水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

3学年だより「時間編集力(2)」

2021年01月30日 | 学年だよりなど
  3学年だより「時間編集力(2)」


 明日のあさ目覚めた時、北村匠海になっていたら、どうする?
 街を歩くとJKたちに囲まれてきゃーきゃー言われるよ。歌もうまいし。
 明日のあさ目覚めた時、クリスティアーノ・ロナウドになってたら、どうする?
 球技大会でぶっちぎりで優勝して動画が世界中に出回り、そこら中からオファーがきたら。
 明日のあさ目覚めた時、ちょーお金持ちの家の子になってベンツで送迎されたらどうする?
 明日のあさ目覚めた時、腹筋がきれいに六つに割れてて、体脂肪7%になってたらどうする?
 明日のあさ目覚めた時、警視庁捜査一課の綾瀬はるかになってたら、どうする?。
 ……でも大丈夫。心配ない、ならないから。星野源にも田中マー君にもならない。
 仮にそうなりたいと願っても、その願いは叶わない。
 明日も明後日も、私たちは親からいただいた顔と体で目を覚ます。
 ただし、北村匠海にはなるのはムリでも、今日の自分より少しだけ賢い人になって目覚めることはできる。
 ベンツの送迎はなくても、自分で自転車を漕いで登校することはできる。
 今日がっつりトレーニングしておけば、とりあえず筋肉痛になることはできる。
 持って生まれた容姿は変わらなくても、こざっぱりした服装になることはできる。
 脂っこいものをバク食いすればおなかを壊すし、お酒を飲み過ぎると二日酔いになる。
 明日の自分に何らかの変化をもたらしたいなら、今を変えればいい。


~ 僕たちがコントロールできるのは、「いま」だけです。
 ただ、そんなことを言ったら、刹那的になってしまいます。だから、まずは1日をどう使うかを考えます。その延長で、1週間、1ヵ月、1年と考えるのです。
 その結果が、人生になります。
 10年後の目標を立てる人もいますが、あまり長期間になると不確定要素が多くなり、コントロールが利かなくなります。事故に遭ったり、病気になったりする可能性も出てくるからです。
 結局、現在というのは過去にやってきたことの結果です。
 いまに不満があるなら、それは過去にやってきたことを後悔するしかありません。
「過去の結果が現在」という話をすると残酷に聞こえるかもしれませんが、僕はむしろ希望のある話だと思っています。
 過去が現在を作っているなら、未来を作るのは現在だからです。
 だとするなら、現在を変えれば未来を変えることができるのです。
 もっと言えば、現在の時間の使い方を変えれば、人生はある程度は思い通りになるとも言えます。これってすごくないですか。
      (長倉顕太『「やりたいこと」が見つかる時間編集術』あさ出版) ~


 持って生まれた資質や才能を大幅に増大させることはできない。
 自分の置かれた環境を変えるのも難しい。
 今の自分が何をするのかだけはコントロールできる。
 それは時間をどう使うかによって具体化される。
 これまでの蓄積として今があり、今の蓄積が未来の自分をつくるという現実は、本当にあたりまえの、シンプルな真実だと言えるだろう。
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私のカレーを食べてください

2021年01月29日 | おすすめの本・CD
 自宅を出て暮らし始める前、カレーライスとは母親が作ってくれるものであり、たしか中学生になった頃バーモンドカレーから印度カレーに変わったことを知った時、自分の成長を意識した。
 カレーとは必ずおかわりするものであり、白くて深めの楕円の皿にたっぷり2杯食べてた量を、今はとうてい食べれないだろう。
 自宅以外のものでは、芦原湯の町駅前の「源の屋」さんのカツカレーは、当時芦原に住んでいた若者みんなのあこがれ第一位だったのではないだろうか。
 高校時代に、はじめて「ボルツ」に行き、自分で辛さを指定して食べたカレーは、家庭料理のカレーとは全く別種のものとして心惹かれた。ただし高校生のお小遣いで頻繁にいける店ではなかった。
 大学に入り、「金沢カレー」に出会う。といっても昔はそんな呼び方してないんじゃないかな。
 大学の寮に入った日、その後お世話になり続けることになる「千成亭」という近くの定食屋さんに初めて行った。
 何を選んでいいかわからず、一番シンプルにカレーライス(330円)を注文する。
 銀色の平たい皿にこんもりとご飯がよそわれ、色黒でドロドロのカレーがかかっている。わきにたっぷりの野菜が添えられていて、スプーンではなくフォークが出てくる。フォーク? 全く予想外のビジュアルのそれは、おいしかった。
 平日の夕飯は寮食を、昼食は大学の食堂でいただく。寝坊した日の昼食や日曜に最もたくさん食べたのは、千成亭のカツカレー(当時400円?)だろう。2位はカツ丼(450円)。バイト代が入った後でも特別ランチ(豚薄焼き、オムレツ、エビフライ650円)にはなかなか手が出なかった。
 それから幾星霜かを経て、初めて新宿でGOGOカレーを食したときの感動は今も覚えている。
 味やビジュアルへの懐かしさと、ジャンルとして完成してる感、徹底したB級感。都内に行くたびに寄っていた時期があった。
 神保町の共栄堂やボンディにも出かけた。キッチン南海のカツカレーも捨てがたい。いかにも本場のカレーですよ、ナンで食べてくださいというお店も今はたくさんできて、それはそれでおいしいが、純粋に一番ストレートにおいしいのはどれですか? 万民に愛されるのは何かと聞かれればCOCO壱と答える日本人が、比率とした最も多いんじゃないかな。
 最近自分で作って感動的においしかったのは、「横濱舶来亭BLACK辛口」だ。フレークタイプのルーで、ややお値段ははるが、圧倒的においしい。中辛、中辛と辛口のブレンドも試してみたが、辛口onlyが自分的にはぴったりだった。
 そして今1番食べてみたいのは、喫茶店「麝香(じゃこう)猫」のカレーライスだ(やっと前置きおわり)。
 「第2回おいしい小説大賞」を受賞した「私のカレーを食べてください」に登場する。


