水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

文学部になんか(2)

2022年01月31日 | 学年だよりなど
1学年だより「文学部になんか(2)」


~ 「最初から言ってくれよ、文学なんか勉強しても社会で何も必要とされてないって」 ~
 まさに、そのとおりだ。「源氏物語」の研究しました、専門は「安部公房」です、「ルネサンス時代の詩の研究」をしました……。どれも社会では求められていない。
 経済学部でケインズの理論を身に付けました、法学部で近世の法制史を研究しました、理学部で地球資源学を学びました……。これらも求められていない。
 もちろん、ごく一部のきわめて高い能力を持つ限られた学生さんは、研究開発的な部署に就職できるかもしれない。運がよければ、その知識を教える仕事につけるかもしれない。
 でも、ほとんどの人にとって、「大学で学んだ内容」自体は就職に役に立たない。
 かりに就職して、それを直接役に立てようという新入社員がいたら、会社は迷惑だ。
 たかだか四年間の勉強が効果的に作用するほど、実社会は甘くはないからだ。
 そもそも「学問」は、実社会ですぐに役立つ性質のものではない。
 もし役立つとしたら学問ではない。社会ですぐに役立つ分野は、専門学校でなら学べる。
 「ガクチカ」には、「ちょー勉強やりました! 勉強ばかりやってました」と、堂々と書けばいい。
 せめて中谷彰宏『面接の達人』を読めばよかったかもしれない。「社会で文学の知識は求められてないけど、それを十分に身に付けられる勉強力は求められる!」と気づくだろうから。


~ だれか途中でせめて軌道修正してほしかった、叱ってほしかった、もっと真面目に将来のことを考えろって。今のままじゃ、社会は誰も今のお前を必要としないよって。こうして高学歴こじらせ人間が爆誕しました。今までの人生何だったのか。私が大切に持ち続けていた成績という武器は、もうどこにも通用しない。~


 「成績」が通用すると思っている世界からは、早く脱すべきだった。
 大学の勉強はすぐには役に立たない。しかし、勉強で身に付けた情報処理能力や、ぜいたくな時間を過ごした経験は、なくならない。
 学問を通じて、ものごとの「見方」「切り口」を一つ身に付けるだけで、世界の見え方は変わる。
 目先の利益だけでなく、広く世の中や歴史を見渡せそうな若者は、求められている。
 たとえば、私大の文学部を卒業して、人気の会社に入っていく学生はたくさんいる。どこも「文学」とは無縁の職種だが。ブログの彼(彼女?)の学生さんが旧帝大生なら、いくらでも就職先はあるだろう。
 文学と全く関係ない仕事をしていても、働いているうちに、大学で学んだことそのものが役に立つような場面にでくわすことが、いつかあるだろう。その時はじめて、その人のオリジナリティが発揮される。そのレベルになるまでは、辞めずに働いた方がいい。
 問題は「文学部」にはない。「よく考えた上で大学に行こうと思う人だけが受験してくれますと大学教員としては助かります」と、増田先生の言葉を読みかえないといけないのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文学部になんか

2022年01月28日 | 学年だよりなど
1学年だより「文学部になんか」


「文学部になんか行くな、勉強しても報われないぞと最初から言え」というブログ記事を、大阪市立大学文学部の増田聡教授が紹介している。ポピュラー音楽などを研究なさる先生だ。
 そして、「これ読んでよく考えた上で文学部志望を変えない人だけが受験してくれますと文学部教員としては助かります」とツイートされている。ブログはこんなふうに始まる。


