107歳という長寿を生きぬいた教育学者がいた。障害児教育に一生を捧げた福岡教育大学名誉教授だった人である。
養護学校のさきがけと言える「しいのみ学園」(福岡市)の創立者である。
昇地三郎氏をご存じだろうか。昇地氏には脳性マヒの子息が二人いた。
以下、コラム【産経抄】より引用する。
**********************************************
【引用始め】
【産経抄】なすべきことはすべてした 12月2日(2013.12.2 03:43)
兄弟は毎朝、障子の穴から通学する子供たちをうらやましそうに眺めていた。
2人はともに、脳性小児まひだった。兄の有道さんは、学校でひどいいじめに遭い、中学2年で退学を余儀なくされる。
弟の照彦さんは、小学校に入学すらできなかった。
▼当時、福岡学芸大学(現・福岡教育大)で心理学を教えていた父親の昇地(しょうち)三郎さんは、2人の姿を見ていて決意する。
「自分で学校を作るしかない」。昭和29年、私財を投じて福岡市内に設立したのが、福祉施設「しいのみ学園」だ。
▼照彦さんを含めた12人が、最初の入園者となった。有道さんは、職員を志願する。小学校に通っていたとき、有道さんを抱いて鐘をたたかせてくれた、「小使さん」が念頭にあった。開園式で有道さんは、「小使」の肩書の入った名刺を、来賓の県知事らに堂々と差し出していた。
妻の露子さんは、わが子の成長ぶりを涙を拭きながら見守っていたという。
▼「父ちゃんありがとう」という言葉を残して、有道さんは39歳で亡くなった。
平成9年には露子さん、14年には照彦さん、翌年には兄や弟の面倒を見てくれ、いずれ園長を任せるつもりだった長女の邦子さんにも先立たれる。
昇地さんは、96歳で家族のすべてを失った。
▼「『なすべきことはすべてした』という気持ちで、彼ら、彼女らを見送ってきた」と著書に書いている。
昇地さんは悲しみに浸る間もなく、障害児教育について、講演に力を注ぎ、世界中を飛び回った。
▼100歳を超えてからは、長寿がテーマになることも多くなった。
昇地さんの訃報が先週届いた。107歳の大往生である。
3年後に横浜で開かれる「国際心理学会」で、「黒田節」を披露するのを楽しみにしていたそうだ。
【引用終わり】
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100歳超えてから世界一周の講演して歩く学者として、ギネスにまで登録されているのだという。
最後まで情熱が衰えず、教材教具を5000種も作成してきたというから感服するばかりだ。
そして、昇地氏はいくつもの名言を残している。体験から出た言葉である。以下、引用する。
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【引用始め】
” 昇地三郎 ” の名言一覧(5件)
○ つらい出来事を通してしか知り得ないこと、感じ得ない幸福が必ずあります。
○ 暗闇の中でそっと輝く、その「小さな光」に目を向けられる、心の強さをぜひとも持ってほしい。
○ 科学に限界はあるが、愛情には限界はない。
○ オシャレをしなくなった日から老いが始まる。
○ 降りかかってきた禍を『困った、困った』と逃げ回っていると、どこまでも追い掛けてくる。それを、試練と捉えて「来るなら来い」と立ち向かっていけば、禍が逆に幸福の種になるのです。
http://kotovasky.com/maxim-tag/%E6%98%87%E5%9C%B0%E4%B8%89”
コトバダイスキKOTOVASKYコトバスキー
【引用終わり】
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障害児教育のパイオニアとして、幾多の困難をくぐり抜けたからこそ発する言葉である。
養護学校のさきがけと言える「しいのみ学園」(福岡市)の創立者である。
昇地三郎氏をご存じだろうか。昇地氏には脳性マヒの子息が二人いた。
以下、コラム【産経抄】より引用する。
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【引用始め】
【産経抄】なすべきことはすべてした 12月2日(2013.12.2 03:43)
兄弟は毎朝、障子の穴から通学する子供たちをうらやましそうに眺めていた。
2人はともに、脳性小児まひだった。兄の有道さんは、学校でひどいいじめに遭い、中学2年で退学を余儀なくされる。
弟の照彦さんは、小学校に入学すらできなかった。
▼当時、福岡学芸大学(現・福岡教育大)で心理学を教えていた父親の昇地(しょうち)三郎さんは、2人の姿を見ていて決意する。
「自分で学校を作るしかない」。昭和29年、私財を投じて福岡市内に設立したのが、福祉施設「しいのみ学園」だ。
▼照彦さんを含めた12人が、最初の入園者となった。有道さんは、職員を志願する。小学校に通っていたとき、有道さんを抱いて鐘をたたかせてくれた、「小使さん」が念頭にあった。開園式で有道さんは、「小使」の肩書の入った名刺を、来賓の県知事らに堂々と差し出していた。
妻の露子さんは、わが子の成長ぶりを涙を拭きながら見守っていたという。
▼「父ちゃんありがとう」という言葉を残して、有道さんは39歳で亡くなった。
平成9年には露子さん、14年には照彦さん、翌年には兄や弟の面倒を見てくれ、いずれ園長を任せるつもりだった長女の邦子さんにも先立たれる。
昇地さんは、96歳で家族のすべてを失った。
▼「『なすべきことはすべてした』という気持ちで、彼ら、彼女らを見送ってきた」と著書に書いている。
昇地さんは悲しみに浸る間もなく、障害児教育について、講演に力を注ぎ、世界中を飛び回った。
▼100歳を超えてからは、長寿がテーマになることも多くなった。
昇地さんの訃報が先週届いた。107歳の大往生である。
3年後に横浜で開かれる「国際心理学会」で、「黒田節」を披露するのを楽しみにしていたそうだ。
【引用終わり】
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100歳超えてから世界一周の講演して歩く学者として、ギネスにまで登録されているのだという。
最後まで情熱が衰えず、教材教具を5000種も作成してきたというから感服するばかりだ。
そして、昇地氏はいくつもの名言を残している。体験から出た言葉である。以下、引用する。
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【引用始め】
” 昇地三郎 ” の名言一覧(5件)
○ つらい出来事を通してしか知り得ないこと、感じ得ない幸福が必ずあります。
○ 暗闇の中でそっと輝く、その「小さな光」に目を向けられる、心の強さをぜひとも持ってほしい。
○ 科学に限界はあるが、愛情には限界はない。
○ オシャレをしなくなった日から老いが始まる。
○ 降りかかってきた禍を『困った、困った』と逃げ回っていると、どこまでも追い掛けてくる。それを、試練と捉えて「来るなら来い」と立ち向かっていけば、禍が逆に幸福の種になるのです。
http://kotovasky.com/maxim-tag/%E6%98%87%E5%9C%B0%E4%B8%89”
コトバダイスキKOTOVASKYコトバスキー
【引用終わり】
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障害児教育のパイオニアとして、幾多の困難をくぐり抜けたからこそ発する言葉である。