水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

誰が「反知性」なのか

2016年02月29日 | 日々のあれこれ

 

  国語の教員が入試問題を作成するとき一番大変なのは、何から出題するかだ。
 駿台の霜栄先生が、模試の問題をつくるために三省堂に行き、選書の棚をなめるように見続ける … 、ある日自分と同じような妙な動きの人がいたと思って顔を見たら同業者だった、という話をされていた。
 自分も、そろそろ入試問題を決めなきゃという時期には、なめるように書店の棚を見渡す。
 これなんかいいなあと思う文章は、常にストックしているつもりだが、ついもっといいのはないかと探してしまう。最近は小説を担当することが多いので、どんな小説を読んでてもその目線はどこかにある。
 本校の入試に用いる作品を探しながら、同時にセンター試験に出そうなものも探す。
 昔、堀江敏幸さんの作品で問題をつくった翌年、センターで出たのは一番接近した経験かもしれない。

 十数年前、内田樹『おじさん的思考』を読んだとき、これは問題の宝庫だなと思い、すぐ作った。
 幾星霜を経て、内田先生がここまでビッグな存在になるとは当時は思わなかった。
 そんな内田先生の文章が東大の二次試験に出る。時代も変わった。
 その文章についての批判をいくつか見かけた。
 「悪文だ」「論旨が明確でない」「根本的に間違った内容だ」 … 。

 内田先生は、今や論壇の売れっ子だ。
 今の日本がおかれた情勢に関するご発言は、いわゆる「左翼的」で、最近ではSEALSのデモを賞賛したり、安倍政権を批判したりされている。
 長年触れてきた内田先生のお考えと、何かつながってないんじゃないかなと不思議に感じるときはある。
 だからといって、「左翼だ」「バカだ」「すべておかしい」とは思わない。
 もちろん、すべて正しいとも思わない。
 そのへんは自分の身体の感覚との関係性で判断できるようになるといいよねという、東大で出た文章は、それなりに理解できた。

 評論家、文筆家とよばれる方の、「理解できない」「ヤツの思想はおかしい」「こんな文章を東大が出すなんて、バカなんじゃないの」という言説をみかけた。
 でも、そういう言い方をする方を「かしこい」とはとても思えない。
 あと、やはり入試問題というものがわかっていない。
 出題された文章が、内容として「正しい」かどうかなど、問われていないのだ。
 大体、誰もが納得するような内容の文章であったなら、それ自体文章としての存在意義がない。
 評論文である以上、一般論、通念とは異なるなんらかの内容を含むのは当然だ。
 ある人はその意見に賛成だろうし、立場を異にする人も当然いる。
 自分が納得できない文章を入試に出すなというのは、おかしな話だ。

 何を言っているのかわからないと書いている人もいたが、それは読解力が足りないだけだ。
 今回の文章は難しくない。
 今回の内田先生の文章よりも、もっとわかりにくいのは、過去にいくつも出ている。
 なぜ話題にされるかと言えば、内田先生が目立つ方だからだ。嫉妬もあるだろう。
 全く同じ内容が、目立たない大学で、無名の著者の文章として出題されていても、話題にならなかったと思う。
 反響が大きかったということは、それだけ「知性とは何か、反知性とは?」という問題提起力が大きい文章だということでもある。東大の先生も、出題しがいがあったことだろう。
 川東に何が出たなんて、誰も話題にしてくれないものなあ。

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「富嶽百景」の授業(10) 三段落 第三場面

2016年02月29日 | 国語のお勉強(小説)

 

 三段落〈 第三場面 御坂峠 〉 

 

 十月の半ば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁の腹雲、二階の廊下で、一人煙草を吸いながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血のしたたるような真っ赤な山の紅葉を、凝視していた。茶店の前の落ち葉を掃き集めている茶店のおかみさんに、声をかけた。
 「おばさん! あしたは、天気がいいね。」
 自分でも、びっくりするほど、うわずって、歓声にも似た声であった。おばさんはほうきの手を休め、顔を上げて、〈 不審げに眉をひそめ 〉、
 「あした、何かおありなさるの?」
 そうきかれて、私は窮した。
 「何もない。」
 おかみさんは笑い出した。
 「お寂しいのでしょう。山へでもお登りになったら?」
 「山は、登っても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へ登っても、同じ富士山が見えるだけで、それを思うと、気が重くなります。」
 私の言葉が変だったのだろう。おばさんはただ曖昧にうなずいただけで、また枯れ葉を掃いた。


 場面  場所  御坂峠
      時   夕暮れ時
     人物  私 おかみさん


Q41「不審げに眉をひそめ」たのは、なぜか。
A41 突然、興奮した声で話しかけてきた「私」の真意がわからなかったから。

   私   仕事が進まない 人恋しい
      ↑
 おかみさん 理解者 やさしい

 

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堀江敏幸の小説が高校入試に出たら

2016年02月28日 | 国語のお勉強(小説)

 

 次の文章は、堀江敏幸の小説「トンネルのおじさん」の一節である。これを読み、後の問いに答えよ。


「弁当といっしょに乗れ」
 右肘(ひじ)を窓枠にかける片手運転でおじさんが言う。急いで反対側にまわって乗り込むと、おばさんが外まで見送りに出てきて、いってらっしゃいと小さく手を振った。靴底が厚いせいか足がしっかり底について踏ん張りがきく。これなら左の窓のうえの取っ手につかまるだけで、シートベルトはしなくてもよさそうだ。柿の木の道に車をもどし、山に入っていく。家とそのまわりではあんなに吸っていた煙草(たばこ)を、おじさんは①〈 口にしなくなっていた 〉。
「山では昼飯のあと一服するだけだ。大事に吸って、大事にもみ消す。火事がいちばん怖い」
「でも、雨が降って木は湿ってるよ」少年が言うとおじさんは感心したようにちらりと助手席を見た。
「そうだな。天気つづきでからっとしてるときよりは、心配がない。だが心配することと用心することは、似てるようでちがう。心配ってのは、用心しない者が口にする言い訳だ。煙草はもう一日分吸ってきた。あとはおまけ、ご褒美だ」
「A〈 でも、いい匂いだよ、おじさんの煙草 〉」
 それからしばらく、黙ったまま揺れに身をまかせた。黙ったままというより、うるさくて言葉が聴き取れないのだ。タイヤにはじか②〈 れ 〉た小石が車体の下に飛んで腹の部分を打ち、その衝撃がふたりつづきになっているシートからお尻に伝ってくる。
 急に視界が開けた。いや、開けたのではない。丈の低い山はまだ連なっているのだが、斜面の一部の緑が薄くなって茶色い地肌がのぞいていて、そこだけ妙に明るんでいたのだ。車が一台通れるだけの道幅だから、ときどきすれちがうときに使う逃げ場が用意されている。おじさんは湧き水が流れている小川の横にあった楕円(だえん)形の空き地にトラックを停めた。

