水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

通知簿(2)

2021年10月28日 | 学年だよりなど
1学年だより「通知簿(2)」


 大学を卒業し、就職して働きはじめる。彼女ができ、結婚し家庭をもつ。
 子どもが生まれて、その成長を支え、会社では出世して……という人生を過ごしていくうちに、学生時代とはまったく異なる幸せの「ものさし」をもつようになるだろう。
 「給料4、仕事内容3、人間関係4、会社の将来性3、アフターファイブ5……」
 「家族の健康5、子どもの成長5、趣味の時間4、地域との関係3、将来設計3……」
 「ファッション5、髪型4、メイク5、肌のつや4、体脂肪率3……」
 ものさしは人によって違う。
 その人が、何歳で、どんな環境で生きているかによって変わる。
 どんなものさしで生きたにせよ、死ぬ間際に自分の人生をふりかえった時、「楽しかった5、充実していた5……」とつけることができたなら、幸せな人生だと言えるのではないだろうか。
 逆に、傍から見ると5ばかりみたいなのに、自分評価が「満足度2」とかだと寂しい。
 宮城県にある福(ふく)聚(じゆ)山(さん)慈(じ)眼(げん)寺(じ)の住職、塩(しお)沼(ぬま)亮(りよう)潤(じゆん)さんは、人生の五科目とは「すなおさ」「優しさ」「素直さ」「謙虚さ」「正直さ」「思いやり」だと言う。
 塩沼さんは、1300年間に二人しか達成していない、「大(おお)峰(みね)千(せん)日(にち)回(かい)峰(ほう)行(ぎよう)」という修行を達成した大阿闍梨とよばれる方だ。
 「大峰千日回峰行」とは、奈良県吉野山の金(きん)峯(ぷ)山(せん)寺蔵王堂から、大峰山山頂まの道のりを1000往復するという修行だ。往復48㎞、高低差1300メートルの山道を毎日歩き続ける。
 ただし雪深い期間は避け、5月3日から9月22日までのおよそ四ヶ月の間に、120数日歩き、それを9年重ねて千回行が達成される。
 人として考えられる最高の修行をした大阿闍梨が、たどりついた境地がこれだ。


~ 人それぞれの人生、それぞれに日々やらなければならないことをしっかりやって、よい人生成績をのこさなければなりません。五段階評価で、優しさ5,素直さ5、謙虚さ5,正直さ5、思いやりも5……。最高の人生の通信簿をもってあの世に行って、仏さまに「よくがんばってきたね」と、おほめの言葉をいただかなければならないと思います。
                  (塩沼亮潤『心を込めて生きる』致知出版社) ~


 なるほど、大阿闍梨のおっしゃるとおりだ、もう人と争うのはやめよう、受験や出世なんてバカバカしい、欲を捨ててのんびりしよう、通知簿に「優しさ5」がつけばいい……、と考えるのも違うと思う。
 塩沼亮潤大阿闍梨は、それぞれに与えられた場で与えられた役割を果たしていくことが「行」だとおっしゃる。役割を抛(ほう)棄(き)しての「優しさ」「謙虚さ」は、本物とは言えないはずだ。
 日々どう過ごしていくかがすべて、私達にとっての修行だ。
 自分の通知簿に、どんな科目を並べるのか、成績をつけられるのか。
 それは、これからどんな修行を積んでいくかで決まるのだろう。
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通知簿