~「あなたは、これから別のところで暮らすのよ」
 数日後、何とか委員というおばさんから、突然そんなことを告げられた。
 祖母のことを尋ねると、「お祖母ちゃんは、遠くの知らない場所まで歩いて行ってしまって、今は病院にいるから会えない」と言われた。
 心配して駆けつけてくれた担任の先生に、施設に持っていく荷物を整えてもらい、その晩、私は先生の家に泊まらせてもらうことになった。三十歳前後の先生は、本棚ばかりが目立つ殺風景な部屋に一人で住んでいた。
「ご飯の時間まで、好きなことをしてていいからね」
 そう言うと、先生は私を置いて台所へ向かった。
 一人になった私は、カーペットに足を投げ出して何をしようか考えた。自分の家なら、ごろりと横になってテレビをつけたかもしれない。でもここは先生の家だし、勉強した方がいいような気がして、ランドセルから夏休みの宿題のドリルを取り出すと、算数の問題を一問ずつ解いていった。
 しばらくすると、台所から不思議な匂いが流れてきた。それは祖母が飲んでいる漢方薬のような、ハッカの味がするキャンディのような、とにかく私の家の台所から漂ってくる味噌やお醤油なんかとは、まったく違うタイプの匂いだった。
 先生が何をしているのか気になった私は、そっと台所を覗き見た。
 後ろ姿しか見えないが、先生は何やら熱心にフライパンを揺すっていた。いつもは教壇に立ち、みんなに勉強を教えてくれる先生が、今は自分のためだけに料理を作ってくれている。それだけで、私の胸はいっぱいになった。
 ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ!
 台所から何かを妙めるにぎやかな音が聞こえ始めると、さっきとは違う種類の匂いが私に襲いかかってきた。刺激的な匂いに胃袋をわし掴みにされ、腹の虫がせわしなく動き出す。今なら先生が何を作っているか、私は胸を張って答えられた。
 夕飯はカレーライスだ。間違いない。
 おあずけをくらった犬のように、私はそわそわして落ち着かない気持ちになった。
「ねえ、まあだ?」
 台所にいるのが祖母なら、そんな風に甘えたかもしれない。だが先生の家にいるという緊張感が、なんとか私に行儀を保たせた。
 台所から、カレーライスをお盆にのせた先生が現れた。先生は私の前にカレーライスの皿を置くと、机の反対側に自分用の皿を置いた。
 待ちに待ったカレーライスは、祖母が作ってくれる黄色いカレーライスとも、表面に膜が張った給食のカレーライスとも様子が違った。カレー特有のどろりとした感じがなく、濃い茶色のルーの中からお肉とジャガイモがころころ顔を出していた。
「いただきます」
 先生と一緒に胸の前で手を合わせ、スプーンを握りしめた私は、口を大きく開けてカレーライスを頬張った。次の瞬間、口の中がカーッと熱くなった。あたふたしている間に鼻の奥に刺激が抜け、ごくんと飲み込むと、熱が出たときのようにどっと汗が噴き出した。
「大丈夫? ちょっと辛かったかな?」
 辛くてびっくりしたわけではない。食欲が一気に目を覚まし、スプーンを持つ手が止まらなくなった。一口食べると、もう一口食べたくなり、私はものも言わず、にこりともせず、無我夢中でカレーライスを掻き込み続けた。
                (幸村しゅう『私のカレーを食べてください』小学館) ~


 主人公の山崎成美は幼いころ祖母にひきとられて暮らしていたが、認知症をわずらった祖母のもとにもいられなくなり、施設で暮らすことになる。
 施設に行く前夜、誰もいない家に一人はかわいそうだからと泊めてくれた担任の先生が、カレーをつくってくれる。
 幼い頃、親の仕事の関係で2年間インドで暮らしたことがあると、先生は言う。言葉も通じず、友達もなかなかできない暮らしだったが、カレーを食べると元気が出たという。
 高校卒業まで施設で暮らし、そのとき食べたカレーへの思いを失うことなく、成美は料理の専門学校に通う。
 そして、だいたい100頁分くらいいろいろあって(ざつ!)、喫茶店でカレーをつくり、また100頁分ぐらいいろいろある。

 日本人がなんらかの食事についての思い出を語るとき、1番あれこれ語りやすいのは、カレーじゃないかな。
 ほか何がある? 味噌汁? 白ご飯? うどん・そば? ラーメン? ハンバーグ? 卵料理? 
 家庭でも作るし、外食としても学食、社食、チェーン店、専門店へと幅広く、どんなに高級でもそこそこ手が届くカレーって、国民食としての地位を1番たしかなものにしてるのかもしれない(あ、銀座で食べた「よもだ」という立ち食いそば店のカレーはハイレベルです)。
 だから、「カレー文学」もたくさん存在する。

 恵まれない生い立ちの主人公が、カレーの思い出と共に成長し、ひとつのお店をしながら、いろんな困難に出会い、大事な人の存在に気づいていくというストーリーは、決して目新しいものではない。
 カレーの存在と同じように。
 しかしいろんなカレーがあるように、それぞれの人生もいろいろで、そのどれもが、かけがえのないものであることを教えられるようで、ああこのカレー食べてみたい、この主人公の人生を味わいたいと思わせられ、頁をめくる手がとまらなかった。次の直木賞候補に推しておきたい。
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時間編集力