 夏休みに入ってすぐ、どうしてもお父さんと話し合わなければならないことがあるからと、母親は少年を兄夫婦にあずけた。ここに着いた日は平日だったので、迎えに来てくれたあとおじさんはすぐまた仕事③〈 に 〉出て、翌日にはもう母親だけ東京に帰っていったから、一対一で向きあうのは今日が最初だった。東京では、親しみをこめて「トンネルのおじさん」なんて呼んでいるけれど、父親が家に帰ってこなくなってから一年以上になるし、学校の先生以外に大人の男のひとと話をする機会もなかったから、どうしても言葉を出すタイミングがつかめない。働きに出るようになって、母親は少しずつ変わっていった。忙しいからなんて言い訳をぜったいしないひとだったのに、こちらを向く余裕がなくなっていた。十日くらい、もしかしたらもっとながくトンネルのおじさんのところで世話になるからね。母親がそう言いだしたときも、だから驚きはしなかったし、落胆もしなかった。それで家の問題が片づくならなんでもしようと思っていた。そして、思っていたからB〈 あえて口にはしなかった 〉。日記と計算ドリル、漢字ドリルは忘れずに持ってきた。遊びに飽きたら畑の仕事でも手伝えばいい気分テン④〈 カン 〉になるなんて母さんは適当なこと言っていたけれど、夏の工作だけはまだなにをつくるかすら考えていなくて、それを食事のときふと漏らしたら、食卓でもくわえ煙草のおじさんが、じゃあ、木でなにかこしらえてみろ、材料ならいくらでもある、と少年を見た。
「木っ端や枝を使う工作は、もう友だちがやってる」
「じゃあ、根っこを使えばいい」
「根っこって……」
「そこにある」
 食堂から見える居間のテレビのよこに、いぼいぼのある蛸(たこ)みたいな木の根が、蛍光灯の光を照り返しながら艶(つや)やかに鎮座していた。飴(あめ)色の木肌がくねくねして、外国の物語で知ったグロテスクという言葉を連想させる。顔に出たのだろう、おじさんがめずらしく笑顔になって、そう怖がることはないと言った。
「おなじものをつくるわけじゃない。それだってもとは頼まれ仕事だ。農閑期といってな、暇なときにつくる。こういう飾りものの好きな連中がたくさんいるんだ。根を掘りだして、いろんなかたちに見立てる。その気になれば蛸に見えたり、カニに見えたり、ひとの顔に見えたりする。節も、傷も、みんなちがう。それを生かして、よけいな部分を伐(き)る。水で洗って、皮をはいで、木肌を出したらワックスをかけて磨く。それだけだ」
「おもしろい?」
「C〈 どうだろうねえ 〉」とおばさんが代わりに応えた。「釘を打ったりしないから、工作にはならないかもしれないけど、でも、せっかく田舎に来たんだし、田舎のおじさんの言うこと聞いてみたら?」
「田舎のおじさんとはなにごとだ」
「だって、いまどき木の根っこを掘って磨くなんて、よっぽど想像力のある子どもだって考えつかないわよ」
 おじさんは不機嫌そうにビールをあおり、その気があるなら日曜日に連れて行ってやる、小さいのを掘り出せば、あとはひとりでぜんぶできると言った。

 そこから三十分以上、黙って歩きつづけたころ、おじさんが、お、と声をあげ、横道に大股(また)でがさがさ分けいって、かなり傷んでいる比較的若い切り株に近づいていった。
「もっと先まで行くつもりだったが、こいつでよさそうだ」
 かついでいた袋からスコップを出して、おじさんは根本の土を先でつついた。地表は雨のおかげでやわらかそうだ。一部の土を取り除いて出てきたもっと固い土を、今度はピッケルの先で試掘する。何度か突き刺しているうち、大きな石にあたってがちんと音のすることがあったが、あとは土ばかりのようだ。よし、やってみろと軍手を渡されて、少年はスコップの大型になったようなシャベルを握り、反対側を掘りはじめた。しかし、見た目からは想像もできないほど丈夫で節だらけの根が地中深くくいこんでいて、子どもの力ではなかなか歯がたたない。アカメガシだ、瘤(こぶ)に疣(いぼ)がある、そういうのを欲しがる物好きがいてなとつぶやいて、ああそうだった、こいつはもちろんおまえのだ、と言いなおした。こんなに頼りなげな木なのに、根だけは中型犬までなら簡単に包めそうなくらいがっしりと張っている。たとえ最後まで掘り出せなくても、日記に記しておくだけでじゅうぶんさまになるだろうと、少年は感嘆しながら手を動かしつづけた。
「潮干狩りみたい」
 思わず口に出すと、おじさんは顔をあげて、そうだな、と片頬(ほお)だけで言った。
「去年、海の家に行って、近くの浅瀬で潮干狩りした」
「母さんと行ったのか」
「うん。ふたりで行った」
「D〈 そうか……海と山で、贅沢(ぜいたく)なやつだな 〉」
 根に巻き込まれた石をピッケルで砕いて、かけらをひとつずつ拾いあげていくと、ゴボウみたいな髭(ひげ)のある細い根がだんだんあらわになり、土と根のあいだに空隙(くうげき)ができて手が入るようになってきた。ごつごつした根の中心が見え隠れする。ふたりとも、なにも喋(しゃべ)らずひたすら掘りつづけた。ぐらぐらして、あとひと息のめどがたったところで、そろそろ昼にしようとおじさんはいい、穴から離れた木の下の斜面にビニールシートを敷いて弁当をひろげた。軍手をしていたのに細かい砂が入って、指先まで真っ黒になっている。それをおしぼりできれいにふき取った。四角い布巾(ふきん)を濡らして固く絞り、きれいにまるめてビニール袋に入れただけの、正真ショウ⑤メイのおしぼりだ。母親が買ってくる弁当には甘ったるい薬品の匂いのするウェットティッシュがついているけれど、どうしてもそれを受けつけられない少年にはありがたいことだった。
 E〈 おにぎりはひとつひとつが大きくて、重くて、丸々している 〉。ぴたりと巻きつけられた海苔(のり)に米粒の水分がしみてしっとりしているのも、色紙の細工みたいなパリパリした海苔のおにぎりばかり食べている身にはめずらしい。ひとくち頬張ると、指先にも、歯にも、かけらが張りつく。おじさんの前歯にも、黒いしみがいっぱいできた。米粒だって不(ふ)揃(ぞろ)いだけど、こんなにおいしいおにぎりは食べたことがない、ツナなんてぜんぜん必要なかった、と少年は素直に感動した。おかずもぜんぶ手でつまみ食いし、お茶をたくさん飲んで、しばらくは動けないくらい胃を満たした。おばさんが心配してくれていた靴ずれはなかったが、さすがに疲れたせいか、足裏がむくんだように熱を持っていた。それを言うと、靴を脱いで少し横になってみろ、元気が出てからまたはじめればいいとおじさんは言って、編みあげ靴から足を引っこ抜く手助けをしてくれた。抜いたとたん、林の冷気のなかで熱が引いていく。リュックを枕にしてひろげたビニールシートのうえで横になると、木漏れ日に目がちかちかしてそのまま意識が遠のいていきそうだった。トンネルのおじさんはポケットから煙草をとりだして火をつけ、ゆっくりとじつにうまそうに吸い、吹き消したマッチの軸を楊子(ようじ)がわりにして歯の掃除をした。
 ひとつ大きく背伸びをして、今度は大きいほうのシャベルを掴(つか)み、むかしの水運びみたいに首の後ろに柄の部分をまわすと、両腕をだらんと柄にかけ、そのまま右、左と身体をひねった。おじさんはまた軍手をはめて穴のへりにしゃがみ込み、建物の壁を這(は)う蔦(つた)さながら細くて丈夫な根を引き抜こうとする。のこぎりで切り落とせば簡単なのだが、あまりいいかげんにやると、あとで形を整えるのがむずかしくなる。まずは掘りだし、余裕をもってカットしておいてから、どちらをどう向けるのか検討する。ふつうは根の下のほうをひっくり返して、曲がった四肢が空へ伸びていくよう⑥〈 あんばい 〉するのだそうだ。少年は十分に冷えた足をあわてて靴に突っ込み、紐(ひも)をむすぶのもそこそこに、ぼくもやると言って穴にもどった。もっと太いものになると深めにシャベルを差し、支点に大きめの石をあてがって梃子(てこ)の原理でぐいと持ちあげるのだが、このくらいだとすぐ傷がついてしまう。安全を期すならやはり手で持ちあげるのが最適だった。ぶちぶちと根をひきちぎりながら、トンネルのおじさんが、母さんはいつ迎えに来る? と少年にたずねた。
「十日くらいしたら。電話するって」
「ほかになにか聞いてるか?」
「聞いてないよ」
「そうか」おじさんは、ほんの息継ぎのような間を置いた。
「楽しいか」
「うん」
 ひげの生えた根がどんどん両手に集まって、まりものような玉になる。なぜだかわからないけれど、ずっと開けていないたんすの引き出しのなかみたいな、かび臭い空気がふっと鼻をつく。ぶちぶち言う音が消えたところで、おじさんはようやく手を休めた。
「F〈 休みが終わるまで、いてもいいんだぞ 〉」
 麻袋からロープを出すと、おじさんは穴に片足を突っ込んで二股、三股に伸びた根の周囲に二重、三重に渡し、両端をのばしてそれを少年に握らせて地面にあがった。それから少年の横に立って、せーので引っ張るぞ、と腰を落とした。真っ黒な土のうえに、形がまったくおなじでサイズだけが異なる靴が四つならんでいる。この靴、誰のなんだろう? 根ではなくその靴を見ながら少年は問いを呑(の)み込み、おじさんのかけ声で一気に引くと、めりめり音を立てながらロープが伸び切ってぴんと張り、醜いかたまりがわずかに持ちあがった瞬間いちばん細いところがばきんと折れて、ふたりの臀部(でんぶ)を湿った土にやわらかくたたきつけた。


