後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
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太平洋戦争は客観的に見れば、やっぱり日本軍のアジア諸国の侵略戦争です

2014年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム
自虐史観も自慰的な自己弁護の歴史観もどちらもいけません。
もっと虚心坦懐に、そして冷静に開戦の時の御前会議の議事録など<wbr></wbr>を読み返すべきです。
その議事録にはアジアの解放戦争なんて一切書いてありません。
昨日のFace Bookで、会員の横川 和門さんが侵略戦争だったことを
明快に説明して下さいました。
あまりにも明快な説明なので以下に再掲載しますのでお読みくださ<wbr></wbr>い。
====横川 和門 さんから頂いたコメント===========
客観的に淡々と判断すれば、太平洋戦争は日本による侵略から始ま<wbr></wbr>りアメリカによって敗けた戦争ですね。

あの戦争がアジア解放の為の戦争ではなかった事は既にあらゆる面<wbr></wbr>から証明されています。...

天皇の名前で出した開戦の詔勅にもアジア解放のアの字も出てきま<wbr></wbr>せん。

当時の日本の国策は、アジアから西欧列強を追い出して日本が新し<wbr></wbr>い支配者になる事でした。
当時の政府の文書にはっきりと書いてあります。

昭和15年7月の四相(首相、外相、陸相、海相)会議で決めた政<wbr></wbr>策大綱に「英、仏、オランダ、ポルトガル植民地を東亜新秩序の内<wbr></wbr>容に包含せしむる為の積極的処理」とあります。

東亜新秩序とは日本を支配者としたアジア、積極的処理とは武力に<wbr></wbr>よる侵略です。

そして更に「八紘一宇の皇道に基づき、帝国補導のもとに」「軍事<wbr></wbr>、外交、経済等の全般にわたり、帝国の強力なる把握下に置かるべ<wbr></wbr>き」などと、アジア諸国を日本の植民地、傀儡国にして、それまで<wbr></wbr>貿易で手に入れていた石油などの重要資源を武力で奪うとあります<wbr></wbr>ね。

アジア諸国は戦後独立を果たしましたが、日本が勝っていたら日本<wbr></wbr>の植民地、属国になっていた可能性は否定できません。
日本が負けたお陰で独立出来たのです。

日本のアジア支配の為に邪魔になる米英を叩いておこう、と始めた<wbr></wbr>のが太平洋戦争でした。

天皇を中心とする御前会議の決定が文書として残っています。
そして日本が南方を侵略している時にアメリカ太平洋艦隊が横から<wbr></wbr>出てきて邪魔しないようにとあります。それゆえに、こちらから出<wbr></wbr>掛けていって米太平洋艦隊を叩きつぶしたのがあの真珠湾攻撃でし<wbr></wbr>た。

もしアジア解放が目的だったら、先ず日本自身が台湾、満州、海南<wbr></wbr>島を中国に返し、朝鮮を再独立させ、中国・仏印から撤兵しないと<wbr></wbr>いけません。

開戦後、日本軍が占領したところでは初めは解放者として迎えられ<wbr></wbr>たケースもありましたが、日本軍は拙劣で暴力的な支配を行い、現<wbr></wbr>地経済を崩壊させ、物資を収奪し、反抗するものは拷問、虐殺、、<wbr></wbr>、フィリピンやインドネシアでは日本の兵隊に会ったらお辞儀しろ<wbr></wbr>という命令まで出しています。

フィリピンでは日本占領3年の間に物価が100倍に高騰、元々貧<wbr></wbr>しかった住民は益々困窮しました。

比較的うまくいったと言われるビルマですら、日本の利権漁りの余<wbr></wbr>りのひどさにビルマ方面担当の第十五軍司令官・鈴木祥二郎中将は<wbr></wbr>「これでは大東亜共栄圏も聖戦もあったものではない」と書いてい<wbr></wbr>ます。

また、シンガポールを占領した山下奉文司令官は天皇誕生日に現地<wbr></wbr>住民に訓示した、「このたび新たに大日本帝国の臣民となったマレ<wbr></wbr>ー住民と共に聖寿をことほぎ奉り得る事は本職の衷心より欣快とす<wbr></wbr>るところである。マレー、スマトラの民衆はよろしく光輝ある帝国<wbr></wbr>の新しい民である光栄に感激し、帝国の尊厳なる国体を意識してそ<wbr></wbr>れぞれその生業に励むべし」まぁ、征服者意識丸出しですね。