2021年10月25日 | 学年だよりなど
1学年だより「通知簿」


 「国語4、数学4、理科4、社会5、技術家庭4、音楽3、美術4、体育5、英語5……」
 ○○高校に合格するために、二学期がんばって国語も数学も5にしようと、去年の今頃がんばっていた人も多いことだろう。
 大学受験では、「評定平均値」という数字が、高校入試の「内申点」と同じように扱われる。
 体育や芸術も含め全ての教科の平均だから、高校での学習にどれだけ誠実に取り組んでいるかがわかる評価だといえるだろう。
 自分の受験に必要な科目だけがんばって、あとの科目はぎりぎり単位をとれればいいというスタンスの人もいる。その方が受験的コスパはよさそうだ。
 しかし、卒業の時期に、進路と3年間の成績を比べ合わせたとき、受験に直接つながらなさそうな科目もしっかり取り組んでいた先輩の方が、結局はいい結果になっているようだ。
 物事への取り組みの姿勢が現れるということなのだろう。
 そもそも大学受験は、限られた教科・科目だけの試験ではあるが、問題の内容を吟味してみると、世の中全体を見ているかどうかが試されていることも多い。とくに現代文や英語は、社会問題や、その背景についての知識があるかどうかが読解にかかわる。小論文にいたっては直接問われる。家庭科で学ぶ「消費者行動」や、保健体育で習う「終末医療」について論じないといけない。
 現状の大学入試を「1点刻みの知識偏重」になっていると批判する「識者」もいるが、たぶん感覚で言っているだけで、現実の入試問題を見てはいないだろう。
 「英語4、国語4、数学3、地歴公民4、理科3、保健体育3、芸術3、総合学習、情報……」
 全部、手を抜かずにしっかりやっていこう。
 大学生になり、いざ就職活動という時期になると、それまでの学生生活をどう過ごしてきたがが問われる。エントリーシートに自己PRを書こうとして、そこからエピソードを作ろうとしても間に合わない。「リーダーシップがある」「根気強くものごとに取り組める」などと自己PRするには、それを裏付ける具体的な経験が必要だ。
 「一般教養4、専門教科4、ゼミの発表3、サークル5、アルバイト3……」
 成績そのものだけでなく、どう取り組んできたか、仲間と協力できたかなども評価の対象だ。
 そして就職する。仕事しはじめると、そこでまたいろんな評価を受ける。
 「業務能力5、顧客対応力3、企画力4、協調性5、創造力3、健康状態5……」
 考えてみると、人生はずっと「通知簿」をつけられているようなものかもしれない。
 気がつくと自分でもつけている。
 自分の「能力、素質、学歴、勤め先、収入、身体能力、性格、見た目……」または自分をとりまく「家庭環境、住んでいる場所、コミュニティ、友人関係……」。
 通知簿の合計点が、自分にとっての「幸福値」のように私達は感じる。
 だとすれば、科目設定次第で、幸福度は変わる。客観的な「幸福値」が存在するのではなく、それを測る「ものさし」次第で、自分の幸福度はまったく変わるということだ。
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廣津留すみれ(2)

2021年10月22日 | 学年だよりなど
1学年だより「廣津留すみれ(2)」


「少しの工夫で、努力はごく普通にできることです。ときには楽しいものに変わることさえあります。」――日々の英語の勉強も、東京まで日帰りでレッスンに通うことも、はたから見れば大変な努力だが、すみれさんにとっては普通の日常になっていた。


~ 毎晩「明日のTODOリスト」を作るのも日課でした。
 ……すべきことを思いつくままに書き出し、優先順位を決めて、重要でないことは省略。残ったタスクを上から順にどんどん消していく、というビジネスマンのような作業をしていました。
 その中で、時間の使い方や段取りを「自分で考える」ことが当たり前になっていきました。親にあれこれ用意してもらわずに、東京日帰り往復をこなせたのもこの習慣のおかげです。
 今でも、リスト作りは大好き。とくにリストを消す瞬間が好きです。
 日々の多忙さを、「タスク」という敵を倒すゲームのように捉えているので、消すたびに達成感と高揚感が得られるのです。~