問一 二重傍線部①「口にしなくなっていた」を正しく単語に分けたものを選べ。
 ア  口に/しなく/なって/いた
 イ  口/に/しなく/なっ/て/いた
 ウ  口/に/し/なく/なって/い/た
 エ 口/に/し/なく/なっ/て/い/た

問二 二重傍線部②「れ」と活用形が同じものを選べ。
 ア じゃあ、木でなにかこしらえて〈 みろ 〉
 イ 細くて丈夫な根を〈 引き抜こ 〉うとする
 ウ 小さいのを〈 掘り出せ 〉ば、あとはひとりでぜんぶできる
 エ ふたりの臀部を湿った土に〈 やわらかく 〉たたきつけた

問三 二重傍線部③「に」と意味用法が同じものを選べ。
 ア 弟は評判の映画を見〈 に 〉行くらしい。
 イ 姉は望み通り公認会計士〈 に 〉なった。
 ウ 兄は今、札幌〈 に 〉単身赴任している。
 エ 私は今朝、母〈 に 〉叱(しか)られたばかりだ。

問四 二重傍線部④「カン」と同じ部首の漢字を含むものを選べ。
 ア 駅前の〈 キッサ 〉店で待ち合わせることにした。
 イ このやり方では〈 サイサン 〉が合わない。
 ウ 〈 テツヤ 〉で試験勉強をした。
 エ 自己〈 ケンオ 〉におちいった。

問五 二重傍線部⑤「メイ」と同じ漢字を書くものを選べ。
 ア ついに出陣の〈 メイ 〉が下った。
 イ 前回の失敗を肝に〈 メイ 〉じて取り組んだ。
 ウ 〈 メイ 〉ショウ武田信玄公をまつった寺であった。
 エ 大山〈 メイ 〉ドウして鼠(ねずみ)一匹という結果に終わった。

問六 二重傍線部⑥「あんばい」の意味として最も適当なものを選べ。
 ア 迅速に対処すること。
 イ ほどよく処理すること。
 ウ ゆっくりとねじり採ること。
 エ ていねいに入れ替えること。

問七 傍線部A「でも、いい匂いだよ、おじさんの煙草」というセリフの役割を説明したものとして最も適当なものを選べ。
 ア おばさんに嫌われている煙草の煙もふくめて、「おじさん」のすべてを受け入れて生きていこうとする少年のけなげな心を表現している。
 イ 自然保護のために煙草を我慢する「おじさん」に意外さを感じ、もっと自由に生きてもいいと伝えたい少年の気持ちを表現している。
 ウ この先も「おじさん」とつきあっていかなくてはならないことを予感し、「おじさん」を好きになろうとしている少年の努力を表現している。
 エ 大人の男と話すことに慣れていない少年の、「おじさん」に対しての親愛の情をなんとか伝えたいという思いを表現している。

問八 傍線部B「あえて口にはしなかった」とあるが、この時の少年の心情を説明したものとして最も適当なものを選べ。
 ア 家庭の問題をすっきり片付けるためとはいえ、十日も他人の家で過ごすことに受け入れがたいものを感じてはいたが、それを口にすることで自分に対する母親の愛情が完全に失われてしまうのではないかという不安にかられていた。
 イ 母親の元を離れて「トンネルのおじさん」の家で暮らすことに対する不安や不満はそれほどなかったので、母が父との関係を今後どのように清算していくつもりなのかを問いただすのは遠慮したいと思っていた。
 ウ 余裕を失っている母の姿を見るにつけ、家の問題が片付くために自分ができることは何でもしたいと思っていたが、その気持ちを伝えることで母に自分を気遣わせることのないようにしたいとも考えていた。
 エ 父と母との仲が悪くなっていることを以前から気づいていたものの、はっきりとそれを口に出してしまうことで、今まで通りの暮らしがもう二度ともどってこないという現実をつきつけられることをおそれていた。