~ 受験を経て中学に入学してから、大学受験は恐ろしいものだという周りの言葉にしたがって、青春を勉強にささげた。高校生の私は、文学や映画といった芸術が好きで、それを勉強してみたいと思った。そうして文系を選択し、今まで以上に勉強を続ける。その結果、オープン模試では浪人も含めた受験生で一位になるなど、自分でも本当かよと思う成績を常にとっていた。そして大学受験。過去最高の点数をたたき出し、狙い通りに宮廷(ママ)大の文学部に晴れて入学。入ってからは、サークルに所属することもなく(人と関わるのが面倒くさかった)、変わらず勉強に打ち込む日々。文学理論の本をあさり、文学作品を読み、レポートを必死に書いた。 ~


 ずいぶん勉強を積まれた方だ。幼い頃から、親や先生の言うことを聞いて勉強にはげみ、旧帝大に合格する。大学では、好きな文学研究にいそしむ。
 そしていざ就職を……、となった時、彼(彼女?)は、困ってしまったと語る。


~ そして今、就活を始めてやっと気づいた。今の私を求める企業なんかない。
 ES(=エントリーシート)に書けることがない。ガクチカ(=学生時代力を入れたこと)で、今まで勉強を一人でしてきました! とは書けない。自己PRで、成績めっちゃいいです! とは言えない。そこまで頭がいいなら研究者になれば? と思うかもしれない。しかし、私が得意なのは勉強であって、真理を追究しようという強い意志も、狭き門を狙って親の穀潰しを10年以上続けるほどの度胸もない。
 親は私が文学部に進むのをまったく止めず、「せっかくその頭があるんだから好きなことを研究しなさい」と言って送り出してくれた。小学生の時から中学受験のために塾に入れ、バカ高い私立進学校の学費を払い、ここまで育ててくれた。ごめんね、ありがとう、でもあなたたちはマジで教育を間違えたよ。私のこの先の人生のことはまったく考えずに、勉強だけさせたらいいと思ってたんだね。「そんなに頭がいいんだから、人生一度なんだし院に行ったらいいんじゃない」「研究者になったりして!」と言う。親は分かってないのだ、何にも。仮に文学修士で卒業するとしても、そんなやつどこの誰が雇いたいと思うのか。(「はてラボ」2022年01月14日の日記)~


 文学を勉強しても、就職には役立たない――。これは本当の話だ。
 だから、大学の先生も「覚悟して受験してほしい」と言う。
 ここで、みなさんに大事なことを伝えないといけない。文学だけではないのだ。
 実は、法学や経済学を学んでも、就職には役に立たない。理学や工学もだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーダ あいのうた(2)

2022年01月25日 | 学年だよりなど
1学年だより「コーダ あいのうた」(2)


 兄の気持ちも複雑だった。自分は聴こえず、妹は聴こえる。
 家族の中心として、なくてはならない存在である妹に対して、兄としての嫉妬心もあっただろう。
 港で魚の値段を自分で交渉しようとし、安く買いたたかれてしまいそうな兄を見て、ルビーが割って入る。「うるさいおまえは口を出すな!」とけんかになる。
 しかし、妹の進路を真っ先に考えていたのも、兄だった。
 「おまえなんかいなくても、俺たちはやっていけるんだ。はやく音大でもどこへでもいけ!」と妹の背中を押す。世界が広がる可能性をもつ妹への兄のやさしさだった。
 両親は迷っていた。いくら才能があるといっても、それで生きていけるなどとは思えない。
 娘の才能とやらを実感できないことも、親としてはつらかった。
 家族は娘の発表会に出かける。当然歌声は聴こえない。
 しかし、盛大な拍手をおくり涙まで浮かべる観客の様子を見て、娘の可能性を感じた。
 その夜、父親はルビーにもう一度歌ってくれという。
 星空の下、庭のテーブルに並んで座る二人。ルビーが歌い始める。
 父親がルビーの喉を優しくつつんで、その声を感じようとする(個人的にはこのへんからエンディングまで泣き続けていました)。


