たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

動的平衡状態な安住

2010-12-14 01:39:58 | Weblog
 正直、あんまり、次の変化に本気になれないでいる。今までが他人とは違うタイミングで変化し過ぎたせーか、焦りもほとんど無いし、周囲に合わせて仕方なく…感が、結構ある。

 っというのも、いくつか、きちんと理由があって、まず、自分にとって何が一番満足できるのか、よくわかっていない、ってことだ。
 あえて、一番性格の悪い言い方をするなら、この先、俺の人生は、どうにでもなる。結局そのまま今の研究室に残るのもアリだし、他の研究室に行っても面白そうだし、無難なところに就職したり、研究職についたり、無駄に高校教員免許も2教科(数&理)も持ってるから先生をやったとしても、きっと楽しい。どれを選んでも、少なくとも2~3年は楽しそうだし、言葉の上で、なんとかなる。
 あれだけボロボロの状態から、ここまで来れてしまっているから、自分の心配よりも、自分とは全く関係ない、守らなきゃいけない存在に、気を取られてしまっていたりする。

 それから、もうひとつとしては、どーも、就職活動全体が、「自分をいかに誤魔化すか?」みたいなところに焦点が当てられ過ぎている気がするのだ。
 俺は、学生が言う(思ってる?)ほど、人事の方はアホじゃないと思うし、彼らは、本当の意味で、人を見る目があると思っているので、こういう風に書くとイイ、とか、こういう風に面接を受けるとイイ、とか、そんな手法論みたいなところでばっかり評価を求めようとする、多くの学生に、うんざりしちゃうんだよね。
 特に、理系なら、本当の実力を、いかにそのまま見せるか、、そこで勝負したい、って思っていて欲しいな、これは同世代に対して。

 だから、まぁ、俺は、そのとき、縁があったモノをそのまま選べばいっかなー、って思っていたり(って、めちゃめちゃ、いつも通りなんだけど(笑))。。どこにいったって、自分は自分なんだし、楽しもうと思えば、変えようと思えば、どこでも、きっと大丈夫。
 今までも、こういう感じで道を選んで来た。変わりたい!、ココじゃイヤ!、って想いが強くて、そこに対する行動力がとてもあるかのように思われることも多いけど、それは一部分で、自分にそういう風な話が偶然回ってくるから、運命的に仕方なく選んでるって部分も強い。

 っで、今回も、そういう、「縁」みたいなモノや、「運命」まで言うとオーバー過ぎるんだけど、そういうことが無いわけではない。ここから激化するなかで、どれを選ぶか。それは、いつだって、俺にもわからないし、そこも含めて、面白い。楽しい。
 未来が楽しそうで、今も楽しいから、楽しいで、OKでしょ??

 安住の地は、逃げ水のように、追いかけた分だけ、遠ざかる。
 だけど、「動的平衡状態な安住」で、楽しみ続けることはできる。

 どーせ、60過ぎても、現状に不満だらけなのは、予想つくしねっ(笑)。
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かけ橋になれ

2010-12-13 03:57:23 | Weblog
 やり直しがきくことは、大して気を配らなくてイイ。対策として大事なのは、今しかできないことをやることで、明日でも大丈夫なことは、とりあえずやらない。
 どんなことでも、ほとんどのことは、いつからでもやり直しがきく。っま、メンドクサ過ぎるってこともあるけどさ。

 《どこで緊張感を持つかってことが大事なんだよ。》
 『僕は、まだ、全部の工程が大切だと思っちゃうんですけど…。』
 《例えば、ゲル作りなんて、どうでもいいけど、ゲルに目的のDNAを混ぜる時は、もう一回作るのめんどくさいから、緊張感を持たないとね。》
 『なるほど。』
 《全部に緊張感を持ってたら、それは無理。だから、重要なところで、緊張感を使うのがポイントだよ。》

 やり直しがきくようなことに、いちいち心配する必要はないし、それは、どんなことでもそうだ。

 そして、もう、やり直しが出来ず、絶対にどうすることも出来ないことは、仕方ないと受け入れる努力も、かなり大事だ。知りたくなくても、きちんと現実を知ることが大事だし、そこから、何か、今しかできないことを見つけて、そこに全力を投入していくことしか、人間には出来ない。