問九 傍線部C「どうだろうねえ」にこめられた「おばさん」の心情を説明したものとして最も適当なものを選べ。
 ア 木の根っこを掘り出して磨くことが楽しいものであるかどうか疑問は持ちながらも、日頃(ひごろ)体験できないようなことを少年に味わってみてほしいと考えている。
 イ 都会の子供には難しすぎて結局自分が手伝わなくてはならなくなることを予感しつつも、かわいい甥(おい)の面倒をみてやるのも仕事のうちだと考えている。
 ウ 自分から相談したくせに根っこ細工のアイデアに不満そうな甥っ子に腹を立ててはいるが、なんとか機嫌をとって宿題をやらせてしまわなくてはならないと考えている。
 エ 無理やり誘っても少年にとっては迷惑なだけだろうと思いながらも、夫の善意の意見を否定して面目をつぶすことになるのもかわいそうだと考えている。

問十 傍線部D「そうか……海と山で、贅沢なやつだな」の説明として最も適当なものを選べ。
 ア 母と海に行き、一方でこうして自分たちと山の暮らしを堪能(たんのう)しているのは、家庭の問題とは別に純粋に恵まれたものかもしれないと思い当たって思わず口にした言葉である。
 イ 父親がいないからといって海と山の両方で遊ばせるような贅沢は、かえって少年をわがままな性格に育てることになるのではないかという心配が言わせた言葉である。
 ウ 子供を海に連れて行くような余裕がありながら、忙しいことを口実に何日も少年を自分に預ける妹の自分勝手さ、薄情さに対する怒りが口をついた言葉である。
 エ 父親の存在がないことを少年に確認させてしまい、つらい思いを抱かせたのではないかという不安と反省の思いを抱いたが、それを悟られないように苦心してひねり出した言葉である。

問十一 傍線部E「おにぎりはひとつひとつが大きくて、重くて、丸々している」とあるが、「おにぎり」についての説明として最も適当なものを選べ。

 ア  同じものを食べるという行為を描くことで、少年とおじさんのつかのまの一体感を媒介するものとして用いられている。
 イ  両親の不和でつらい思いを味わっていた少年に子供らしい感情を取り戻させ、一時的な解放感をもたらす道具として用いられている。
 ウ  都会での少年の暮らしの中では体験できないものを象徴的に表し、少年がそれに心惹(ひ)かれていることを表現している。
 エ おじさん自身もいつかは戻っていかなければならない厳しい現実社会を一瞬忘れさせるような、おばさんの愛情の大きさを暗示している。

問十二 傍線部F「休みが終わるまで、いてもいいんだぞ」にこめられた「おじさん」の心情を説明したものとして最も適当なものを選べ。                                                  
 ア 都会育ちのひ弱な子供だと思っていた少年の働きぶりを見て、これなら自分の仕事を手伝わせることもできるし、少年に充実した夏休みを過ごさせることもできると喜んでいる。
 イ 親の事情で自宅を離れて田舎にやってきた少年のことを心配していたが、ひたむきに作業を続ける姿を見てとりあえず安心するとともに、そんな少年にいとおしさを感じている。
 ウ 少年に対する妹夫婦の扱いは納得できず、親戚(せき)なりに意見しようかと思う反面、親子の問題についてはやはり少年の意志を第一に考えることが大切だろうと思い始めている。
 エ 木の根っこ堀りの作業に半ば強引に少年を連れ出してみたが、予想以上に熱心な姿に心を打たれ、いつまでも自分の手元において自然のすばらしさを教えてやりたいという思いが募っている。 

問十三 本文の説明として正しいものを選べ。
 ア  都会に育った少年が母の離婚をきっかけに田舎に移り住み、そこで新しい人間関係を築いていく様子を、主人公の独白を中心としながら丹念に描いた文章である。
 イ 大人たちのずるさを敏感に見抜き、自分自身が成長していくことで、無意識のうちに自分なりの世界をつくっていこうとする少年の姿が巧みに描かれている。
 ウ 心情描写に深入りしないで出来事を淡々と描きながら、おじさん夫婦と少年の心のふれあいを、飾り気のない文体でじっくりと描き出した作品である。
 エ 二組の夫婦の対比をあぶり出すことによって、ほんとうの自分を見失いかけながらぎりぎりのところで踏みとどまろうとしているナイーブな少年の姿を描くことに成功している。


 こたえ
  問一 エ  問二 エ  問三 ア  問四 イ  問五 イ  問六 イ
  問七 エ  問八 ウ  問九 ア  問十 エ  問十一 ウ  問十二 イ  問十三 ウ

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内田樹先生の文章が高校入試に出たら

2016年02月28日 | 国語のお勉強(評論)

 