~ このシーンを観ながら、ぼくは10代の頃を思い出していた。当時はまだ聴こえない両親の存在をうまく咀嚼できておらず、しばしばふたりと衝突した。本当に伝えたい気持ちが、自分の手話では表現できない。結果として、その頃のぼくは、両親とわかり合うことを放棄した。聴こえるぼくと、聴こえない両親とが意思疎通するなんて無理なのだ。自身にそう言い聞かせて、なにもかもを呑み込んでしまった。
 けれど、ルビーの歌声を父親が懸命に感じ取ろうとする様子を観て、“違い”を越える強さを知った。その強さは“愛”だ。
 いま、社会は、一人一人の違いに気づき、ともに生きて道を模索している最中にある。そんな潮流のなかで生まれた本作は、ひとりのコーダの生き様を通して、違いとどう向き合っていくのかをぼくらに問いかけてくる。
 それは簡単ではないかもしれない。でも決して無理なことでもない。
 ラストシーンに映ったルビーたちの笑顔を思うと、そんなふうにこの社会に希望を持ちたくなってしまうのだ。                         (五十嵐大「コーダ あいのうた」パンフレットより)~


 その日母は、ルビーが生まれた時の気持ちを正直に語り、好きなことをやりなさいと言う。
 魚を一方的に買い叩かれないように、父とともに漁業組合をつくろうと兄は決心する。
 音大に合格し、いざ寮生活へと出発する日、なかなか動けないルビーに父親が「GO!」と叫ぶ。
 ルビーの旅立ちを家族が見送る話ではなく、家族全員が一歩踏み出す物語だ。
 ぜひ、劇場へ!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーダ あいのうた

2022年01月24日 | 学年だよりなど
1学年だより「コーダ あいのうた」


 「コーダ(CODA)」は、音楽用語ではなく、「Children of Deaf Adults」の略語だ。
 Deaf Adults=聴覚に障害のある両親から生まれた、聞こえる子どものことを言う。
 コーダは、耳の聞こえない親どうしが手話でコミュニケーションをとる家庭で育つ。
 子どもの頃は、それが普通だと思って暮らしているが、幼稚園、小学校とすすむにつれて、「うちは普通とはちがう」と思い始める。
 自分と親とのコミュニケーションの仕方は、他の人のそれとは異なることにも当然気づく。
 思春期になると、その違いが「自分は普通でない」という悩みにつながることもあるという。
 映画「コーダ あいのうた」の主人公ルビーは、家族思いの女子高生だ。
 朝三時に目覚ましが鳴る。まだ暗いうちに父と兄の乗る船に乗って漁に出かける。
 ときおり船にかかってくる無線をとって、父たちに伝える役目を果たす。港では、魚を売る値段の交渉をする。両親が病院に行くときは、ついていって医者とのやりとりの仲立ちをする。
 耳の聞こえない家族と、聞こえる周囲の人たちとの通訳役を、リビーは幼い頃から自然にするようになっていた。
 ルビー一家の会話はアメリカ式とよばれる手話だそうだが、こんなに多彩な俗語(もっと言えば罵倒する言葉やエロい言葉)まで表現しうるのかと、字幕を読んで驚く。
 同時にこれらをマスターして通じ合うことが簡単ではないだろうとの想像もつく。
 「バイリンガル」のルビーは、家族にとってなくてはならい存在だった。
 しかし、転機が訪れる。
 学校の選択科目で、気になる男子と一緒になるためにコーラスの授業を選択した。
 すると、音楽の先生が、ルビーの歌の才能を見抜き、音楽大学への進学を薦めるのだ。
 考えてもいなかったことだが、自分がいつも歌っていたこと、歌が好きなことへの自覚はルビーにはあった。とにかくレッスンにおいでと誘われ、通い始めたルビーだったが、家の様々な仕事の手伝いがあって、思うように通えない。
 ある日、音楽大学に行きたいと家族に打ち明ける。
〈おまえがいないと漁に出られない〉〈あたしたちは、どうなるの?〉と両親が反対する。
〈あたしはただの通訳なの?〉〈もう疲れた!〉ルビーの感情が爆発する。


