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農繁期の稲作指導(『宮澤賢治研究』(草野、S14)より)

2016-06-15 08:30:00 | 賢治の稲作指導
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 それでは今回は、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということと関連しそうな記述を『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)から探してみたい。

《『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)》所収の
 ・「測候所と宮澤君(福井規矩三)」には、
 昔から岩手縣では旱魃に凶作なしといふて、多雨冷溫の時は凶作が多いが、旱天には凶作がない。明治四十一年にも旱天であつた。あの君としては、水不足が氣象の方から、どういふ變化を示すものであるといふことを専門家から聽き、盛岡測候所の記錄を調べて、どういふ對策を樹てたらよいかといふことに頭を惱まされたことと思ふ。七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた
とある。
 となれば、この「あの君としては……そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた」はまさしく、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということの裏付けの一つになり得る。ところが、「七月の末の雨の降り樣について…(略)…いろいろと話しまた調べて歸られた」の前半部分「七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた」については何年の出来事か明確でないし、後半部分の「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」については以前実証したように、福井の事実誤認であるからこの福井の証言はそのまま額面通り受けとるわけにはいかない。

 ・「宮澤賢治(藤原嘉藤治)」には、
 農學校の教師をやめて北上河畔に農場を開いて盛んに耕作し、詩と童話とを書き乍ら自炊生活をやつてゐた頃の事である……
ただしこれは『宮澤賢治追悼号』のものと同じである。

 ・「追憶記(森惣一)」には、
 その村の一軒家に居た宮澤さんは、羅須地人協會を組織し、村人を集めて、農業を基本にした農民文化運動に着手して居た。「宮澤の肥料學」と云へば、岩手縣の農事方面の専門家がみなある尊敬を以て觀て居た。その肥料講演會を無料で開くために、ゴム靴をはいて東奔西走した。
ただしこれも『宮澤賢治追悼号』のものと同じである。

 ・「ありし日の思ひ出(平来作)」には、
 又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した爲、先生を招き色々と駆除豫防法などを教へられた事がある。
 先生は先に立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を壓して見たり又稻株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病氣に對しての方法などわかり易くおはなしゝて下さつた。
とあり、まさにこれが探していた賢治の農繁期の稲作指導に当たるから、このことを裏付けるものが今後見つかればこれは典型的な具体事例となる。なお、『新校本年譜』はこれは昭和3年のことであるとしているが、実はこれはあくまでも同年譜の推定であり、それは確たる裏付けがあるわけでもなく、検証されたものでもないことに注意を要する。

 ・「先生と私達(伊藤克己)」には、
 春になつて先生は町の下町と云ふ處の今の額緣屋の間口一間ばかりの所を借りて農事相談所を開いた。誰でも事由に入れて、無料で相談に應じてくれたのである。そして時に應じてその人々の田や畠や果樹を自分で見て歩いたのである。そしてそういふ日は多くなつてずつと續けてきたが先生の軆は過勞に蝕まれてきたのである。
とあるので、この内の「時に應じてその人々の田や畠や果樹を自分で見て歩いた」も農繁期の稲作指導になり得るだろうが、抽象的なので資料としてはちょっと弱そうだ。

 ・「石鳥谷肥料相談所の思ひ出(菊池信一)」には、
 その年(昭和3年:投稿者註)は恐ろしく天候不順であった。先生はとうに現在を見越して、陸羽一三二号種を極力勸められ、主としてそれによつて設計されたが、その人達は他所の減収どころか大抵二割方の增収を得て、年末には先生へ餅を搗いて運ぶとか云つてみんな嬉しがつてゐた。たゞだそれをきかずに、又品種に対する肥料の参酌せずに亀の尾一號などを作られた人々は若干倒伏した樣だつた。それは極めて少數だつたが、他人を決して憾まなかつた先生は大いに氣に留められ、暑い日盛りを幾度となくそれらの稻田を見廻られた
とある。この追想の中の「暑い日盛りを幾度となくそれらの稻田を見廻られた」という賢治の稲作指導は、時と場所も明らかになっているだけに、賢治は昭和3年の夏に石鳥谷へ何度か出掛けて行って、農繁期の稲作指導をしていたという蓋然性が極めて高い、ということが導かれる。後はこれを裏付けるものがあれば申し分がないものとなる。

 よって、同書からは、「羅須地人協会時代」の賢治が農民たちに対しての農繁期の稲作指導のために東奔西走したというところまでは言えないにしても、隣の石鳥谷(当時であれば好地村等)で奔走していたであろうことは十分に窺えた。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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