  次の文章(内田樹『おじさん的思考』より)を読み、後の問いに答えよ。


 私たちは「自分を傷つけたい」という倒錯した欲望を抱え込んで生きている。だから、a〈 自分の身体を傷つけることになると私たちはとたんに勤勉になる 〉。酒を呑(の)み、煙草(たばこ)を吸い、身体に悪い食べ物を腹一杯に詰め込み、倒れるまで働き、倒れるまで遊ぶ。
「適度に酒を呑み」「適度な運動をし」「腹八分目に食べて」というようなことを気楽に言ってくれる人がいるが、これは実にb〈 困難な 〉要請であると言わねばならない。それは「適度」ということが人間の本性にそもそも反しているからである。
 経験から言えることは、「気持が悪くなるまで呑む」方が「控えめに呑む」より容易である。「腹一二分目に食べること」の方が「腹八分目に食べる」より容易である。
 このような人間のあり方を私は「身体に悪いことをする方が、身体によいことをするよりも人間の本性にかなっている」というふうにまとめたいと思う。どうしてそんな本性が人間には備わってしまったのか、私にはうまく説明できない。説明できないけれど、そのような本性が備わっている以上、それはおそらくは私たちの「類的宿命」の一部なのであろう。
 自分の身体を壊したいという欲求と同じく、私たちは心のどこかに「地球を壊してしまいたい。人類を滅ぼしてしまいたい」という暗い欲求を抱え込んでいる。〈  ①  〉 、私たちはそういう想像をするのが大好きだ。
 宇宙からの侵略者が人類を皆殺しにする話も、致死性のウイルスが世界に蔓(まん)延する話も、彗(すい)星が地球に衝突する話も、火山が大都会で爆発する話も、津波が都市文明を呑み込む話も、熱帯雨林がなくなってしまう話も、緑の大地が砂漠化してしまう話も、極地の氷が溶けて世界中が水没してしまう話も、オゾン・ホールから紫外線が照射してきて全人類が癌(がん)死する話も、私たちは大好きだ。〈  ②  〉  、(注)ハリウッドのプロデューサーたちはそういう映画にはいくらでも金を出す。
 子どもたちもその種の(注)カタストロフが大好きだ。劇場版の『ドラえもん』はすべて地球滅亡の危機が、のび太とドラえもんの活躍で、危機一髪のところで回避されるという物語である。子どもたちが好きなのは「みんながしあわせに暮らす話」ではなく、「 〈    c    〉 」なのである。
 これらの「地球滅亡危機一髪」話に共通するのは、主人公たちの並外れた強運と奇跡的な偶然によって、かろうじて危機が回避された、という説話構成である。危機は「たまたま」回避されたにすぎぬのであり、本質的な危機は、つねにいまもそこにある(だからこそ、多くのパニック映画では、その災厄が再び私たちを訪れる「予兆」がラストシーンに示されている)。
 人間は個体のレヴェルにおいても、類的レヴェルにおいても、「滅ぶべきものである」。私たちは個体としては必ず死ぬし、人類もあと何億年かのちにはかげもかたちもなくなっているだろう。〈  ③  〉 、そのことを私たちは日常の営みのなかでは忘れている。明日も自分は生きているだろうし、来年も地球はあるだろう、というd〈 幸福な健忘症 〉のうちで私たちは安らいでいる。
「体に悪いこと」をする私たちの(注)嗜癖は、あるいは「私たちは死すべきものである」という悲痛な事実を私たちに思い出させることをその任としているのではないだろうか。私たちが自分の身体を執拗(しつよう)に、傷つけ、壊すのは、逆説的なことだが、「私たちはまだ死んでいない」ことを確認するためなのではないか。
 私の旧友「小口のかっちゃん」は医者のくせにヘビースモーカーで酒飲みである。彼は「美味しく煙草を吸ったり、お酒を呑んで愉(たの)しく酔いつぶれるためには、人は健康でなければならない」という考えの持ち主である。「不健康に生きるためにはまず健康であることが必要なのである」という彼の持説はe〈 私にはたいへん説得力がある 〉。
 人間は「人類を滅ぼす」テクノロジーが理論上可能になった瞬間、そのテクノロジーを実用化せずにはいられなかった「たまらん」生き物である。それは、私たちが構想しうるいちばん恐ろしい想像を具体的に、ものとして、見たい、触れたい、と思わずにはいられないからである。私たちは恐ろしいものから目をそらすことができない。本当に怖いものは、視線の届く範囲、手の届く範囲にあるほうが気が楽なのである。
 核兵器は「地球の滅亡」という悪夢の具体的なかたちである。
 核兵器を使用すれば人類は滅びるという想像に耐えながら、あえて発射ボタンを押さないでいるときはじめてf〈 私たちの「存在実感」に細々とした明かりがともる 〉。私たちはそのような度(注4)し難い生き物なのである。自分たちがそういう生き物であることを素直に認めよう。
 このボタンを押したら、どういうふうに都市が融(と)けて、文明が滅びて、人間が死に絶えるのか、ということについてあたう限りの想像力を駆使し、それを繰り返し繰り返し図像化し、物語化しては人々は胸ふたがる思いと同時に、胸ときめく思いも味わってきた。そして、「地球の壊滅」をできる限りリアルに想像すること、「人類の終わり」についての目を覆わんばかりに悲惨な光景を描き出すことのg〈 「愉しみ」 〉が、核戦争の勃発(ぼっぱつ)をかろうじて食い止めてきた。私はそんなふうに考えている。
 逆のケースを考えて見れば納得がゆくだろう。
 もし、核兵器を持った人々に「地球の滅亡」や「人類の終焉(しゅうえん)」を絵画的にリアルに想像し、それを「愉しむ」能力が欠けていたらどうなっただろう。核兵器を使用する前の「ためらい」はずっと軽減されてしまうだろう。
「地球の破壊」や「人類の死滅」という悪夢を見ることはある種の「自傷の快楽」をもたらす。そして逆説的なことだが、この快楽を持続させるためには、とりあえず地球は破壊されてはならず、人類は死滅してはならないのである。それは「不健康な生活を愉しむためには、健康であることが必須(ひっす)」という「小口のかっちゃん」の理説に通じている。
 この先も私は身体に悪い嗜癖を手放せないだろうし、人類は地球を破壊しかねないテクノロジーを手放さないだろう。私に健康なことだけをさせようとする説得も、最終兵器を廃絶しようとする運動も、おそらく成功しないであろう。それは「私はいま不意に死ぬかもしれない」という思いだけが、私たちに今を生きている実感を与えてくれるからである。それは毎分毎秒少しずつ死にむかっているという「死の必然性」のゆえにではなく、「いつ死ぬか分からない」という「死の偶然性」ゆえに、今の生命がいとおしいと感じ、h〈 その瞬間 〉にだけ世界が美しく見える人間の「業」のゆえであると私は思う。             

 注1 ハリウッド … アメリカの映画文化の中心地。
  2 カタストロフ … 悲劇的な場面。
  3 嗜癖(しへき) … 好みや癖。
  4 度し難い … 救いようがない。

問一 空欄①・②・③を補う語の組み合わせとして最も適当なものを選べ。

 ア ①現に・②また・③そのうえ
 イ ①現に・②だから・③しかし
 ウ ①実に・②だから・③そして
 エ ①確かに・②また・③なぜなら

問二 傍線部a「自分の身体を傷つけることになると私たちはとたんに勤勉になる」とあるが、このような行動をとってしまう理由として最も適当なものを選べ。

 ア  人間は自らの体験により身体によいことか悪いことかを判断する生き物だから。
 イ  人間は自分の身体を傷つけることで精神の安定をはかろうとする生き物だから。
 ウ  人間はよいことにも悪いことにもつい真面目に取り組んでしまう生き物だから。
 エ 人間はもともと身体に悪いことをしたいという欲望をもっている生き物だから。

問三 傍線部b「困難な」とあるが何が「困難」なのか。最も適当なものを選べ。

 ア 他人に対して「適度」な生活を気軽に勧めること。
 イ 他人の忠告にしたがって「適度」な生活をすること。
 ウ 自分の気持ちにしたがって「適度」な生活をすること。
 エ 自分を「適度」に傷つけたいという気持ちを振り払うこと。

問四 空欄cを補う最も適当なものを選べ。

 ア みんなが死にそうになる話
 イ みんなが危機から逃げる話
 ウ みんなで危機に立ち向かう話
 エ みんなで幸せを探し求める話

問五 傍線部d「幸福な健忘症」とはどういうことか。最も適当なものを選べ。

 ア 生きる意味や目的を忘れて日常を過ごすことはごく普通のことであり、そうであってこそ人は幸せであるということ。
 イ 自分たちは必ず滅びる存在であるという動かし難い事実は、普段は忘れてしまっている方がかえって幸せだということ。
 ウ 人は必ず滅びるという事実を忘れているからこそ、死に直面した瞬間に、生きることの幸福を実感できるのだということ。
 エ 生きる意味を忘れてしまうことは一種の病気のようなものではあるが、忘れ方の度合いによっては幸せな場合もあり得るということ。

問六 傍線部e「私にはたいへん説得力がある」とあるが、筆者のこの感じ方はどのような考えに基づいているのか。最も適当なものを選べ。

 ア 健康のためだといって自分のやりたいことを我慢して「適度」に生きるなどということは、精神的にはかえって不健康なことなのである。
 イ 人間は不健康に生きることこそがその本性であり、不健康な暮らしそのものが人間の存在意義を感じさせる役割を果たしているのである。
 ウ 人はどんなに健康に生きていても最終的には死を迎えるのだから、必要以上に健康な暮らしをしようとすることは実は意味がないのである。
 エ つい不健康に生きてしまう人間の本性は、自分を傷つけることによって自分が生きていることを確認するという働きを担っているのである。