2021年01月26日 | 学年だよりなど
  3学年だより「時間編集力」


 キムタツ先生が「二次試験に合格するための三ヵ条」を解説されている(キムタツチャンネル)。


~ 1 計画を必ず立てよ!  2 過去問にこだわるな!  3 忘れることを常に意識! ~

 「1 計画を必ず立てよ!」
 国立を第一志望にした場合、二次試験までには、およそ一ヶ月。10日間程度を一つのタームとし、足りなかった知識を注入する第1ターム、知識を知恵に変える第2ターム、本番を想定し時間を計っての演習をする第3タームのように設定すべき。前半、後半の二つに分けるぐらいでもいいが、計画性を持って勉強することが大事だとおっしゃる。
 もうすぐ私大入試が始まる人も多いだろうが、例えば早慶の入試が終わるまでには3週間以上あるし、結果の出具合によって私大の後期まで考えたなら、まだまだ勉強できる期間は長い。
 残された期間が少なくても、やみくもに勉強するのではなく、自分がやっていることの位置付けを意識するべきだ。ラスト10日間も、一日を三分割して考えれば一ヶ月化する。
 計画を立てるのが苦手なら、その日に何をどれくらいやったのかを記録し、視覚化しておくだけでも効率は全然変わる。


~ 仕事で成果を残す人や、成長が早い人は、必ずといっていいほどこのメタ認知能力が高いと僕は感じています。なぜでしょうか。自分の知覚を含めて自分を客観視することで、何ができていて何が足りないのか、自分で見つけて、改善していくことができるからです。
 わかりやすくいえば、メタ認知力というのは、俯瞰して構造する力と言い換えてもいいと思います。自分の仕事がどうだったか、自分の言動が他人からどう映るかといったことを、あたかも第三者から見るように俯瞰して、「現状はこうなのか。じゃあ、どうしよう?」ということを考える力だからです。 (伊藤羊一『1行書くだけ日記』SBクリエイティブ)  ~


 「2 過去問にこだわるな!」
 ひたすら過去問をこなすことで満足してはいけない。それによって何を身に付けるかが大事。
 受験する大学の過去問だけをひたすら遡ってこなすという勉強について、木村先生は懐疑的だ。東大受けるならむしろ京大や一橋の問題も見るべきだという。私大にも言えるだろう。早稲田を受けるなら、他の学部の問題も解いた方がいいし、GMARCHにしても志望校以外の問題は必ず役に立つ。過去問がそのまま出題されることはない。各大学によっては傾向がかなり大きく変わる年もある。純粋にその大学の過去問だけのイメージでいると、本番であせることもありうる。他大学の問題は、志望校の別パターン想定問題として取り組めばいい。
 どんな球がきても打ち返せるようになることが最終目標だ。

 「3 忘れることを常に意識!」
 一度解いた問題でも、4、5日ほおっておいたら解けなくなることは普通にある。一度終わった問題にもどりながら、スパイラルで積み上げていくイメージで勉強しよう。
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入試

2021年01月25日 | 日々のあれこれ
 併願入試終了。一連の本校入試が終わった。2月に設定した追試験は、今のところ申込者がきわめて少ない。入試日程を考えていた頃、季節柄、コロナ柄、そこそこの追試受験者を想定していたが、そうでもなかったのはうれしい誤算といえるだろう。22日の試験初日は、1000名を超える受験生が来校したが、欠席ゼロ、保健室受験ゼロという、例年以上にみな健康だった。
 ここ数週間、本人はもとより、ご家族の方のお気遣いはいかほどだったろう。娘の受験のとき、コロナがなくてさえ、いろいろ気遣って、それでいて表面的には何でもないふうを装い、その昔自分が受験したときよりも緊張して待った合格発表のことを思い出した。中学生のみなさんが元気に受験してくれたことと、それを支えてくださったご家族の方にお疲れ様でしたと感謝したい。
 これで本校への入学を決めた生徒さんもいれば、県立高校を目指す生徒さんもいる。
 本校3年生たちも、共通テストを終え、これから私大、国立へと向かっていく。
 コロナ禍という目に見えない敵を意識しながら過ごさないといけないが、慎重な日々を過ごそうという神のお導きと思えばいいのではないか。かりにご家族の方が感染されたとしても、それを責めたりせずに、粛々とやるべきことをやればいい。百%万全の環境に置かれていない方が人間は伸びる。誰かのせいにしないことを学ぶのが受験だ。
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共通テスト2021年 古文(5)

2021年01月25日 | 国語のお勉強(古文)
〈問3~問6〉

問3 傍線部B「よくぞもてまゐりにけるなど、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思ひ出できこえさせたまふ」の語句や表現に関する説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。「標準」

 ① 「よくぞ……ける」は、妻の描いた絵を枇杷殿へ献上していたことを振り返って、そうしておいてよかったと、長家がしみじみと感じていることを表している。
 ② 「思し残すことなき」は、妻とともに過ごした日々に後悔はないという長家の気持ちを表している。
 ③ 「ままに」は「それでもやはり」という意味で、長家が妻の死を受け入れたつもりでも、なお悲しみを払拭することができずに苦悩していることを表している。
 ④ 「よろづにつけて」は、妻の描いた絵物語のすべてが焼失してしまったことに対する長家の悲しみを強調している。
 ⑤ 「思ひ出できこえさせたまふ」の「させ」は使役の意味で、ともに亡き妻のことを懐かしんでほしいと、長家が枇杷殿に強く訴えていることを表している。