~ 家族のなかで唯一の聴者として生まれ、聴こえる世界についてずっと通訳してきた。その過程には不安やプレッシャーもあっただろう。
 間違えたらどうしよう、うまく通訳できなかったらどうしよう――。
 そんな葛藤を消化できないまま、それでも親のために通訳をする。多くのコーダにとって、それは当たり前のことだ。でも「当たり前」という感情の裏側には、ルビーが爆発させたような苦しみが隠されている。
    (五十嵐大「コーダ あいのうた」パンフレットより)~


 自身もコーダである、ライターの五十嵐大さんは、こう語る。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021年の映画

2022年01月22日 | 演奏会・映画など
作品賞
 日本アカデミー賞の発表にさきがけて、2021年の映画から、私的ノミネート&ベスト1の発表です。
 優秀作品賞ノミネートは、以下の6作品。
 「ホリミヤ」「すばらしき世界」「あの子は貴族」「子供はわかってあげない」「彼女の好きなものは」「ドライブマイカー」
 そして輝く、今年の一作と言えばこれしかないで賞は……ジャラジャラジャラジャラ……でん。
 沖田修一監督作品「子供はわかってあげない」。
 これがノミネートされてない日本アカデミー賞は、見る目がないと言うしかないでしょう。

主演男優賞 
 役所広司「すばらしき世界」世界の役所。
 綾野剛「ヤクザと家族」安定、安心のお芝居。
 若葉竜也「街の上で」単館系のキング。
 古田新太「空白」振れ幅。
 西島秀俊「ドライブマイカー」池袋シアターイーストのロビーで生でみた時、ほんとかっこよかった。

助演男優賞 
 鈴木亮平「孤狼の血2」千変万化。何になってもそれしかない造型になる。
 仲野太賀「すばらしき世界」仲野さんを出しておけば安心。 
 豊川悦司「子供はわかってあげない」見事な父親役。
 山田裕貴「ヒノマルソウル」せつなかっこいい役ならこの人。


主演女優賞
 上白石萌歌「子供はわかってあげない」役者フィジカルの高さ全開。「若さ」というか「生きる力」というか「生のまぶしさともろさ」とかの抽象を具現化したらこういう生き物ができあがりましたというような今年最高の役者体があった。
 高畑充希「浜の朝日の嘘つきどもと」主演の喬太郎師匠が、「みつきちゃん、ほっんと顔ちっっちゃいんだぜ」って高座でうれしそうに言ってた。朝ドラヒロインも帝国劇場のヒロインもやって、この若さで殿堂入りのキャリアだけど、こういう規模の小さい映画で観るのが一番すてきな女優さんだと個人的には思う。
 水原希子「あの子は貴族」田舎の進学校から上京してきた女子大学生が観たら、100%泣くでしょ。
 松岡茉優「騙し絵の牙」ほんとは助演なのかな。いや主演でしょ。スキルの高さは最高峰。

助演女優賞 
 大久保佳代子「浜の朝日の嘘つきどもと」大久保さん、絶妙に高校の先生だった。それも国語の先生でちょっとアウトサイダー的立ち位置の、県立高校にいそうなタイプで、実は小説書いてます、昔かなり芝居やってましたみたいな雰囲気の。
 斉藤由貴「子供はわかってあげない」永遠の尊さ。なぜ色褪せないのでしょう。
 山田杏奈「彼女の好きなものは」「ひらいて」こじらせぎみの女子高生をやらせたら日本一。

新人賞
 久保田沙友「ホリミヤ」この子に叱られたい。
 石川瑠華「猿楽町であいましょう」「うみべの女の子」よくがんばった。これからも楽しみ。西武文理から上智の理工学部出身なんだって。教え子にこういう子がいたら人生棒に振りそう。
 エミリー「リスタート」品川庄司の品川監督作品。もっと撮ればいいのにな。そんな簡単なものではないのだろうか。HONEBONEのライブに行きたくてファンクラブ入ってしまった。

