後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

関東ローム層の巨大な崖の上の雑木林の写真

2013年06月27日 | 写真

東京都の神奈川県に近い南端を多摩川が流れています。源流は山梨県の丹波村の山地と奥多摩の山々です。奥多摩湖より上は丹波川(たばがわ)と呼び、奥多摩湖から下は多摩川といいます。河口は羽田空港のすぐ南側で、そこから東京湾に注いでいます。

多摩川の両側は河岸段丘になっていて旧石器時代から人間が住んでいました。約2万年前の旧石器時代の石器は小平市でも沢山出土しています。

河岸段丘は浸食によって小高い岡になっていて、寒冷期の旧石器時代は針葉樹が茂っていたようですが、温暖期の縄文時代から広葉の雑木林が繁るようになりました。

雑木林の大部分は、人々が切り開いて田畑にしましたが、高い岡の上は水利が無く田畑にはなりません。ですから切り立った高い岡の上は手つかずのままの混生の雑木林が、ところどころに残っています。

今日はそのよう巨大な崖の上の大昔の雑木林の写真を撮って来ました。

写真をご覧になって悠久の時の流れを感じて頂ければ嬉しく思います。

場所は府中から是政橋を渡って稲城駅のすぐ右に聳えている崖です。

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・上の崖の右側の下方が多摩川です。写真の奥の方が上流です。

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・崖の上の雑木林は人がきちんと植えたものでない混生林になっています。

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崖の白い壁には蔦草が茂っていますが、冬になると白い崖になります。

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20世紀の独裁者(8)何故、日本には独裁者が出なかったか?

2013年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

この6月の始めから「20世紀の独裁者」という連載記事を以下のように7回にわたって掲載してきました。

20世紀の独裁者(1)キリスト教聖職者の道を捨てたヨシフ・スターリン

20世紀の独裁者(2)親日家フィデル・カストロとヨハネ・パウロII世

20世紀の独裁者(3)ヨーロッパ文化の闇が生んだ独裁者ヒットラー

20世紀の独裁者(4)東洋の共産主義皇帝、毛沢東

20世紀の独裁者(5)ヴァチカンを独立国家にさせた独裁者ムッソリーニ

20世紀の独裁者(6)カトリックを徹底的に保護した独裁者フランコ

20世紀の独裁者(7)蒋介石とその反逆者、張学良の運命

上に取り上げた独裁者は30年、40年と長い間独裁の地位にありそれぞれの国を統治してきたのです。

これらの独裁者は下のように3つに分類されます。

(1)共産主義革命によって独裁者になった人(スターリン、カストロ、毛沢東)。

(2)共産主義をつぶすため軍事力で独裁者になった人(フランコ、蒋介石)。

(3)議会制の多数派工作で独裁者になった人(ヒットラー、ムッソリーニ)。

このように比較分類してみると何故、日本には独裁者が現れなかったかが明快に分かるのです。

結論を先に書いてしまいます。

明治維新は薩長土肥の藩が協力して達成した近代化革命でしたが、そのために4つの藩の合議制をせざるを得なかったからです。

そして日本ではその社会体制を覆す共産主義革命が出来なかったからです。

日露戦争に勝って、第一次世界大戦で戦勝側にあった日本は、昭和時代に入って軍部独裁になりますた。しかし陸軍と海軍が並列する組織の故に、個人の軍人が独裁権を確立できませんでした。

独裁者が居なかったので日本の政治は民主的な議会制政治が行われていたと考えるのも大間違いです。

明治18年に伊藤博文はそれまでの太政官制度を廃止して欧米流の内閣制を導入しました。そして伊藤博文は初代の内閣総理大臣になります。

しかし歴代の総理大臣や内閣構成員は薩摩藩と長州藩の出身者によって占められていたのです。これを薩長土肥の藩閥政治と言いますが、その実態は薩摩藩と長州藩の出身者による独占的な政治体制だったのです。