 傍線部B「よくぞもてまゐりにけるなど、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思ひ出できこえさせたまふ」は、

「よくぞ持参しておいたことよ」と、思い残すこともないまま、何につけても恋しくばかり思い出し申し上げなさる。

と訳してみたが、「思し残すことなきままに」が正直わからない。ネット上でさがしてみた他の訳をよんでも、なるほどと感じるのに出会えてない。
 ただし、選択肢を吟味してみると、正解にはたどりつけそうだ。

 ②は、「思し残すことなき」を「妻とともに過ごした日々に後悔はない」としている点が、全体から考えて間違い。むしろ後悔しかしてないぐらいの悲しみ方だ。
 ③「『ままに』は『それでもやはり』という意味」とあるが、「ままに」の意味として出てこないだろう。
 ④「『よろづにつけて』は、妻の描いた絵物語のすべてが焼失してしまったことに対する」が誤り。文字通り「何につけても」と解釈するところ。
 ⑤「『思ひ出できこえさせたまふ』の『させ』は使役」とあるが、この「させ」は尊敬だ。
 ①が正解。「など」がついているから「よくぞもてまゐりにける」を心内文ととらえてカギカッコをつけ、その結果「ける」は過去ではなく詠嘆と見分ける。すると選択肢①の解釈はぴったりはまるから、論理的に正解できる問題だと言える。
 単語の意味、文法の理解、文脈の把握などが入り交じった、応用で難しいけど、実力の測れるいい問題ではないだろうか。


問4 この文章の登場人物についての説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。「標準」

 ① 親族たちが悲しみのあまりに取り乱している中で、「大北の方」だけは冷静さを保って人々に指示を与えていた。
 ② 「僧都の君」は涙があふれて長家の妻の亡骸を直視できないほどであったが、気丈に振る舞い亡骸を車から降ろした。
 ③ 長家は秋の終わりの寂しい風景を目にするたびに、妻を亡くしたことが夢であってくれればよいと思っていた。
 ④ 「進内侍」は長家の妻が亡くなったことを深く悲しみ、自分も枕が浮くほど涙を流していると嘆く歌を贈った。
 ⑤ 長家の亡き妻は容貌もすばらしく、字が上手なことに加え、絵にもたいそう関心が深く生前は熱心に描いていた。

 ①「『大北の方』だけは冷静さを保って」、②「気丈に振る舞い亡骸を車から降ろした」、 ③「妻を亡くしたことが夢であってくれればよいと思っていた」、④「自分も枕が浮くほど涙を流していると嘆く」が誤り。
 ⑤「長家の亡き妻は容貌もすばらしく、字が上手なことに加え、絵にもたいそう関心が深く生前は熱心に描いていた。」は、本文「顔かたちよりはじめ、心ざま、手うち書き、絵などの心に入り」と対応し、これが正解。


問5 次に示す【文章】を読み、その内容を踏まえて、X・Y・Zの三首の和歌についての説明として適当なものを、後の①~⑥のうちから二つ選べ。「標準」

【文章】
『栄花物語』の和歌Xと同じ歌は、『千載和歌集』にも記されている。妻を失って悲しむ長家のもとへ届けられたという状況も同一である。しかし、『千載和歌集』では、それに対する長家の返歌は、
 Z 誰もみなとまるべきにはあらねども後るるほどはなほぞ悲しき
となっており、同じ和歌Xに対する返歌の表現や内容が、『千載和歌集』の和歌Zと『栄花物語』の和歌Yとでは異なる。『栄花物語』では、和歌X・Yのやりとりを経て、長家が内省を深めてゆく様子が描かれている。

 ① 和歌Xは、妻を失った長家の悲しみを深くは理解していない、ありきたりなおくやみの歌であり、「悲しみをきっぱり忘れなさい」と安易に言ってしまっている部分に、その誠意のなさが露呈してしまっている。
 ② 和歌Xが、世の中は無常で誰しも永遠に生きることはできないということを詠んでいるのに対して、和歌Zはその内容をあえて肯定することで、妻に先立たれてしまった悲しみをなんとか慰めようとしている。
 ③ 和歌Xが、誰でもいつかは必ず死ぬ身なのだからと言って長家を慰めようとしているのに対して、和歌Zはひとまずそれに同意を示したうえで、それでも妻を亡くした今は悲しくてならないと訴えている。
 ④ 和歌Zが、「誰も」「とまるべき」「悲し」など和歌Xと同じ言葉を用いることで、悲しみを癒やしてくれたことへの感謝を表現しているのに対して、和歌Yはそれらを用いないことで、和歌Xの励ましを拒む姿勢を表明している。
 ⑤ 和歌Yは、長家を励まそうとした和歌Xに対して私の心を癒やすことのできる人などいないと反発した歌であり、長家が他人の干渉をわずらわしく思い、亡き妻との思い出の世界に閉じこもってゆくという文脈につながっている。
 ⑥ 和歌Yは、世の無常のことなど今は考えられないと詠んだ歌だが、そう詠んだことでかえってこの世の無常を意識してしまった長家が、いつかは妻への思いも薄れてゆくのではないかと恐れ、妻を深く追慕してゆく契機となっている。