そして「独立」と言っても実情は日本の武力を背景にした傀儡政権<wbr></wbr>でした。それが証拠に、昭和18年11月に東條が東京で行った大<wbr></wbr>東亜会議に参加した政権はすべて日本の敗戦と同時にあっと言うま<wbr></wbr>に消えてしまった。元々民衆の支持のない薄っぺらいものでした。<wbr></wbr>大東亜会議に招請された「国」は以下の通り。

中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長
日本軍がでっち上げた傀儡政権。日本敗戦の翌日に消滅。日本はこ<wbr></wbr>んな事をやって蒋介石の国民政府を弱体化し、結果的に毛沢東の共<wbr></wbr>産軍を助けて中国の共産化に寄与してしまった。

満州国:張景恵国務総理大臣
言わずと知れた関東軍の傀儡政権。日本敗戦と同時に消滅。張景恵<wbr></wbr>は戦後中国で国賊として獄中で死亡。皇帝の溥儀は投獄。

フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領
日本が作ったフィリピン第二共和国の大統領。日本敗戦の二日後解<wbr></wbr>散。日本へ逃げていたラウレルは帰国後、国賊として逮捕。

ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣
日本軍がでっち上げたビルマ国は日本降伏とともに消滅。バー・モ<wbr></wbr>ウは日本に逃げていたが帰国後国賊として逮捕。

タイ王国:ワンワイタヤーコーン親王
大東亜会議には元首を送らずにこの王子を送ってごまかした。
タイ政府は日本軍に脅かされて日タイ攻守同盟を結び連合国に宣戦<wbr></wbr>布告。同時に裏で連合国と手を結んだ。この二重外交のお陰で戦後<wbr></wbr>の訴追を免れた。

自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース
この政府は戦後たちまち消滅。

シンガポールやインドネシア、マレーは占領して二年近くになるの<wbr></wbr>に形だけすら独立させていませんでした。

という事で、戦後アジア諸国が独立を果たしたのは「日本のお陰」<wbr></wbr>ではなくて「日本が負けたお陰」でした。

日本が勝っていれば日本の属国、傀儡国、植民地になっていました<wbr></wbr>。それが当時の日本の国策だったのです

フィリピンについては元々、アメリカが独立させる予定でしたし、<wbr></wbr>日本の独立承認ってのは意味が薄いです。

米軍が迫るとマニラ蜂起で日本に犯行してる程です。
日本が形の上でインドネシアを独立させる方向になったのは戦争が<wbr></wbr>敗戦方向で米軍の飛び石戦術もあり、インドネシア住民のご機嫌取<wbr></wbr>りをせざるを得なかったからです。
以上、長文失礼しました^w^

1 コメント

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はじめまして (シロート・モネ)
2014-08-14 15:38:24
はじめまして

あまり日本で詳細を論じ合おうとしない、第二次大戦の歴史的事実は、もっと研究されるべきだと思っておりました。ナイスです。

しかし、日本の侵略戦争であったのは、わたしも否定出来ないと思っておりますが、原住民から国を奪い取った訳ではない事も、歴史的事実だと思います。

あの頃の戦争は、ザックリ言えば泥棒間で、盗品の奪い合いが有っただけの話ではないでしょうか。日本が戦争を始めたと言われておりますが、お前は後進国だから盗った物は全部捨てろと、泥棒の親方連に言われて怒ってしまっただけですよね。

フィリピンを形だけ独立させるつもりだった、アメリカについても弁護する気はありません。アメリカの自由と民権は、アメリカ国民にのみ適応されるものです。 欧州諸国とのにらみ合いのお蔭で、自国の植民地にしておけなかっただけの事ではないでしょうか。

だからあの戦争はよかったとは言いませんが、日本の戦後の自虐教育には感心しませんね。・・・・などと、高校・大学8年間をアメリカで暮らしたわたくしには思えます。


カイユボットのパリの通りの雨の絵は、シカゴで見た気がしました。
オルセー展も行きたいです。
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