 はたから見ればものすごく頑張っている状態が、当人にとっては「普通」になっている。
 努力してがんばっているのではなく、工夫しているのだ。


~ TODOリストを書く習慣は、タスクの重要度を見極めるトレーニングにもなりました。それは日々の用事にとどまらず、「私の人生に必要なこととそうでないこと」を意識する姿勢にもつながりました。
 勉学とバイオリンは、子ども時代の私の重要な2本柱でした。バイオリンに関わることはいずれも、週末の東京往復も含め、時間をかける価値のあるものでした。
 一方、学校生活を送る中では、「ムダでは?」と思うこともありました。
 たとえば、たいていの子が通っている進学塾。教育熱心なご家庭ほど「いい塾に通っていい大学に入る」ことを追求しますが、学校でも教わることをもう一度、塾で習う必要があるでしょうか。そういうわけで、廣津留家は塾通いをしない方針をとっていました。
(廣津留すみれ『ハーバード・ジュリアードを主席卒業した私の「超・独学術」』) ~


 みなさんには「共通テストで8割とる」という大きくて難しげなタスクがある。
 しかし、定期考査8割を重ねる、そのために今週はここまで、毎日これだけやっておく……、というように細分化していくと、そこまで困難な作業ではないことに気づける。
 「いい人生を過ごしたい」「いつか成功したい」は、大きな、しかも漠然としたタスクだ。
 できるかぎり細分化してみよう。日々のTODOリストにおとしこめたなたら、あとはチェックしながらやっていくだけだ。
 細分化したリストを作ってみると、本当に必要なことかどうかも見えてくるものだ。
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「ネットが崩す公私の境」の授業(5)

2021年10月18日 | 国語のお勉強(評論)
第四段落(15)


15 ニーチェの予言から一世紀。〈 結果 〉は、だれもが読者であり続けただけでなく、今後は、だれもが著者になる時代となるだろう。〈 だれもが公表できるという事態 〉は、いったい今度は何を腐敗させてしまうことになるのだろうか。


ニーチェの予言 
 近代 誰もが読者になる → 精神 … 腐敗
      ↓
 現代 誰もが著者になる
      ∥
    だれもが公表できる事態
      ↓
    何を腐敗させるだろうか


Q26「結果」とは何の結果か。簡潔に記せ。
A26 近代化が進んだ結果。

Q27「だれもが公表できるという事態」とあるが、筆者は何を危惧しているのか。
A27 人間の公と私の境が完全になくなってしまうこと。

Q28「ネットが崩す公私の境」とはどういうことか。
A28 インターネットの普及によって、現代社会においては、公と私との境界線が曖昧になってしまうということ。


前近代 限られた者しか読者になれない時代
 ↓ 活版印刷術の発明
近代  だれもが読者になれる時代 自我の成立
    限られた者しか著者になれない時代
 ↓ インターネットの普及
現代  だれもが著者になれる時代 自我境界のあいまい化
       ↓
    肥大化した自己が垂れ流しになる事態
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廣津留すみれ

2021年10月17日 | 学年だよりなど
1学年だより「廣津留すみれ」


 廣津留(ひろつる)すみれさんは、ハーバード大学とジュリアード音楽院をともに主席で卒業した。
 日本でいえば東大と芸大の両方で一番だったという感覚だが、世界中からエリートが集まるその規模はまったく異なる。幼い頃から英語とバイオリンを学び、国際コンクールの入賞経験がある廣津留さんを、天才少女と評する人も多いが、本人にその意識はないという。


~ 私は、自分を天才だとはまったく思っていません。むしろ、自然に囲まれた田舎で公立小学校から、公立中学、公立高校と通った「普通の日本人」なのです。
 天才とはきっと、「何もしなくても瞬時にすべて理解・習得・実践できてしまう人」のことだと思います。しかし、私は決してそんな超人ではありません。何もしないでここまで来ることは、とうてい不可能でした。 ~