 その精神的作用が、普段いる世界では当たり前なモノでどうにかなる可能性があるなら、安いし、ほんのちょっとしたことで応援することができたりもする。

 『こうやって、色んな人に会った後、集まると、このメンツでも、安心するのが不思議だなーって思うんですよね。』
 「このメンツでも、、って、いっつも、一言余計なんだよ(笑)。」

 自分でも、どっちがホームかわからなくなってきたなら、それは、どっちもホームグラウンドになったってことだと思う。
 安心できる場所が2つ以上あることが、いつだって、俺の強みであり、弱みでもあった。もう、間違えないで、いくつかの場所を持っていることを、プラスにだけ作用させられるようにしたい。

 場所を繋げながら、今しかできないこと、は、なんだろうなぁ??
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気持ちに時間で投資しよう

2010-12-12 03:03:40 | Weblog
 頭の中でも、心の中でも、どんなに言葉が思いついたとしても、口に出さなきゃゼロだ。コンピュータの信号はゼロかイチか、強磁性はスピンがupかdownか、刺激は活動電位があるかないか、そして、言葉は発するか発さないか。
 だから、閾値(しきい値)は、低い方が得する。

 それと同じように、どんなに気持ちがあったとしても、手法が間違っていると、楽しさや言葉が得られないことが多い。得られるか得られないか、それが手法の高級度にかかっているという意味で、全か無かの法則。

 でも、何かをゼロからいきなり始める時は、手法は必ず最低レベルになってしまう。しかも、そういう状態の時は、突然の不幸に見舞われた緊急事態だったり、特別な事情があったりするはずなので、誰かに教えてもらうこともできないだろうし、そもそも誰に訊いたらイイのかわからないことが多い。
 だから、行動してるのに、なかなか結果が出ないし、楽しくもならない。ぶつかってぶつかって、ボロボロになって、それが楽しくなるなんて、遠い遠い先のことだから、イヤになってしまう。

 だからって、やめてしまったら、それまで。それこそ全か無かの法則で、何もしなかったのと同じになる。
 どんなことをするんでも、熟練者からすれば、始めたばかりはバカバカしいことを沢山してしまう。それは無駄にはならないのに、無駄だって言われたりして、落ち込み過ぎないようにしなきゃね。

 ネタばらしをすれば、今回も、トリックは「時間」。すべての格子が、隣り合う格子上のスピン同士の相互作用を感じ取り、全体として表れるまでには、いくらか時間がかかる。刺激が各神経細胞を伝わり、脳まで達するには、いくらか時間がかかる。
 それとまったく同じで、気持ちが正しくて大きくても、すぐに結果が表れるわけじゃない。すぐに、楽しくなるわけじゃない。めんどーだけど、手っ取り早い楽しさと違って、難しいからこそ楽しいし面白いのだ。
 自然科学と違う箇所としては、実際に結果に表れていても、気持ちがゼロのときもあるのだ。どんなに、スゴイ言葉を持っている人でも、気持ちがゼロだったり、自分勝手な気持ちばかりだとしたら、意味が無いし、何より、いつまでも楽しくならない。

 俺が、特別だなって思って、何かと口を出してしまいたくなるような人は、とにかく気持ちだけは半端ない。気持ちを変えるのは難しいけど、手法を変えるのは、それに比べれば簡単だから。即物的な部分に騙される時はあるけれど、そうじゃないところに価値を見出して、気持ちそのものに、時間で投資している。
 最低ラインをクリアして、その部分とは別に、自分が学ぶところがあったりすると、特別中の特別になっていく。

 当たり前のことだけど、どんなに手法を否定されても、完全に諦めたらダメだし、だからって、否定に聞く耳を持たなきゃだよね。なかなか出来ないけど。

 とにかく、気持ちのベクトル(大きさと方向性)だけが問題であって、あとは不器用だろうが、無駄な努力の仕方だろうが、変わる気が無かろうが、大丈夫。
 気持ちさえ正しい方向で大きければ、結果は後からついてくるもんで、楽しくもなってくる。
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何故そんなに頑張るの?

2010-12-11 02:28:53 | Weblog
 センター試験が近くなってきた。自分の生徒が何名か受けますが、これからを決定づける、、いや、本人達が、これからを大きく決定づけると勘違いしている、精神的に重要な試験が目の前にあると、むしろ、こっちが緊張する。
 まだ、現役生の子は良いんだけどね。。

 こういう状態のときこそ、ちょっとペンを止めて、もっと根本的なことにたちかえって欲しいと思う。忙しい時こそ、誰かと語りながら、「自分は何のために頑張っているのか?」を真剣に考える価値があるのだと思っている。
 この問いに、『みんなで楽しむため』とか『知識や思考という道具を使って誰かを助けるため』とか『みんなの役に立てるようになるため』とか、そういうことを、胸を張って言える方は、自分よりも一回り以上うえの世代の研究をしている人の中に、何人いるんだろう??