 本文以外のもう一つのテクストが与えられたとはいえ、複数の和歌の解釈を問うという、センター時代からの問題と同じ型式。この手の問題は、センター時代、むやみに難しいのがあったけど、今回はわりと解きやすいのは、歌そのものがそこまで難しくないし、選択肢の誤答もそれほど紛らわしくないからだ。
 ①は、全文誤り。
 ②は、後半「和歌Zはその内容をあえて肯定することで、妻に先立たれてしまった悲しみをなんとか慰めようとしている」が誤り。
 ④は、前半の同じ言葉を用いるが「感謝」もおかしいし、後半の「それらを用いないことで、和歌Xの励ましを拒む姿勢を表明」はあきらかに誤り。
 ⑤の前半「私の心を癒やすことのできる人などいないと反発した歌」は、本文読まなくても誤答の雰囲気しかしない。
 正解は③と⑥。
 古文は他のに比べて難しいとはいえ、センター試験時代にたまに見かけたような、大学の先生でも20分で解くのは絶対ムリだろうと感じたタイプのものではなかった。
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眠れない夜なんてない

2021年01月24日 | 演奏会・映画など
 吉祥寺シアターで、青年団の公演「眠れない夜なんてない」を観劇する。
 昭和から平成に変わろうとしている時、マレーシアの日本人用リゾート地を舞台に描かれた作品。
 定年を迎え完全に移住してきた老夫婦と、それを尋ねてくる娘たち。定年後の住処を探しに下見に来た夫婦。短期滞在でリゾートを満喫しようとしている若めの夫婦、娘と二人で暮らしている初老の男……。
 平田オリザ演出なので、声もはらないし、セリフのリズム感も演劇チックではない。間違っても踊り出したりはしない。なんでもないやりとり、ごく自然な会話のやりとりが積み重ねられていくうちに、登場人物それぞれが抱える事情や屈託があきらかになっていき、人の居場所のふたしかさや、人間関係のもろさなどをじわじわと感じさせられる。
 
 演劇は表現を見るという受け身の行為ではなく、自己を相対化する行為だ……、的な文章を評論の演習で読んだ記憶がある。

 青年団のお芝居は、開演前から必ず舞台に誰かがいて、ふつうに本を読んだり片付けしたりしてる。もう一人の人が入ってきて軽く会話もする。
 これも本編の芝居のうちかなと思って物販で台本を買ってみると、開場時間の段階から、舞台でこうこうするようにとの指示がある。もはや開場時間が開演に近い。そうか、「男祭り」で開演の前に、教員バンドで15分演奏してしまったのもOKではないか。
 ディズニーランドは、舞浜から入場ゲートの間にもすでにちょっとした趣向が凝らされているのとも本質は似ているかもしれない。ディズニーランドと青年団とでは、そのベクトルの量は似ていて向きは反対だ。
 そして芝居が終わったあと、実は向きも同じなのかもしれないとも思う。
 日常を極力そのまま描こうとするかのように見えたかの芝居は、見ている人をいつのまにか非日常へ連れて行く。日常の自分とまったく異なる方向にいる自分を感じさせてくれるという意味で。
 超高級料亭の出汁みたいな味わいといえるかもしれない。
 一口すすって、味薄くない? と一瞬感じ、いや、ちがう、すごい深い! 何これ? と感じるような。
 料理本に出ている一番出汁のひき方なんて、絶対もったいなくてできるわけないじゃん、という日常を過ごしているのに、じわじわと非日常にカラダを侵食されていくような感覚。
 芝居がはじまった瞬間に、いきなりステーキを口の中にほおりこんでくるようなお芝居もあるけど、青年団はまさに料亭の味わいだ。とすると、埼玉芸術劇場でやってるシェークスピアはフレンチ、キャラメルボックスは洋食屋、梅棒は得たいのしれないアジアン、歌舞伎は高級天ぷら……、みたいなものか。
 食事処にもピンからキリまであるように、お芝居にもあるが、食事のピンに比べたらお芝居は安い。
 静かな演劇の最高峰である青年団は4000円。藤原竜也の出るフレンチの最高峰も1万円ぐらいなのだから。もういっかい食べてみようかしら。
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孤独力

2021年01月23日 | 学年だよりなど
  3学年だより「孤独力」


 数年前の成人の日に、鴻上尚史氏(劇作家・演出家)が、「さいたま新聞」にこんな文章を寄稿されていた。
 20歳になったから大人になるのではない、現に何歳になっても大人になってない人はたくさんいる、大人になるには孤独を経験しなければならないと、鴻上氏は述べる。


~ 孤独には、「本物の孤独」と「偽物の孤独」とがあります。
 一週間、誰とも話さなかったから孤独なのではありません。
 誰とも話さなくても、メールをやりとりし、インターネットで会話していれば、それは孤独ではありません。
 孤独とは、「一人で自分と向き合う」ことです。例えば、あなたがすてきなアドバイスを受けたり、役に立つ本を読んだりしても、一人でかみしめる時間がなければ、それはあなたのものにはなりません。今聞いた役に立つ情報を、右から左に伝えるだけでは、あなたのものになっていないのです。
 二十歳を過ぎて出会う解決不可能な問題は、親に判断を任せない限り、自分で解決するしかありませんが、「偽物の孤独」しか経験してない人は、アドバイスしてくれる人を求めて、ウロウロさまようのです。
 ただ「本物の孤独」の時間を持った人だけが、うんうんとうなりながら問題に取り組むことができるのです。
 もし「本物の孤独」を経験したいと思ったら、あなたは、携帯電話の電源を切り、パソコンやテレビから離れて、あなただけの時間を持つ必要があります。その時間が長ければ長いほど、あなたは「本物の孤独」と出会い、自分自身と会話を始められるのです。
 「本物の孤独」はしんどいですが、あなたに暗闇を進んでいく勇気をくれます。終わりが明確でない暗闇を一歩一歩、歩く時、あなたは初めて大人になるのです。 (鴻上尚史「成人するあなたへ~本物の孤独と出会おう~」より) ~