アニメ作品賞
 「映画大好きポンポさん」映画愛あふれてる。

ミュージカルは最高で賞
 「キンキーブーツ」。これぞ。ザ・ミュージカル。本場のはちょっと格がちがいすぎる。だから日本人は日本のミュージカルやるべき。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せの三段重ね(2)

2022年01月20日 | 学年だよりなど
1学年だより「幸せの三段重ね(2)」


 3年生の現代文で、「『である』ことと『する』こと」という評論を勉強する。
 「である」価値に支えられていた江戸時代から、明治維新で「する」価値が認められる時代になり、それが日本の近代化だった、でも未だに近代化は完成してないよね、という名文だ。
 幸せのありかたにも、「である」幸せと「する」幸せが存在する。
 精神科医の樺山紫苑氏は、「BE」の幸福と「DO」の幸福と、それらを呼ぶ。
 「BE」はbe動詞のbe、そこに「ある」幸せだ。
 朝さわやかに目が覚めて青空を見上げるとき、セレトニンが出ている。着替えて台所にいくと、テーブルの上には朝ごはんが用意されている。みなさんにとって何の疑問もない光景かもしれないが、当たり前ではなくありがたいことだ。家族のあたたかさに気づいたとき、人はオキシトシン的幸福を感じている。これらがBEの幸福だ。
 それに対して、何かを「する」ことによって得られるのが、「DO」の幸福だ。
 やった受かった! 勝った! と盛り上がったときの、ドーパミンが大量に分泌している状態。
 ただし、この「DO」の幸福は長続きしない。


~ 何か大きな目標を達成したとき、大金を手に入れたとき、スポーツの大会で優勝したとき、その瞬間はドーパミンが大量に分泌します。そのため「大きな幸福」は得られますが、それは永続的なものではありません。すぐに色あせてしまいます。
 「幸せ」とは今、この一瞬の「状態」であり、「プロセス(過程)」なのです。「ゴール」でも「結果」でもない。ですから、「今」幸せであることが重要です。
 「小さな達成」、つまり「階段を一段昇る」だけで、ドーパミンは分泌されるし、そこに「小さな幸福感」が間違いなく存在します。階段を100段昇れば、「小さな幸福感」を100回得られます。
 あるいは「今、健康である」というセロトニン的幸福。「あなたを支えてくれている人がいる」というオキシトシン的幸福。それらの「BEの幸福」は、あなたが気付いていないだけで、すでにそこにある幸福です。
     (樺山紫苑『精神科医が見つけて三つの幸福』飛鳥新社) ~


 結果そのものの喜びは、一瞬のドーパミン分泌によって、興奮となってあらわれるが、その興奮自体はすぐにおさまってしまう。
 しかし、その結果を得るために頑張ってきた自分をふりかえったとき、しみじみとした喜びがこみあげる。俺もよくがんばったなという自信。これは「BE」の幸福に変わっている。
 がんばれた自分、それを支えてくれた周囲への感謝、それらを意識できるほど幸福感はあがる。
 思い出をつくること、経験を蓄積することは、知識の暗記以上に大事だと言える。
 それは「DO」の幸福を「BE」にかえていくからだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第1回冬期演奏会

2022年01月16日 | 日々のあれこれ
第1回冬期演奏会(旧新人戦)大会二日目 さいたま市文化センター

2022年1月16日(日)4番 11:45演奏
 
 課題曲 マーチ「虹色の未来へ」 自由曲 「ゴースト・トレイン」

  銅賞をいただきました。ライブをごらんいただき、ありがとうございました!
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せの三段重ね

