水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「詩を考える―言葉が生まれる現場」(東大2020年)の授業(5)

2020年07月30日 | 国語のお勉強(評論)
⑫ 〈作品〉と〈文章〉の対比を、言語論的に記述する能力は私にはない。私はただ一種の貧しい体験談のような形で、たどたどしく書いてゆくしかないので、初めに述べた私のこういう文章を書くことへのためらいもそこにある。〈 エ作品を書くときには、ほとんど盲目的に信じている自己の発語の根を、文章を書くとき私は見失う。 〉作品を書くとき、私は他者にむしろ非論理的な深みで賭けざるを得ないが、文章を書くときには自分と他者を結ぶ論理を計算ずくでつかまなければならない、そういうふうに言うこともできる。
⑬ どんなに冷静にことばを綴っていても、作品をつくっている私の中には、何かしら呪術的な力が働いているように思う。インスピレーションというようなことばで呼ぶと、何か上のほうからひどく気まぐれに、しかも瞬間的に働く力のように受けとられるかもしれないが、この力は何と呼ぼうと、むしろ下のほうから持続的に私をとらえる。それは日本語という言語共同体の中に内在している力であり、私の根源性はそこに含まれていて、それが私の発語の根の土壌となっているのだ。


 文章……貧しい体験談のような形で、たどたどしく書いてゆくしかない
        ∥
      ためらう理由

 作品を書く → 他者に非論理的な深みで賭ける
   ↑
   ↓
 文章を書く → 自分と他者を結ぶ論理を計算ずくでつかむ

 作品をつくっている私の中……呪術的な力が働いている
   ↓
  この力 
   ∥
 下のほうから持続的に私をとらえる
 日本語という言語共同体の中に内在している力
 私の根源性
 私の発語の根の土壌


Q11「作品を書くときには、ほとんど盲目的に信じている自己の発語の根を、文章を書くとき私は見失う」とあるが、なぜか。
A11 異なる現実を生きる他者に私的な言葉を伝えるには、
   自己に内在する言語共同体の力に頼ることができず、
   他者とつながる論理を外部に構築する必要があるから。


 最後の設問で、長めの記述問題を解くときは、冒頭の問題提起を一度確認する。
 筆者は、そもそも何をしようとしたのか。
 何を述べようとしたのか。
 編集者の「肉声」になんとか答えるために、どうしようと考えたのか。

 他者・異物とのコミュニケーションをどうすべきかという問題は、どの大学の先生も強く抱きながら模索しているのが現状。

 ただ解くのではなく、与えられた文章で提示された問題・課題を、今の世の中に広げて考えてみよう。そして今の自分にひきよせて考えてみよう。
 世の中を見るメガネ、自分を見直すメガネを手にいれるのが現代文の勉強。
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英語日記(2)

2020年07月29日 | 学年だよりなど
  3学年だより「英語日記(2)」


 I'm always here for you. いつでも味方だよ
 I appreciate your kindness. あなたの優しさに感謝します
 新井リオ氏は、日記に書き留める。
 こんど、こんな素敵な経験をしたら、即座に言えるように練習しようと思った。
 単身のアメリカ行き、憧れのバンドのライブ、Josephとの出会い、深夜のドライブ……。
 かけがえのない物語とともにインプットされた、二つのフレーズだった。


~ そのとき、あることに気づく。
 そうか、僕は「いつか自分が言うであろう英語フレーズ」を、先回りして知っていなければならないんだ。そして再び考える。
 「この先どんなことを英語で話すんだろ?」 (新井リオ『英語日記BOY  海外で夢を叶える英語勉強法』左右社) ~


 今日あったこと、今日抱いた感情を「英語日記」という形で残していくことにした。
 それらを英語で言えるようになれば、つぎに同じような機会があったときに、伝えられる。
 今日言いたくて言えなかった言葉には、ドラマがある。
 教科書の例文とは比べものにならないくらいの思い入れがある。だったら忘れないんじゃないか。
 こうして書き始めた英語日記は、5年後には英語独学部門ブログ№1へと成長する。
 新井氏は、バンドのメンバーに英語で自分の思いを語りたいと思った。海外でイラストの勉強をしたいと思っていた。自分の将来像を具体的にイメージし、そこでどんなことを話したいかを明確にすると、必然的に憶えるべきフレーズもみえてきた。