 知識は、いつだって、ひけらかされる。これは勉強に限らずだけど、『そんなことも知らねーのかよ。』『あんな言葉しか持って無いヤツ、ダメだろ』とか、そういうことのために知識を持つとするなら、それは宝の持ち腐れだ。
 だから、別サイドの勉強もきちんとしておかないといけない。誰でもイイから、誰かのために、とにかく出来ることをして、役に立とうとする、っていうのは、感情由来だけど、ある意味、すごく大切な勉強だし、そっちサイドが無いなら、勉強する意味なんて、俺は無いと思っている。

 ただ自分の事だけを考えて頑張り続けたなら、、今は言葉だけが残る、やがて、金だけが残るようになり、名誉が自分の周りにくっついてくるようになる。こんなにも、実質的な何かを望んでいたはずなのに、どうして、楽しくないのか??、っと、50歳以上になってから悩みたくはないから、だから、お金にならなくても、無駄な時間になっちゃっても、一生懸命誰かの役に立とうとすることを経験させてもらったり、誰かと駄弁りまくる、ってのは、とっても大事な勉強なのだと思う。
 そして、いつかきっと、学問を追求する意味を考える必要性に、本当の意味で気づき、本当に変われる。今よりもっと、言葉を得るなんてことが、どーでもイイ事になるはずなのだ。

 初めて自分で参考書を買ってきた頃の自分が、23歳の今の俺を見て、『あーなりたい!』と常に思われるように、多角的に、頑張ってみたいと思う。
 これだけを意識してれば、「今までの中で一番楽しかった頃は、いつだって今!」っと言い続けられるようになるのだと思う。

 なので、あえて、本人のみのスタイルでぶつからせて、一度失敗してもらうことも、長い時間を考えたら、必要?笑
 じゃないと、聞く耳を持たれない気がするし、スタイルの中に、何かを取り入れるなんて、不可能な気がして。
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『楽しい』を介在させられない系

2010-12-09 01:49:51 | Weblog
 絶対に切ってはならない最終ラインで、いかにディフェンスをするかは、どんなことでも重要になっていく。
 どこに最終ラインを設定するかはもちろんのこと、何が一番マズいことかも、きちんと方針を定め、チームプレイである場合には、それを共有しなければならない。

 重要性が上がれば上がるほど、なかなか1人では難しいなーっと思っていて、こういう部分での責任者の役を演じている人は、教科書通りとは言え、かなりの負担と疲労だと思う。
 ただ、全体として最終ラインを切らない努力だけをしていれば良いかってわけでもなくて、あまりにもそこを重要視しすぎると、どんどん最低ラインが低くなっていってしまうので、何か、一般性を戻すような役割も必要だ。

 それが、たとえ、少しリスクがあったとしても、その時間変化した後のことを考えると、それくらいのリスクなら、かなり安くて、仕方ないことも多いのだ。
 これが、多少、安心してできるのは、言うまでもなく、完璧に最低ラインを守ってくれている存在があるわけで、そこに迷惑をかけすぎないような、平衡値を見つけないとね。そして、それぞれ、全員について、お互いがお互いに対して、きちんと聞く耳をもって、定期的に、確認し合う必要があると思う。

 ひとりひとりが自分の音色の役割を理解して、全体としてベストな演奏をするというのは、重要度が高ければ高いほど、とても難しい。
 何でもない、どうでもいい、会話の中から信頼を築き上げ、さらに、聞く耳を持って深く話をし合うことが、そこに近づくヒントだと思う。

 っま、ごく普通のことだったら、そのリズムが狂ったり、不協和音になってしまったりする瞬間こそが、気を使わないはずなのに、変に気を使う感じになっちゃったりして、楽しいことなんだけどなー。
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「CP対称性の破れ」解析における決定スピード値上昇の理論構築

2010-12-08 00:04:15 | Weblog
 東京と大阪ではエスカレーターの歩く位置が左右逆転している。俺は東京人なので、右で歩くことに慣れている。だから、大阪だと混乱してしまって。。