2022年01月15日 | 学年だよりなど
1学年だより「幸せの三段重ね」


 みなさんは今、幸せですか? それはなぜですか?
 もしかすると、幸せではないですか? それはなぜですか?
 人が幸せを感じているとき、脳内がどうなっているかは、解明されている。
 「いま自分は幸せだ」と感じさせる脳内物質が分泌されている状態だ。
 おなかいっぱい好きなものを食べて、ああおいしかった! という時に感じる幸せ。
 気になっていた女子と言葉をかわせて、なんかいい感じになった時間の幸せ。
 接戦を制してベスト8に勝ち上がった瞬間の幸せ。
 イメージすることができると思うが、それぞれ違った種類の物質が出ている。


~ セレトニンが出ていると、爽やか、安らかな、おだやかな幸福感が出ます。 
 オキシトシンが出ていると、人やペットなどとの「つながり」「愛情」、あるいは赤ちゃんを抱っこしているときの、愛に包まれた幸福感が出ます。
 ドーパミンが出ていると、心臓がドキドキするような高揚をともなう幸福感が出ます。
 セレトニン的幸福とは、一言で言うと、健康の幸福。心と体の健康です。
 オキシトシン的幸福とは、つながりと愛の幸福。友情、人間関係、コミュニティへの所属などの幸福です。
 ドーパミン的幸福とは、お金、成功、達成、富、名誉、地位などの幸福です。
               (樺山紫苑『精神科医が見つけて三つの幸福』飛鳥新社)~


 アドレナリン、エンドルフィン、ノルアドレナリンなど、幸福物質は他にもあるが、限られた状況下で出るものだ。人生における幸せは何かと問われて、「ジェットコースターに乗っているとき(アドレナリンによる幸福感)」を一位にあげる人は少ないのではないだろうか。
 日常的な幸福感は、主にセロトニン・オキシトシン・ドーパミンが、色の三原色のように重なり合ってもたらされる。
 だから、幸せになりたかったら、これらが出るような行動をとればいいということになる。
 極めて簡単な原理だ。ジョギングして爽快になればいいし、友達と仲良く話をすればいい。
 勉強をしっかりがんばっていい成績をとればいい。
 ただし、ベースになるのは、セレトニン。次にオキシトシン。最後にドーパミンだ。
 睡眠時間を削って勉強するのは、結局幸せを導かない。
 仕事で大成功を収めても、誰からも祝福されないとき、やはり人は幸せになれない。
 まず体も鍛えて健康になり、礼儀正しく人と接する生活をすることが幸せのベースになる。
 ここまで書いてふと思った。みなさんは、普通にこのベースができつつあるのではないかと。
 しっかり食べてるし、運動もしている。挨拶もできるし、家族にも支えられている。
 あとは勉強して結果を出すだけではないか。
 川東生らしい暮らしは、もっとも幸せに近い道程であることが、脳科学的に明らかだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校時代にしておく50のこと(2)

2022年01月11日 | 学年だよりなど
1学年だより「高校時代にしておく50のこと(2)」


 自分の生活圏が拡がったり、経験可能なことが増えたりすると、自分の世界が広がる。
 電車で通学するようになっただけで、みなさんの世界は中学よりも広がっている。
 部活動で遠征や試合に出かけ、よその学校の人とふれあうのも、世界を広げる大事な経験だ。
 どこへ出かけてなくても、本を読んで自分の頭の中を広げていくことができる。
 読む本の質が変われば、世界は変わる。
 高校から大学生の時期は、未知の経験に思い切って飛び込んでいける時期だ。
 その中から興味や関心が生まれる。少しやってみたくなる。
 やってみると、かなり本気で取り組んでみたくなる。
 これこそが自分のやりたいことだと思い始めたりもする。
 同時に、それを実現できる自分ではないことに気づいてしまい、辛くなることもある。
 高校から大学生にかけては、いろんな経験ができるようになり、同世代のすごい存在に気づくがゆえに、自分のふがいなさに気づく時期だといえるだろう。
 作家の中谷彰宏氏は、現在1000冊を超える著書があり(最も有名なのは『面接の達人』)、ラジオ番組、セミナー、雑誌連載、コンサルタント、さまざまな分野でマルチな活躍をされているが、高校時代のつらかった思い出を、多くその著書に書かれている。
 そしてそれが、大人になってからの仕事の原動力になっていると言う。


