水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

4月30日

2014年04月30日 | 日々のあれこれ

 GW二日目。一年生の楽典で和音とコードネームの話。音名はドイツ語読みせよと言われ、コードは英語で言えと教えられ、自分の楽器のドレミと他のパートのドレミとはちがうと言われ、はじめて楽器を手にした一年生達はかなりとまどっている。本校の生徒さんは、おかげさまでお勉強的理解はけっこうできるはずだが、中学校さんとかどんな風にやってるのかと思う。ひょっとしたら理論はそれほど指導されてないのかもしれないが、でも合同演奏会などで聞かせていただくいくつかの学校からは、実にきれいなハーモニーが聞こえるのだ。
 午後、楽器レッスンの先生にバンドのサウンドをきいていただき、親身に(別の言い方では、けちょんけちょんに)チェックしていただいた。上級生にも教えたはずなのに、ここの和音はコードネームで言うと何と問われ、多くが下を向く。すべて教えないといけないのだろうか。そうだね、教えよう、すべて。時間ないから。
 ユニゾンもあわず、ハーモニーの構成音もわからないままの状態を、半ば気づいていながらほおっておいたのは自分の責任だ。あわよくば「アナと雪の女王」吹替版を観に行こうかと思ってたけど、やるべきことをノートにまとめる日にすることにした。えらすぎる。

 ていうか(全然ていうかじゃないが「)、JTBのバス手配忘れ社員の人に、ちょっと同情してしまうな。
 入学式を休んだ担任も、休暇を認めた上司の責任が問われるべきだと思うし、この件だって、その30歳の社員さんに任せっきりだった上司の方の方がヤバいような気がする。
 このレベルのミスと、その後の悲しい対応をしてしまうような社員さんだったら、ふだんからもう少し気づきそうなものではないだろうか。
 つい数ヶ月前、札幌で一瞬にしてバス10台と500人分の宿を手配してくださったのと同じ会社と思えない。
 そして、被害届を出したという高校。はあ? いいじゃん、謝ってるんだから。その社員さんとかをみて、高校生だって、いい勉強になったって。たかだか遠足が延期になったぐらいで、バカなんじゃないか。
 そこは良い機会だとして、何かやらかしたらその後が大事だよね、その人うらんじゃいけないよとか教えるのが学校の先生でしょ。自分の感覚がおかしいのか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月29日

2014年04月29日 | 日々のあれこれ

 GW初日。一年生の楽典、リズム打ち、全員で「合奏の種」をつかった合奏。上級生だけで課題曲の合奏。
 三時バスで終わりにして、久しぶりにみかみさんで味噌ラーメンをいただき、川越アトレのお肉やさんに、バーベキュー用のお肉を注文しにいく。学校にもどり、連休明けの授業の予習をしようとしたが、ずいぶん先の気がして今一つ気合いが入らないので、懸案だった「アナと雪の女王」を観にいった。
 すばらしい。ストーリーにはとくにひねりもなく、それぞれのキャラクターも普通、いや「ふつー」かな。ふつーにかわいくかっこよく楽しくせつなくコミカルなキャラたち。なぜ、こんなに魅力的なんだろ。お芝居の上手な人間よりも理想的に表情やしぐさを作成できるからだろうか。そうかもしれない。ただし、あまりにも完璧だとウソくさくなるので、あえてシンメトリーさをくずした表情にしてみたりしてる部分もあるのかもしれない。アニメ界の事情はわからないが。
 ていうか、ほんとにアニメか、と思う。自分のイメージするアニメは完全に越えている。気持ち悪いくらいに。昔溺愛したテレビ版タイガーマスクとかがバイトの世界だとしたら、このディズニー映画はギガの世界だ。
 すごい世の中になった。そして、楽曲がすばらしい。なんらかの機会に演奏してみたい。
 日本を代表するディーバでありミュージカル女優の松たか子さんの歌も聴きたくなった。 
 とにかくこんなに予定以上に感動しまくってしまい、帰りにドトールによって、がっつり仕事した。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月28日