 これからの私立本番、国立二次で力が発揮できるのか、そもそもどこかに合格するのか、春から新しい生活が過ごせるのだろうか、なにより健康に受験できるのか……。
 表面では、がんばろう、最後まで粘ろうと思いながらも、心のどこかで逃げ道を探そうとしてたり、ほんとうに今のやり方でいいのかと迷ってみたり。
 さまざまな不安を抱えてわれわれは暮らさざるを得ない。
 それは当然だ。目標に対する思いが真摯であればあるほど、不安はわいてくるものだから。
 しかし、それを乗り越えられるのは自分しかいない。
 自分の力でどうにもできないことは変えようがない。状況を変えうる方法は、自分自身が変わることだけだ。周りがどうあろうと、自分の世界に入り込み、粘りきってみようではないか。
 すべて自分のこととして引き受けるしかない受験は、みなさんを1ステージ上の人間に変えることだけは間違いない。
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共通テスト2021年 古文(4)

2021年01月22日 | 国語のお勉強(古文)
〈問1・問2〉

問1 傍線部(ア)~(ウ)の解釈として最も適当なものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。→ 基本的な単語、文法事項の組み合わせで解く問題。「標準」

(ア)えまねびやらず
 ① 信じてあげることができない 
 ② かつて経験したことがない
 ③ とても真似のしようがない
 ④ 表現しつくすことはできない
 ⑤ 決して忘れることはできない

 「え~やらず」……最後まで~しきることができない、「まねぶ」……真似る・学ぶ・そのまま伝える。歴史物語には「そのまま伝える」の意味の「まねぶ」が多く用いられる。正解は④。

(イ)めやすくおはせしものを
 ① すばらしい人柄だったのになあ
 ② すごやかに過ごしていらしたのになあ
 ③ 感じのよい入でいらっしゃったのになあ
 ④ 見た自のすぐれた人であったのになあ
 ⑤ 上手におできになったのになあ

 「めやすし」……感じがいい、「おはす」……いらっしゃる、「ものを……~なのになあ」。正解は③

(ウ)里に出でなば
 ① 自邸に戻ったときには
 ② 旧都に引っ越した日には 
 ③ 山里に隠(いん)棲(せい)するつもりなので
 ④ 妻の実家から立ち去るので
 ⑤ 故郷に帰るとすぐに

 「里」……実家、「出でなば」……ダ行下二段「出づ(出かける)」連用形+完了「ぬ」未然形+「ば」。「未然形+ば」なので、「もし~したら」。正解は①。
 

問2 傍線部A「『今みづから』とばかり書かせたまふ」とあるが、長家がそのような対応をしたのはなぜか。→文脈からいろいろ類推して解く「難」

 ① 並一通りの関わりしかない人からのおくやみの手紙に対してまで、丁寧な返事をする心の余裕がなかったから。
 ② 妻と仲のよかった女房たちには、この悲しみが自然と薄れるまでは返事を待ってほしいと伝えたかったから。
 ③ 心のこもったおくやみの手紙に対しては、表現を十分練って返事をする必要があり、少し待ってほしかったから
 ④ 見舞客の対応で忙しかったが、いくらか時間ができた時には、ほんの一言ならば返事を書くことができたから。
 ⑤ 大切な相手からのおくやみの手紙に対しては、すぐに自らお礼の挨拶にうかがなければならないと考えたから。


……宮々よりも思し慰むべき御消(せう)息(そこ)たびたびあれど、ただ今はただ夢を見たらんやうにのみ思されて過ぐしたまふ。月のいみじう明(あか)きにも、思し残させたまふことなし。内裏(うち)わたりの女房も、さまざま御消息聞こゆれども、よろしきほどは、A〈 「今みづから」とばかり書かせたまふ 〉。

 おくやみの「消息(手紙)」がいろんな方から寄せられる。今だったら、メールとかラインにあたるのだろうか。「宮々」は長家の姉たちを指すと注にあるが、おろそかに扱えない存在であろう。
 女房たちからも届く。「よろしきほど」どういう人かを指すか難しいが、「宮々」ほどの方ではないはずだ。物事の評価を表す言葉に「よし」「よろし」「わろし」「あし」の四段階がある。「よし・あし」は絶対的な「良い・悪い」だが、「よろし・わろし」は相対的なもので、文脈によって意味が幅広い。きわめて日本的な単語だ。
 だから「よろし」は、「いい感じ」「わるくない」「まあいいかな」「ふつう」「ましかな」のようになる。
「『今みづから』とばかり」の「ばかり」から、「~とだけ書いておく」というニュアンスが伝わる、宮々ほどでなく、ふつうの相手には、あとで連絡するね、またあたらめてねとひと言だけ返しておいたということだろう。無視もできないから、スタンプいっこ送っておくとか。
 ②「妻と仲のよかった女房たち」とは判断できないし、「この悲しみが自然と薄れるまでは返事を待ってほしい」は「今みづから」とも対応しない。
 ③「心のこもったおくやみの手紙に対しては、表現を十分練って返事をする必要があり」、④「見舞客の対応で忙しかった」は、ともに本文から導き出されない。
 ⑤「大切な相手からのおくやみの手紙に対しては」は「よろしきほど」とずれることになる。正解は①。
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共通テスト2021年 論理的文章(4)