~ つらかったことを昨日のことのように思い出すことで、高校時代に「将来こういうことをやりたい」と思っていたことをできるようになります。
 つまらない大人になる人は、高校時代に描いた未来の夢を忘れてしまうのです。
 これから大学に入って、社会人になって会社に入ると、高校時代の「こんなことをやりたかった」「こんなことが楽しかった」ということをどんどん忘れていきます。
 これが老化です。
 僕は今、モノをつくる芸術の仕事をしています。
 クリエイティブな仕事ができるのは、高校時代の夢を忘れていないからです。
 高校生に戻っていっているのです。今、気持ち的には高校生と同じです。
      (中谷彰宏『高校時代にしておく50のこと』PHP)~


 人生の中でのたった3年間、宇宙の長さと比べるとあっという間の時間でも、高校時代のことは鮮明に思い出し、いくらでも語ることができる。
 そして、高校時代にやりたかったこと、やってしまっていたことを、大人になってもひたすら繰り返していることに気づいたという。
 中谷先生のサインをいただいた本を各クラスにおいてもらうので、手にとってみてください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校時代にしておく50のこと

2022年01月06日 | 学年だよりなど
1学年だより「高校時代にしておく50のこと」


 「成績が上がらない」と悩む人がいる。相当数いると思う。
 不思議なことに、その相当数の人はそれほど下降もしていない。
 川越東高校の1年生という単位で見た場合、多くの人はそれほど上下動していない。
 一年間ずっとクラスで10番くらいだったり、ずっと学年で300番だったり。
 つまり、多くの人が自分の実力をキープしていると言える。別の言い方をすれば多くの人が同じくらい停滞している。
 あえて言うが、みなさんが今取り組んでいるレベルの勉強は、たいしたことはない。
 ふつうにやれば大体は身に付く。
 得意不得意や相性はあるだろうが、本質的問題ではない。
 成績があがらない原因を純粋にさぐってみるなら、自分に問題があるはずだ。
 それなのに部活で時間はないとか、教え方が悪いとか、環境に恵まれないとか、自分以外に理由を探しているかぎり、ここから脱することはできないだろう。
 生きるために必要なことと部活動の時間以外の全てを、勉強してみてからではないか。
 電車の中でぼおっとしてたり、ゲームをしてる人にかぎって、時間が足りないとか言いがちだ。


~「頑張っているわりに、結果が出ていない」と言います。
 でも結果はすぐに出るものではないのです。
 僕はサラリーマン時代、「明日までにラーメンのコピーを300本書いてこい」と言われました。
 僕は「わかりました」と言って、500本書いていきました。
 面白いコピーでなくていいのです。
 面白いものを書くことが、目標ではないのです。
「300本書いてこい」と言われて、500本書いていくのが結果です。
「300本」と「500本」は、ハッキリ数字の上で違うのです。
 スポーツなら明快です。
「一生懸命やれ」と言われたら、今の2倍の練習をするしかありません。
 決して気合いを入れてやるということではないのです。
「頑張る」という言い方は、抽象的です。
 僕は「頑張らなくていいから、2倍やれ」と言います。
 頑張るか頑張らないかは、関係ないのです。
 夏休みに読む本も、他の人が10冊読んだら、自分は20冊読みます。
 それだけのことなのです。 (中谷彰宏『高校時代にしておく50のこと』PHP)~


 「頑張る」必要はない。そう言ってる時点で、頑張らない自分が基準になっているから。
 やるのが普通のからだになればいい。頑張らなくていいので、まず倍やってみよう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする