水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

Disaster

2015年01月29日 | 日々のあれこれ

 二次、私大直前講習がはじまっている。国立組の演習で扱った、竹内敏晴「思想するからだ」がするするっと頭に入ってきて、前の代を教えた三年前より読解力が上がっている自分を感じた。えらくね? 
 お芝居に関する題材であったことも大きいかもしれない。
 二流の役者の演じ方に二種類あると、竹内は言う。
 たとえば登場人物の「悲しさ」を表現するときに、一つは「悲しみ」のジェスチュアにとびつくこと。いかにも悲しそうに見せるには、こういう発声をし、こんな振る舞いをするべきだという、学んだパターンに自分をはめようとする。
 もう一つは、ほんとに悲しくなって涙を流すこと。芝居の人物の心情ではなく、自分自身が悲しい思いにひたり、さめざめと涙をながす。
 どちらも、「悲しい」という言葉で型にはめられた類型を演じているだけで、そのときの本当の感情は伝わってこない。その感情はたまたま「悲しい」という言葉で対象化されるが、感情そのものとイコールではない、と述べる。
 本当の悲しみとはいかなるものか。


 ~ 本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。
 それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。 ~


 「悲しみ」と「怒り」とは「もともと一つ」って、ほんとになるほどと思う。
 生きているすべての人間に与えられる様々な出来事は、時にまことに理不尽で、怒りしかわかないものの、受け入れざるをえないものばかりだ。
 もっとはっきり書くなら、誰もが経験する近親者の死、親しい人を失うこと、一方的にでも自分が心ひかれている人の死を知ったときに起こる感情は、「怒り」とも「悲しみ」とも説明できないような、からだの中に満ちあふれてくる何かだ。


 ~ とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。 ~


 年始に、「劇団だっしゅ」の女優さん、山口奈実さんからメールをいただいた。
 今年の本公演は「Disaster」の再演なので、ぜひお越し下さいとのことだった。
 「だっしゅ」さんを初めて観たのが、震災から半年後にかけられたこの公演だった。
 津波から町民を人々を守ろうと避難をよびかける放送をし続け、自らは犠牲になった役場の女性職員が描かれていた。
 それ以降、震災をテーマにした数々の作品を、観たり聴いたり読んだり書いたりした。
 直接扱っていない作品であっても、登場人物の心には震災経験が刻み込まれていたり、街の景色にそれが感じられたりするようになった。
 何かを創造しよう、表現しようという心を持つ人なら、むしろ震災と無関係に何らかの作品を作り出すのが難しくなったということもできるかもしれない。
 そうして、ここ3年のいろいろを振り返ったとき、震災の理不尽さをストレートに訴えかけたこの「Disaster」が、今も一番心に残っている。
 主人公安藤幸を失って慟哭する恋人の姿(男優さんのお名前をおぼえてないのが自分らしいかも)は、まさに怒りとも悲しみとも言葉化したのでは表しきれない、からだの高まりだったなと、ふと思い出したのだ。


 ~ 感情の昂(たか)まりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢(あふ)れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」=actionそのものにほかならない。 (竹内敏晴「思想するからだ」東大2008年第4問より) ~


 その後も、人の「命」や「絆」を題材にし、下ネタ満載ながらも、気づくと人間の業をえぐるような作品を、相変わらず大塚の秘密基地みたいな劇場で、かけている。
 時を経て再演される「Disaster」がどう生まれ変わるのか、今から楽しみだ。

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食べる

2015年01月27日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「食べる」


 脳を働かせるには、きわめて大量の栄養分を必要とする。免疫力を高めるためにも、良質のエネルギーを日々摂っておきたい。食べること自体で得られる充実感は、人間を前向きにする。おいしいものを食べたときに、ささいなこだわりやイヤなことを忘れさせるはたらきがある。目標が達成できるかどうかは、その人の総合力が決めるものだから、何を食べたかは大切だ。
 気合いを入れたい時にはこれを食べるというマイパワー食があるといい。試験前はキットカットを持ってるのもいい。試験当日の朝にカレーライスを食べるのは効果が高いという人が多いが、縁起を担いでカツ丼は重すぎるようだ。