2021年01月22日 | 国語のお勉強(評論)
10~18〈日本の妖怪観の変容〉後半

⑮⑯⑰⑱近代の妖怪

 一般論 近世 妖怪……リアルなものとして恐怖した迷信の時代
     近代 妖怪……合理的思考によって否定した啓蒙の時代 
      ↑
      ↓ 現実は逆
 筆者  近世 妖怪……「表象」としてリアリティから切り離される
     近代 妖怪……新たなリアリティに回帰する

近代「人間」
    ∥
  容易に妖怪を「見てしまう」不安定な存在
  コントロール不可能な「内面」を抱えた存在
    ∥
  謎めいた「内面」を抱え込む「私」
    ∥
 「不気味なもの」・未知なる可能性を秘めた神秘的な存在
    ↓ 投影
   妖怪


問5 この文章を授業で読んだNさんは、内容をよく理解するために【ノート1】~【ノート3】を作成した。本文の内容とNさんの学習の過程を踏まえて、(ⅰ)~(ⅲ)の問いに答えよ。 →(ⅰ)(ⅱ)は全体構造を把握する問題。(ⅲ)は複数テクスト問題をむりやり作ったもの。

(1)Nさんは、本文の1~18を【ノート1】のように見出しをつけて整理した。空欄Ⅰ・Ⅱに入る語句の組み合わせとして最も適当なものを後の①~④のうちから一つ選べ。

 【ノート1】
 ● 問題提起(1~5)
    2~3 〈   Ⅰ   〉
    4~5 〈   Ⅱ   〉
 ● 方法論(6~9)
    7~9 アルケオロジーの説明
 ● 日本の妖怪観の変容(10~18)
    11 中世の妖怪
    12~14 近世の妖怪
    15~17 近代の妖怪

 ① Ⅰ 妖怪はいかなる歴史的背景のもとで娯楽の対象になったのかという問い
   Ⅱ 意味論的な危機から生み出される妖怪
 ② Ⅰ 妖怪はいかなる歴史的背景のもとで娯楽の対象になったのかという問い
   Ⅱ 妖怪娯楽の具体的事例の紹介
 ③ Ⅰ 娯楽の対象となった妖怪の説明
   Ⅱ いかなる歴史的背景のもとで、どのように妖怪認識が変容したのかという問い
 ④ Ⅰ 妖怪に対する認識の歴史性
   Ⅱ いかなる歴史的背景のもとで、どのように妖怪認識が変容したのかという問い

 「娯楽の対象としての妖怪は、いかなる歴史的背景のもとで生まれてきたのか。」という問題提起が、①段落で行われている。
 ②~⑤は、それを具体的に説明している。
 ②・③は、もともと妖怪は娯楽の対象ではなかったことと、その理由とともに説明される。→空欄Ⅰ
 ④・⑤では、それをふまえて、認識の変化を生んだ歴史的背景を探りたいと問題提起する。→空欄Ⅱ
 この構造に対応する見出しとしては、④の選択肢が該当する。Ⅰの吟味だけで、正解は得られる。「やや易」


(ⅱ)Nさんは、本文で述べられている近世から近代への変化を【ノート2】のようにまとめた。空欄Ⅲ・Ⅳに入る語句として最も適当なものを、後の各群の①~④のうちから、それぞれ一つずつ選べ。 → 対比の把握 「標準」

 【ノート2】
 近世と近代の妖怪観の違いの背景には、「表象」と「人間」との関係の変容があった。
 近世には、人間によって作りだされた、〈  Ⅲ  〉が現れた。しかし、近代へ入ると 〈  Ⅳ  〉 が認識されるようになったことで、近代の妖怪は近世の妖怪にはなかったリアリティを持った存在として現れるようになった。

Ⅲに入る語句
 ① 恐怖を感じさせる形象としての妖怪
 ② 神霊からの言葉を伝える記号としての妖怪
 ③ 視覚的なキャラクターとしての妖怪
 ④ 人を化かすフィクショナルな存在としての妖怪

Ⅳに入る語句
 ① 合理的な思考をする人間
 ② 「私」という自立した人間
 ③ 万物の霊長としての人間
 ④ 不可解な内面をもつ人間

 1~5で提起された問題について、6~9の方法論を用いて、10~18のように記述する。
  民間伝承としての妖怪 → 娯楽の対象としての妖怪 → 人間の不可解さを投影する妖怪
 という変化の大きな流れがつかめればいい。
 空欄Ⅲには③「視覚的なキャラクターとしての妖怪」、空欄Ⅳは④「不可解な内面をもつ人間」が入る。「やや易」


(ⅲ)【ノート2】を作成したNさんは、近代の妖怪観の背景に興味をもった。そこで出典の『江戸の妖怪革命』を読み、【ノート3】を作成した。空欄Ⅴに入る最も適当なものを、後の①~⑤のうちから一つ選べ。

 【ノート3】
 本文の17には、近代において「私」が私にとって「不気味なもの」となったということが書かれていた。このことに関係して、本書第四章には、欧米でも日本でも近代になってドッペルゲンガーや自己分裂を主題とした小説が数多く発表されたとあり、芥川龍之介の小説「歯車」(一九二七年発衰)の次の一節が例として引用されていた。

 第二の僕、――独(ど)逸(いつ)人の所謂(いわゆる)Doppelgaengerは仕合(しあわ)せにも僕自身に見えたことはなかった。しかし亜(あ)米(め)利(り)加(か)の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「先達(せんだつて)はつい御挨拶もしませんで」と言われ、当惑したことを覚えている。)それからもう故人になったある隻(かた)脚(あし)の翻訳家もやはり銀座のある煙草(たばこ)屋に第二の僕を見かけていた。死はあるいは僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかった。