 大分県立大分上野丘高等学校の2年の冬、同級生たちが東大、九州大といった難関校を目指して勉強するなか、もうひとつ目標を定められずにいた。
 頭にあるのは、バイオリンの国際コンクール入賞後に見学したハーバード大学の空気だった。
 受験は可能だろうか。母校からハーバードを受験した先輩はいない。先生も、「ごめん、わからない」という。自分で大学のホームページを調べてみると、日本にいながら普通に受験できることがわかった。
 ただし、一発勝負の日本の大学とは異なり、SAT(アメリカの大学進学適性試験)のスコアや課外活動の成果が求められ、エッセイとよばれる小論文2本を提出する必要がある。もちろん、すべて英語だ。猛勉強がはじまった。もともとすみれさんは、努力することは苦ではなかった。


~ たとえば、「必要のないことはしない」習慣。不得手なことに時間を割かず、したいこと、伸ばしたいことに集中するクセを、子どものころからつけてきました。
 集中といえば、いわゆる集中力を上げるのも得意なほうです。
「それこそ生来の才能ではないか」と言われそうですが、これも「必要のないことをしない」習慣があれば意外に簡単。「必要なこと・したいこと」に絞り込めば、集中力や熱意は出てくるものです。そしてもう一つ、私の最大の強みと言えるのが「淡々と頑張れること」。
 頑張る、努力するという言葉にはともすれば暗いイメージが伴いますが、これまた偏見です。 少しの工夫で、努力はごく普通にできることです。ときには楽しいものに変わることさえあります。
  (廣津留すみれ『ハーバード・ジュリアードを主席卒業した私の「超・独学術」』KADOKAWA)


 これは母親の育て方が大きいだろう。物心つくかつかないうちから、英語とバイオリンにふれさせていた。はやい段階で遺伝子をオンにしていたのだ。
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「ネットが崩す公私の境」の授業(4)

2021年10月16日 | 国語のお勉強(評論)
第三段落後半(12~14)


12 従来のメディアでは、個人が公に対して発言するには、さまざまな困難や編集者らによるチェックなどが伴っていた。良くも悪くも、〈 この距離 〉こそ、思いを思考に、一面的な思念を十分吟味された意見へと練り上げる。
13 しかし、インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピューターに保存することと、ネット上に公開することの差は、二、三のキー操作の差にすぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは、〈 「発想」と「発表」との間の落差がほとんど存在しない 〉。あるいは、「自我境界」があいまい化、拡大化し、自己と世界が、いわば「短絡」してしまうのである。〈 ここでは、プライベートとパブリックの境が溶け落ちる 〉。
14 さまざまな情報とともに、何億もの個人のとりとめもない思いや理解や誤解が、ネット上にあふれる。これらは、呼び出されなければ無言のままにとどまっているが、ひとたび検索の網にかかれば、強大な力を発揮することになる。


Q17「陶冶」と意味の近い言葉を指摘せよ。
A17 チェック 吟味

「この距離」について、

Q18何と何の「距離」か。
A18 個人と公

Q19 「距離」を隔てているのは何か。21字で抜き出せ。
A19 さまざまな困難や編集者らによるチェックなど

Q20「『発想』と『発表』との間の落差がほとんど存在しない」のはなぜか。その理由を述べた一文の最初から5字を記せ。
A20 しかし、イ

「ここでは、プライベートとパブリックの境が溶け落ちる。」について、

Q21「ここ」とはどこか。 
A21 ネット上

Q22「プライベート」「パブリック」を漢字一字の語に言い換えよ。
A22  プライベート … 私   パブリック … 公

Q23「溶け落ちる」とは、どういうことの比喩か。
A23 気がつかないうちに、ゆっくりとなくなっていくこと。

Q24 この結果どのような事態を招いたと述べられているか。14段落のことばを用いて40字以内で記せ。
A24 何億もの個人のとりとめもない思いや理解や誤解が、ネット上にあふれる事態。


〈個人の公に対する発言〉

従来のメディア (新聞・テレビ・ラジオetc)
        チェック
 思い      →  思考
 一面的な思念  →  十分吟味された意見
        ↑
        ↓
インターネット
 気楽に書き連ねた文章 → 公開
 発想                  → 発表
 個人のとりとめもない思いや理解や誤解  → あふれる
     ∥
 自己と世界が「短絡」
     ∥
「自我境界」があいまい化・拡大化


