後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

我が故郷、仙台藩の武士の子孫が現在のスペインのハポン達

2018年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日インターネットに雑文を書いています。暇な毎日なので、ついつい長々しいものになります。すると読者の方からもう少し短く書けませんかという投書を頂きました。
昨日は故郷の仙台の昔の友人から電話があり、私の雑文は面白いという話をいただきました。その友人は朝日新聞社で活躍していました。
そこで今日は我がふるさと仙台藩にまつわる不思議な話を短く、簡略に書くことにしました。
話は伊達政宗が数多くの随員をつけて支倉常長遣欧使節をローマに派遣した時の後日談です。往復に7年間かかりました。
この随員の中の30名がスペインの西南のアンダルシア州のある小さな町に長期滞在していたのです。
その町には、「日本(ハポン)」という姓を名乗っている人が現在、600人も住んでいるという話です。この600人余のスペイン人の先祖が仙台藩の武士だったという話です。
もう少し詳しく言うと、30名の随員のうち何割かは帰国するのが嫌になりアンダルシア州のある小さな町に土着して結婚して、子供や孫を作ったのです。スペインでは姓名の姓は出身地の名前を用います。ハポンは日本の意味だけなのです。ヨーロッパにはハポンという地名は有りません。
日本人の土着したアンダルシア州のある小さな町の周辺だけに苗床を作る稲作農法があるそうです。その上、ハポン姓の幼児の尻には蒙古斑が見られるのです。
宮城県はこの町へ支倉常長の銅像を寄贈しました。その支倉常長はその町を流れる川をじっと見つめています。何を考えているのでしょうか。
今日の不思議な話はこれで終わりです。どうですか、短かったでしょう。あとは関連の写真をお送りします。

1番目の写真は石巻市にある帆船、サンファン号の復元、展示施設の写真です。30名の武士を含め数多くの随員を従えた支倉常長はこの帆船に乗って1613年、慶長18年に石巻の月浦を出港しました。私はこの帆船を2度見に行きました。

2番目の写真は船首から見たサンファン号です。船腹の板戸を上げた窓からは大砲が撃てる構造になっていました。

3番目の写真は帆船の後ろから見た写真です。帆船は追い風で疾走する場合、後ろからの大波が怖いのです。船尾が高く細く切り上がっている構造で後ろ波を切ります。この船は太平洋を往復してメキシコまで行った帆船です。

4番目の写真はサンファン号のキャビンです。実際に私も歩き回ってみましたがとても狭いのです。本当に数多くの随員を含む遣欧使節団が全員乗って行ったとは信じられません。

5番目の写真は宮城県がアンダルシア州のある小さな町へ寄贈した支倉常長の銅像です。銅像は鳥居の向こう側にあり鳥居を背にして川面を見つめています。尚これらの写真の出典は、http://kazuinkato.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_f886.html です。

もっと詳しく知りたい方のために参考資料があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
(1)現在のスペインで日本(ハポン)とい姓を用いている600人余の人について;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AA

コリア・デル・リオ(Coria del Río)は、スペイン・アンダルシア州セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)。セビリアの南方約15kmにあり、グアダルキビール川に面する。
1614年、仙台藩の伊達政宗の家臣支倉常長が率いる慶長遣欧使節が滞在したことで知られる。コリア・デル・リオには Japón(ハポン、日本)の姓を持つ人が約600人おり、使節団の一員として来訪したまま現地に留まった者の子孫とする説がある。
支倉常長が率いる慶長遣欧使節は、1614年10月5日にグアダルキビール川河口のサンルーカル・デ・バラメダに入港、数日ののち小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した。支倉は往路で数日間この町に滞在し、10月23日にセビリアに入った。ヨーロッパに渡った日本人は約30人であった。
慶長遣欧使節の記録は断片的であり、行動、行程やその時々の人数については諸説ある。スペインからローマに向かった日本人は半数であり、残りはコリア・デル・リオに滞在して支倉らの帰りを待っていたともいう。
ローマからの復路、支倉はスペイン国王フェリペ3世からの返書を待ちつつ、1617年7月4日にセビリアを出立するまでセビリア近郊に長期滞在している。
コリア・デル・リオには、スペイン語で「日本」を意味する Japón(ハポン)の姓を持つ人が約600人いる。
1980年代から地元郷土史家によるハポン姓の研究が始まる。1990年前後からは慶長遣欧使節から離脱した人々の子孫とする説が盛んに唱えられるようになった。これ以後、ハポン姓の人々は「自分たちはサムライの子孫である」と考えているという。1997年には「スペイン日本支倉常長協会」(Asociación Hispano-Japonesa "Hasekura Tsunenaga") が組織されている。
慶長遣欧使節の日本人の何人かはヨーロッパにとどまったとみられる。
コリア・デル・リオ周辺で苗床を作る稲作農法があることや、ハポン姓の幼児に蒙古斑が見られることが、ハポン姓が慶長遣欧使節団の日本人とを関連付けるものとして挙げられている。ただし2015年時点において、ハポン姓を日本人の末裔とする説の最大の論拠とされているのは「ハポン姓が使節団の滞在以前の洗礼記録に見られない」ということである。
1992年、宮城県はコリア・デル・リオに佐藤忠良作の支倉常長像を寄贈した。この像はグアダルキビール川に沿ったカルロス・デ・メサ公園に立てられている。2003年には、ハポン姓の人が集まる「日本週間」が開催された。