 なぜ、東京と大阪で逆なのか?それは、考えても何が原因でそうなっているかはわからないし、マジョリティー過ぎるExtrinsicEffectが効きすぎていて、解析不可能。
 この系を作っているのは、同じ生物種であるヒトなわけだし、東京と大阪でそこまで環境が変わっているとは考えにくいので、こういう現象を「自発的対称性の破れ」と言う。

 本来、まったくもって差がないような二捨択一に対して、なぜか片一方に局在してしまうような現象「自発的対称性の破れ」は、double-well potentialの系や、東京と大阪に見られるエスカレーターで歩く人が左右に局在するということ以外にも、日常生活において、沢山存在する。
 そういうこと、ひとつひとつについて、いろいろな仮説を立てることは、わくわくするし、面白いけど、あんまりにもそれに一喜一憂していると、「CP対称性の破れ」のような、ちゃんと理由がわかっている対称性の破れに、解析力が追いつかない。

 思考のみに限定して話をするんでも、思考して行動するまでのスピードがモノを言うので、あまりに考えても無駄なことは、少なくとも、一喜一憂せずに、間違っているリスクが低い、明確な対称性の破れに着目して、思考&行動すると、OnTimeに適切な行動をとれる可能性が高まる。
 そこまでの、スピード込みでの解析力を、極限まで鍛えた上で、そこに感情のパラメータを自分の半分の中に再入力してみると、超上手くやってけるかも。

 『・・・のが、ほら、期待値が低い分、特じゃない?』
 「Kさんって、そんなところまで、したたかに考えてるんですね。笑」

 『確かに。』あんまり、そんなところまで考えない方がイイかもね。こうやって文字に出来るってことは、所詮、教科書の域を出てないってことなわけだし。
 でも、っま、考えちゃうわけで、、だったら、ここから自分に取り入れる中で、心に飲み込めたときに、本当の意味で、超上手くやっていけるのかもしれません。
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続 最高峰へのフリーパス

2010-12-07 00:29:10 | Weblog
 ひとつひとつ、着実に変えてきたことが、目に見えてわかる瞬間は嬉しい。
 何かの支配や運命じゃなくって、一歩一歩、確実に、自分の足で歩いてくると、ふとした部分で、思わぬCoincidenceに驚くことになる。

 やっと、ここまでやってきた。そりゃ、1ヶ月や2ヶ月じゃ変化はわからないけど、3年単位くらいで見てみると、かなりの変化をもって、ここまでやってきていることに気がつく。変えようと思って変えてきているのだ。
 変わることは必ずしもイイことじゃない。だけど、いつまでも行動せず、何も変わらないで、ドロドロしていくよりは、まだ、マシかなって。

 だから、今、多少、意に反することがあったとしても、その状況に臆すること無く、変化を導くような作用を、この瞬間にも、していきたいと思えるようになった。変化を起こそうとしているのに、なかなか起きないのは、ただ単に、タイムラグがあるからなのだ。1年くらいの。

 「とにかく頑張って本当に理解しよう、みたいな人いて、そういう人が、この何年か先に、必要になってくるかもしれないけど、私はそこまで待てないの。」
 『うーん、っま、そうかもねー。結果は早く欲しいもんね。』

 っと、その場限りで、相手に合わせて、手っ取り早い結果として得られるモノに重要性を置けなかった。今、ここまで変化してみて、やっぱりこの道で良かったと思うし、それ以上の何もかもを拾えそうな気がする。

 演技しても、嘘をついても、気疲れは表情に露呈する、少なくとも俺は。
 どの場所でも、もう少し、愛想笑いの回数を減らしてみないといけないかなと、ここ最近、思っている。
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見失わないためには

2010-12-06 04:39:43 | Weblog
 スゴイ人に対して、俺らは、いつだって、審査員になりがちだ。
 オリンピックを見れば「なーんだ4位かよ。」、卒研決めるときでも「あんな研究、絶対にしたくねー」、先輩でも上司でも「なんで、もっとこういう風なことができないのかなー」とか、思ったりする。
 いざ自分がその立場になってみると、必ず、思わぬところで苦戦する。すごい言葉を持っている人は、やっぱり、見えないところで、本当にスゴイし、そういう意味では、どんな人でも、尊敬できる部分が隠されているのだ。

 【でも、○○大学なら、すごくないですか??】
 『えー、まぁ、そうだけど、○浪でしょー。』
 【でもでも、すごいじゃないですかー。】
 『まぁ、そういう風に思えるってことは、浪人して、あなたもひとつ、大人になってしまったというか。。』

 痛い想いをして、やっと、審査員から選手になれたのだ。

 『それは一個大事だけど、もう一歩踏み出さないと。』
 【というと、どういうことですか?】
 『俺のこと(1浪してること)を心からバカにしてた、あの頃を思い出して、その想いをとっておかないとっ!調子のってた意味が無いじゃん。』

 自分が視聴者、傍観者、審査員、批評家、であることも同時に受け入れて、さらに現役選手になることが大事なコトだと思う。
 じゃないと、自分のことについて、本当の意味で、批判的になることはできない。非常に迷惑な人間の気質だけど、他人が批判できて、初めて、自分が批判できる。
 だから、何もできず、審査員の気持ちだけを持ってた頃の自分を「俺はバカだったんだ!」って全て捨てるのではなく、あの頃の「何でもできるぜ!」って気持ちを取っておくことが、とっても大事なんだと思う。

 今、俺は、そういった意味では幸せだ。自分で批判しなくても、自分の生徒達が、間接的に批判してくれるからだ。しかも、あの頃の自分よりも数段に聡明な生徒たちが、振る舞いの中で、自分よりも厳しく判断してくれる。
 そして、周りの人達も、俺のやってること、俺の持ってる言葉、に価値があるかどうかを、いちいち指摘してくれる。相手の持ってる言葉は関係ない。研究に限るなら、他の分野の人はもちろんのこと、文系の人ももちろんそうだし、アカデミックにまったく興味の無い人の意見にも、聞く耳を持つことで、助かっている。見失わないで済む。
 それは、目上の人から言われること以上に大事なことだと思ってるし、イラっときても、きちんと受け止めなきゃいけない。

 目上の人からの評価も、もちろん大切だけど、それと同等かそれよりも、何もできない中高生からの評価が大事なのだ。
 なぜなら、あの頃の自分が、そこには乗り移っていて、

 『未来の俺は、ちゃんと、やってんのか!?』

 と応援してくれるから。
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そのシーザーサラダ取り分けるよー

2010-12-05 03:52:19 | Weblog
 あんまりにも、「どーせこうやればイイんでしょ?」みたいな行動をされると、イラっと来る。

 例えば、飲み会とかで、何かを取り分けるときとか、「ほら。こーやって取り分けてあげれば点数アップでしょー?」みたいな顔されると逆に点数が下がる。いやいや、もー、おいとけって。だいたい、そういうのは、俺の仕事だっつーの。笑
 なんか仕事するんでも、とにかく挨拶すればイイ、みたいなのも嫌い。「お疲れ様ですっ!」みたいなんも『(疲れてねーし。でも、笑顔で)お疲れ様です!』みたいな。空気で慣れちゃって自然に、ってのは全然イイんだけど、なんか「ほら、言ってるでしょ?ちゃんとしてるでしょ?」みたいな心が表面に表れちゃってるのが好きじゃないかも。

 ただ、それ自体にあんまり慣れてなくて、「普通はこうやればイイのかなー」みたいなんは、すごく好きになれる。
 変に思われないように、全体的に変だなーってならないように、これで大丈夫かな?、ってのは、すごく大事な気持ちだし、こういう初心は、ちゃんと持ってなきゃいけないよね。
 そこからオリジナリティを出すときも、チラっと不安な本当の気持ちが垣間見れる瞬間は、応援したくなる。

 「こうやればイイんでしょ?」っと「こうやればイイのかなー」。だいぶ違うよね。
 やっぱり、語尾に、心が表れる率が高いのだと思います。
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ホンモノを目指して

2010-12-04 02:07:34 | Weblog
 どんなに相手が強力なパワーを持っていても、こっちの好きなモノが汚されるのは許せない。
 その可能性が1%でもあるなら、どんなに俺ではどうにもできなくても、全力を尽くしたいし、諦めて何もしないより、それで負けてしまうなら、まだ納得できるかな、って思う。

 場所が持っている言葉に、どれだけ依存しているかが分かる瞬間かもしれない。
 沢山の言葉を持っている世間の評価が高い人間の集団なんかよりも、全然強くてすごくて怖い、たったひとり、そいつがいるだけで、何百人単位で空気が変わることがある、ってことを、目の当たりにする機会は少ないのだ。
 一番の目標であり、視認出来た、この世界の2つの希望のカケラの1人は、近くにいすぎるからこそ、脅威であることを忘れちゃいけない。