Q25「プライベートとパブリックの境が溶け落ちる」とあるが、どのような問題意識が述べられているのか。100字以内で説明せよ。

A25インターネットが出現して以来、
  誰もが自分の考えを簡単に公開できるようになり、
  公と私の境界線が無意識のうちに失われてきた結果、
  人々の肥大化した自己が
  世界中にさらけだされる事態に陥っているということ。

〈傍線部説明〉
 ①傍線部そのものを分析する
 ②傍線部前後を確認する
 ③傍線部を含む意味段落をふまえる

〈こたえの基本形〉
 S    V
 何が(☆)どうする ということ
 S    C
 何が(☆)どんなだ ということ

 ☆の部分に、理由(~ので・~のために)、対比(~ではなく)
手段(~によって)、限定(~のとき)
              といった要素を字数に応じて補う
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プラトー

2021年10月14日 | 学年だよりなど
1学年だより「プラトー」


 高校に入ってから始めた競技。バドミントン、ラグビー、アメフト、少林寺拳法……。
 運動能力がそこそこある人は、早い段階で、めきめき上達する。しかし、しばらくすると、練習しても練習しても停滞してるように感じる時期がくる。それでも我慢して努力し続けると、あるとき急に、ワンランクアップした自分に気づく日がくる。
 単語も覚えた、文法も一通りやった、学校のテストではそれなりにとれるようになった、でも模試ではなかなか結果が出ない……。あきらめることなく勉強し続けていると、しばらくして急に読めるようになってくる。
 こういう例は、どんな分野にも見られ、「成長曲線」として説明される。
 「成長と努力は正比例しない」の原則が、その曲線に表現される。
 がんばってもなかなか結果がでない時期、いわゆる「プラトー(高原)」と呼ばれる時期、人のからだの中で何が起きているのだろう。
 「学年だより」を熱心に読んでくれているみなさんには、すでに答えが見えているだろう。
 この期間に行われているのが、遺伝子スイッチの切り替えだ。(№7~9参照)
 DNAのうち、遺伝情報そのものを持つ遺伝子の占める割合はわずか2%。
 そこには、「目を作る」「心臓を作る」など、体を作るための基本的な設計図や、人間の様々な能力や体質に関わる情報が書き込まれている。
 その人の、記憶力、持久力、音楽の才能、運動の才能、人付き合いのうまさ……といったものは、それらの遺伝情報がどの程度読み取られ、発現させていくかで決定する。
 たとえば「音楽能力アップ」に関わる遺伝子(いろんな要素があるけど)は、みんなが持っている。そのスイッチがオンになっているか、オフのままか、もっと言えば、どの程度オンになっているかなどの状況で、音楽の能力が決まる。
 おぎゃーと生まれたときに、決まっているわけではない。
 ピアノの天才、バイオリンの天才と呼ばれる人達がいるけれど、生まれた瞬間に天才なのではなく、早い段階で、「むりやり」オンにしてきた結果なのだ。
 これは、脳の研究でもあきらかになっていて、早期に音楽的訓練を受けた人は、そうでない人よりも、大脳の中の音楽をつかさどる部分が極端に発達している。
 「天才」は、後天的に作られるのだ。
 遺伝子は、その生命体がおかれた環境の変化に応じて働き方を変える。
 新しいスポーツに取り組む、習い事をはじめる、新しい科目を勉強する……。
 食事が変わる、睡眠時間が変わるといった習慣の変化、誰といっしょにいるか、それによってかかるストレスレベルの変化など、ありとあらゆる環境の変化に対し、人のからだは遺伝子レベルで対応しようとする。生命体を維持するためだ。
 プラトーがおとずれたなら、「いま遺伝子レベルで自分は成長している」と意識しながら、それまで通りの負荷をかけ、情報をインプットし続けていくことだ。
 伸びがとまったときには、「やった! 人体改造期に入った」と思えばいい。
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「ネットが崩す公私の境」の授業(3)