2014年04月28日 | 学年だよりなど

  学年だより「時間銀行」


 ~ 次のような銀行があると、考えてみましょう。
 その銀行は毎朝あなたの口座へ86,400ドルを振り込んでくれます。
 同時に、その口座の残高は毎日ゼロになります。
 つまり86,400ドルの中であなたがその日使い切らなかった金額はすべて消されてしまいます。
 あなただったらどうしますか。
 もちろん、毎日86,400ドル全額を引き出しますよね。
 私たちは一人ひとりが同じような銀行を持っています。
 それは時間です。
 毎朝あなたに86,400秒が与えられます。
 毎晩、あなたがうまく使い切らなかった時間は消されてしまいます。
 それは、翌日に繰り越されません。
 毎日、あなたのために新しい口座が開かれます。
 そして、毎晩、その日の残りは燃やされてしまいます。もし、あなたがその日の預金をすべて使い切らなければ、あなたはそれを失ったことになります。過去にさかのぼることはできません。あなたは今日与えられた預金の中から今を生きないといけません。
 だから、与えられた時間に最大限の投資をしましょう。そして、そこから健康、幸せ、成功のために最大の物を引き出しましょう。
 時計の針は走り続けています。今日という日に最大限の物を作り出しましょう。
 1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。
 1カ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみるといいでしょう。
 1週間の価値を理解するには、週刊誌の編集者に聞いてみるといいでしょう。
 1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。
 1分の価値を理解するには、電車にちょうど乗り遅れた人に聞いてみるといいでしょう。
 1秒の価値を理解するには、たった今、事故を避けることができた人に聞いてみるといいでしょう。
 0.1秒の価値を理解するためには、オリンピックで銀メダルに終わってしまった人に聞いてみるといいでしょう。

 (森本千賀子『№1営業ウーマンの「朝3時起き」でトリプルハッピーに生きる本』幻冬舎) ~


 時間の残酷さは、これだったのか。今日使わなかった1000円は、とくに事件がおこらないかぎり、明日も財布に入っているだろう。しかし、今日使わなかった1000秒(約17分)を明日に持ち越すことはできない。10000円使わずに財布に残しておくとものすごく夢がひろがるけれど、今日使わなかった1万秒(約2時間40分)は二度ともどってこない。
 やばくね? 明日から70万円ぐらいあるけど、大切にね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月26日

2014年04月26日 | 学年だよりなど

  学年だより「ディープ力(2)」


 作家の中谷彰宏氏は、東大を目指して二浪するもかなわず、早稲田大学の第一文学部・演劇科に入学した。学生時代は、映画を観、本を読む生活にのめりこみ、四年間で観た映画は実に約4000本に及ぶという。


 ~ 毎月100本のノルマを自分で決めて観ていった。1日2本ずつでは、月90本で負ける。1カ月に100本観るためには、負けるぶんを、オールナイトでフォローするのである。なにしろ、レンタルビデオやDVDのない時代である。映画館を回るのだ。あのころレンタルビデオやDVDがあったら、なんと楽なことだったろう。
 そのうえ、演劇科は出席が巌しかったので、時間的に大変だった。移動時間を計算して、スケジュールを組む。めったにやらない作品のときは、早めに行って並ばなければならないので、その待ち時間も計算に入れなければならない。めったに観られず何時間も並んだ映画が、今ではレンタル屋に無造作に並んでいる。
 雑誌の『ぴあ』が日記だった。『ぴあ』の650本とか載っている索引をまず開いて、観てないものがあるか、チェックするのだ。映画は無限にある。ただ、配給権にかぎりがあるので、2500本ぐらいから、観ていない映画が少なくなってくる。フィルムセンターやアテネフランセ、日仏学院の英語字幕フランス版などを押さえていけばいいようになる。
 そうこうしながら、4年間で4000本は観た。今までに4000本ではない。学生時代に4000本だ。今から思うと、そこで映像のシャワーを浴びていたことが、役に立っている。映画好きの人なら、たとえば、夏休みとか、ある時期に、月100本観ることは可能だ。だが、それを、4年間続けるとなると、単なる好きでは、続けられない。いまだにそれ以上観たという人に会っていない。
 これだけは誰にも負けないというのが、アカデミックなものであることは、むしろ学生にとって自然なのではないか。 (中谷彰宏『面接の達人』ダイヤモンド社) ~


 就職活動にあたっては、この経験は強みになった。自己紹介のなかに「映画を4000本観た」という一行を書いておく。面接で、それについて聞かれたなら、とうとうと語ることができる。
 一般企業を狙うにあたり、演劇科であることが有利に働くことはないが、誰にも負けない経験と、それによって得られた自信は何ものにも替えがたいことに、この時気づく。 
 その後に博報堂に入社し8年働いた後に独立することになるが、中谷氏が世に出るきっかけとなった著書『面接の達人』は、当然のことながらこの自分の学生時代がベースになっている。


