ラオスで開発中のダムが決壊し、大災害となっている。
あふれた水量が50億立方メートルだと聞いたが、これがどのくらいかというと、一辺が1.7kmの立方体なのだ。富士山の横に約半分の高さの箱があってその中身が一気に溢れた、と考えればその規模が分かると思う。
この工事を請け負ったのは国際合弁企業で、メンツを見ると施工はどうも韓国の企業が中心のようだ。
日本から見ると、韓国の事故は、規模も大きいがその後の言い訳の方も驚く。韓国の法律に「当事者は嘘の言い訳で他人に責任を転嫁しなくてはならない」という条項でもあるのかと。
これは一定数、その嘘を信じてしまう人々が存在し、それにより世論が拮抗するのを期待するからなのだろう。事実、うやむやになって逃げきってしまう事が多々あるし。
ダムの事故原因も責任の所在を巡って案の定、意見の相異が見られるがそれは毎度のこととして、だ。
韓国のこういう類の事故多発の原因は、国家としての総合能力というよりも、国民のノリにあるのだと思う。自分は今回のダム決壊事故で、ああそういう事か、と理解した点がある。
それはもし大事故が起こったとしても「嘘で他人に責任を転嫁して逃げ切れるだろう」という精神的保険があることで起こる重圧の放棄だ。逃げ切れる前提で、責任感半減で仕事を行うのだから、今回の直接の事故に繋がらない部分でも不手際がかなりあるだろう。それが発覚したところで他人のせいでこうなった、自分は悪くはない、という下準備は満載だろうし。
同じ様なものに中東のインシャラーがある。日本人からすれば明らかにお前のせいだろ、という事が、神が決めた事だから、という運命論に切り替わってしまうのだ。この場合の責任者は神なのだからどうしようもない。
仕事のプレッシャーは誰でも嫌だ。特に仕様書通り納期内で仕事を終えたところで、それが当たり前であり、自慢にもならない。ただし問題が発生した時には、全部自分の責任であれば、果たして報酬に見合う仕事なのかとも自問したくもなるだろう。
そこから逃げる方法として嘘と責任転換が生み出されたものであるなら、これは相当に深刻な話だ。
何を意味するかというと、「大きな責任を背負う覚悟や自信がなくとも仕事を請け負う環境」が出来上がるのだ。
大事業になればなるほど、責任は重大だから、身の丈を考えてこういう事案は大手かそのジャンルに特化した企業しか参入しない。責任を負いきれないから当然だ。
聞けば、韓国のこの企業は韓国国内業界のランキングでも10位以内にすら入っていない。恐らく施工を受ける決断をした社長、技術開発部長、現場の課長、現場作業員、その全てが嘘と言い訳と責任転換を主張する事になる。
見苦しい以前に、こういう負の文化を持った国には、モノは作らせてはいけない。あまりに危険だ。