後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界的な組織の「イエズス会」の日本における活動

2015年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
日本へキリスト教を初めて伝えたのはイエズス会の創立者の一人のザビエルでした。それは1549年のことでした。ザビエルの肖像画は学校の教科書にもよく掲載されてのでご記憶の方も多いと思います。ザビエルだけでなく数多くのイエズス会の宣教師がやってきて日本人へカトリックを伝承したのです。しかしキリシタンの禁教とともに宣教師たちは消えてしまいます。しかし明治維新後に再びイエズス会の宣教師たちも日本にやってきて上智大学をはじめいろいろな学校を作ったのです。
私はある時イエズス会の組織の興味を覚え、その男子修道院を2010年に訪問したことがあります。以下はその折りの訪問記です。

一番目の写真はイエズス会石神井修道院の若い修練者が毎週カトリック小金井教会にミサの手伝いに来て聖なるパンを信者に与えている場面です。そこで彼が所属していた修道院を訪問することにしたのです。2010年の7月のことでした。
お会いして下さった方はイエズス会の塩谷恵策神父様でした。博識な方です。修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。
昔から東洋文庫から出版されていた本を数冊読んで、中国や日本でのイエズス会の会員の活躍は知っていました。しかしイエズス会士にお会いするのは初めてでした。興奮しました。
イエズス会士に会えるだけで嬉しかったのですが、お話の内容も感動的でした。
その話によるとイエズス会は1534年にイグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルなど7人のパリ大学の同窓生がモンマルトルの丘の上で、終生自分たちを神へ捧げる修道会を結成したのです。
私が考えるには、それは当時、マルチン・ルッターなどが始めた宗教改革の動きに刺激されカトリック宗派の刷新運動の一つとも考えられます。
その後、イエズス会はローマ教皇にも認められ、大きな修道会へと発展していったのです。
現在、イエズス会は世界中の112ケ国で2万人の会員が活動している世界的な組織です。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものです。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっているそうです。
カトリックにはローマ教皇が認可した男子修道や女子修道会が他にも数多くあり、日本人が創設し、ローマ教皇に認可されたものも多数あります。
しかし日本人も含む2万人の会員を擁するイエズス会は現在カトリックでは最大の修道会です。
このイエズス会は全世界への宣教も活発で、1540年ころからインドへの宣教をはじめ、清国、李朝朝鮮、そして日本へも数多くのイエズス会員が送ったのです。その中の一人のザビエルが日本に来てカトリックを伝えたのです。
その他、清朝ではマッテオ・リッチ師のように清朝の高位高官になり中国に溶け込んだ人もいたのです。
日本では明治維新後、再び活動を再開し、上智大学や栄光学院などの高校を数々創設し、運営にあたっています。栄光学院の名前は、イグナチオの座右の銘「神のより大いなる栄光のために」にもとずいているのです。
広い意味ではイエズス会はヨーロッパ文化をアジアへ伝える役割を果たしたのです。
イエズス会の歴史、その使命などは検索するといろいろ出ています。
末尾に参考資料として、その一部を添付しました。
下に私が石神井修道院を訪問した時に撮った4枚の写真をお送りいたします。
上から順に、石神井修道院の正面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様のお写真の4枚です。
なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家です。
その26聖人像に対して、1962年に高村光太郎賞が与えられています。船越さんは敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。尚、その息子さん桂氏も彫刻家として現在活躍中です。
それはそれとして、今日も皆様ごの健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







===参考資料:イエズス会の創設==============
1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。
以下は「モンマルトルの誓い」をたてた7人です。
イグナチオ・ロヨラ(1491年-1556年)、初代総長
ピエール・ファーブル(1506年ー1546年)
フランシスコ・ザビエル(1506年ー1552年清国で客死)、1949年日本へキリスト教を伝える。
ディエゴ・ライネス(1502年ー1565年)、第二代総長
アルファンソ・サルメロン(1515年ー1585年)
ニコラス・ボバディリア(1507年ー1562年)
シモン・ロドリゲス(1510年ー1579年)
1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。
1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』 で取り払われた。イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。
会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。
イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」 という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」 である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。
以下は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A に御座います。