明治21年には帝国議会も開かれましたが、選挙権は金持ちに限定され、選挙では政府が民衆を代表する自由党を激しく攻撃し、ひどい選挙干渉を行ったのです。

明治時代の日本の議会制度は民主主義とはほど遠く、薩長出身の政治家と官僚が権力を握り、農民や労働者の意見は無視されていたのです。

確かに板垣退助らの自由民権運動は有名ですが、それをもって明治時代に民主主義が浸透していたと考えたら、それは大変な誤解なのです。

戦前の戸籍簿には士族出身か平民出身かを明記されていたのも一例ですが、日本の社会には古い身分制度と因習が生きていたのです。戦後の学校教育では板垣退助らの自由民権運動を過大に評価して教えていましたが、それは戦後の日本人の希望ではありましたが、実態ではなかったのです。

明治時代の政府には確かに個人の独裁者が現れませんでした。

しかしそれは露骨なまでの薩摩藩と長州藩の独占的藩閥政治だったのです。このような政治体制では個人的な独裁者が出来るのは不可能だったのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下にその実態を示す資料と関連の写真を示します。

======内閣総理大臣の藩閥==============

  • 伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
  • 黒田清隆(薩摩藩)2代目
  • 山縣有朋(長州藩)3・9代目
  • 松方正義(薩摩藩)4・6代目
  • 大隈重信(佐賀藩)8・17代目
  • 桂太郎(長州藩)11・13・15代目
  • 山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
  • 寺内正毅(長州藩)17代目
  • 田中義一(長州藩)26代目
  • 各大臣における藩閥:

  • 明治期の内閣(第1次伊藤内閣から第2次西園寺内閣まで)の閣僚経験者は延べ79名であるが、内、出身藩別に見ると、薩摩藩(14名)、長州藩(14名)、土佐藩(9名)、佐賀藩(5名)となっている。その他の出身で同一藩の出身者は、2名までは尾張藩、豊岡藩等数例あるが、3名となると徳島藩が蜂須賀茂韶を含めて漸く到達する程度となっている。また、その他の出身者であっても伊東巳代治、金子堅太郎など、明らかに藩閥政治家の側近である者も多い。
  • 陸海軍における藩閥:

    一般に「薩の海軍、長の陸軍」というように海軍では山本権兵衛や東郷平八郎、西郷従道に代表される薩摩閥が、陸軍では乃木希典や児玉源太郎、山縣有朋、桂太郎に代表される長州閥が勢力を握っていたとされる。しかし、決して単純に分類できるわけではない。これらの軍隊内の藩閥勢力は、要職者に陸軍大学校や海軍兵学校卒業者が就任するようになると学校時代の成績が重要視されるようになったため、徐々に減少していった。

  • 明治期の歴代警視総監:
    1. 川路利良(薩摩藩)、
    2. 大山巌(薩摩藩)
    3. 樺山資紀(薩摩藩)
    4. 大迫貞清(薩摩藩)
    5. 三島通庸(薩摩藩)
    6. 折田平内(薩摩藩)
    7. 田中光顕(土佐藩)
    8. 園田安賢(薩摩藩)
    9. 山田為暄(薩摩藩)
    10. 園田安賢(薩摩藩)
    11. 西山志澄(土佐藩)
    12. 大浦兼武(薩摩藩)
    13. 安楽兼道(薩摩藩)
    14. 大浦兼武(薩摩藩)
    15. 安立綱之(薩摩藩)
    16. 関清英(佐賀藩)
    17. 安楽兼道(薩摩藩)
    18. 亀井英三郎(熊本藩)
    19. 安楽兼道(薩摩藩)

    =========================

    Iwakura_mission1
    ・上は岩倉具視視察団の写真です。右から大久保利光、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允です。

    Rokumeikan_ni_okeru_kifujin_jizenka
    ・上は鹿鳴館の錦絵です。

    Mikasapainting1
    ・上は日露戦争でバルチック艦隊を壊滅した日本艦隊の旗艦の三笠の艦上に立つ東郷元帥(中央)の写真です。この大勝利が日本の軍部独裁になるキッカケになったのです。幸運が不幸を招く一例です。