問七 傍線部f「私たちの『存在実感』に細々とした明かりがともる」とはどういうことか。最も適当なものを選べ。

 ア 自分の存在理由を実感できるということ。
 イ 自分が恐れているものに気がつくということ。
 ウ 自分の将来への希望が見えてくるということ。
 エ 自分が死んでいないことを確認できるということ。

問八 傍線部gにおいて、「愉しみ」というようにカギ括弧(「 」)がついている理由として最も適当なものを選べ。

 ア  核戦争の勃発をかろうじて食い止めてきた人間の想像力の豊かさは、人間の生存にとって好ましいものでしかも必要なものであるということを強く表現したかったから。
 イ 口では核兵器廃絶を唱えながら、実際にはそれを行動にうつすこともせず毎日の暮らしを愉しんでいるように思える人々に対して皮肉をこめた表現にしたかったから。
 ウ 地球の壊滅や人類の滅亡を想像することは、決して悲しいことでもなんでもなく人間の根本的な「愉しさ」につながるものであるということを表現したかったから。
 エ 人類の終わりを想像することを本来「愉しみ」などとは表現できないが、その際の感情の高ぶりは「愉しみ」とでも言うしかないものであることを表現したかったから。

問九 傍線部h「その瞬間」とはどういう瞬間か。最も適当なものを選べ。

 ア 生きている自分を実感した瞬間
 イ 死の偶然性を頭で理解した瞬間
 ウ 普段忘れている死を意識した瞬間
 エ 自分の命をはかなさを感じた瞬間

問十 本文についての説明として最も適当なものを選べ。

 ア 人間の様々な具体的行動を健康の観点から改めて見つめ直し、人間の存在意義について深く考えていこうとする文章である。
 イ 非常に個人的で身近な話題と人類全体に関わるような話題を考え合わせて、人間の不可解な行動の意味を探ってみようとする文章である。
 ウ 身近な話題だけでなく世界的な視野にたって人間の行動を見つめ、核兵器を廃絶することのできない人間のおろかさを批判しようとする文章である。
 エ テクノロジーの発達から引き起こされる世界中の様々な出来事を考察することによって、人間の根本的な欲求の意味や働きを明らかにしようとした文章である。

 

こたえ

 問一 イ  問二 エ  問三 イ  問四 ア  問五 イ
 問六 エ  問七 エ  問八 エ  問九 ウ  問十 イ

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「富嶽百景」の授業(9) 三段落 第二場面

2016年02月26日 | 国語のお勉強(小説)

 

三段落 〈 第二場面 河口村 〉 

 

 ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。御坂峠のその茶店は、いわば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。峠の頂上から、バスで三十分ほど揺られて峠の麓、河口湖畔の、河口村という文字どおりの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらいの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。天気のよい日を選んで行く。ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をしてくれない。それでも時々、思い出したように、はなはだ散文的な口調で、あれが三ッ峠、向こうが河口湖、わかさぎという魚がいます、など、もの憂そうな、つぶやきに似た説明をして聞かせることもある。
 河口局から郵便物を受け取り、またバスに揺られて峠の茶屋に引き返す途中、私のすぐ隣に、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、今日は富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分一人の詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリーマンや、大きい日本髪結って、口もとを大事にハンケチで覆い隠し、絹物まとった芸者風の女など、体をねじ曲げ、一斉に車窓から首を出して、今さらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私の隣の御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客と違って、富士には一瞥も与えず、かえって富士と反対側の、山道に沿った断崖をじっと見つめて、私には〈 そのさま 〉が、〈 体がしびれるほど快く感ぜられ 〉、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見たくもないという、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴のそぶりを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆と同じ姿勢で、ぼんやり崖のほうを、眺めてやった。
 老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやり一言、
 「おや、月見草。」
 そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所を指さした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、今、ちらとひと目見た黄金色の月見草の花一つ、花弁も鮮やかに消えず残った。
 三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんも揺るがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていた〈 あの月見草は、よかった 〉。富士には、月見草がよく似合う。


 場面  場所  河口村からの帰り道
      時   日中
     人物  私 老婆 女車掌 遊覧客


Q37「そのさま」とはどのさまか。(40字以内)
A37 他の遊覧客と違って富士に一瞥も与えず、反対側の断崖を見つめている老婆の様子。

Q38「体がしびれるほど快く感ぜられ」たのは、「私」にどういう心があるからか。30字以内で抜き出せ。
A38 富士なんか、あんな俗な山、見たくもないという、高尚な虚無の心

Q39「あの月見草は、よかった」とあるが、「私」は、月見草のどういうところに惹かれているのか。(30字程度)
A39 富士を前にしてみじんも揺るがず、けなげにすっくと立っている姿。

Q40 「私」は「月見草」をどのようなものととらえているのか。(60字以内)
A40 富士と相対峙して揺らぐことなく立っている姿から、(具体)
   世俗の価値観にまどわされない孤高の存在を象徴するもの(抽象)
   ととらえている。

  類似性・共通性の説明    a=x b=x’ → a≒b

 イメージ・性質の類似性・共通性を利用し、抽象概念を具体物で表現することを、「象徴」といいます。

  象徴  抽象概念 → 具体物 … 感覚的に理解させる表現


   富士 … 世俗の象徴
   女車掌
   サラリーマン
   芸者風の女 etc … 富士を見る →「やあ」「まあ」
    ↑
      ↓
   老婆 … 富士を一瞥もしない →「おや、月見草」
  月見草 … 世俗の価値観にゆらぐことのない孤高のもの
   ∥
   自分(が目指すもの)

 

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レベル上げ(2)

2016年02月25日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「レベル上げ(2)」


 入学時に「1」の力だった人が、毎日ちょっとだけ「0.01」分さぼり続けると、どうなるか。
 翌日には「0.99」になる、その翌日も前日の「0.99」になる … 。
 「1×0.99×0.99×0.99×0.99 … 」というかけ算をしていくと、一年後には「0.03」をわりこんでしまうのだ。ヤバくね?
 思い起こしてみると、トップクラスの成績で入学してきて、3年後にはその面影があまりなくなったなあと言わざるを得なかった先輩は、たしかにいた。
 自分は北辰はいくつあったとか、ほんの少しミスって○○高校落ちてきたというような話を、いつまでもひきづっていたようだ。
 「0.01」だけ成長していくだけで、37倍。
 「0.01」さぼるだけで、元の0.03。
 一日一日の差はわずか「0.02」でありながら、半年、一年と経つ内に、両者の間の溝はあまりにも深くなる。
 「0.01」分の成長とはテストの点数だけを指して言うのではない。
 部活での努力も当然含まれるし、接点のなかった友だちと話ができるようになったことも大事な経験だし、本や映画で心を打たれることは感情を成長させる。
 ゴミを拾えたこと、電車で席が譲れたこと、いつもより元気よくあいさつできたこと、すべては「0.01」になる。
 人としてのレベルを「37」も上げていけば、将来の就職にもつながるし、モテモテにもなる。
 いやらしい話にきこえたかもしれないが、それはより自由な人生を送ることができるようになるということだ。
 ほんの少し前向き、上向きの方向性を持った暮らしをすることは、結果的に大きな変化になる。
 とくに、成長のために作られた学校でがんばることは、一番わかりやすい。
 学生でなくても、わたしたち一般人が、少しでも自由で豊かな人生を目指そうとしたとき、勉強ほど効率のよいものは、ちょっと見当たらない。
 まずはみなさんは、日々の授業で「0.01」あげていこう。
 こんどの定期試験で5回目。センター試験の範囲でいうと約半分までたどりついた。
 中高一貫で勉強をはじめている学校は、すでに全範囲を勉強し終えただろう。
  部活をやらずに毎日8時間授業をやっている学校さんも、相当進んでいることだろう。
 みんなが行きたいと考えている大学は、そういう人たちがライバルになる。
 みんなも、どこかの段階でそういう学校に行く選択肢はあった。
 しかし、こちらを選んだ。それは自分の意志だったはずだ。
 自分で選んだことに対しては自分で責任を果たすべきではないか。
 勉強そのもののスタートは遅くても、人としてのスタートが遅かったわけではない。
 何かを身につけること、そのための体力、精神力の面では、劣っていない面、むしろすぐれている面もあるのではないか。それらをフルに稼働させ、「0.01」ずつ上げていけば、追いつき追い越すことは不可能ではないことは、たくさんの先輩達が証明している。

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教員免許はもういらない

2016年02月24日 | 教育に関すること

 

 小学校教員一級、中学校教員(国語)一級、高等学校教員(国語)一級、中型自動車、大型自動車免許が、自分の持ってる免許のすべてだ。
 あと資格としては、珠算2級、英検4級、漢字検定2級、吹奏楽指導者3級。
 しまった、資格は書くべきではなかったか。そんな程度でよく偉そうなこと言ってるなと言われそうで。
 でも、もし川東に特化した免許なり資格があったら、まあまあ上の方まできたのではないだろうか。
 つまりよその学校で使い物になるかどうかは別にして、本校で本校の生徒さん向けに国語を教える技は、大分身についてきたのではないかと。初段はいってるっしょ。
 運転免許は、日常的に目にするし、実際生徒さんをバスで送ったりのするので、免許をもっているという自覚はあった。
 教員免許については、取得した記憶はあるものの、つまり取得するための単位を履修し認定されたという事実はあるはずだが、免許状自体を見たことがない。
 免許更新にあたって学園に提出を求められて、どうしても見つからず、結局石川県に申請して取得証明を送ってもらった。
 なかったらどうしようかと思ってドキドキしてた。

 山形県で、教員免許を持たずに30年以上教えていた先生がいたことが発覚したというニュースがあった。
 その方も、大学で必要な単位は修得し、免許状の申請手続きを怠ったまま、採用試験に合格しそのまま教員になったという。
 自分とどこがちがうのだろう。
 そもそも免許をもってなかった、つまり教える資格がなかったというなら問題だが、「紙」をもってなかったというだけではないか。
 免許状って、そんなに大事か?
 運転免許は大事だ。車を運転できる技術があるかどうかを、ちゃんとテストされ、合格した人にだけ発行されるものだから。
 免許のない人が勝手に車に乗って、事故などおこされては困る。
 教員免許は異なる。
 大学で必要な単位を修得すれば、もれなくいただける。
 実際に教壇に立って教える能力があるかどうかは、一切問われない。
 子どもとコミュニケーションをとれるかどうかのテストもないし、事務処理能力があるかどうかも問われない。
 大学に通う学費は必要だ。
 講義を受けて試験を受けたり、レポートを提出したりし、単位を修得することも必要だ。
 しかし、大学の単位をとることにどの程度の努力が必要なのか、そのゆるさは文系学部を卒業した人なら誰でも知っているだろう。
 そこで学んだことが、直接教壇で教える技術には繋がらないことも。

 免許自体が教員として働くための必要条件であるなら、採用時に確認すべきであり、それを怠った県教委の非は確実に存在する。
 その先生も、教えるだけの知識はもっていて、30年も勤め上げられたのだから、教師としての「実」の面では問題なかったのだ。
 採用して30年働き続けたなら、時効の概念からいっても、実質の教員であることを疑えないと思う。

 教育委員会が、その先生に支払った給料の返還の求めることを検討しているという話には目を疑った。
 おかしいでしょ。彼女はお給料分の働きはしていた。
 免許を持たずに教壇に立っていたことが問題なら、それを認めていた管理職や教育委員会が責任をとるのが筋ではないだろうか。
 NHKの職員がお金を使い込んでいたので、役員が報酬の一部を返納しているという報道があったが、それと同じで。
 千葉県だったかな、年末にも同じような事件があった。
 無免許の先生が教えてた分の授業は無効扱いになり、その分を補習したと報道されていた。
 自分がもしそんな目にあったら、つまりそんな補習を受けろと言われたら、たぶん学校を訴えると思う。
 自分たち(上の人たちね)が反省せずに、生徒にだけ負担を押しつけて問題を解決しようとする、その姿勢はどういうことだと。

 山形県の教育委員会とか県知事さんのコメントは反省してるようで、実は、一切の責任をその該当の先生に押しつけ、自分たちは被害者だったふうな言い方だ。
 免許状をもっていなかった先生に習ったことよりも、教育界のトップがこんな感覚でいる県で学んだことの方が、よほどその高校生にとっては不幸せだろう。
 それに、免許状をもってても、ちゃんと教えられない先生とか、不祥事をおこす人とかいるよねと、世間の方は思ってしまうだろう。
 免許状なんて意味ないよねって、そんなふうに思わせてしまうという意味でも、この対応はお粗末だった。
 教育関係者なんて、そんな程度だよねってたぶん思われてる。しかたないけど。

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OBのみなさんへ

2016年02月22日 | 日々のあれこれ

 

 第24回定期演奏会は、来月25日(金)18:00開演です。
 定演をはじめて25周年(途中、震災で一回できなかったからね)、場所もウエスタ川越にかわった記念で、OBにもできるだけ加わってもらおうと思ってます。
 演奏に加わってもらえる可能性がある先輩には「出てください」と連絡してみようと、現役部員に話しました。
 パートによって、または代によって、伝わり方がちがっていると思います。
 昨日(21日)、第一回目の合同練習を設定しましたが、15人くらいきてくれました。
 自分はそんなに古いOBというわけでもないのに、連絡がきてないという人もいるかもしれません。後輩を叱らずに(笑)水持まで連絡ください。もちろん他のOBに聞いてもらってもいいです。
 平日の開催で忙しいと思いますが、ぜひみなさん、顔をだしてくださいね。よろしくお願いします!!