 この2つに並べるだけの、頭も心も行動も、全て含む意味での、本当の意味での実力を、きちんと俺もつけて、参戦できたなら、それこそ、どんなにスゴイ言葉を持ってるヤツらにも負けないし、年齢も超えて、どの世代にも、実質的にも勝つことができると断言できる。

 『まぁ、そうやって不条理なこと言われるほうが、やる気にはなるんですけど。』
 「だって、先生がそういうこと言っちゃダメでしょ?学生同士なら、まだ何くそ、ってなるかもだけど、、だって、下手したら、一生勝てないじゃん。」

 もう、すでに、精神的には、かなりの大差で勝ってると自負してるんですけどね。

 ヤツらに対して、あと俺が明らかに足りないのは、「突き詰めること」と「多角的に動くこと」の2つを、Self-Consistentに解き続けるってこと。これは絶対に必要。
 後は…。

 さて、明日は、宇宙生物学上の発見で話題になってる、リンがヒ素に置き換わってる細菌の論文(http://www.sciencemag.org/content/early/2010/12/01/science.1197258)でも読んでみるかな。マジで面白そうだし。
 こういう実質的に意味の無いように見えることも、ホンモノに一歩近づくための、頑張ること、の一種なんだと信じて。。
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歩み寄れないクダラナイ理由

2010-12-03 01:36:13 | Weblog
 ある時点では何でもないつもりでも、時間が経つと、なんてヒドイことをしてしまったんだろう、ってことは、よくある。
 時間が動いていくことを考慮して行動する、ってことはすごく大事だよね。

 何か発言するときでも、それを言うことによって、引っ込みがつかなくなっちゃったりして、つい、強がりを言っちゃったり、そこまで思ってない教科書通りの解答を言っちゃったり、悪ぶり過ぎてみたり。。
 後から引っ込みがつかなくなる、っていう時間変化を読めてないから、そうなっちゃう。
 相手のそういう部分もきちんと解析できるようになっていきたいし、俺自身は、そういう行為を強みにしていきたい。嘘にならないようにするために頑張る、って、結構パワーが出せるもんだ。

 それ以外に、特に、時間変化を考えるべきは、「理想」についてだ。理想には、頭での理想(=世間体やミテクレに近い)、と、心での理想(=情熱や率直な感情そのものに近い)、が存在している。
 この2つの理想が相反しているうちは、願いは決して叶わない。集合のカタチはいつまでたっても共通にはならないけど、AND(かつ)の部分を、出来る限り広げていく努力をしなきゃね。

 2つの理想のAND演算の正解を広げていく起爆剤は、すべて、とにかくあたってみる、って部分に集約されると思う。
 現実を見る中で、頭の理想が心に近づいていき、現実を体感する中で、心の理想が頭に近づいていく。

 だから、ろくに行動もしないでいると、頭での理想と心での理想はかけ離れたままになってしまう。そして、頭がイイ奴って、バッカだなー、っと言われるようになる。
 そもそも頭での理想なんて考えられるくらい賢いから、何も行動できないんだよ、ってね。

 どちらがいいのかは、すごく微妙だ。
 賢すぎると何もできなくなりがちだし、だからといって、実質的に負けまくるのも如何なものかと。
 心での理想で飛び込んでみると、案外、それが賢い選択だったりすることも多い。自分にはない部分に興味を持つことが、それこそ時間変化で考えてみたときに、結局は自分にとっても誰かにとっても面白いのかもしれないし。

 『んー、だから、そんなこともできないのかよ、ってイラつくんだけど、でも、楽しむとか、多角的に行動するとか、俺が強い(と自分で思っている)部分も、同時に持っていたとしたら、むしろ、惹かれないのかもしれないなー。』
 「っていうかさ、なんで、そんなに理想が高いわけ??」

 理想が高いんじゃなくて、理想がいっぱいあるんだと思うですけど。。

 『そーぉ?別にそこまで高くないと思うんだけど?』
 「いやいや、だって、…で、高いでしょ?!(笑)」
 『だね(笑)。高い高い。』

 よーわ、自分と同じようなスタイルの環境を選ぶと居心地は良いかもしれないけど、自分と反対側のスタイルを持った環境をセッティングしてみたら、色々な視野が広がりやすくなって、時間変化を考えてみた時に、より楽しくなるんだと思うのです。
 そんなんを繰り返したら、いっぱいある頭での理想と心での理想も、凝縮されていって、小さくまとまるかなー、って。