~ 圧倒的に明確な勉強理由とは、つまり自分の夢のことです。
 繰り返すけど、「曖昧なことは頑張れないし、明確なことは頑張れる」これが人間だと思います。
 あっ、違う、とおもったらその都度軌道修正すればいいんです、とにかく動き続けていることに、何よりも価値があります。……巷で売れている「便利フレーズ集」はたしかに便利なのだけど、「1年後に自分の身に実際に起こるであろうシチュエーションを想像して、先回りするように、そのジャンルで使える英語フレーズを徹底的に習得する」方が、「自分にとっての便利フレーズ」としては、もっと効果があるんじゃないかなと。
「教科書例文」を暗記して、いざ使う時に「自分のことば」に入れ替えて言うくらいだったら、最初から「自分オリジナル例文」を作って、それを覚えちゃえばいいのです。 ~


 「この先どんなことを英語で話すんだろ?」
 みなさんは、この先どんな人生を歩むんだろ? それに向かって勉強すればいい。
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「詩を考える―言葉が生まれる現場」(東大2020年)の授業(4)

2020年07月28日 | 国語のお勉強(評論)
⑨ そこには無論のこと多量のひとりよがりがあるわけだが、そういう根源性から書いていると信ずることが、私にある安心感を与える。これは私がこういう文章を書いているときの不安感と対照的なものなのだ。自分の書きものに対する責任のとりかたというものが、作品の場合と、文章の場合とでははっきりちがう。
⑩ これは一般的な話ではなくて、あくまで私個人の話だが、〈 作品に関しては、そこに書かれている言語の正邪真偽に直接責任をとる必要はないと私は感じている。正邪真偽でないのなら、では美醜かとそう性急に問いつめる人もいるだろうが、美醜にさえ責任のとりようはなく、私が責任をとり得るのはせいぜい上手下手に関してくらいのものなのだ。 〉創作における言語とは本来そのようなものだと、個人的に私はそう思っている。もしそういうものとして読まぬならば、その責任は読者にあるので、私もまた創作者であって同時に読者であるという立場においてのみ、自分の作品に責任を負うことができる。
⑪ 逆に言えばそのような形で言語世界を成立させ得たとき、それは作品の名に値するので、( 現実には作家も詩人も、創作者としての一面のみでなく、ある時代、ある社会の一員である俗人としての面を持つものだから、彼の発言と作品とを区別することは、とくに同時代者の場合、困難だろうし、それを切り離して評価するのが正しいかどうか確言する自信もないけれど、 )離れた時代の優れた作品を見るとき、あらゆる社会的条件にもかかわらずその作品に時代を超えてある力を与えているひとつの契機として、〈 ウそのような作品の成り立ちかた 〉を発見することができよう。


 そういう根源性から書いていると信ずる → 安心感
   ↑
   ↓
 こういう文章を書いている → 不安感

 作品……言語の正邪真偽・美醜に責任をとる必要はない
        ↑
     創作における言語とは本来そのようなもの

 そのような形で言語世界を成立させ得たとき
     ↓
 作品の名に値する
     ↓
 時代を超えた力をもつ作品
     ∥
ウそのような作品の成り立ちかた

Q10「そのような作品の成り立ちかた」とはどういうことか、説明せよ。
A10 作品を構成する言語に対する責任をとる必要がないほどに作者自身は捨象され、
   純粋に作品世界が立ち上がってくる状態になること。
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英語日記

2020年07月27日 | 学年だよりなど
  3学年だより「英語日記」


 2013年、立教大学1年の新井リオ氏は、英語が話せるようになりたいと漠然と思いながらも、具体的にどうすればいいかわからず行動しかねていた。
 開講されていた「英語スピーキングクラス」は当然受講する。先生に「音読の勉強がいい」といわれれれば、とりあえずやってみる。有名な参考書にはだいたい目を通す。留学先を調べもした。
 しかし現実には、留学する費用を工面することはきわめて難しい家庭状況だった。


~ 「なぜこんなに英語が話せるようになりたい自分が留学に行けなくて、たまたま裕福な家庭に生まれた大学生たちが簡単に行けるのだろうか?」
 お金のことを考えるほど卑屈な気持ちを抱くようになっていった。
 ただ、この卑屈さが「非常にかっこわるい」自覚もあった。「英語を話せるようになりたい」という希望を抱いていたはずなのに、社会への不満ばかりが募り、もはや英語でもなんでもなくなっている。何かが根本的に間違っていて、何かを劇的に変えなければいけないような気がした。
 僕はまず、何をすればいいのだろうか。 ~


 2014年夏。20歳の誕生日、新井氏はアメリカにいた。
 高校の頃から憧れていた「Duck.Little Brother, Duck!」というバンドのライブに出かけたのだ。
 ロサンゼルス郊外のライブ会場は、宿泊先から電車とバスで3時間かかる僻地だった。
 ライブに後、宿に帰れないことは明白だったが、野宿すればいいと思っていた。


~ 初めてアメリカで観た大好きなバンドのライブは格別だった。しかし、終演後からが本番だった。外に出て野宿できそうな草陰を探していると、その挙動が不審だったのか、同じくライブを見に来ていたひとりのアメリカ人が「どうしたの?」と話しかけてくれた。
 Joseph(ジョセフ)という25歳の青年だった。
 拙い英語で事情を説明すると、「危ないから野宿は絶対にだめ!」と言い、車で僕を宿まで送ることを提案してくれた。
 深夜、というかほとんど明け方に僕の宿に着き、彼はいまから、再び数時間かけて家に帰ると言う。申し訳なさ、感謝、色々あるが、自分の英語力不足のせいで“I'm sorry,Thank you.”くらいしか出てこない。すると彼は、こう言ってくれた。
「Don't say sorry,we're friends.I'm always here for you」
“I'm always here for you”(いつでも味方だよ。)
 あまりにかっこいいフレーズだったから「もう一度ゆっくり言って」とお願いし、毎日つけている日記帳の端にメモした。彼は恥ずかしそうだった。 (新井リオ『英語日記BOY  海外で夢を叶える英語勉強法』左右社) ~


 宿にもどってネットで検索する。sorryじゃなくて、どう感謝の言葉を伝えればよかったのか。
 「I appreciate your kindness. あなたの優しさに感謝します」
 これだ! Josephに送信する。
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「詩を考える―言葉が生まれる現場」(東大2020年)の授業(3)

2020年07月24日 | 国語のお勉強(評論)
〈 記述答案(説明)を書く手順 〉

1 意味段落の確認 → ざっくり何について書くべきか
   その意味段落は筆者の主張Aの説明パートか
   対比Bの説明パートか
   A・Bの具体例がメインのパートか
   A・Bの「(+)」を述べているパートか、「(-)」を述べているパートか
  その意味段落を内容を読めているかどうかを調べるために、そこに傍線部が存在する

2 前後の確認 → 指示語、接続語

3 傍線部を分析 → 記述説明すべき要素・項目をチェックする

4 書くべき内容を箇条書きにする → 書き出してみて字数を数える

5 日本語としてまとめる
   論理的・文法的に大丈夫な日本語か
   他人が読んで、意味が通じるか
   ひとりよがりになってないか(予備校さんの解答にたまにある)
  結果として、次の基本構造になる
   SがVする、ということ
   SはCだ、ということ
    SとVCに間に、必要なものは1・2できまる
     理由 ~のためにで  限定条件 ~のときに  対比関係 ~ではなく


⑧ 真の媒介者となるためには、その言語を話す民族の経験の総体を自己のうちにとりこみ、なおかつその自己の一端がある超越者(それは神に限らないと思う。もしかすると人類の未来そのものかもしれない)に向かって予見的に開かれていることが必要で、私はそういう存在からはほど遠いが作品をつくっているときの自分の発語の根が、こういう文章ではとらえきれないアモルフな自己の根源性(オリジナリティ)に根ざしているということは言えて、〈 イそこで私が最も深く他者と結ばれている 〉と私は信じざるを得ないのだ。

(二)「そこで私が最も深く他者と結ばれている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

真の媒介者
 その言語を話す民族の経験の総体 → 自己のうち
 自己の一端 → 超越者に開かれている

作品をつくる
 自分の発語の根
   ↓
 アモルフな自己の根源性(オリジナリティ)
   ↓
 そこで私が最も深く他者と結ばれている


手順1 文章(B)ではなく、作品(A)をつくるとはどういうことか

手順2 「~ということは言えて」……順接

手順3 「そこ」「最も深く」「他者」

 a そこで → どこで? → 媒介者として作品をつくる場
 b 私が最も深く → 浅いのは何? →(作品は深い)文章は浅い・表面的
 c 他者と結ばれている → 誰?  → 同じ言語を話す民族
                     超越者 未来の人たち