 ~ 勉強に集中できない者に、ビジネスマンは務まりっこない。勉強しない人は、どこの世界でも取り残される。でも専門分野が、その会社とまったく関係がなくてもいいのか。いいのだ。だいいち、会社の中は、その会社のスペシャリストだらけだ。 ~


 就職に有利そうな学部学科を選ぶのではなく、自分がディープにのめり込めそうな学部学科を選ぶことが大事だということがわかってもらえるだろうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月24日

2014年04月24日 | 学年だよりなど

  学年だより「ディープ力(就職力2)」

 就職を考えて学部・学科を選ぶという発想は、大学では就職後に役立つことを教えてもらえると考えているところから生まれるのだろう。
 しかし、たとえば経営学部で企業経営のあり方を学んだ後、ある会社に就職できたとする。
 新入社員が、その会社の経営について何か意見したりできるだろうか。「その経営方針は理論的にはおかしいですね」なんて言う機会があるだろうか。
 そんなことがあり得ないのは容易に想像できるはずだ。
 「よけいなことを考えずに言われたことをちゃんとやれ!」と叱られるのがおちだ。
 むしろ、大学で勉強したことなんて忘れろとさえ言われるかもしれない。
 まして、法律やら文学やらを学んだ学生がふつうに一般企業に就職して、直接仕事に何かをいかせることはない。
 理系のごく一部の学生だけは、大学で(実質は大学院だが)学んだことが職業とつながってくる。
 文系の場合、基本的にそれはないと考えていい。
 だから、就職活動では、社会学部の人も文学部の人も法学部の人も関係なく面接を受けて、同じ土俵で比較され採用されていくのだ。
 うちの会社は、経済学部の学生は採るけど、文学部の学生は採用しないということはない。
 学部に関係なく「優秀な」学生が内定をもらえるというだけのことだ。
 じゃ、学部・学科を考えることに意味はないのか。大学で学んだことはすべて無価値なのだろうか。そういうことではない。
 「優秀な」学生というのは、採用する側に、ぜひ同じ職場で働いてほしいと感じさせる学生のことだが、その力はやはり大学でつけることができる。
 それは、自分の選んだ学部・学科の勉強をしっかりすることだ。
 その内容は将来に仕事に直接役立つものではない。むしろ、役に立たないことを教えるのが本来の大学であった。
 経済学なら経済学を、政治学なら政治学を、文化人類学なら文化人類学をしっかり勉強すると、その学問の視点で物事を見ることができるようになる。これが教養だ。
 漠然としか見ていなかった世の中の相が、ちがった見え方をするようになる。


 ~ 勉強でも運動でも、ディープに取り組んだものが、一生身について離れない血肉となるのだ。
 ディープを面倒くさがって、最小限の単位取得とテスト勉強で、卒業までこぎつける学生もいる。彼らが学んだ授業は好きで取ったものではないので当然身についておらず、面接の場で「こういうものを学んできました!」と語ることはできない。
 大学を卒業したのに、何一つ教養を得られていないわけだ。
  … 少ない労力で卒業単位を取るというのは、あたかも効率のよい方法に思えるかもしれない。けれど、単位なんて考えず、ディープに勉強を掘り下げた学生の獲得した教養の方が社会でははるかに価値がある。 (斎藤孝『就職力』毎日出版社) ~