 ~ カツ井は高タンパク・高脂肪で消化が困難なため、血液は優先的に胃や膵臓など消化器官に送られます。その分だけ脳に送られる血液が減らされるため、得点能力は低下してしまうのです。
 試験の当日に必要な栄養素は、極論すれば、脳を働かせるエネルギー源となる炭水化物だけです。タンパク質や脂肪は、血糖値の乱高下を防ぐため、少し摂るだけで十分です。おすすめの食べ物は、コンビニで売っている「おむすび」です。栄養素のバランスが、問題を解くのにピッタリなのです。ただし、試験直前でなければ、カツ井も悪くないのでしょう。脳内で記憶を司る神経回路を作るには、原料となるタンパク質や脂肪が必要だからです。長丁場の受験勉強を乗り切るには、普段からバランスがとれた食事を摂ることが重要です。 (吉田たかよし『試験に受かる「技術」』講談社現代新書) ~


 朝からがつんと頑張りたいときのお奨めメニューを紹介したい。


 ~ スーパーとうふ丼(これで頭は冴えわたるぞ!スペシャル)
 材 料 a とうふ(絹・木綿どちらでも。ちょっと値ははるが充填豆腐もおいしい)を
       さいの目に切ったもの(切らなくてもいい)。
     b 小魚(ちりめんじゃこ・シラス干し・小女子etc)
         c かつおぶし  d 大葉orネギ(細く切って)  e 刻み海苔(ちぎった海苔)
     f ゴマ(できればミルで挽く)
     g しょう油(「そばつゆ」「だしの素」も捨てがたい) ※ 量はすべてお好みで
 レシピ ① ごはんを盛る。 ② 材料をa→fの順ですべてご飯にのせる。
     ③ gをまわしかけして、あじわいながらいただく。 ~


 この朝食は、脳に必要な糖分とミネラルを最も適切な形で補給する。とうふを納豆に置き換えた「スーパー納豆丼」は、さらにパワーアップするはずだ。このメニューは、試験日用の勝負食としてもスーパーな効果を発揮する。勉強の合間(試験のあいま)に集中が切れそうな時は、バナナとか、チョコレートのような糖分でてっとりばやく血糖値だけあげて、あんまり満腹にならない方がいいし、時間も節約できる。吉田さんが言うように、「おにぎり」も便利だ。

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演劇で作る新人研修

2015年01月26日 | 教育に関すること

 人材開発研究で知られる、東大の中原淳先生の研修会に参加した――、なんて書くと、中原先生のことをさも知っていたかのように見えてしまうか。
 参加したのは本当で、中原先生の本も手元にある。
 この研修会を音楽座さんが担当し、ワークショップを行うという情報を入手し、幸い授業がない日に重なったこともあり、休暇をいただいてでかけてきた。
 ワークショップは、ブラスバンドコンサートでもお世話になっている藤田将範さんの担当だ。
 本校生徒も体験した「水」「いいね!」「ぺったんこ」などのアイスブレイクを行いながら、企業の新人研修の場で、担当者が考えるべきこと、やるべきこと、こころがまえなどを、参加者の脳と身体に注入していく。
 参加者の能力ややる気、場の空気感を一瞬にしてつかみ、その一瞬一瞬に応じた話や歌やネタを行っていく。
 この方はいったい何者なのだろう。
 俳優って自己紹介されてたが、自分の知っている役者さんの範疇には入らない。
 ファシリテーターか。 
 育てる人、援助する人、という根本的な意味でのファシリテーターなら、そのとおりかもしれない。
 たしかに役者さんの演技をみて、われわれはさまざまな感情を育て、喜びや感動や、生きる力をもらったりするから。
 このワークショップは、藤田さんの他に、新木啓介さん、渡辺修也さんがおられ、さらに井田安寿さん、宮崎祥子さん、高野奈々さんという、最強の女優さんの布陣で催されていた。まさかこのお三方が勢揃いされているとは。夢かと思った。
 企業や教育現場での研修力を高めようと集まってきた他の参加者の方とは、精神状態がまったく異質なものになってしまったことは仕方ない。もちろん、自分の不純を悟られないように、表面上は普通に勉強してきた。
 音楽座さんのお芝居の深さは、普段のこういう活動の積み重ねから生まれてくるのだろう。
 この講座の情報は、本校の担当もしてくれた冨永波奈さんのブログだったが、自分の「違和感」とシンクロするかの内容を書かれている。


 ~ 年末、中央線の車窓から外の景色を眺めながら、「私たちは一体どこへ行くのだろう。。」とひとり迷走しかけましたが、「たぶん来年私たちは今この世には存在しない職業についてるんだ。。むふ。」って確信しました。
 これから「俳優」って職業も全く変わっていくだろうねぇ、なーんて話したりします。みなさんも、ご自身の職業、仕事が時代とともに変化しているのを感じているかもしれません。
「小学生の多くが、将来今はまだ存在しない職業につく」。最近よく言われているけれどきっと自分も同じ。ものすごいスピードで進化し続ける地球とともに私自身も進化していこう。
 まだ見ぬものを妄想して心配するくらいなら、まだ見ぬものを自分で作っていった方が何倍も楽しそうです。 (「どんどん生まれ変わる」冨永波奈公式ブログより) ~


 ほんとは「教師」という職業も変わらないといけないのだろう。
 実際、目の前の子供達は、外形的には100年前も10年前も今も、そうは変わらない。
 でも、中身はどうか。遊びも人間関係も食べてるものも昔(おおざっぱだけど)とは全く変わってしまった今、別種の生命体がそこにいると思わないと理解できない状況を、現場教員なら普通に経験する。
 一方われわれ教員は、ことばだけは「世の中の変化に即した教育を」とか言いながら、昔ながらの枠組みでしか対応していない。
 それっぽいことを言うなら、ティーチャーからファシリテーターへの変化も必要なのだろう。
 進路指導もそうだ。
 世の中には、こんな仕事がある。この中から自分にあったものを選びなさい、などという指導はもう通用しない。
 何を選ぶかではなく、何を作り出せるか。
 みんながみんな何かを作りだせるような人生を送れるわけではないが、その気になった時には「えいやっ」てチャレンジできる気持ちと身体をつくらないといけない。
 数年後存在し続けているかどうかわからない職業群の中から、早々と何かを選ばせ、それに向かって進学先を選ばせる、というような石器時代の進路指導はもう意味がないのだ。

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試験

2015年01月25日 | 日々のあれこれ

 

 ~ 試験とは、人類が生み出した素晴らしい制度だと思います。人種・信条・社会的身分・門地にかかわらず平等に能力を競い合い、合格すれば社会の中で活躍の場を与えられます。もしこの世に試験がなかったら、名家の生まれでない私はワクワク・ドキドキするような人生のチャレンジなどできなかったかもしれません。
 さらに、試験があるからこそ、人は能力を高めることができます。合格がもたらす栄光を求めて徹底的に頑張るからこそ、私たちは成長するのです。試験を受けることがなかったら、私は今の社会に対し、さほど大きな貢献はできなかったと思います。
 合理的な勉強法を実践することで試験に受かり、納得のいく充実した人生にしてください。 (吉田たかよし『試験に受かる「技術」』講談社現代新書) ~


 試験がある社会に生まれてよかった。
 北陸のとある温泉街に大工の息子として生まれた自分が、高校入試、大学入試がなければ全くちがった人生を送っていた。
 見方によれば、よけいな学問を積んだだけかもしれない。長男なのに実家を出て、東路の道の果てからさらに内陸に入った荒戎の住むような土地で、分不相応に人のものを教えながら禄を食むことが出来るのも、試験があったおかげだ。
 イスラムの若者たちも、こんな社会に生まれていたなら、あのもてあますほどの力を勉強に打ち込むことで発揮できたのではないか。もしくはスポーツや芸術の分野でその才能を発揮できたのではないか。
 どうしようもない貧困。努力しても階層から脱することはできない。
 男はたぶん世界中同じようにバカだから、貧しくても、せめて好きな女ができて、一緒に暮らしていける人生があるなら、生きる光を見いだすことはできる。そんな暮らしさえままならない多くの若者たち。
 いい大学を出るだけで順風満帆な人生が得られるだけでは全くないが、自分でなんとかできる可能性が、他国に比べてあまりに大きいこの国生まれ育ったことを、このごろ本当に幸せに思う。

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中学なんていらない(2)

2015年01月24日 | おすすめの本・CD

 