考察 ドッペルゲンガー(Doppelgaenger)とは、ドイツ語で「二重に行く者」、すなわち「分身」の意味であり、もう一人の自分を「見てしまう」怪異のことである。また、「ドッペルゲンガーを見た者は死ぬと言い伝えられている」と説明されていた。〈   Ⅴ   〉
 17に書かれていた「『私』という近代に特有の思想」とは、こうした自己意識を踏まえた指摘だったことがわかった。

 ① 「歯車」の僕は、自分の知らないところで別の僕が行動していることを知った。僕はまだ自分でドッペルゲンガーを見たわけではないと安心し、別の僕の行動によって自分が周囲から承認されているのだと悟った。これは、「私」が他人の認識のなかで生かされているという神秘的な存在であることの例にあたる。
 ② 「歯車」の僕は、自分には心当たりがない場所で別の僕が目撃されていたと知った。僕は自分でドッペルゲンガーを見たわけではないのでひとまずは安心しながらも、もう一人の自分に死が訪れるのではないかと考えていた。これは、「私」が自分自身を統御できない不安定な存在であることの例にあたる。
 ③ 「歯車」の僕は、身に覚えのないうちに、会いたいと思っていた人の前に別の僕が姿を現していたと知った。僕は自分でドッペルゲンガーを見たわけではないが、別の僕が自分に代わって思いをかなえてくれたことに驚いた。これは、「私」が未知なる可能性を秘めた存在であることの例にあたる。
 ④ 「歯車」の僕は、自分がいたはずのない場所に別の僕がいたことを知った。僕は自分でドッペルゲンガーを見たわけではないと自分を落ち着かせながらも、自分が分身に乗っ取られるかもしれないという不安を感じた。これは、「私」が「私」という分身にコントロールされてしまう不気味な存在であることの例にあたる。
 ⑤ 「歯車」の僕は、自分がいるはずのない時と場所で僕を見かけたと言われた。僕は今のところ自分でドッペルゲンガーを見たわけではないので死ぬことはないと安心しているが、他人にうわさされることに困惑していた。これは、「私」が自分で自分を制御できない部分を抱えた存在であることの例にあたる。

 複数テクスト問題といいながら、元の本文との異同を吟味しなくても正解は得られてしまう。
「歯車」の読み取りから、①「別の僕の行動によって自分が周囲から承認されているのだと悟った」、③「会いたいと思っていた人の前に別の僕が姿を現していた」「自分に代わって思いをかなえてくれた」、④「自分が分身に乗っ取られるかもしれないという不安」、⑤「死ぬことはないと安心」「他人にうわさされることに困惑」が誤り。②が正解。選択肢の後半は、近代的人間の不気味性との対応で作られているが、もう一工夫してもよかったんじゃないかな。「標準」
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共通テスト2021年 古文(3)

2021年01月20日 | 国語のお勉強(古文)
〈本文〉
 かやうに思しのたまはせても、いでや、もののおぼゆるにこそあめれ、まして月ごろ、年ごろにもならば、思ひ忘るるやうもやあらんと、われながら心憂く思さる。何ごとにもいかでかくと(イ)〈 めやすくおはせしものを 〉、顔かたちよりはじめ、心ざま、手うち書き、絵などの心に入り、さいつごろまで御心に入りて、うつ伏しうつ伏して描(か)きたまひしものを、この夏の絵を、枇(び)杷(は)殿(どの)にもてまゐりたりしかば、いみじう興じめでさせたまひて、納めたまひし、B〈 よくぞもてまゐりにけるなど、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思ひ出できこえさせたまふ 〉。年ごろ書き集めさせたまひける絵物語など、みな焼けにし後(のち)、去年(こぞ)、今年のほどにし集めさせたまへるもいみじう多かりし、(ウ)〈 里に出でなば 〉、とり出でつつ見て慰めむと思されけり。

注1 この殿ばら――故人と縁故のあった人々。
 2 御車――亡骸を運ぶ車。
 3 大納言殿――藤原斉信。長家の妻の父。
 4 北の方――「大北の方」と同一人物。
 5 僧都の君――斉信の弟で、法住等の僧。
 6 宮々――長家の姉たち。彰子や妍子(枇杷殿)ら。
 7 みな焼けにし後――数年前の火事ですべて燃えてしまった後。

 人物関係図
          彰子――東宮――若宮
          妍子(枇杷殿)
          長家(中納言殿)
           ∥
 大北の方      ∥
  ∥―――――― 亡き妻
 斉信(大納言殿)
 僧都の君


〈現代語訳〉
 このように(世の無常など納得できないと)お思いになりおっしゃってはいるが、「いやしかし、私はまだ世のあれこれを分かるのであるようだ、この上、数ヶ月、数年も経ったら、(亡き妻を)忘れることもあるのだろうか」と、自分の心ながら、つらいものだとお思いになる。
 (妻は)どんなことでも「どうしてこんなに」と思うほど(イ)〈 感じがよくていらっしゃったのになあ 〉、容姿をはじめ、性格、筆跡もよく、絵などにも関心が深く、つい先頃まで、熱心に、うつ伏しうつ伏ししてはお描きになったのだが、この夏に描いた絵を枇杷殿(妍子)に持参申したところ、たいそう素晴らしいと褒めなさって、納めていただいたが、B〈 「よくぞ持参しておいたことよ」と、思い残すこともないまま、何につけても恋しくばかり思い出し申し上げなさる。 〉長年、(亡き妻が)書き取りなさった絵物語などは、みな焼けてしまった後、去年、今年の間に書き取りなさったものも大変多かったが、(ウ)〈 実家に戻ったならば 〉、(その絵を)取り出して見て気持ちを慰めようとお思いになった。
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