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼に非ずんば …

2014年04月23日 | 日々のあれこれ

 ちょっと呑もうかという話になった友人が、「あのさ。彼女も連れてっていい?」って言ってきたら、なんかうれしい。
 仕事の重要な打ち合わせの場として会うのでもなければ、いや、それでもいいかな。場がなごむし、何よりもたんなる仕事上のつきあいではなく友として接しようとしてくれる感覚を抱ける。
 オバマさんがミシェル夫人を伴わずに来日するというのを聞いてちょっとさびしい感じがしたのは、この感覚なのだろう。
 純粋に実務的な仕事をするための来日なら、むろん理に適った行動なのだが、大統領というのはそれだけが仕事ではない … て、言ってもわかんないかな。それが彼に欠けているところかもしれない。
 自国でその感覚は非難されたりはしないだろうが、私たちから見るとね。
 理屈ではなく、「礼」という概念の有無だ。
 いや、あえて日本にはそういう姿勢で臨むのが米国の政治的立場だというなら、しかたないが、そんな余裕はないはずだ。 
 いいブレーンがきっといなさそうなのが、同学年としてかわいそうだ。金沢大でなくコロンビア大に行ってたら同級生になってかもしれず、それを機に年賀状のやりとりぐらいはする間柄になっていたら、いろいろサジェスチョンしてあげれたのに。
 先日行われた本校の入学式には、平日にもかかわらず、ご両親そろって来校していただいた方も多かった。
 ありがたいことである。入学式後、AJIさんの歓迎演奏会をお聞きいただき、はれやかな気持ちで教室に行ったら息子の担任が不在だった、という状況だったら、どうお感じになられるだろう。
 副担任なり、学年主任なりが対応していたとしても、何か少しさみしい気持ちになるのではないだろうか。
 理屈ではないのだ。担任が入学式の日に休暇をとっても、法的にはなんの問題もない。
 担任のとった行動が正しいかどうかという議論があったが、もともと理屈で答えの出る問題ではない。
 授業の最初におじぎをするのはなぜですか? 朝起きたらなぜあいさつしないといけないのですか? という問に科学的論拠で答えられないのと同じだと思う。これを論理的に説明せよという人と友だちになるのは難しい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よるのふくらみ

2014年04月22日 | おすすめの本・CD

 食べることと同じくらい、性行為は人間の生の縮図だ(おっと、だいじょうぶか、中学生の読者もいる可能性があるけど。だいじょうぶ、ここを読みに来るような子は聡明な子にきまってるから)。
 何を食べるか、どんな食事経験を積んだかが人格形成に与える影響は大きい。
 性に関する様々な経験も、同様と言えるだろう。
 生きてさえいれば、なにかは必ず食べる。
 性については、なにかしら具体的に「した」ことだけが、経験ではない。
 「したい」と思ったり、それに関する様々なことを想像したり、または無意識の抑圧から生まれる何らかの感情や行動もすべて含めて性経験と考えられる。
 そう考えれば、生き物である以上、すべてのヒトがなんらかの性経験をもつはずで、そんな生き物であることから誰も遁れることはできない。
 窪美澄さんの新作『よるのふくらみ』は、生きている人間の、つまり性の営みから遁れることのできない人間の、その遁れなさぶりを、真正面から描いた作品だ。

 ストーリーの骨格は、男2と女1の三角関係だ。男2が兄弟。
 幼なじみの自分の好きな女1が、兄と結婚するという設定は、弟の身になった場合どれだけつらいことか。


 ~ みひろも俺も中学生で、俺はいつもみひろをからかっていた。笑わせたかったのは、みひろが暗い顔をしてるからだ。みひろの母さんが出て行って、うつむいて商店街を歩くみひろを笑わせたかった。みひろと同じ高校に行きたくて死ぬほど勉強した。高校に入ったあと、みひろに好きだと伝えたくて、そのタイミングを狙っていたのに、先に告白したのは兄貴だった。高校の渡り廊下で、みひろは発熱したみたいに顔を赤くしてつっ立っていた。みひろの気持ちも兄貴に向いていた。みひろに選ばれなかったのだから仕方がない。みひろが選んだのは兄貴だったのだからあきらめろ。何度もそう言い聞かせてきた。けれど、兄貴とつきあい、いっしょに住むようになったみひろを目で追いかける自分がいた。 ~


 婚約して一緒に暮らし始めた兄の圭祐とみひろの生活は、うまくいかなかった。
 兄の圭祐は、みひろにとってあこがれの存在であり、初体験の相手でもあったが、結婚後、兄がその行為ができなくなってしまう。
 圭祐への不審感と、満たされない思いから、裕太のからだを求めてしまった後、みひろは家族を捨ててよその男と家を出た母親の過去を我が身に投影する。
 そんな母を、残された家族を、周囲がどう見ていたかを思い出すと、一度結ばれたからといっても、かんたんに圭祐と別れ、裕太と一緒になるわけにはいかなかった。
 周囲の友人達は、幼い頃からいつもつるんで笑いあっている裕太とみひろがくっつくものだと思っていた。
 みひろ自身にとって、裕太との関係は家族のようなものだったのかもしれないが、大人の女になって、そうでないことに体が気づく。
 みひろを諦められないまま、子供もいる年上の里沙とつきあっていた裕太だったが、兄との関係で精神的においつめられていたみひろのことを知ると、やはり、いても立ってもいられなくなる。
 しかし、なかなか煮え切らない裕太を、「みひろはおまえといるとき、一番笑顔になれるんだよ。他に理由がいるか!」としかる友達の健司。