 ~ 「ちゅんこさんが入れる高校はないです」
    「ちゅんこさんはテストも受けてませんし、内申がまったくないですから
    行けるところはないですねー」 ~

 中3の夏休みには塾に通えるようになった。
 夏休み明けの進路相談で、「いいところでなくていいので、どこか公立に … 」と母親(青木さん)が担任に相談する。
 3年生は初めて受け持つという若い担任が、上のようにあっさり答える。
 「ないなら、定時制でもいいんですが」
 母親の言葉に
 「定時制も実は人気があるので、無理です」
 と答え、入れるとしたらここでしょうと示されたのが通信制の高校だった。

 本校でも、不登校状態になった結果、通信制の高校に転学した生徒さんはいる。
 県立のへ転入試験を受けて移った例もあり、調べてみると転入試験の枠は意外に広く開かれているのだ。
 中学校で不登校状態とはいえ、入学できる高校が定時制を含めてないと いう現実はありえない。
 中学でも高校でも、普通にはたらいている教員なら当然わかっていることだし、知らなければ同僚に尋ねればいいだけのことだ。
 だから、実際に上記のような進路指導があったのなら、この若い担任に問題があるのは間違いない。
 そしてもっと問題なのは、そういう担任が存在しうる現在のシステムということになる。

 母親は塾に相談に行く。
 すると、内申点がなくても、帰国子女と同じように入試の点数だけでの合否判定を設けている公立高校や、いくつかの私立高校を教えてもらえた。
 自分達で調べてみても、いろんな情報は手に入ることがわかり、もう中学校はあてにしないようにしようと、親子は気持ちを切り替える。
 それでも、内申点が少しでもつくようにと、期末テストを受けに行った。
 母親はなだめすかし、時には車で送ったりしながら、五日間を乗り切る。
 その結果をふまえた進路相談で示された内申点は「オール1」だった。
 「テストを全部受けても、結局同じですか?」
 と訊ねると、
 「授業にも出てないし、提出物も出してないので、どうしてもそうなりますねー」
 と答える。
 「うちの子は決してずる休みしてるつもりはない」
 と言っても、その意味がわからないような担任の様子が描かれるのを読むと、青木さん側の視点で描かれているという前提を忘れるつもりはないが、この担任に憤りを感じた。
 でも、実際いるでしょ、こういう人。
 ちゅんこさんは県立高校と、私立2校の受験を決める。
 すると、担任から連絡があり、私立A校の確約がとれたのでB校は受験しないでほしいと連絡が入る。
 考えた結果2校受けてから決めたいと言うと、「それでは学校のメンツが … 」という話になる。
 この段階で、進路相談には担任ではなく学年主任があたるようになる。
 いろんな意味でなまなましい事例を突きつけられ、一歩間違えば、自分にも起こりうることと考えないといけないと感じる。

 娘さんは、第一志望の県立高校に合格する。
 高校入学後は、突然リア充になれてよかった … という話ではない。
 体調がよくなくて通えない日もある。しかし、留年しないように行かなきゃという程度には通え、バイトもはじめた。成績も、中学校をまるまる行ってないにしてはついていけている。
 それなりに成長していく娘の姿を目にしながら、中学校に行けなくなってしまった頃の(母親自身の)精神状態が最悪だったと、客観的に見れるようにもなった。

 ~ まー、中学くらい行かなくってもなんとかなりますよ
   と、今なら経験者としてはっきり言えます。
   なかなか渦中では思えないことなんですけどね~。
   (青木光恵『中学なんていらない』メディアファクトリー) ~


 
 親御さんだけでなく、われわれも読んだ方がいいと思うのだが、読んでも感じない方はいるだろうな。
 でも、そんな人も含めて、つまりその程度に適性の足りない人が教員になったとしても、成立するのが学校というシステムであるべきなのだ。
 大学受験にまで、教員による人間性の評価を盛り込もうとする「おそろしい」改革が進もうとしているのを見ると、なんかえらい人たちは勘違いしてるなと改めて思う。

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1月23日

2015年01月23日 | 日々のあれこれ

 入試中日で平常授業。インフルエンザで欠席している1、2年生の数は今ピークだろうか。
 先日の新人戦に全員で出られてほんとによかった。
 3年は授業がなくまるまる空きというすばらしい一日なので、市民会館の支払いやら、買い物やら、たまっている細々とした事務処理とかしてるうちに、なんとなく時が過ぎてしまった。ほどよく授業があったほうが仕事は進む。集中力が足りないか、貧乏性か。
 放課後、みんなも騒ぎはしないものの、可能性はないとは言いながらも、候補にあがっている以上選ばれてもおかしいわけではない選抜野球出場校の発表を気にしてはいた。NHKの記者さんも念の為にとお一人来校してらしたが、残念ながら選抜されず、来年の来校をお願いして帰ってもらったという。
 なんの心配もなく定期演奏会に打ち込もう。

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中学なんていらない(1)

2015年01月22日 | 教育に関すること

 入試がはじまった。今日は単願、併願Ⅰ入試、中一日はさんで、特待生試験、併願Ⅱ試験と続く。
 試験監督中、自分が作った問題を受験生が読み始める様子は、少しどきどきする。ひさしぶりに読み返してみたが、案の定、先日のセンターの第2問よりも良い出来だ。
 1000人以上の生徒さんに貴重な時間を費やしてもらうのだから、解いてもらうこと自体がいい経験になるような文章と設問を用意したいと毎年思う。 
 お昼をはさんで午後は面接を担当する。今日のたった何分かの接触にもとづく勘だけど、今年の中3の学年は落ち着いているのではないだろうか。

 今日と日曜の試験は、おかげさまで内心書の評価のいい生徒さんに多数受けてもらっている。
 コミック『中学なんていらない』を昨日読みながら、内申書の必要としない特待生入試も設けている本校入試のシステムは悪くないかなとあらためて思った。

 中2の時、娘さんが、いじめのせいで不登校になった。学校に訴え、相手の親も入ってもらっていながら、そのいじめは改善されない。中3になって「不登校だから内心点はない、高校は通信にしかいけないでしょう」と進路指導される――。
 
 その体験をマンガで描いた青木光恵さんの作品だ。
 この学校の問題点は、すぐわかる。同業の方が読めば、同じように気づくだろうし、「うちはこんな対応はしない」とお感じになる先生もいるだろう。同時に、十分に想定しうる事例であることも。

 ~ 私達は失敗しましたが、いじめにあった時は、もっと話を大きくした方がいいです。
   学校はもみ消します。「もうしません」の儀式をしてそれで終わりです。
   校外の相談する場所に持ち込むのが良いのです。(青木光恵『中学なんていらない』メディアファクトリー) ~

 学校には学校の論理がある。すべての組織がそうであるように。
 教員に、組織の成員に、その自覚があるかどうか。
 自分達の論理は自分たちのものにすぎないと対象化できるかどうか。
 それができないと、自分達の振る舞いが客観的にみられた時にどうなのかと発想できなくなる。
 企業が不祥事を起こし、その対応を見誤る場合も、ここに根本的要因があるはずだ。
 さらに、学校で起こった事件については、内部で解決しようとする力が、他の組織よりも大きく働く点が問題だ。
 以前は、学校の「内部」とは、地域共同体をも含むそれだった。
 広い意味でも「身内」どうしが、近代社会の論理を適応しないで解決をはかることもできた。
 でも、今はちがう。
 生徒も保護者も、一市民として、一個人として生きていて、それぞれの自我を主張する現状のなかで、学校の先生だけが昔ながらのエートスで事に当たろうとしてしまう。

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悲嘆の門(2)

2015年01月21日 | おすすめの本・CD

 

 ~ 「人は、実在する事象のなかに存在しているけれど、それだけで生きられるものではない。事象を解釈し、そこに願望や想像を重ねて、初めて人間として生きることができる。その願望や想像が〈物語〉よ」
〈輪〉は、そういう物語の集積だ。
「世界に対する解釈の集積」
 そして、物語は人の数だけ存在する。
「その結果、〈輪〉は実在する世界よりも、宇宙よりも広大になって」
 多種多様な〈領域〉を、そのなかに内包している。
「わたしたちがいるこの現実、これも〈領域〉。わたしたちがいるこの国、これも〈領域〉。〈領域〉という言葉は、そういうふうに、広い意味でも狭い意味でも使われるの。人類を単位に考えるなら、地球全体がひとつの〈領域〉。ある民族や国家を単位に考えるなら、その民族集団や国家がひとつの〈領域〉。そこには、それを構成する人々が共通して保持している物語が存在するから」
「ち、ち、ち」
「ちょっと待った?」
「そう。ユリちゃん、君、間違ってる」
「どこがどう間違ってる?」
「ある民族集団や国家を構成する人びとが共通して保持しているものは、物語なんかじゃない。それは〈歴史〉だ」
 友理子は余裕の笑みを浮かべた。
「そうね。でも、歴史も物語よ」 (宮部みゆき『悲嘆の門』毎日新聞社)  ~


 問 「余裕の笑みを浮かべた」のはなぜか。
 問 「歴史も物語よ」とあるが、どういうことを述べているのか。
 問 カギ括弧「」の使い方を説明したものとして、最も適当なものを選べ。

 というような問題を作れば、この作品で、評論、小説の両方の要素を測ることができる。
 数年後の総合問題の練習として、来年のセンターでは、1番、2番融合問題をつくってみたらどうだろう。

 われわれの日常とは異なる「物語」を構成する「領域」から、怪物はやってくる。
 孝太郎は、ガラと呼ばれるその怪物に「力」をもらう。
 「物語」を読み取る力だ。
 その力の宿った左目は、個々人が蓄積している「物語」を見通してしまう。
 発せられた言葉の痕跡から、その言葉と感情を蓄積を見ることもできる。
 たとえば、孝太郎が左目をこらして、おれを見つめたなら、過去にどんなに人のためになることをしてきたか、慈悲深い行いをしてきたか、その積み重ねた陰徳がすべてばれてしまうのだ。
 おれと真逆に、積み重ねた悪事やエロい経験がばればれになってしまう人もいるだろう。
 そういう「力」の設定は、一見荒唐無稽のものに思える。
 でも私たちも、他人の、言葉の節々に現れる微弱な感情の動きを察知することはできる。
 言葉そのものが発せられなくても、喜びや怒りや悲しみ、不満・たいくつ・むかつきを感じることもある。
 この商売を長くしてると、これはウソだなとひらめくこともある。
 そんな力が極端に強い状態になったと考えれば、納得できる。
 たとえば孝太郎が一枚の紙を手にしたとき、そこに書かれた言葉から火のような怒りや邪悪な思いを感じ取る場面があるが、そういうこともあり得るなと思ってしまう。
 その力を利用し、孝太郎は犯人に近づき、思いもよらぬ事実に遭遇していく。
 人間の所行のおぞましさは、空想の怪物よりもよほど恐ろしいものだった。
 しかし、それはいい悪いではなく、人間の「業」であると作品は主張する。
 どんなに陰惨な事件でも最後に一筋の光を見いださせるのが宮部作品だと、今までの経験から思っていた。
 『悲嘆の門』はそうではなかった。むしろ闇の中にほうりこまれる。
 しかし今、身の回りに実在するおどろおどろしい事件群を想起するならば、この希望のなさこそが人の世の姿かもしれないとの思いに茫然とせざるを得ない。

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悲嘆の門(1)

2015年01月20日 | おすすめの本・CD

 宮部みゆき作品は、現代ミステリ、時代物、ファンタジーと大別することができるが、どの分野でも歴史に残る名作を書かれていることが驚異だ。
 自分的には、現代ミステリはデビュー以来ほとんど読んでいる。先日も『ソロモンの偽証』の後半だけ文庫で読み直し、その奥深さに感嘆しながら、宮部さんとほぼ同世代として今を生きていることを感謝したい気持ちになった。ただ、歴史ものは少ししか、ファンタジーものは全く読んでいない。
 『悲嘆の門』は、なぜか普通のミステリーと思い違いして読み始め、途中から怪物や異界が出てきて戸惑ってしまったが、一気に読んだ。というか、やめられなかった。『英雄の書』の流れの作品だったのね。
 物語の設定は現代の日本だ。
 都会の片隅で、貧困のために息をひきとり、古いアパートに一人取り残される幼女の描写から始まる。
 主人公は、ネットセキュリティー会社でアルバイトをする大学生。
 会社の業務との関係で、不審な連続殺人事件や、妹の友人が学校裏サイトでいじめにあう事件に関わっていくことになる。
 上巻の途中まで現代ミステリー系と信じて全く疑わないほど、現代社会の実情を精緻に描いていた。
 事件の真相を明らかにしたい、犯人を懲らしめたい、親しい人を奪ったやつに復讐したい … 。
 主人公孝太郎の思いが高まったとき、孝太郎の前に異界の怪物が登場する。
 え? こっち系だったのか。
 「非科学的だと侮るなかれ、合格祈願に行くと合格する」と生徒に言っておきながら、ファンタジー系を拒絶するのは矛盾だから、モードをかえて読み進んだ。
 狭い意味での小説、現代文の教科書で扱う近代小説にはあたらない。
 でも、あたるともいえるのかな。
 超自然の現象を描くのがファンタジーとするなら、李徴は虎になるし、今は載ってないけど、棒になった男の話も昔あったから、教科書にもファンタジーはある。
 そして超自然の現象を描くことで逆に人間の真実が浮かび上がるのが小説なら、この宮部作品はまさに近代小説そのものだ。


 ~ 「問題は、この言葉のもとになってる〈物語〉の方よ」 …
「物語?」
 友理子の発言の意味はわかる。だが言葉の選び方が孝太郎には訝しい。
「普通はそれ、〈動機〉とか〈理由〉とか言うべきなんじゃないか?」
「いいえ、〈物語〉よ」友理子はきっぱりと言い切った。「全ては物語なの。わたしたち人間は物語を生み出しながら生きている。個々の人間が紡ぐ物語のなかから、その人間の言葉も生まれてくる」 (宮部みゆき『悲嘆の門』毎日新聞社) ~


 孝太郎が出会う異界の怪物は、実在するのか。
 日常生活モードのままなら、実在するかどうかなどと考えることはない。
 しかし、いつのまにか「実在」とは何かと考える自分になっている。
 物理的に存在することのみが「実在」なのか。
 人々の意識が作り上げてしまう虚像も、信じている人のとっては実在ではないのか。
 そもそも事実とは物語にすぎないのではないか。

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次の一手

2015年01月19日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「次の一手」

 センター試験お疲れ様でした。これを書いているのは日曜午前なので、全体の傾向がどうなるのか予想がつかない。昨日(土曜)の文系科目は、おおむね例年通りだったと言える。新課程になった今日の理系科目はどうなるだろうか。
 どんな結果であっても、まずそれを自分でしっかり受け止めて、次の作戦を練っていこう。
 採点しながら「やらかしちまった」「失敗した」とか、無益な言葉を叫んでいる人を時折みかける。
 客観的にみて、そう叫べるほどの力をもっていただろうか。
 冷静に考えたなら、どんな結果であれ想定内のはずだ。
 そうでないとしたら、逆に自分が見えてなさすぎる。
 自分で勝手に何点くらい取りたいとあくまでも「希望」してて、それに達しなかったからといって「失敗」という評価するのは、現実逃避だ。
 つまらない見栄をはってるヒマがあったら、単語の一つでも覚えよう。
 本番で普段ぐらいの点数だったらむしろほっとすべきだし、普段以下であっても、試験を受けられたことを感謝し、自己の現状を認識させてもらったことを感謝し、次のステージに向かうしかないではないか。
 悔しさをプラスのエネルギーにかえるのは感謝の気持ちだ。
 現状を受け入れ、前向きに次の作戦を練って、一歩も立ち止まらず進んでいくしかない。
 与えられた現状から、次の一手をどう打つか。そこに男の真価が問われる。
 失敗したとき、思い通りにいかなかった時に、むしろ「よし、ちょうどよかった。こっちの手で攻めてみよう」と切り替えていかないといけない。
 大人になったら、そんなことばかりなのだから。
 気持ちで結果は変わる。
 だいたい残された時間がどれだけあると思っているのだ。
 正直に言うと、この2週間の勉強量は1年生のとき1年分ぐらいです、という人もいるのではないだろうか。
 もしくは、過去自分がやってた勉強を思い出してみて、「あの頃の1週間分は、今なら2時間かからずにやれるなあ」ぐらいの感覚になってないだろうか。
 みんなの情報処理能力は、いま人生で一番あがっている(大学に入るとほとんどの人は落ちてしまうものだが)。
 試験まで2週間あったら、ふつうに2ヶ月分ぐらいやれるよねって感覚でいていい。
 根拠のない自信で自分を支えて、どこまでやれるか、試してみようではないか。

 

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