2021年10月12日 | 国語のお勉強(評論)
第三段落前半(9~11)


9 〈 情報発信の総量は、実は、メディア形態の技術的制約によって決定されている 〉。書物文化、あるいは、TV・ラジオ、新聞・雑誌などのマス・メディアにおける著者・情報発信者数は、〈 構造上少数たらざるを得なかった 〉。
10 しかし、〈 インターネットというメディア 〉に特徴的なのは、情報発信者がどれほど多数であろうとも、情報の非物質性、デジタル情報に特徴的な光速に近い検索能力によって、必要な情報が瞬時に取り出せる、という点にある。もし、一億人分の日記を紙メディアで集積したとしたら、目的の情報を探し当てることはほぼ不可能である。ここでは、情報量の過度な増加は、そのまま情報の有用性の減少につながる。
11 だがインターネットでは、無限に近い不必要な情報に関与することなく、適切な検索手法によって、必要な情報だけを的確に抽出することができる。したがって、このメディアでは、〈 情報の総量を制限したり、情報を内容や質によって淘汰したりする力が、働かない 〉のである。


Q12「情報発信の総量は、実は、メディア形態の技術的制約によって決定されている」とはどういうことか。(70字以内)。
A12 どれくらいの量の情報が発信されるかは、
   発信したい人の数や
   発信すべき情報の量ではなく、
   各メディアの持つ発信能力によって決まる
   ということ。

Q13「マス・メディアにおける著者・情報発信者数は、構造上少数たらざるを得なかった」 とあるが、その原因は端的にいって何か。5字で抜き出せ。
A13 技術的制約

Q14「インターネットというメディア」のもつ特徴をそれぞれ10字以内で2点抜き出せ。
A14 情報の非物質性  光速に近い検索能力

Q15「淘汰」の意味を記せ。
A15 不必要なものが取り除かれること。

Q16「このメディアでは、情報の総量を制限したり、情報を内容や質によって淘汰したりする力が、働かない」とあるが、なぜか。(60字以内)
A16 インターネットというメディアでは、
   無限の情報の中から
   必要な情報だけを的確に抽出することが
   技術的に可能になったから。


マスメディア 書物、TV・ラジオ、新聞・雑誌……
 著者・情報発信者……少数 ← メディアの技術的制約
    ↑
    ↓
インターネット
 情報の非物質性・光速に近い検索能力
    ↓
 必要な情報が瞬時に取り出せる
   ↓
 情報発信者……多数 情報の淘汰……不要
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『君の顔では泣けない』(2)

2021年10月11日 | おすすめの本・CD
 設定が異常な物語は、それ以外の部分は徹底的にリアルしないといけない。
 すると、「ありえない」ことが「もしかしたら」に変わる。
 リアルのみで構成されている「現実」のほころびに気づくことになる。
 入れ替わりものしかり、タイムマシンものしかり。
 日常生活のなかで、あれ? と思うことがあっても、人は自分なりの理屈をつけてやり過ごす。
 いそがしいしね。
 小説も、映画も、お芝居も、そんな我々の日常に、ほおっておこうと思えば可能だけど、気にしはじめるとほおっておけない「とげ」が刺さっている感覚をもたらす。
 一見突飛に見える作り話のなかに、それまで気づけなかった何かが見えてきて、ぞわぞわさせる。
 作り話の「突飛な設定」は、実は人をぞわざわさせるための手段だ。
 「そんなこと、あるわけないだろ」と聞く耳もたない人にとっては、なんの力も発揮しないけど。


~ 過去の自分が夢だったのではないかと思うときがある。今の俺が本当の俺で、過去の俺は偽物なのではないかと。怖くなる。男だった頃の自分を懐かしむこの感情すら、ただの妄想の産物なんだろうかと。
 けれどこうやって水村と会うと安堵する。同じ体験をしている人間が目の前にもいる。俺のあの日々は嘘じゃなかったんだと胸を撫で下ろす。今更ながら俺は、年に一度会うという水村の提案に感謝していた。 ~