 ~ 今ならまだ間に合うんじゃないか。取り戻せるんじゃないか。
 健司たちと別れたあと、児童公園にあるパンダのカタチをしたバネ式遊具にまたがって、俺はいつまでも揺れていた。酔いがまるで毒のように体中にまわって、頭がぐらぐらした。ふいに携帯が震える。里沙さんだった。
「今夜、これから会えないかな?」
「…………」向かってくる小さな虫を手で追い払いながら、俺は言葉を探していた。
「今日、社長と飲んでしまって……かかり酔っちゃって俺」とっさに嘘をついた。
「……そっか……」そう言ってしばらくの間、里沙さんは黙った。
「あぁ。……だけど、来週の旅行は大丈夫。社長にも頼んだから」
「……うん。そうだね。楽しみにしてるね」
 じゃあね、おやすみね、と言って里沙さんは電話を切った。その声の優しさに胸が痛んだ。だって俺は、どうやって別れ話を切り出すか、健司の話を開いたときから考え始めていたんだから。
 見上げると水銀灯に数え切れないほどの虫が群がっていた。青白い光にぶつかっては離れ、それでもまた吸い寄せられるように近づいていく。あの虫のことを馬鹿だなんて笑えない。俺は虫以下だ、そう思った瞬間、すっぱいものがこみ上げてきて、地面に少し吐いた。その上に靴でざっと砂をかぶせて見上げると、水銀灯がにじんで見えた。

 ほんと人間て面倒くさいよね。
 窪美澄さんの文章のすごさは、ディテールの描写力にもある。
 一人取り残された後に、ふと部屋の隅に残る何かを見かけるとか、そういうの。
 ベランダの隅に置き去られたハッカパイプ、みたいな。
 「羅生門」の勉強のとき、これから起きる出来事の不気味さを予感させるように、羅生門の周りに誰もいない、夕暮れ、雨、とかの設定をしてるんだよ、なんて教える。
 窪さんの作品を読んでると、日本の小説もずいぶん発展したものだと思わざるをえない。
 アイドルの歌JPOPを聞いたとき、「え、こんなコード進行とか転調が、ふつうに使われるんだ」という感慨を抱くのと似ているかもしれない。


 ~ 顔は笑ってはいない。少しずつ近づき、二人の距離が縮まって、俺とみひろが向き合ったのは、シャッターを閉めた松沢呉服店の前だった。声をかけ、近づいてはみたものの、何と言っていいかわからず、俺たちはただ、見つめあっていた。ひろの腕が伸びて、俺のシャツの左胸のあたりを、くしゃりと握った。その手をとって引き寄せた。こんなに小さな女だっただろうか、と思いながら、商店街のど真ん中で、俺たちは抱き合った。自転車に乗った塾帰りの中学生男子の集団が、ひゅーひゅー、と言いながら通り過ぎる。また始めてもいいのだろうか、と迷いながら、腕のなかのみひろめ温かさを感じていた。
 見上げると、頭の上には、ビニールでできた原色の薄っぺらい飾りが揺れている。その安っぽさと、だささが、俺にはとても近い存在に思え、そして同時に、俺には到底近づくことのできない、なんだかとても偉大なものに見えた。みひろも俺の腕の中で顔を上げた。夜の商店街の真ん中で、水草のような、その不規則な動きを、いつまでも俺たちは見ていた。 ~


 一地方都市で、かぎられたコミュニティーのなかで生きていく若者の閉塞感を、商店街を覆ったアーケードが象徴する。
 安っぽい飾りは、そこに暮らす人々の人生の安っぽさのようでもあり、しかしそこで生きていくしかないなら、逃げずに受け止めていこうとする一般庶民のプロみたいな人々のありよう。
 二次試験で小説の象徴問題を必ず出題する、大阪大学文学部の先生が読んだら、出したくなるような描写が満載だ。
 それにしても、血の通った生身の人間の面倒くささを、だからこそ愛おしい性と生の営みを、一点のてらいもなく描き出せる希有な作家だと思う。
 40歳代なかばで遅咲きデビューを果たした窪さんだが、デビューしてくださって、ほんとありがとうと言いたい。『ふがいない僕は空を見た』をも越える傑作だ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月21日