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レベル上げ

2016年02月22日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「レベル上げ」


 学年末試験まで十日あまりとなった。
 高校1年生として受ける授業は、残り50コマを切っている。
 川東の一年生になった頃の自分と今の自分を比べたとき、自分が自分に期待していた成長をとげているだろうか。
 入学時に「1」の力だった人が、毎日少しずつ努力してきたとする。
 翌日には「1.01」になっていた。翌日も同じように「0.1」分だけ伸びたとする。翌々日も前日より「0.1」分だけ伸びた。その翌日も … 。
 「0.1」という小さな努力を毎日続けた場合、一年後にはいくつぐらいになるか、想像してみてほしい。
 つまり「1×1.01×1.01×1.01×1.01 … 」というかけ算をすると、いくつになるか。
 最終的には「37」を越える数字になる。
 毎日コツコツやってきた人は、見た目は少し背が伸びただけかもしれないが、入学時「1」からまもなく「37」になろうとする人間になっているということだ。
 このレベル上げは大きい。
 マンガ『ガキ教室』の片岡晶先生は、「なんで数学ってやんなきゃいけないんですかね?」と中1の生徒に問われてこう答える。


 ~ 人生をRPGにたとえると …
   小学生の勉強なんて やれて当たり前 みんなのレベルも大差なし …  
   中学校の勉強ってのはレベル上げだな。
   中学でレベルあげてきたヤツは その後の人生そう悪くない
   どんなモンスターが現れても なんとか闘えるぞ
   一方レベル上げできなかったヤツは 
   モンスターだらけの森ん中を パン一でブラつくよーなもんだ
   勉強するしないはみんな次第だけど 
   やっぱり勉強は やっておいた方がいーんじゃないかなとは思うな …
   単純に勉強できるとモテるしな
   オレみたいに       (小沢としお『ガキ教室』秋田書店) ~


 人としてレベルを上げていくために、最も有効で、わかりやすいのが「勉強力」をあげることだ。
 それはたんに試験でいい点がとれる力ということではなく、上達力、だんどり力、暗記力、物事を論理的に整理する力、具体を抽象化する力など、いろんな力を勉強はつけさせてくれる。
 部活との両立力も身につくのが本校のいいところだ。目先の点数だけが目的なら、部活はムダとしかいいようがないが、人生という長いスパンで考えた場合、メリットは大きい。

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センター試験の表現の問題

2016年02月20日 | 国語のお勉強(小説)

 

 評論に比べると、二番の小説問題は微妙だった。
 果たしてこの作品が、日本の未来を担う50万人の若者に読ませるべき作品かどうかという根本的な部分で。
 いや、作品の価値を自分がつかめてないだけかもしれない(謙虚っ!)。
 そう思って設問を読んでみるものの、問題作成にあたられた大学の先生が、何を求めてらっしゃるのか、今一つ実感できない。もちろん、各設問に込められている深い意図を自分がつかめてないだけなのかもしれない(謙虚×2)。
 それはもう、えらい先生方がお作りになった問題を、私ごときがあれこれ言うなどおこがましいので、授業ではそのような気持ちをおくびにも出すことはない。少しは出てしまったかな。


 第6問の表現に関する問題。
 次のうち「適当でないもの」を二つ選びなさいという形式で、選択肢が6こある。


 5 母子と別れた後の父親を私が想像する部分には「~かもしれない」「~かも知れない」「~だろうか」といった文末表現が立て続けに繰り返されている。これによって、家族を思う父親の心情や状況に私が思いをめぐらせる様子が、効果的に表されている。


 という選択肢は、適当か適当でないか、受験生は迷うだろうか。
 大体、言い方が回りくどい。
 「~かもしれない」という表現は、「私」の推測を述べたものである、と書けばすむ。
 でも、そう書いてあったら、悩みようがなく正しい日本語だろう。
 「だろう」は「推量」表現というのと同じレベルで。
 あえて、選択肢にして検討せよと問われたなら、「 「~かもしれない」「~かも知れない」「~だろうか」といった文末表現がが立て続けに繰り返されている」ことが、「私」の推測を表現したものとして「効果的」かどうかが問題になってきはしまいか。 
 もし、そう問われたなら、「効果的」ではないと、自分的には思う。
 そんなのは「効果的」とは言わない。「普通」だ。普通すぎる。
 むしろ、そんな表現を繰り返さない方が、「え? ここは想像してるだけの部分だっけ? ちがうか、実景と重ねてるのか」みたいに思わせるくらいが、読者に「効果的」に訴えかける。
 て、いうほどこだわって考える必要はまったくない問題なのだが、小説をしっかり勉強してきた高校生は、深読みして間違ってしまう可能性がなくはないと思う。


 2 汽車に乗り込んできた家族について、「普段着のままの格好」・「はき古したズックの黒い靴」、「毎日八百屋の買物に下げていたらしい古びた籠」のようにその身なりや持ち物を具体的に描くことは、この家族の生活の状態やその暮らしぶりが私とは異なることを読者に推測させる効果を持っている。


 まあ、これも普通にさっと読めば、問題ないよねで済ませられる選択肢だ。
 あえて考えはじめる子がいたりしたら、こう読むかな。
 200円の座席券を買ったとはいえ、与えられた情報だけでは、私がそんなに裕福とは思えない。「私とは異なること」としてこの情報を読む必要があるとは思えない … 。
 ま、いないか。いないよ、ですませればいいのか。


 6 母子と別れた後の父親を私が想像する部分には、「男の子とそっくりの、痩せて、顔も頭もほっそりした男」「口紅がずれてついていた妻」「汽車の窓に片足をかけた小さい息子のズック」という、この部分以前に言及されていた情報がある。これらは私の想像が実際の観察をもとにしていることを表している。


 細かくつっこまなくていいなら、当たり前のことしか書いてない選択肢だ。
 選ばなくていい選択肢が、本文を読まなくても分かってしまう設問、しかも6このうち3つそれという設問に対して、私達現場教員は専門用語で「クオリティが低い」と評価する。


 表現の問題については、一の評論のも「え?」と思った。
 こちらも「適当でないもの」を選ばせる。


 1 第1段落の第4文の「生活スタイルを演じてくれる」という表現は、「~を演じる」と表現する場合とは異なって、演じる側から行為をうける側に向かう敬意を示している。


 これが「適当でないもの」なので、これを選べば正解で5点もらえる。
 でも、これもあたりまえじゃね?
 どうみても「演じる側から行為をうける側に向かう敬意」にはなりそうにないので、本文の主張とか関係なく、「これ変じゃん」で選べばそれで5点。ちょろい。
 評論文で「表現の問題」を作るのなら、主張をよりよく伝えようとした筆者がどんな表現上の工夫をしているかを見つけさせる問題にするべきだ。
 国語表現という科目が出来て以来、こういういかにも「表現について問いましたよ」という設問が含まれるようになった。
 いい問題だなと感じた年もあるが、微妙な年も多い。
 うまく問えない文章だったら、無理につくる必要はない。
 どうしても作りたいなら、作れる文章を選べばいい。
 たとえば「富嶽百景」なんか、山ほど作れるではないか。

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