 高校1年の夏に入れ変わった二人。
 一晩寝ても、夏休みが終わっても、高校を卒業しても、元にもどることはなかった。
 大学に進み、社会人になれば、二人の距離は遠くなっていく。
 もう男にもどる日は来ないのだろうか……。
 坂平陸の中に入った水村まなみは、自分よりもずっと上手に生きているように感じた。

 自分の中身と外見とが、うまく一致しない人は現実にいる。
 「あきらかに違う」とまでの違和感を持たずに生きて来れた自分だが、こういう作品を読むと、その苦しさの一端を想像することはできる。
 こう動きたいのに、からだが言うことをきかないという経験は、あるな。
 この先、年をとるにつれて、そんな思いは増えるのだろう。
 中身と外見のくいちがいに悩む経験をまったくしないまま、一生を終える人はもしかしたら少ないのかもしれない。
 いままで、入れ替わり系の物語を、エンタメとして消費してきただけだった。
 『君の顔では泣けない』は、一気読みさせるけど、おもしろかったねではすまないものを残す。


~「み、水村。やばい。今、蹴った」
 「は? なにが?」
 「子供! 赤ちゃん! 今蹴ったよ、腹ん中で蹴ったー」
 「えっほんとに? ほんとに、赤ちゃんっておなか蹴るの?」
 「蹴る! 蹴ってるわ、これ! すごいよ、すごい脚力」
 「ええーいいなあ、私もその感触味わってみたい。早く出たいって言ってるのかもね」
 「おうおう、早く出てきてくれよ。母ちゃんはもうこの腹に飽きたよ」
 「母ちゃんだって。うける」
 「だって母ちゃんだもん、俺」 ~


 この先どうなるのだろう。もとにもどる日はくるのだろうか。
 なんの示唆もなく物語は終わっている(たぶん)。
 ただ、どうなるにせよ、予想もしない人生を過ごした二人が、それゆえに気づくことができたいろんなことを支えにして、たくさんの人にやさしく生きていくのだろうと思える。つぎの直木賞これでいいよ。
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東日本吹奏楽大会

2021年10月10日 | 日々のあれこれ
 立教新座さんの演奏は、7月末のシード演奏を舞台袖できかせていただいた。
 集中力の高い演奏だった。
 20人をきっていてトランペットもいない編成で、よくここまで曲にできるものだと思ったものの、正直にいえば東日本までは想定しなかった。県大会を通過して西関東大会。そして並み居る強豪校を押しのけて、代表へ。
 今年はどこもそうだが、そんなに十分な練習時間があったわけではない。
 いつだったかのメールではふつうに週2回しかやれないと聞いた。
 こんな演奏を聴くと、やればできるかも、と勇気づけられる。もちろん鳥越先生ほどの高い音楽性も指導力もないけど、自分なりのやりかたで、過去最高は西関東金賞だから、もう一つ上を狙いたいと言っても、ばちはあたらないのかなと思えた。

 試験休み中の日曜日。自分を高めるために、朝一で渋谷東急にいき、「ポーラ美術館展」を鑑賞した。
 何がどういいいのか、絵はいっこもわからないけど、これが印象派? なるほどこれがフォビズムね、とわかったふりして歩いていると、音楽の歴史をつながってこないこともない。
 俺流塩ラーメンを食べてから学校にもどる。
 誰もいない職員室で、ネットで東日本大会を視聴する。
 札幌って、日帰りでも実際いけるなあ、ぴあでチケットまだ全然買えるなあなどと一瞬思ったけど、こうして視聴できるのはありがたい。
 そして滑川総合高校さんも立教新座さんも見事金賞。すばらしいとしか言いようがない。
 無限に遠いところにいる人達ではないはずだ(と思いたい)。
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