2014年04月21日 | 学年だよりなど

  学年だより「就職力(1)」

 どの大学を第一志望にすればいいか。何学部にすすめばいいのか。
 こういう職業につきたいという気持ちが固まっている人以外は、今後悩むべき問題となってくるだろう。
 とくに文系のみなさんは、学部ごとに何をやるのかが非常にわかりにくいと感じているはずだ。
 法学部は法律を学ぶ、経済学部で経済の仕組みを学ぶ、という言葉だけの理解をして、けっきょく就職にはどちらが有利なのか、という発想が先に立ってしまう。
 たとえば、経済学部と経営学部と商学部とはどう違うのだろうか。
 さらに、経済学科、経営学科、商学科、金融学科、会計学科、国際経営学科、会計情報学科、会計ファイナンス学科、会計情報学科、企業経営学科 … 、と学科名までみたとき、いったい何を基準に選べばいいのかと考えてしまうかもしれない。
 結論から言うと、どうでもいい。
 経済系の学部を目指すのであれば、漠然とこういう勉強をするのだろうという予備知識程度は必要だが、大学毎にどこがちがうのかを調べ、理解して、自分にあった学部・学科を選ぼうとなどと考えるのは時間のむだだ。その時間を勉強にあてた方がいい。
 A大学の経済学部の中身と、B大学の経営学部に中身が大変似通っているとか、C大学が「うちでしか学べない」ぐらいにアピールしている内容が、D大学で普通に学べたりする。
 まして、これらの学部、学科のなかで、就職に有利不利があることはない。
 自分に向いているのが、経済系なのか、経営部系なのかも、実際に学んでみないとわからない。
 もちろん違いはある。理論派タイプの人は経済系がいいとか、現場主義の人は経営系がいいみたいに、人間のタイプと相関する学問分野はある。
 でも、かりに経済学部に入ってから、理屈よりももっと現実の企業経営とか会計とか学びたいと思うようになったら、そういう科目を履修すればいいだけのことだし、授業がなければ本を読んで大学の先生に習いにいけばいいだけのことだ。
 大学の先生は、ものすごく喜んで教えてくれるだろう。そんな学生はめったにいないから。
 法学部とか社会学部とか、別分野に話を広げても、今の話はだいたいあてはまる。
 その学部・学科でいったい何を学ぶのか、それが自分にあっているのかあっていないのか。
 それは、実際に行って学んでみてはじめてわかる。
 現実問題として、自分のやっている学問とはこういう内容なのかなと漠然とわかるまでに2、3年はかかる。
 そうこうしているうちに、就職活動の時期になってしまうので、文系の学生は、自分の取り組んだ学問がどのようなものか、判然としないままに卒業していくのが普通だ。
 逆に言うと、学問に打ち込み、その内容をそれなりに語れる学生の場合、「サークルの副部長やってました!」とか、「アルバイトで副店長を任せられました!」とか言うよりも、面接での評価は大変高くなる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリニック

2014年04月20日 | 日々のあれこれ

 洗足音大で行われた課題曲クリニックにでかけた。
 課題曲の作曲者と伊藤康英先生が作品について語り合うコーナーが、毎年大変参考になる。
 実際には、伊藤先生が語っている時間の方がたいがい長いのだが。
 演奏予定(とか、かっこつけちゃた。もうこれしか練習してないんだから、予定とかつけなくてもいいんだよね)の「斎太郎節の主題による幻想」を書かれた合田佳代子先生は、ピアノがご専門の方のようで、生粋の大阪人とおっしゃってはいたが、「関西のおばちゃん」風ではなく上品なたたずまいでいらっしゃる。
 伊藤先生の前では、はい、そのとおりです、そうとってもらえればいいと思いますと、解説も控えだ。
 しかし一緒に弾いてみませんか請われて連弾がはじまると、いきいきと弾き始められる。
 なるほど、中間部はそんな風に歌われるつもりで書かれたのかと、一瞬にしてわかった(わかるとできるはちがうけれど)感じがした。
 講座のあと、サインをいただき、がんばってくださいねと言っていただき、作曲から直接「気」をいただくという本日最大のミッションは達成された。
 朝から小諸そばのカツ丼セットとか食べてしまったので、昼は食べずにすんだ分ずっと譜読みができ、午後の指揮法講座を聞く。もう少し時間があって、つっこんだところまで聞きたかったのが正直なところだ。
 ただ、会場を埋めているのは中高生女子がほとんで、実際に指揮をされそうな方が非常に少ない。
 講座を担当された先生も少しやりづらかったのではないだろうか。
 しかし、音大生の奏でる課題曲3を聞けてよかった。
 定演のとき難所と感じたハーモニーはやすやすとクリアされていた。音の処理については、細かく指示されてない部分が多分あるはずで、上手な人でもその辺はトレーニングで統一感をつくる必要があるのだろう。
 全体のイメージがつかめたので、来て良かったと思う。
 部員のみんなは、学校でちゃんとさらっていただろうか。

