後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ベトナムを天皇陛下と美智子皇后は何故訪問したか?

2017年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の天皇と皇后のベトナム訪問を唐突に感じた人は多いと思います。
現在、ベトナムと早急に友好を促進する理由もありません。懸案の問題もありません。
しかし私は1940年に仏領インドシナと呼んでいたベトナムを日本軍が占領して以来の歴史を思い返し、天皇の退位の前に訪問されたことは大変良かったと考えています。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。
それは戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
今回の天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。
私は1990年代のはじめにこのような残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作った日本人の話しも直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていた方でした。
以下は2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチーミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣です。
残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていた。こんな場合、日本軍出の将校は兵から飛び降りる。一方ベトナム人将校は自分の行動をそのまま続けます。
ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しなし、そんなことを期待もしない。
しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がったのです。
ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチーミンを尊敬していました。
ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチーミン記念館
1990年頃に訪問したハノイでガイドをしてくれたベトナム人の若者はいいかげんなやつで、ホテルに迎えに来る時間は遅刻ばかり。道案内もでたらめで、とにかくやる気がない若者でした。
こんなガイドにはほかの国でも会ったことがない。
そんな若者に、「君、ベトナム人が一番尊敬しているホーチーミンの記念館に、あす案内してくれないかね?」と頼んでみました。すると翌朝いつもは汗臭いシャツ姿の彼が背広姿をビシッと決めて、ホテルのロビーで朝早くから待っていたのです。ホーチーミン記念館へ私を案内するのがそんなにうれしいのか、喜びに絶えないといった様子で、私を引っ張るように連れて行くのです。締め慣れないネクタイを何度も直しながら道を急ぐのです。
記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」。いいかげんな案内人は目を潤ませて、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれました。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。

それからいろいろな事がありました。
10年間にわたるベトナム戦争があり改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りまました。ベトナムは復興したのです。
◎ホンダバイクの奔流―サイゴン
 1994年、サイゴン、夏の夜のことでした。目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに三、四人乗せて大河の奔流のように流れて行くのです。ほかに楽しみのないベトナム人家族の夜の娯楽です。1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年。
立ち尽くす私の頬を静かに、しかし止めどなく熱い涙が流れる。平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出していました。先の大戦の終戦間際の東京空襲を思い出します。

こんなベトナムと日本との歴史を想うと今回の天皇、皇后の訪問に感謝します。訪問して下さって本当に良かったです。
1番目の写真は晩年のホーチーミンです。
2番目の写真はハノイにあるホーチーミン廟です。
3番目の写真はグエンザップ将軍(左)とホーチーミン初代ベトナム民主共和国主席です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3 です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





1 コメント

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Unknown (おたま)
2017-03-04 12:54:55
初めまして。
大変貴重なお話をありがとうございました。
この度の両陛下のベトナム訪問の意味を検証するうえでとても参考になりました。

ネットでは時には誤りも多く、唖然とするような悪意にみちた情報も少なくありません。
歴史の当事者から実際に聞かれた内容はは机上に飛びかう虚偽にくらべ重みが違うと感じました。
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