 それを表現するときは、、

 『うん、あなたはー、割と、問題数を沢山こなせばイイって思ってると思うんだけど、そうじゃなくって、1つの問題からいかに多くのことを学び取ってやるか?ってのも重要だよ。』
 【あー、そうですねー。】
 『俺は、逆に、問題数を沢山こなす、って部分が足りないから~、それは今もね、だから、そっち側の視点を取り入れなきゃいけないと思ってるんだけど。。あなたは俺とは逆で、問題数、とにかく多く解き過ぎてるかも、って部分の視点を一個追加してみたら?』

 みたいにアドバイスすると、ムカつかれないのだ。たぶん、ね。
 対等な立ち位置でそれをするのは、今までの発言の蓄積で、引っ込みがつかなくなってるところがあるから、難しいんだけど。
 クダラナイんだけど、クダラナクナイ。

 これを超えられたときに、もっとパワーが出せて、もっと強くなれるんだと思います。
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スケジュールン2011

2010-12-02 00:59:24 | Weblog
 今日、2011年用の手帳を買った。手帳ずっと持ってなかったんだけど、最近の慌ただしさで、ケータイだと限界が来てしまったのだ。

 そういえば、中学の頃、意味も無く、手帳を持ってたなー。

 中学2年生の今の季節、ミスタードーナッツで、友達が10ポイント集めてオリジナルグッズの「スケジュールン2001」をゲットしたので、俺も数日で手に入れるため、この悪友と、ミスドに毎日行った期間があった。
 それが習慣化して、よく汁そばとエンゼルクリームを食べるようになったんだっけ。。今じゃ、あんまミスドに行かないけど。
 まだ、友達と飲食店に入ることそのものが楽しい頃で、今以上に、どうでもいい話をだらだらしていた気がする。

 スケジュールン2001、俺のはちょっと淡い青色の表紙カバーで、まだケータイも持ってなかった頃だから、なんだか世界が広がったような気分になったのを、とてもよく覚えている。
 よくよく考えてみれば、中学生なんて、一番、手帳が要らない時期だったかもしれない。無駄に、色んな予定を書いて、予定を埋めるための予定とか、たぶん、作ってたと思う(笑)。

 学校で、隣の席の女の子に「そんなの要らないよー。手帳なんてケータイに入ってるじゃん。ほらー。」と言われて『でも、俺、ケータイ持ってないから。』て言うと「だからケータイ持てばイイんじゃない?!」みたいなん言われて、イライラしたりして。

 っで、ウケたのが、その子、一週間もしないうちに、手帳買ってやんの(笑)。もー、中学生、ってなんなんっ!!

 今や、『邪魔なもんが一個増えちゃったなぁ』とか『無駄な出費だな…』とか思ってる。
 手帳1つで大きくなれた頃に少しだけ戻りたいと思うけど、今の方が、何倍か楽しいから、やっぱイイや。

 でも、あの頃のアホさ加減を忘れたくもないからか、今日買った手帳も、知らず知らずのうちに、あの時と同じ、表紙カバーが淡い青色のものを選んでいたりする。
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運動音痴なアクティヴフェーズ

2010-12-01 01:50:57 | Weblog
 さっきのロンドンハーツめちゃめちゃ面白かったなー。
 田村淳のあそこまで走り下手な映像があると、元気がもらえるんだよね、個人的に。

 俺は、めちゃくちゃ運動音痴なのです。俺は、運動できない分、他のところにパラメータがありすぎるので、まぁ、仕方ないっちゃ仕方ないんですけど、だけど、ほら、運動音痴だと、上からモノ言えない、みたいなところあるじゃないですか、小学生の頃から。
 でも、あれ観ると、あ、俺も上からずばずばモノ言って良いんだー、いじってイイんだー、アクティヴフェーズで良いんだー、ってなれて、本当に元気がもらえます。

 あれくらいのリーダーシップを取れる人間が、あんな感じでもアリだってことを伝える番組。。こりゃ、PTAがいくら反対しても、小学生こそ観なきゃいけない番組かもしれませんね(笑)。
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