飯沼貞吉(いいぬまさだきち)は、会津戦争に備え、16歳・17歳の少年たちを中心に組織された部隊が白虎隊員で、
中には13歳の幼い少年までも参加していました。白虎とは中国の伝説にある
方角を司るという霊獣である四聖獣の、北・玄武、南・朱雀、東・青龍、
西・白虎から用いられたものです。そのため会津藩では白虎隊の他にも玄武隊・朱雀隊・青龍隊も組織されていました。白虎隊は士中隊・寄合隊・足軽隊の約340名によって編制されました。しかし、装備された銃などの武器は旧式のものばかりであり、近代兵器を装備した新政府軍に対抗できる戦力には到底成り得なかったのです。それにもかかわらず、新政府軍によって逆賊の汚名を着せられた松平容保と会津藩は、もはや新政府への恭順の道も閉ざされ、藩の名誉と存亡を賭けた戦いへと突入していきました。
「白虎隊士たちの自刃の真実と、会津戦争を生き残った白虎隊士・飯沼貞吉のその後の生涯について」
これまで語り継がれてきた飯盛山で白虎隊士が自刃した理由は、会津藩の拠点である鶴ヶ城(若松城)とその城下周辺から戦闘によって上がった炎や煙を飯盛山から目撃した隊士たちが、それを城が陥落したためだと誤認し、絶望するとともに、会津藩への忠義から自ら命を絶ったとされています。つまり衝動的な感情による集団自殺とされているのです。しかし実際には鶴ヶ城はまだこの時点では陥落しておらず、会津藩降伏までには1ヶ月を要しています。この時に実に19名が命を落とし、喉を突いて自刃を図った飯沼貞吉だけが命を取り留めていました。その飯沼貞吉は、出発に先立って母から下記の一首をもらい、大いに喜び、短冊を軍服の襟に縫い込み決意を新たにして出陣しています。
梓弓向ふ矢先はしげくとも引きな返しそ武士(もののふ)の道
しかし、この飯盛山の自刃から命を取り留めていたとされる白虎隊士・飯沼貞吉が残していた手記によると、これとは異なる真相が語られています。飯沼貞吉の証言から記された記録に飯沼が自ら修正を加えた「白虎隊顛末略記(びゃっこたいてんまつりゃっき)」には、白虎隊士の自刃は鶴ヶ城陥落による絶望という衝動的な自殺ではないと記されています。むしろ会津藩はまだ敗北していないことを信じていたというのです。そこでは隊士たちの間で、城に戻り鶴ヶ城を死守するために戦うことを主張する者、または最前線に乗り込み玉砕するまで抗戦することを主張する者とで激論が交わされたといいます。しかし、戦いで戦力を失い負傷し、命からがら飯盛山まで落ち延びてきた自分たちが参戦したところで、もとより負けを覚悟の上の戦いでしかない。武士として会津の足手まといになることを恥とし、少年たちは武士の本分なるものを明らかにするため、自ら自刃の道を選んだというのです。
自刃の後、会津藩士である印出新蔵(いんでしんぞう)の妻・ハツは飯盛山でまだ息のあった飯沼貞吉を見つけて救出したといわれています。ハツの介抱により一命を取り留めた貞吉は、後に新政府軍に捕らわれの身となりますが、会津と敵対していた長州藩士である楢崎頼三(ならさきらいぞう)に見込みがあるということで引き取られ、長州・長門国(現・山口県美祢市)の庄屋(高見家)に預けられ庇護されました。しかし、会津藩の少年を長州で庇護することは会津・長州双方にとって都合が悪かったのです。そこで会津では貞吉の母にのみにその事実を知らせ、長州でも楢崎の他には高見はじめごく限られた者以外にはこのことを隠したのです。
生き残った貞吉は飯盛山で自刃した仲間と共に死ぬことが出来なかった自分をゆるすことができず、その後も自殺を図るなど自ら命を絶つことを考える日々でしたが、それを思い止まらせたのも楢崎頼三だったといいます。
楢崎は「今の日本は諸外国からの脅威にさらされている。もはや会津や長州といって争っている時ではない。これからの日本は皆が心を一つにしてこの国を豊かで強い国にしていかなくてはならない。そして貞吉、その中心となるのはお前たち若者なんだぞ。貞吉、助けてもらった命を大事にしなさい。そして、これからの日本のために勉強しなさい」と言いました。それを聴いた貞吉は、生まれ変わったように勉学に励んだといいます。そして貞吉は名を「貞雄」と改名しました。
その後、飯沼貞雄は電信技師となり、東京の工部省技術教場、下関の赤間関、新潟の逓信省(郵便・通信を管轄する中央官庁)など各地での勤務を経て、日清戦争には大本営付の技術部総督として出征もしています。それから札幌郵便局工務課長、仙台逓信管理局工務部長に就任するなど、近代日本における電信電話の技術発展に大きく貢献しました。1931年(昭和6)2月12日、飯沼貞吉(貞雄)は宮城県仙台市にて77年の生涯に幕を閉じました。
飯盛山での白虎隊士自刃の真実は貞吉の残した記録にあったのか、それとも己に言い続けたのかは不明です。しかし彼がただ一人蘇生したために、白虎隊士が自刃に到った経緯が後生に伝えられることになりました。彼は戊辰戦争のことについては一切語ることなく、死に後れた辱めに耐えつつ苦しみの多い生を全うし、次の辞世を残しました。
すぎし世は夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそ知れ
白虎隊の友に遅れること六十三年にして、彼の遺骨は友の待つ飯盛山に埋葬されました。