後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

現在の日本のいしづえを作った偉大な吉田茂

2018年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の東海道の宿場町、大磯はさびれた町です。しかしそこには風景の良い城山公園があります。その一角にに旧吉田茂邸が復元され一般に公開しています。
小高い城山全体が美しい公園になっていて青い太平洋が眺められます。
吉田首相は幼少の時、大磯で過ごし引退後は亡くなるまで大磯に住んでいたのです。大磯の家が終の棲家になったのです。
昨日、家内が撮って来た旧吉田邸の写真をまずお送りします。足の弱い私は城山が登れないので駐車場で待っていました。









何故、旧吉田邸を訪れたかと言いますと、私が一番感謝している政治家だからです。
日本中が焼け野原になった敗戦国の復興の礎を作った政治家でした。ドイツ、イタリア、日本の三国同盟に反対し憲兵に逮捕されながらも太平洋戦争の停戦に努力し、戦後、首相としてサンフランシスコ講和会議で日本の独立を勝ち取った政治家だったのです。
マッカーサー総司令官と親密な関係を築きアメリカから70万トンの食糧の緊急援助を受け取って国民を飢餓から救ったのです。
その援助の赤い砂糖でカルメラ焼きを作った時の美味しさは忘れられません。
外交官としてイギリスに大使として駐在していたので英米人の考え方が分っていたのです。
「戦争で敗けても、外交で勝つ」という思いで、マッカーサー総司令官と交渉を続け日本国民の困窮した生活を守ったのです。
戦後の日本の安全保障を守った日米安保体制の基礎も作ったのです。
終戦直後約7年間にわたって首相を務めた吉田茂の功績は偉大です。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 をご覧下さい。
今日は彼にまつわる面白い3つのエピソードをご紹介いたします。
(1)大の葉巻好きだった
大の葉巻好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナを喫っていたほどでした。サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたといいます。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えたそうです。
戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われましたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と慇懃に辞退しました。
(2)東京大学総長は曲学阿世の徒と叱りつける
サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国を除く国々との単独講和を進める吉田首相に対し、東京大学総長南原繁がこれらの共産国を含めた全面講和を主張しました。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言、「学者風情に何がわかる」とばかり、南原を激しく叱りつけたものでです。
そして講和会議を終了した後で、日米安全保障条約にたった一人で署名したのです。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだったのです。
(3)日本の統計が正しかったら真珠湾攻撃はしなかった
吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者は出なかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけます。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返しします。これにはマッカーサーも大笑いだったそうです。

そして復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は、1964年東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとします。しかしマッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去しました。吉田はその国葬に参列します。
1967年(昭和42年)10月20日 に、 神奈川県大磯の私邸で永眠します。1878年(明治11年)生まれの享年89歳でした。
妻の雪子がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っています。
1964年(昭和39年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けているくらいでした。
ただし岳父の牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けませんでした。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎神父には「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたそうです。濱尾司教は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送ったそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)