みちのくの山野草

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賢治「自宅謹慎」の裏付け

2016-06-07 09:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、先に検証できた
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家で自宅謹慎していた。
だが、これは、
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったのであり、賢治は重病だということにして実家にて「自宅謹慎」していたというのが「下根子桜撤退」の真相だった。
と言い換えてもよい。そしてこの仮説を裏付けてくれる最たるものが、澤里宛書簡(243)の中の「演習」だったが、その他にもこの仮説を裏付けてくれるものが幾つかあるのでそれらについて以下に述べてみたい。

 まずその一つ目としては、
(1) もしこの時期に賢治が病気になって「下根子桜」から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していない。
ということがある。賢治と親交があって互いにしょっちゅう往き来していて、しかも賢治に関連したことを沢山書き残しているこれらの3人が、揃いもそろって賢治を見舞ったということを一言も公に書き残していないということである。

 そしてその二つ目は、
(2) いくら丁寧に調べてみても、賢治が昭和3年8月に実家に戻ってから少なくとも「陸軍大演習」が終わるころまでの間に、家族や担当医以外の者で直に賢治に会えた人物がいたということの公の証言も記述も『新校本年譜』等を始めとして一切見つからない。
ということである。

 そして、これらの二項目に対しての一つの解釈の仕方を教えてくれるのが、豊沢町にまでわざわざ見舞いに行ったが結局面会できなかったという菊池武雄の次のエピソードがその三つ目で、
(3) 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない…その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
である。ちなみにこのエピソードの内容は賢治が亡くなった翌年に、『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中でいち早く公にされていたものでもある。
 するとあることに気付く。それは、上記3人と似た様な賢治との関係にあった菊池は賢治のところへ見舞いに行ったということを公に書き残していたというのに、この3人は見舞いに行ったということを揃いもそろって書き残していない<*1>という違いがあることにである。ではそれはどこから来るのだろうか。直ぐに思い付くことは、当時菊池は東京に住んでいたが、その他の3人は地元花巻に住んでいたという違いである。そこで、そのことは何を意味するのだろうかということに少しく思い巡らしてみると、地元の3人は賢治が「自宅謹慎」していたことを知っていたが、既に大正14年に上京して図画の教師をしていた東京在住の菊池はその事情を知らなかったからであるという蓋然性が高いことに気付く。つまり、菊池は地元に住んでいなかったので賢治の「自宅謹慎」は知らなかったから見舞いに行こうとしたのだが、地元の他の3人はもちろんそれを知っていたから、建前上謹慎中の賢治を見舞いに行くことや見舞いに行ったとしてもそれを公にはできなかった蓋然性が高いということにである。言い方を換えれば、折角菊池が自宅まで見舞いに行ったが賢治に見えることができなかったのは賢治の「病状よくなく面会できなかった」というよりは、もともと謹慎中の身だから会えなかったか、あるいはもし見えたとしたならば賢治はそれ程重篤ではなかったことを菊池から見抜かれることを恐れたからである、という蓋然性が低くないということである。

 そして四つ目が、当時の賢治はそれ程重篤ではなかったということを示唆している佐藤隆房の次の追想、
(4)  昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
            <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行版)269p~>
がある。なんと、賢治の実質的な主治医とも云われている佐藤隆房が、実家に戻った賢治にはそれほど熱があったわけではなかったと証言していることになる。しかも、その佐藤が、「両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました」という表現をしていることはいささか奇妙なことだ。どうしてこの部分を素直に「両側の肺浸潤で病臥する身となりました」と表現せずに、なぜわざわざ「という診断」という文言を付したのだろうか。このような言い回しでは逆に、賢治はたいした熱があった訳ではないが、主治医佐藤長松医師に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにした、という虞までも生じてくる。

 最後に五つ目で、しかも佐藤隆房は『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行版)の中の「八七 發病」では、  
(5)  賢治さんは…(筆者略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聽かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。
            <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~>
と述べていることである。
 なんと、医者である佐藤隆房が
 当時の賢治は「たいした発熱があるというわけではありませんでした」とか「傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていた。
と証言していると言えるから、この時の賢治の療養の仕方はなんとも奇妙で不自然だ。

 つまるところ、当時の賢治は「遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す」と云われてきたのだが、それを裏付ける証言等は実は見つからない。逆に、今まで私が検証してきたこととこれらの(1)~(5)とを併せて考えれば、当時実家に戻っていた賢治はそれほど重篤ではなかったと判断できるし、一方では、実家に戻って病臥していたと云われていた賢治に家族や医者以外で直接見えたことを公にしていた人物は誰一人いなかったのである。ではこのような自宅での不自然な過ごし方を普通世間一般では何と言うか。まさに、それは「自宅謹慎」と言うのではなかろうか。

<*1:註> もしこの3人が見舞いに行っていなかったとすればこの3人は揃いもそろって薄情な人間になってしまうが、そんなことがないことは自明のことだ。

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。







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