の流れから見て「日本民族の故郷は南洋諸島である」と確信し、これを親友の島崎藤村に話しました。この浜を訪れたわけでもない藤村は、この話から詩想を得て、椰子の実の漂泊の旅に己の憂を重ね、名詩「椰子の実」を詠みました。
 流れ着いた、たった一つの椰子の実から、民族学者は日本民族の起源を思い、文学者は名詩を着想しました。
  
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の 岸をはなれて
汝(なれ)はそも 波にいく月

旧(もと)の樹(き)は 生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた 渚を枕 
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
あらたなり 流離の憂ひ
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる 八重の汐々(しほじほ) 
いづれの日にか 国に帰らむ

後に、昭和11年 日本放送協会の依頼で大中寅二が曲を付けて以来、「国民歌謡」として
広く親しまれ、日本の抒情歌謡の代表的な作品になったばかりでなく、伊良湖岬の名も有名
なりました。
なお、藤村の詩の最後の句、「いづれの日にか 国に帰らむ」は杜甫の漢詩「絶句」にある「何レノ日カ 是レ帰年ナラン」と同趣です。

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森保監督 ピッチで答礼

2022-12-10 06:21:45 | 文化
去る12月6日、FIFAワ-ルドカップ カタ-ル大会において、日本・クロアチア戦があり、残念ながら日本は敗れましたが、その直後、日本代表監督の森保一氏は、ピッチにおいて、スタンドで応援してくれたファンに対して、感謝の気持ちこめて6秒間、90度に身体を曲げ深々と頭を下げました。(写真 下)この行為に対して、英国、韓国などの世界のメディアは、敬意をこめて称賛しました。不肖もこの写真に感動しました。森保監督(54歳)は、静岡県掛川市の出身で、長崎市で育った元・サッカ-日本代表で、現在日本代表チ-ムの監督を務めておられます。日本にこのように折り目正しい監督がいることを誇りに思います。12月7日夕刻には吉田主将らと共に胸を張ってカタ-ルから成田空港に帰国されたニュ-ス映像を見て安堵しました。お疲れ様でした。


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狂狷(きょうけん)

2022-12-07 06:15:56 | 文学
「論語 子路編」に狂狷という言葉があります。

子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也
  
「読み方」

子曰ク、中行(ちゅうこう)ヲ得テコレニ與(くみ)セズンバ、必ラズヤ狂狷カ。狂者ハ進ミテ取リ、狷者ハ為(な)サザル所也(あ)リ


        「訳」

先生が言われた、「中庸の人をみつけて交われないとすれば、せめては狂者か狷者だね。狂の人は大志を抱いて進んで求めるし、狷の人は節義を守って、やらないことを残しているものだ。」
 *「註」狷とは「心が狭い。頑固であるが、不義を行わないこと」の意。

 「鑑賞」

一つの問題をじっと見ていると、視野が狭まり、思考が行き詰まる。そういう時はほとぼりをさますため、しばし忘れ、放置しておくこと。中心から周辺部にいったん移すのだ。思考の縛りが解けて、他のアイデアとの思いがけない繋がりが閃光のように浮かぶこともある、と識者はいいます。狂狷より中庸が勝る場合も多いのですが。

           金谷治訳註 「論語」 岩波文庫



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陽関三畳 王維

2022-12-04 13:57:42 | 文学
初唐の詩人、王維は、使者の役目を帯びて安西に旅立つ元二(げんじ)を「陽関三畳」を詠んで送りました。以来、送別の時には、王維のこの詩を三度繰り返して詠うのがならわしとなったというように、代表的な送別の詩です。

 送元二使安西

渭城朝雨浥軽塵 
客舎青青柳色新
勧君更尽一杯酒
西出陽関無故人


         「読み方」

元二ノ安西ニ使イスルヲ送ル

渭城ノ朝雨 軽塵ヲ浥(うるお)シ 
客舎青青 柳色新タナリ
君に勧ム 更ニ尽クセ一杯ノ酒
西ノカタ陽関ヲ出ヅレバ 故人無カラン

「訳」
        別れの朝、渭城の町は夜来の雨が軽い土ぼこりをしっとりとうるおしている。
        旅館の前の柳は芽吹いたばかり。ほこりが洗い落とされ、水をふくんで、よりいっそう青々と見える。
        いよいよ旅立つ元二君、さあ、もう一杯酒をのみたまえ。西のかた、陽関という関所を出たならば、もういっしょに酒を汲み交わす友達もいないのだから。


 「鑑賞」

       前半二句は、すがすがしい雨上がりの春の情景。昨夜、長安から元二を送ってこの渭城の町にきて、別れの宴を催し、今朝はいよいよお別れ。宿屋の前の柳の芽は雨に洗われて目にしみるように青々としている。中国では昔から送別の時、楊柳の枝を手折って環を作り、それを旅人に送って旅の平穏を祈るならわしがあり、柳は別れの詩によく登場します。
       後半二句、昨夜は遠く旅立つ元二と心ゆくまで酒を飲んだ。だが、いよいよ別れの間際となれあ、また寂しさがこみ上げてくる。そこでせめてもう一杯。ひとたび西の陽関を出れば、そこは砂漠が広がる未知の世界。もう一緒に酒を酌み交わす友もいないだろう。
       
石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 


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