(2)「サン・ファン・バウティスタ号」について;
http://kazuinkato.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_f886.html
慶長18年9月15日(1613年10月28日)、仙台藩士支倉常長ら遣欧使節団一行180余名を乗せ、メキシコのアカプルコを目指して月の浦を出帆した帆船「サン・ファン・バウティスタ号」が完全復元されて宮城県石巻市の渡波(わたのは)の海岸に係留公開されています。
サン・ファン・バウティスタは仙台藩主伊達正宗によって建造され、日本で建造された木造様式帆船として初めて太平洋を二往復し、その造船技術は当時の世界のトップレベルであったと高く評価されています。
支倉六衛門常長は、仙台領内でのキリスト教の布教を許可するのと引き替えにメキシコとの通商を希望するとしたローマ法王へ宛てた伊達政宗の親書を携え、約90日間の航海の後、当時イスパニア領だったメキシコのアカプルコ港に入港しました。
ここでサン・ファン・バウティスタと別れを告げ、イスパニア艦隊サン・ファン・デ・ウルーク号に便乗、大西洋を渡り、スペインの首都マドリードを目指しました。
1614年12月20日、マドリードに到着した常長は、翌年1月30日にはフェリペ3世に謁見し王宮近くのサン・フランシスコ聖堂を宿舎としてローマ法王との謁見の時を待ちます。
そしていよいよ1615年11月3日常長はついにヴァチカン宮殿でローマ法王パウロ5世と謁見し、宣教師派遣とイスパニア領国との通商を申し込んだのです。
常長はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族に列せられましたが、法王は宣教師の派遣は同意したものの通商についてはイスパニア国王に一任しただけでした。
法王との謁見を済ませ、再びイスパニアに戻った常長でしたが、長旅の疲れから健康を害し、旅費も底をついてきました。
それでも国王や法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し主命を果たそうとしましたが返答は得られず、失意のなかで帰国を決意せざるを得ませんでした。
メキシコまで戻った常長は、迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタに乗って帰国の途に着きます。
ところがフィリピンのマニラまで来たところでサン・ファン・バウティスタをスペイン艦隊に買収されてしまったために、一般の貿易船に便乗、長崎経由で元和6年(1620年)8月にようやく出発地月の浦に帰ったのです。
しかし、帰国した支倉常長を出迎えたのは労をねぎらう言葉ではなく仙台藩の冷たい態度でした。7年間の旅の間に伊達政宗もキリシタン弾圧政策をとる徳川幕府の体制下に収まっていて、正宗にとって自らの野望の証でもある常長の帰国はむしろ迷惑なことだったのでしょう。
その後の常長は歴史の舞台から姿を消してしまってその晩年についても、墓がどこにあるのかもはっきりとしていません。
何とも切ない慶長遣欧使節の結末ではありますが、常長の偉業を後世に伝えるために、このサン・ファン・バウチスタ号の復元をはじめとして、宮城県大郷には「支倉常長メモリアルパーク」が建設されるなど、宮城県人の心の中には「英雄 支倉六衛門常長」が
今なお生き続けているのです。
その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県大郷町に 、第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。