瀬崎祐の本棚

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apxn(アルケー) 17号 (2018/02) 愛知

2018-03-03 09:45:37 | ローマ字で始まる詩誌
 「西の方の教会」宇佐見孝二は、白骨化して見つけられた死体との対話である。彼は大学野球の花形だったりもしたのだが、女房と別れて、アルコールに溺れて73歳で亡くなったのだ。部屋の窓からは教会の十字架が見え、それは「夕日にひかって」「ときどき/こっちに刺さってくる」という。

   -叔父さん、西の方にある、あの
   けだるい午後のみずうみを渡っていったのは
   あなたですか、
   それとも鳥、ですか

 どんな無名の人にもその人を主人公とした物語があるという当たり前のことを、あらためて思わされる。上質な抒情詩であった。 

 寺尾進は「断片としての その2」として2編(おそらくそうのように捉えていいのだろう)を載せている。「母型論」(正しくは作品の最初の一行で傍線が施されている)では、夕焼けが赤くなってもお母さんが帰ってこないのだ。料理がうまくないお祖母(ばあ)さんが夕ご飯のしたくをして、

   なにもないような夜があたりをつつむと
   ぼくは物思いをはじめる
   姉さんはずっと勉強をしている
   ぼくが死について考えていることを
   あたりの誰も知らない

 母が不在であるということは、話者の世界のどこかが不完全であるようなことなのだろう。不穏な夕焼けから漆黒の夜への情景が浮かんでくる作品。

 前号までこの詩誌に連載されていた中原秀雪の評論「モダニズムの遠景」は、昨年暮れに評論集としてまとめられている。そこでは、我が国の現代詩が混迷を深めているのは「「現実」と「言葉」のバランスが取りにくくなっているためかも知れない」として、名古屋に何らかのゆかりを持つ丸山薫、春山行夫、金子光晴の3人を取り上げていた。しっかりとした資料考察からそれぞれの作品が読み解かれていた。今号にも「現代詩の源流を探して」の副題で補遺が載せられている。
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