Q9「そこで私が最も深く他者と結ばれている」とは、どういうことか。
A9 同じ言語を話す民族の経験に根ざし、
   媒介者として作品をつくるとき、
   過去から未来にわたる他者たちとの根源的なつながりを感じる
   ということ。
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没入力

2020年07月22日 | 学年だよりなど
  3学年だより「没入力」


 流れ星に唱えた願いは叶う。これは事実だ。
 人生において流れ星を見る経験は、どれくらいあるだろう。
 山へキャンプに行って、夜通し空を眺めていれば、日によっては相当数見ることはできる。
 日常において、ましてみなさんのように都会で暮らしているなら、かりに深夜たまたま空を見上げたときに流れ星を見る機会はまれだろう。
 予想もしていないその瞬間に、自分の願いが口をついて出てくるなら、その願いは叶うにきまっている。それほど四六時中思い続けているということだからだ。


~ 「仕事ができる」とは、なにも能力に優れている人だけを指すわけではない。その証拠に一流とされる大学を出ていても仕事で使いものにならない人や、大企業にいながらなにも価値を生み出していない人は山ほどいる。
 では、仕事ができる人はなにがちがうのか。
 それは、自分のやりたいことが明確で、かつそれについて四六時中考え、ありったけの時間を実践に投入している人たちだ。情報やアイデアはタダでいくらでも手に入る時代だからこそ、それらを日々吸収し、自分の仕事の改善や創造に活かすことに集中している人たちだけが、他者を大きく引き離している。
 僕は、仕事において、能力などは誤差の範囲だと考えている。
 能力なんかより、ちょっとした時間もぼんやり過ごすことなく、自分の仕事に集中しているかどうか。街を歩いているときも、アイデアのかけらを探し、いつも仕事について考えているかどうか。そんな人たちだけが伸びていく。
 そして、そこには自分のやりたいことに対する、本物の「情熱」が存在しているのだ。(堀江貴文『遊ぶが勝ち!』 セブン&アイ出版) ~


 「願い」「思い」「目標」「やりたいこと」「夢」……。
 いろんな言い方で、こうなればいいなと考える内容は表現される。
 どんな事柄に対しても、先人がどんなふうにそれを叶えてきたかは、実は明らかにされている。
 結局は、思い続ける力と、実際にやり続ける力、つまり「そのこと」にどれほど深く入り込んでいるかで、結果は決まるというだけなのではないだろうか。
 持って生まれた能力がどうのとか、置かれた環境がどうのとか、私たちはとかくあれこれ言いがちだが、それらのかなりの部分が言い訳であることも、うすうす気づいている。
 どれほどのめりこんで取り組めているか、その一点につきるのだ。
 人生の法則は、実際にはものすごくシンプルなものなのだと思う。
 だとしたら、今の自分は他人からどう見えるかなんて、なんでもないことだ。
 結果がどうなるかは、誰もわからない。
 やってみなければわからない。
 やってみることができる自分がここにいることは、なんて幸せだろう。
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卵焼き

2020年07月21日 | 日々のあれこれ
 休校期間中、家庭科の先生がつくる卵焼き動画に参加した。
 何人分か撮影し、失敗例、成功例みたいな感じで授業で流す映像だそうだ。
 授業がはじまっても、今年の3年は調理実習ができない。
 家庭科の先生の苦肉の策であったろう。
 とはいえ自分の場合は突然調理室に連れて行かれ、「さあやってみて」と作らされ、一発撮りされたという言い方が正しいのだが。
 なので、卵を割り損ねて殻がはいってしまうとか、卵焼き器が熱くなってないのに卵液を入れて、はしっこがくっついてしまったりとか、ふだんのお弁当づくりの時には考えられないミスを連発した。
 なんとか形を整え、息をつく。手元だけを撮っていたカメラが顔をとらえる。 
 つい「人生は失敗が基本、臨機応変に対応しよう!」と画面の向こうにメッセージを送る。
 たぶん、俺のは使われないだろうなと思いつつ。
 使われなかったどころか、最近の家庭科の授業で多くのクラスが見てて、しかも感想を書いたのだという。
 その一部を読ませていただいた。
 もっと落ち着いた方がいい、卵液は均等に3回に分けて入れてください、鍋の温度は手をかざすのではなく菜箸の先っちょに卵をちょっとつけてさわってみるものですよ、最終的にはおいしそうな形になっててよかったです……、などなど、あたたかい、上から目線のご意見をいただけていて勉強になった。
 そのついでに、「学年だより」ありがとうございますとか、少し国語の読み方わかりましたとか付け足してくれる子がいて、うれしかった。もうしばらくがんばれそうだ。
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「詩を考える―言葉が生まれる現場」(東大2020年)の授業(2)

2020年07月20日 | 学年だよりなど
 評論と随筆の違いは何か。そこに明確な線引きはない。
 筆者の言いたいことが論理的に説明されている(どの程度の完成度かは別にして)のが、評論、主張を露骨に書き表さず、感覚的な共感を求めているのが随筆、エッセイ。
 随筆よりの文章には「つまり」「ではなく」「なぜなら」がない(少ない)。
 随筆には、具体例の一般化、対比、理由説明がない(少ない)。
 だから、自分で対比を考え、自分で一般化、抽象化していく作業が必要になる。


④ 〈 作品をつくること 〉、たとえば詩であると自分でやみくもに仮定してかかっているある多くない分量のことばをつなぎあわせること、また歌や、子どもの絵本のためのことばを書くことと、このような文章を書くことの間には、私にとっては相当な距離がある。
⑤ 〈 ア作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする。 〉自分についての反省は、作品をつくっている段階では、いわば下層に沈澱していて、よかれあしかれ私は自分を濾過して生成してきたある公的なものにかかわっている。私はそこでは自分を私的と感ずることはなくて、むしろ自分を無名とすら考えていることができるのであって、そこに私にとって第一義的な言語世界が立ち現れてくると言ってもいいであろう。
⑥ 見えがかり上、どんなにこのような文章と似ていることばを綴っているとしても、私には作品と文章(適当なことばがないから仮にそう区別しておく)のちがいは、少なくとも私自身の書く意識の上では判然と分かれている。そこからただちにたとえば詩とは何かということの答えにとぶことは私には不可能だが、その意識のうえでの差異が、私に詩のおぼろげな輪郭を他のものを包みこんだ形で少しでもあきらかにしてくれていることは否めない。
⑦ もちろん私が仮に作品(創作と呼んでもいい)と呼ぶ一群の書きものから、詩と呼ぶ書きものを分離するということはまた、別の問題なので、作品中には当然散文も含まれてくるから、作品と文章の対比を詩と散文の対比に置きかえることはできない。強いていえば、虚構と非虚構という切断面で切ることはできるかもしれぬが、そういう切りかたでは余ってしまうものもあるにちがいない。作品においては無名であることが許されると感じる私の感じかたの奥には、詩人とは自己を超えた何ものかに声をかす存在であるという、いわば〈 媒介者 〉としての詩人の姿が影を落としているかもしれないが、そういう考えかたが先行したのではなく、言語を扱う過程で自然に〈 そういう状態 〉になってきたのだということが、私の場合には言える。


Q5「作品をつくること」と対比の関係になる部分を12字で抜き出せ。
A5 このような文章を書くこと

Q6「媒介者」とあるが、何と何とを「媒介」するというのか。
A6 自己を超えた何ものかと、現実世界を生きる人間。

Q7「そういう状態」とはどのような状態か。
A7 作品をつくるうえで、自分は無名の媒介者であるという意識をもっている状態。

 作品をつくること
    ↑
    ↓
 このような文章を書くこと

 作品をつくっているとき
  私自身から自由(←→不自由)
  ある公的なもの ←→ 私的
  無名     (←→有名)
   ↓
 第一義的な言語世界が立ち現れてくる
    ↓
 詩人……自己を超えた何ものかに声をかす存在
     媒介者としての詩人

Q8「作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする」とは、どういうことか。
A8 作品をつくるとは、自己を超えた何ものかの声に形を与える行為であり、
   現実の世界の生きる自分からは解放されているから。
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小論文の書き方(2)

2020年07月19日 | 国語のお勉強
~ 常に「元気で明るい」という呪縛が「コミュニケイションは苦手だ」という意識を持つ人を大量に作っている。(鴻上尚史) ~


 小論文を書くときには「YesかNoかで答える」という呪縛にとらわれ、論ずべき対象がずれてしまった小論文が量産される。

 課題文が与えられるとき、その文章の多くは、評論家、文化人、作家とよばれる人たちの文章だ。
 もしくは様々な世界で功成り名を上げた方々のエッセイとか。
 中塚光之介『採点者の心をつかむ 合格する小論文』(かんき出版)を参考にさせていただき、鴻上尚史氏の文章を第一回目の課題にしてみた。
 鴻上さんですよ。日本の商業演劇を築いた方だ。イギリス留学で学ばれた演劇理論を、日本の風土におとしこんだ功績もある。
 劇団を主宰する一方、一般人にまでも開かれたワークショップも何年も行っているし、コミュニケ―ションについての御著書も多い。
 そんな方の文章を与えられて、高校生は60分とか90分でNOを書けるわけがない。
 書けたらとしたら、読みとれてないのだ。

 「読みとる」とはどういうことか。「読む」との違いは何か。
 表面的な意味ではなく、「それはどういうことか」を理解することだろう。
 ふつうの評論を解くにあたっても、そこまで求められる場合もある。
 ただし、現代文はそこまで。
 小論文は、読み取った内容を「自分に落とし込む」という、ひとつ進んだ段階が必要になる。
 それを、自分の言葉で説明しないといけないから、小論文は現代文よりも二段階分負担が大きくなる。
 まったく対策を立てずに何か書けるだろうという姿勢で臨んだ生徒さんが、おそらく全く点数をもらえない結果になっているようなのは当然だろう。
 逆にしっかり勉強でいたならば、普通の受験勉強では得られないと思われるほどの充実感が得られる。
 「考える」という経験ができたかなと思える。
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適性

2020年07月18日 | 学年だよりなど
  3学年だより「適性」

 藤井聡太新棋聖の快挙を見て、類い希な才能をもっている人はすごい、と私たちは感じる。
 しかし、もともと天才で、なんの苦労も悩みもなく今の地位に達した……というわけではおそらくないだろう。
 まず、将棋に出会わなければならない。5歳にときに、たまたまおじいちゃんが将棋を教えてくれるという幸運が必要だ。
 おじいちゃんが教えてくれたのが、たとえば将棋ではなく囲碁であったら、どうだったろう。
 習字やピアノやダンスだったら。何をやっても今の地位に達すると想像することは難しい。
 あっという間にルールを憶え、おじいちゃんを負かしてしまったからといって、自宅から通えるところに将棋の道場があるという条件がなければ、成長の過程はまた違っただろう。
 さまざまな幸運と、それを生かす自らの力があわっさって、「結果」が生じる。
 私たちは、その結果を見て、「あの人はもともと才能がある」と表現する。


~ 才能は「結果」ですから、最初から存在するものではありません。でも人には、生まれつき、何かに向いている性質というものがあるはずです。私はそれを「適性」と呼びます。「才能」はありませんが、「適性」は間違いなくあります。
  … 「適性」のある人が、膨大な努力をすると、それが「結果」につながるのです。数式で表すならば、「適性」×「努力量」=「結果」です。
 何かの専門家になるには、1万時間以上の努力量が必要だといいます。「適性」がある人は、1万時間の血のにじむような努力を楽しみながらこなすことができる。一方、「適性」のない人は、苦しくて途中で脱落する。「適性」が花開く前に、ドロップアウトするのです。
 ここで「努力」という言葉を便いましたが、スポーツや音楽であれば「練習」であり、知的作業であれば「勉強」ということになります。
 全ての人には、何らかの「適性」があるはずです。それを発見し、磨きをかけていく。
 いろいろなことにチャレンジすることで、適性は発見できます。学校の教科でも、「数学」なのか「国語」なのか「英語」なのか、人によって得意教科が違っていますが、そこにも「適性」が隠れています。それは、いろいろなことをやってみない限りわからないのです。
 勉強することで適性は発見され、勉強することで適性は磨かれていきます。
 「才能」なんてものは、誰も持っていないので心配することはありません。でも、あなたは何らかの「適性」を持っているはずです。その適性を発見し、勉強によって磨いていけば、必ずその適性を開花させ、目覚ましい結果を出すことができるのです。
(樺島紫苑『ムダにならない勉強法』サンマーク出版) ~


 自分が何に適性があるのか。何を伸ばせばいいのか。
 それを見つける機関として、学校はベストではないのかもしれないが、今の人間社会においては、かなり有効な、現時点では最も汎用性の高いシステムだといえるだろう。
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