 昨日、ある生徒から何学部に行ったらいいのかよくわからない、就職とか考えないといけないですよね、と聞かれ、いやいや文系はそんなの関係ないよ、ぶっちゃけ難しい大学に入るのが一番、あとはそこでどうすごしかだなと話す。
 学年だよりで急遽書こうと思って、帰りにブックファーストで本を何冊か買った。
 三年おきに読む『大学図鑑』はやはり参考になる。ちゃんとマイナーチェンジを繰り返しながら最新の情報でつくられているとこがエラい。
 斎藤孝『就職力』も読んでみた。就職力をつける具体的方法、つまり大学でやるべきことがたくさん書いてある。
 結局、高校でやるべきことと同じじゃないか、と途中で気づいた。
 久しぶりに中谷彰宏『面接の達人』も少しよみ、『偏差値30からの東大受験』という新書版は電車の中で読み切った。
 「大学生は毎日本を200頁読め」と『就職力』に書いてあったが、今日読んだ頁を考えると、いまの自分はけっこう就職力ついているかもしれない。もう遅いか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週末

2014年04月19日 | 日々のあれこれ

 長い一週間だった。
 先週末部活登録があって、月曜から水曜にかけて楽器適性チェックなどをして、楽器決めをした。
 希望がかわななかった新入部員もいたので、そのあとちゃんと来てくれるかという心配もあった。
 毎朝「日刊スポーツ」の占い欄を見てるけど、「トラブルの矢面に立たされる可能性がある」と書いてあった日はドキドキしてた。何人もやめるって言ってきたらどうしようとか思って。

 楽器決めのあととか、選択科目の説明会のあととかに大体話すことだが、人生は一本しかない。
 AとBと選択肢があったとき、同時に両方を試してみて選べるなら、より正しい判断ができるのかもしれない。
 でも、Aを選んだときはBはできないし、Bを選んだらAはできない。
 ひょっとしたらAにものすごい才能があるかもしれなくても、Bを選ぶとそれは試されないままに終わる。
 自分だって、吹奏楽部の顧問を何の経験もないまま引き受けて(与えていただいて)、今でこそ自分にあってる部活でよかったなと思うけど、同じように経験のない野球部の顧問にたまたま配属されていたら、今頃甲子園の常連になっていたかもしれない。
 そんなことは絶対にないとは誰もいいきれない(ないけどね)。そしたらプロ野球のヘッドコーチに招かれるかもしれないのだ。

 吹奏楽部があってると思うようになったのも、しかし、最初からではない。指揮も自分でしなさいと指令をいただいた十数年前から、少しずつ譜面を読んだり、他の学校を見学させていただいたりし、いろいろ自分なりにやった結果そう思うようになったのだ。
 昔みたく音楽の先生に全部まかせた状態で続けていたなら、今ほど充実感を持てているかという疑問だ。
 結局自分にあっているかどうかというのは、自分が選んだことで、いやむしろ他から与えられたことでも、それをきちんとこなしていこうという姿勢で取り組んでいけば、それが適性となるのだろう。
 人間には無限の可能性があるとよく言われる。
 たしかにそうかもしれない。
 ただ、その可能性を試すことがらは有限、というか一時に一つだけだ。
 その一つをとりあえず一生懸命やってみようという姿勢が、なんといっても大事で、部活でも大学でも就職したあとでも、その原則は変わらない。

 新入生たちは、それなりに楽しそうに取り組んでいるように見えた。
 楽器決めのあとに、入部させてくださいという子があらたに三人きた。
 ありがたいことだ。何十人来てもOKだ。

コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする