水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

シエナウインドオーケストラ

2020年08月31日 | 演奏会・映画など
 シエナウインドオーケストラの50回記念演奏会「ジョン・マッキー作品特集」は、7月4日開催予定だった。
 コロナで8月末に延期になり、「男祭り」の練習が入る日だからキャンセルかなと考えたが、それもなくなり結局聴きに来られた。
 マッキー作品は吹奏楽コンクールでチャレンジする学校さんもある。
 吹奏楽にしかできないことを具現化している曲ばかりで、しかもかっこいいから、一度やりたいと思う関係者は多い。
 ただし難しい。まず物理的に難しそう。どれくらい難しいのか正直わからないが、難しそうであることだけはわかる。
 一昨年の徳栄さんとか、すごいなあと思う。そこに費やしたであろう練習時間を想像すると頭が下がる。
 オープニングは「セイクリッド・スペース」というオープナー的な曲。それでもグレード高そう。
 続いて、住谷美帆さんをソリストに向かえての協奏曲。
 若きSax奏者として名前は知っていた。たぶん「ぱんだウインド」で音も聞いているが、はじめて聴くソロにはぞくぞくした。
 休憩をはさんで、メインの「ワインダーク・シー」。
 冒頭のテーマから、こんなに吹いて最後までもつのかと危惧したが、杞憂に決まってる。最後はとんでもない音圧が、一個飛ばしに座っている客席を襲う。全体像が計算されつくしている感じがする。まさにこれがプロの演奏なのだろう。団員のみなさまも久しぶりの本番で、気合いが入ってらっしゃったのではないか。
 なんにせよ、大人の本気はすごいと感じる演奏会だった。
 ほんとなら、みんなを誘ってきたかった。
 ここまで来たら、アンコールで「アスファルトカクテル」とかやってくれればいいのにと思ったら、まさかの「レッドラインタンゴ」で、住谷さんも加わっての演奏。帰りにご祝儀きって帰ろうかと思ったくらいだ。
 ライブにまさるものはない。
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未来(2)

2020年08月31日 | 学年だよりなど
  3学年だより「未来(2)」

 
 2011年3月11日の夜、河合塾新宿校には、たびたび館内放送が流れた。
 東北地方で大きな地震が起きたこと、関東近辺も交通機関が麻痺していること、不用意に帰宅しようとせずに校舎内ですごしてほしいこと、非常用の水とカンパンを配給すること … 。 
 朝方になると、運転が再開されはじめた路線の情報が随時アナウンスされる。夜通し面倒をみてくれている職員のみなさんに頭が下がる思いだった。
 校舎を出て帰途についた学生さん達は、おそらく途中で事態のあまりに深刻さに気付いたことだろう。たしか、みんながスマホをもっている時代ではなかった。
 自分の受験どころか、理不尽に命を奪われた人々がいることを知る。
 一命をとりとめたものの、家族や友人を失い、家も学校もなくなった多くの若者がいた。
 そういう状況を目の当たりにした受験生たちは、自分たちに与えられている時間のかけがえのなさに、無意識のうちに感謝したことだろう。
 みなさんはどうだっただろうか。
 震災の後、休校になったり、計画停電があったり、電車が運転できなかったりした時期に、小学3年生だったみなさんは、当時の状況をどう受け止めていたか、記憶はあるだろうか。
 みなさんと同じ歳で、波にのまれていった子どもたちがたくさんいた。
 そんな人生を誰が予想するだろう。
 震災がなければ、今年の夏はみなさんと同じように受験勉強に励んでいたにちがいない。「コロナ面倒だな、入試どうなるんだ」と言いながら。
 自分の力が全く及ばないものによって予定した生活ができなくなるという意味では、9年前と今年とは似ていると言っていいのかもしれない。
 しかし今は、自分の考え方、自分のやりようで、いくらでも状況を変えることができる。
 地震に限らず、災害で生活を奪われてしまった人と、私たちにはどんな違いがあるのか。
 私たちがいま生きているのは、日頃の行いがよかったからだろうか。
 亡くなった方、避難生活をしている方よりも、努力の度合いが大きかったからだろうか。
 もちろん、そうではないことを誰もがわかっている。
 答えは簡単だ。運がよかったのだ。
 わたしたちはただただ運がよくて、こうして毎日を生きることができる。
 努力や才能が人生の質を決めるのは言うまでもないが、運をいかすことはそれ以上に大事だ。
 私たちの実力なんてたいしたことはないし、才能なんてあるかどうかもわからない。
 だから、運をいかすしかない。
 目の前ににんじんが下げられたなら、「おいしくないんじゃないかな」と逃げないで、とりあえずくらいついていけばいい。
 どの大学に入ったか、卒業したかは、人間の価値を決めるものではない。
 そのこと自体は人生の目的ではなく手段にすぎない。
 自分に与えられた運を精一杯いかす経験が、自分の生き方としてからだの中に残っていく。
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未来

2020年08月25日 | 学年だよりなど
  3学年だより「未来」


 シロアリやスズメバチの巣は、設計図にもとづいて作られているわけではない。
 彼らは、こんな巣を完成させたいとうイメージをもっているわけではなく、遺伝子レベルで与えられている情報に基づいて行動しているうちに、結果としてあの巨大な巣を作り上げるという。
 逆に人間は、自分の住む家の作り方情報を、遺伝子レベルではもっていない。
 人が何をどう作ることになるのかは、生まれてから身につけた知識や情報に規定される。
 決められた未来に向かって生かされるのではなく、自分で未来を作っていけるのが人間だと言うことができる。
 その人の未来は、どれくらいの知識や情報を得ることができるか、つまりどれだけ勉強することができるかにかかっていると言えるだろう。
 今も、学校で学ぶことができない子ども達が世界中にはたくさんいる。
 貧困であったり、内戦であったり、その原因は様々だが、勉強できない辛さとは、未来を描けない悲しさだ。そういう環境の子ども達からは、感染症対策で制限があるとはいえ、日本の学生は夢のようなものに見えるだろう。


~ 追い詰められた時、勉強する人と勉強しない人に分かれます。
  自分の未来を信じる人は、勉強します。
  自分の未来を信じない人は、勉強しません。
  自分に、誇りを持ち続けている人は勉強します。
  自分の誇りを、捨ててしまった人は、勉強しません。
 (中谷)塾に勉強に来ている人は、自分の未来を信じている人です。
  どんな状況でも、自分に誇りを持ち続けている人です。 (「中谷彰宏公式サイト」より) ~


 今でもときどき思い出すのは、2011年3月11日の夜だ。
 地震がおきたとき、河合塾の新宿校舎付近にいた。参加する予定だった教員研修会は中止になったが、帰宅するための交通手段はなく、河合塾さんで一晩過ごさせてもらった。
 そこには同じように帰れなくなった学生さんもいた。「明日の試験どうなるのかな」と話している生徒さんは、翌日の国立後期試験の勉強に来ていたのだった。
 結局後期試験を実施しなかった大学も多く、その場合はセンターの結果で合否が判断されることになった。センターで思うような点がとれず、後期で挽回しようとしていた受験生は、その場を与えられなかった。結果として浪人生となった子たちは、だから、自分自身の受験と震災とが不可分の経験となって体にしみつく。
 その年の夏、駿台の霜栄先生から、「今年の浪人生は、例年よりしっかりしている」というお話を伺った。
「自分の受験と震災とが、一つの経験として結びついていて、受験生として過ごせることに感謝する気持ちを持っているからではないだろうか」と。
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宿題代行

2020年08月22日 | 教育に関すること
 どの学校も、今年はきっと夏休みも短いはずだが、わざわざ宿題出しているのだろうか。
 今年も話題になっている。
 客観的にみて、それをやることで学力が向上したり、人間的に成長できる宿題は、日本中のそれのうち約0.2%だと言われている(おれに)。
 本当に価値ある宿題を作ることのできる先生は、そもそも宿題は出さないものだ。
 宿題をだされて、はいそうですかと従い時間を費やす子どもは、文科省が目標とする人間像とはちがうんじゃないか。
 やっても意味のないような作業(やること自体に意味がある論者もいるかもしれないが)に、こどもは貴重な時間を費やさなければならないし、親はやきもきしないといけないし、先生は集めて評価して展示して … という仕事が増える。誰トクなんだろ。
 yahooニュースで、弁護士の先生が「宿題代行は法的に問題があるかどうか」について述べられていた。
 逆に問いたいのは、宿題を出して強制すること、つまり学校外の時間まで強制して何かをやらせるって、法的に認められているのかどうかだ。大人なら、勤務時間以外に、持ち帰りの仕事を強制させられたらブラックと騒ぐはずなのに。
 yahooニュースのコメント欄には、「代行に頼むなんてばかげている、こどものためにならない、それは不正だ」というような批判が並んでいる。
 なんらかの事象に対して、疑いの目をもつ、批判的にとらえてみる、そもそもの前提を疑うといった思考は、やはり国語の時間に身につけないといけない。こりかたまった世間の常識や既成概念にとらわれ、自分の頭で考えられない方々を目にすると、国語力をつけてあげられなくてごめんねというしかない。
 もし自分が小学校の先生になっていて、どうしても宿題を出さないといけないなら、どうしようか。
 一番は読書。感想文を求めない読書。課題図書ではなく好きな本を極力たくさん読むこと。もちろんマンガでもいい。
 ちなみに宿題代行の読書感想文は「原稿用紙(400字)1枚3000円~」となっていた。
 なかなか、いいな。いいお小遣いかせぎになる。高校時代に、こういうのがあったらよかったな。
 提出すればいいレベル、少しほめられたいレベル、学校の代表になりたいレベルなど、希望に応じて書いてあげられただろう。
 毎日一食、一品は自分で料理をつくり、インスタにあげるとか動画をあげるとかは、いい宿題じゃないだろうか。
 あと、ZOOMなどで田舎のおじいちゃんおばあちゃんと会話することとか。
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源氏物語

2020年08月21日 | 国語のお勉強(古文)
 ~ 絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師と言へども、筆限りありければ、いと匂ひ少なし。太液の芙蓉、未央の柳も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたるよそひはうるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にも、よそふべきかたぞなき。(『源氏物語』「桐壺」) ~


 理系の夏期講習で「共通テスト試行問題」の古文を扱う。
 予習は前にしてあるよね、とプリントを見つけてみると書き込みがあって安心した。
 上記の、桐壺の帝が、楊貴妃と比較しながら、亡くなった桐壺更衣を思い出す場面。
 「こそ~けめ、」は逆接で、前後を対称的にとらえる … などと普通なら書き込むものだが、さすがおれクラスになると違うな。
 「唐めいたる」に線を引いて、ボンドガール? プレイボーイガール? と書いてある。
 「なつかしうらうたげなりし」からは、永野芽郁? 西野七瀬? と。
 妖艶な美しさであったろう楊貴妃と、「人なつこくてかわいかった」桐壺更衣とをどうイメージさせるかという予習をしていたということだ。ナイス、おれ。
 「源氏物語」のような有名作品は、お話の概略を知っていた方がいい、マンガ「あさきゆめみし」を読んで、作品全体像を把握しようという、わりと定番の勉強法がある。たしかに時間があるなら読んだ方がいい。
 「登場人物を実在の人に置き換えると憶えやすい」というのも、一つのコツになるんじゃないかな。
 思えば、はるか昔日本史の鎌倉時代が得意だったのは、石坂浩二の源頼朝、岩下志麻の北条政子でイメージを確固たるものにしていたからだろう。今の高校生は明智光秀を長谷川博己で憶えることになるのか。
 まてよ、桐壺更衣をガッキーにして、藤壺女御を芽郁ちゃん、桐壺帝をムロツヨシにおいてみればいいのか。家族構成は変わるが。
 光源氏は、今までいろんな役者さんが演じてきた。沢田研二、東山紀之、生田斗真。最近なら千葉雄大か。天海祐希さんという大技もあった。今なら山下智久さんではないだろうか。頭中将は亀梨さんで。朧月夜に手を出して須磨に配流されちゃった。
 自分的に六条御息所は満島ひかり、女三の宮は森七菜、明石の君に小松菜奈、夕顔は唐田えりかさんがいい。
 かんじんの紫の上が思い浮かばない。
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1年目(2)

2020年08月20日 | 学年だよりなど
  3学年だより「1年目(2)」


 将来はこんな人間になりたい、こんなことを成し遂げたい、夢をかなえたい … 。
 それらの目標は、簡単に達成できるレベルのものではないはずだ。
 「明日は吉野家で昼食を摂ろう」を夢とは呼ばないように。
 英単語を3000語憶えることは、同じように夢ではない。自分の目標に接近するための手段だ。
 「英語を身につける=幸せ」という式が成り立たないのと同じように、「難関大学に合格する=夢が叶った」ではない。
 入学してどんな学生生活を過ごすかで、夢に接近できるのか、離れていくかは変わる。
 今年の大学一年生のように、未だにキャンパスに足を踏み入れることのできない状況であっても、目標に向かって着実に歩めている人はいるはずだ。
 「本気で意識してから10年間は勉強しなければならない」と述べた作家の千田拓哉氏は、「将来は100冊の本を出したい」と学生時代に決めて、そこから逆算して勉強を始めたという。
 そのためには、本を書くための材料を手に入れ、本を出しやすい業界に就職しようとした。
 実際に1冊目を上梓した時には、そのまま100冊目まで出せる目算は立っていたという。
 あとは、その最終形に向かって勉強を続けるだけだった。


~ もちろん執筆のネタを仕込むために勉強はし続けたが、私にとって勉強とはもはや趣味のようなものであり、快楽ではあっても苦痛など微塵もなかった。
 これらは最高に楽しい目標ではあったが、目標を通過するプロセスはもっと楽しかった。
 淡々とプロセスを楽しんで通過しているうちに、そのついでに本を出せたというのが正直な感想である。
 実は今も同じように目標を通過するために勉強をしているが、やはりプロセスがこの上なく楽しい。ゴールするのが惜しいくらいである。 (千田拓哉『一流の人が、他人の見ていない時にやっていること』清談社) ~


 部活動の大会がなくなった今年度、空気感としては、例年よりも受験勉強の開始自体は早い。
 しかし現役生にとっては、やるべきことの全貌がみえないうちに、それに突入させられた感がある。とりあえず自分一人でがんばってみろと言われ、そしてあっという間に夏も後半だ。
 自分の進み具合を現実的に直視したなら、焦りを感じ始める人もいて当然だ。
 焦って普通だとさえ言える。
 結果が出るか出ないか不安になるのは、それだけ本気になってきた証拠だ。
 勉強の成果は、そうそうすぐには形にならない。もうみなさんはビギナーではないからだ。
 不安を感じている暇があるなら、もっとやればいい。そうすると勉強's high状態になれる。
 不安にかられて志望校を下げたりすると、結果的にはさらに1ランク下がる。
 むしろ上げるくらいでちょうどよくなると思う。男をみせてやろうではないか。
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和光国際高校吹奏楽部演奏会

2020年08月17日 | 学年だよりなど
和光国際高校吹奏楽部第25回定期演奏会@和光市民会館サンアゼリア

夜の部 16:30開場 17:00開演
    2部 川越東ステージ 17:45頃~
    ミュージカル「レミゼラブル」より、「Septemberセプテンバー」、「嵐メドレー」

