最近ニュースでは、いじめによる自殺や自分の子を殺害してしまう
という心が痛くなるような話題が多いように感じます。
障がいのある人たちもいじめにあっている人は多いようで
今回開かれた「知的しょうがい者福祉大会」の本人分科会でも
いじめられた経験を語っていた人もおりました。
どうして人間というものは、自分より弱い人間がいることで安心するのでしょう。
弱い人間を痛めつける事で、自分という存在を確認できるということなのでしょうか。
最近の暗いニュースを聞いていたら、毎日新聞論説員の野沢和弘さんが
書かれた本の内容を思い出しました。
要約して書き出します。
ある中学生が電信柱にロープを掛け、首をくくって死んでいるのが見つかった。
勉強はできて、とてもやさしく弟思いのしっかりした子だったそうだ。
しかし、小学生のころからよく忘れ物をしたり、洗濯していない洋服を
何日も着ていたりしていたそうだ。
そのうちに他の子どもたちから
「くさい」「きたない」「びんぼう」といじめられるようになった。
どうして自分だけがいじめられるのか、その子は判らなかった。
だんだん成長してくると、その理由が判ってきた。
だいすきなお母さんとお父さんに軽い知的障がいがあったのだ。
その障がいのせいで、世の中の人々が、お母さんやお父さんをばかにしたり
あざ笑ったり、相手にしなかったりしていることに気づいた時
その子はどんな思いだったのだろう。
障がいのあるお父さんとお母さんから生まれてきた自分はいったい何者なのか
どうして自分は生まれてきたのか。
そのために自分がみんなからいじめられているのだとわかった日、
どこで何をすごしたのだろう。
遺書には「お父さんお母さん、ぼくをうんでくれてありがとう。
ぼくはお父さんとお母さんの子どもに生まれてきて幸せでした」
と書いてあったそうです。
世間の凍りつくような視線の前に自分の身体をなけだして
生んでくれたお父さんとお母さんを守りたかったに違いない。
そのお父さんとお母さんから生まれた自分という存在を
認めて欲しかったのかもしれない。
と野沢さんは書いていました。
悲しすぎる事件でした。
この中学生は、理不尽な世の中で自分の存在価値を見つける事が難しかったのかもしれません。
今のいじめの問題にしても、いじめている加害者側も自分の存在価値
というものをきちんと持てていないのではないのかな・・・
と思う事があります。
自分にも存在価値があると思え、ちゃんとした自己肯定感がある人は
人に対しても、寛容な気持ちをもてるような気がします。
中学生くらいの一番感受性が強い時代に、どうすれば自分の存在価値や
自己肯定感を感じてもらえるような指導ができるのかは、私などは解らないけれど
心が満たされていないから、自分より弱い人間を痛めつける事で
自分の存在価値を見つけようとしたり、自分の子育てに対し自信が持てなくなり
子どもの存在自体を疎ましく思うようになってしまうのではないでしょうか。
「人にやさしく」の前に、「自分を好きになる(自分に甘くでは無い)」ような教えがあれば
もう少し気持ちに余裕のある子に育つのではないのかな・・・
など、柄にもなく考えているこの頃です(F)
という心が痛くなるような話題が多いように感じます。
障がいのある人たちもいじめにあっている人は多いようで
今回開かれた「知的しょうがい者福祉大会」の本人分科会でも
いじめられた経験を語っていた人もおりました。
どうして人間というものは、自分より弱い人間がいることで安心するのでしょう。
弱い人間を痛めつける事で、自分という存在を確認できるということなのでしょうか。
最近の暗いニュースを聞いていたら、毎日新聞論説員の野沢和弘さんが
書かれた本の内容を思い出しました。
要約して書き出します。
ある中学生が電信柱にロープを掛け、首をくくって死んでいるのが見つかった。
勉強はできて、とてもやさしく弟思いのしっかりした子だったそうだ。
しかし、小学生のころからよく忘れ物をしたり、洗濯していない洋服を
何日も着ていたりしていたそうだ。
そのうちに他の子どもたちから
「くさい」「きたない」「びんぼう」といじめられるようになった。
どうして自分だけがいじめられるのか、その子は判らなかった。
だんだん成長してくると、その理由が判ってきた。
だいすきなお母さんとお父さんに軽い知的障がいがあったのだ。
その障がいのせいで、世の中の人々が、お母さんやお父さんをばかにしたり
あざ笑ったり、相手にしなかったりしていることに気づいた時
その子はどんな思いだったのだろう。
障がいのあるお父さんとお母さんから生まれてきた自分はいったい何者なのか
どうして自分は生まれてきたのか。
そのために自分がみんなからいじめられているのだとわかった日、
どこで何をすごしたのだろう。
遺書には「お父さんお母さん、ぼくをうんでくれてありがとう。
ぼくはお父さんとお母さんの子どもに生まれてきて幸せでした」
と書いてあったそうです。
世間の凍りつくような視線の前に自分の身体をなけだして
生んでくれたお父さんとお母さんを守りたかったに違いない。
そのお父さんとお母さんから生まれた自分という存在を
認めて欲しかったのかもしれない。
と野沢さんは書いていました。
悲しすぎる事件でした。
この中学生は、理不尽な世の中で自分の存在価値を見つける事が難しかったのかもしれません。
今のいじめの問題にしても、いじめている加害者側も自分の存在価値
というものをきちんと持てていないのではないのかな・・・
と思う事があります。
自分にも存在価値があると思え、ちゃんとした自己肯定感がある人は
人に対しても、寛容な気持ちをもてるような気がします。
中学生くらいの一番感受性が強い時代に、どうすれば自分の存在価値や
自己肯定感を感じてもらえるような指導ができるのかは、私などは解らないけれど
心が満たされていないから、自分より弱い人間を痛めつける事で
自分の存在価値を見つけようとしたり、自分の子育てに対し自信が持てなくなり
子どもの存在自体を疎ましく思うようになってしまうのではないでしょうか。
「人にやさしく」の前に、「自分を好きになる(自分に甘くでは無い)」ような教えがあれば
もう少し気持ちに余裕のある子に育つのではないのかな・・・
など、柄にもなく考えているこの頃です(F)