    ご来場いただいた保護者のみなさま、ありがとうございました!!
    和光国際高校吹奏楽部のみなさま、貴重な機会をありがとうございました!!
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1年目

2020年08月17日 | 学年だよりなど
  3学年だより「1年目」


 何らかのことを身につけようとした時には、たとえばスポーツでもいいし、楽器やダンス、語学など、どんなものであっても、5年、10年という単位での時間の積み重ねが必要となる。
 何が自分に合ってるのかは、やってみないとわからないので、たとえば半年やってみて違うなと思ったら、すぱっと他のことに切り替えてもいいし、逆に、才能を感じられなくても好きでずっとやっていられることなら、続けた方がいい。
 それが何にせよ、「少したしなみました」と言えるレベルになるには、最低10年はかかる。
 高校に入って始めたスポーツなら、大学で4年間続け、就職してからも時間をつくってやり続けるレベルになると、自分の人生の大切なものに変わるだろう。
 現役のプレーヤーとしてはだんだんと体が動かなくなってくるのはしょうがないが、そこまでやり続けたことで得られた様々なものは、仕事そのものにも役に立つ。何より自分の支えになる。
 社会人になっても続けられることに、学生時代に出会えたなら幸せだ。
 かりに大学に入ってから出会ったことを、本気でやってみたくなって10年経ったとき、みなさんはその時点でまだ20代だ。これを人生の可能性といわずして、なんと言おう。
 今やっている勉強は、数ヶ月後の受験とともに終わるものでは全くない。


~ たとえば「10年後に英語でインタビューに答えたい」という明確な目標があるのなら、今からその勉強をスタートしているべきである。
 決してラスト1年間にかけるのではなく、今からその準備をすべきである。
 すでに英語でインタビューに答えられる人に必ず直接聞いて、自分の語学力や記憶力と相談しながらカリキュラムを組むのだ。
 場合によっては英会話教室や家庭教師を雇うかもしれない。
 あるいはネットの指導があなたには合うかもしれない。
 いずれにせよ、「将来こうなりたい!」から逆算して中長期的にコツコツ勉強することで、あなたの人生は格段に充実したものになるのだ。
 英語でインタビューに答えるという目標に限らず、世の中で一目置かれるような能力を習得するためには一般に5年から10年といった期間の勉強が必要になる。
 医師国家試験に合格するためだとか、大学院の博士号を取得するためだとか、いずれも本気で意識してから10年間は勉強しなければならないだろう。
 何かの分野で「おっ」と思われるには人生でその程度の努力は必須というわけだ。
 なぜ一目置かれるかと言えば、それを獲得するのに時間がかかるからである。 ~


 これからの10年の1年目として今年をすごしたとしよう。10年後、全くちがったステージを見据えることができる日が、目の前に出現する。
 そのとき、受験勉強なんて「かわいい」ものだったよね、と思えるだろう。
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リハーサル

2020年08月15日 | 日々のあれこれ
 14日。サンアゼリアへ向かい、和光国際定期演奏会ゲストステージのリハーサルを2時間弱。
 演奏曲は、先日に大会で演奏した2曲、「レミゼラブル」「セプテンバー」と嵐メドレー。
 会場でしかできないことをやらないといけないので、ステージ配置、マイクの使い方、踊りチームの立ち位置、出入りの練習などを行う。
 サウンドは、毎年「男祭り」で演奏させていただいているものの、あらためてこんなに響くホールだったのかと感じ、だからこそ、細かい音符をしっかりはっきり吹かないといけないとわかる。
 学校にもどってからの練習で確認しないと。
 先日の合同演奏会、そして和光国際高校演奏会への出演。この時期に二回も本番のあ演奏ができる学校がどれだけあるだろう。
 ありがたいことだ。実際、本番がなかったら、曲もつめられなかったと思う。
 感謝の思いをこめて、本番に向かいたい。
 15日。昨日の反省をふまえて、レミゼラブルの細部の練習や、寸劇の流れなど。
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推薦書(長め)の書き方

2020年08月14日 | 大学入試
 AO入試、国立の公募推薦など、かなり長い推薦書を求められる場合がある。
 あ、名称変わったんだっけ。「学校推薦型入試」「総合型推薦入試」とかに。
 先日もある生徒さんの推薦書を1000文字×2つ書いた。
「学校生活全般にわたり大変よくがんばり、人間的にも申し分ないので、推薦します」だと、40字にも満たないが、どうやって長くすればいいか。

 推薦書の威力を増すのは、具体的な実績だ。
 インターハイ優勝、コンテスト1位といった、誰が見てもそのすごさがわかる実績のある生徒さんは、そのまま書いていけばいい。そういう子は、日本一になるまでに小さな大会での実績も当然重ねているから、あっというまに行数はうまっていく。
 ただし、そんな生徒さんはほんの一握りだし、実際には、むしろたいした推薦書も必要とせず入学を認められていく。
 むしろ、目に見えた成果をもっていない場合に、何を書けばいいかというのが、多くの先生方の悩みではないだろうか。
 もちろん、その生徒さんがいい子であることはわかっている。
 明るいし、粘り強いし、前向きだし、礼儀正しいし、しっかりした目標をもっている。
 でも、そういう言葉を羅列しても、なかなかマス目は埋まらないし、人物が浮かび上がってこない。
 長くするとは、詳しく書くこと。
 つまり具体的に書くこと、エピソードを描写することが必要になる。
 「明るい性格だ。」だと7文字。

 「体育祭ではクラスの中心となってみんなを鼓舞した。大会が進むにつれ、クラスの敗色は濃厚になる一方だったが、大きな声で出場しているクラスメイトを応援し続けた。最後のクラス対抗リレーではアンカーをつとめ、前のチームから大きく引き離されたものの力を抜くこと無く懸命に走り続け、最後まであきらめない姿を見せた。最下位でゴールした瞬間にかけよってくるクラスメイトたちのまんなかで、はじける笑顔をうかべていた様子が印象的だ。」
 だと、それなりの長さになるし、描写している先生自身の視線が感じられる。
 この生徒さんを推薦したいんだろうなあという気持ちがにじみ出る。

 え? そんな絵に描いたようなエピソードがない場合はどうすればいいか?
 エピソードは「つくる」ものです。
 けっして「でっちあげる」という意味、ウソを書くという意味ではない。
 どんなささいな出来事でも、当人にとっては大きな事件であることは多々ある。
 周りから見ればなんでもないようなことでも、自分の中では大きな意味をもつことは、日常的にあるはずだから。
 A君が、となりのBさんにノートを借りて勉強していた。
 こんな場面でも、A君の人間性、勉強に対する姿勢、成長の度合い、といった意味を見出すことは可能だ。

 「入学当初から学ぶ姿勢が確立していたとはいいがたい。自分の将来像を描くことができず、学校生活そのものにも心から溶け込んではいないのではないかと思える場面もあった。だからといって、投げやりになったり、周囲に反発したりすることはなく、静かに内面の葛藤と戦いながら、自分のやりたいことを見つけようとしていた。福祉や看護の方面で自分の能力をいかしたいという思いが芽生えてきた高校2年の後半からは、積極的に学習に取り組めるようになった。部活動の大会で公欠となり受けられなかった授業の分を、友人からノートを借りて復習する様子がみられるようになった。職員室に照れくさそうに質問に訪れたこともある。ひとたび目標が定まったならば、その実現に向けてどうすればいいかを考え、行動に移していく前向きな姿勢をもっている生徒である。クラス内で目立つタイプではないが、知らず知らずのうちに、周囲の人間と良好な関係を築くことができる人当たりの柔らかさが感じられる」みたいに。
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