みちのくの山野草

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農繁期の稲作指導(『宮澤賢治』(佐藤著、S17)等より)

2016-06-16 09:00:00 | 賢治の稲作指導
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 それでは、賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということと関連しそうな記述を、『イーハトーヴォ』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)から探してみたい。
《『イーハトーヴォ第六号』(昭和15年4月)》
 ・「獨語随想(高橋慶吾)」には、
 (下根子桜で)先生は主に畑に野菜或は草花等を植えられ、又花壇作り依頼されて歩かれました。冬の初頃から町の店先を借りて、入口の硝子に肥料設計云々の告示をなし、肥料配合のご相談に應じられて居られました。
《『イーハトーヴォ第十二号』(昭和15年11月)》
 ・「賢治素描(八)(関登久也)」には、
 賢治氏は指導のためよく農村を歩かれました。私の知つてゐる湯口村の先の村長遊座俊次郎氏は私の家でよくこんな事を話しました。
 宮澤先生もいゝけれども、あんまり堅くて困る。村で講演をお願ひしてお晝になり飯をを上げやうとすると、ご厚意だけで澤山ですと云つてさつさつと逃げられるのはこれは一番困る。
ということがあったくらいなもので、これらからは農繁期の稲作指導があったということは具体的には殆ど窺えないし、その他には殆ど何も見つからなかった。

 では今度は『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年)から探してみたい。
 ・「六二 羅須地人協会」には、
 まづ自ら農耕に従事し、県内数個所に無料肥料設計相談所を設け、地方農村に求められて農事講演を行ひました。それから農学校卒業生、岩手県国民高等学校卒業生、近在篤農地人達を以てこの協会を組織して、農事講座を開き、また会員同志が、めいめい好みの農民工芸を創り、そしてお互ひそれを交換し合ひ、過分のものは他に販売をしよう、といふことを計画しました。
とあり、「地方農村に求められて農事講演を行ひました」は探していたことには当たる可能性はあるが、今一つ具体性に欠ける。
 ・「七九 肥料設計(一)」には、
 五日間ほどでその相談所(塚の根肥料相談所:投稿者註)を閉ぢましたが、苗が水田に移されて大分経つた頃、賢治さんはこの地方の稲草の状況を視察に来たらしく、ひよつこり教え子の菊田の家に立ち寄りました。
「この辺を済まないが案内してください。」
 焦げ穴のあるヅボンにゴム靴を履いた賢治さんは、行く先々でゴム靴を脱いで田の中に入り、手をつゝこんで水温地中温を調べ、茎をたはめて稲の強さを計り、その欠点を指摘し、処理すべきことをいひ付けて行きます。その後は九月まで一人で来て、その地方の田を幾回見廻つたかは判りません。大変な責任をもつたものです。
とあった。まさにこの記述内容は、人物も時期そして場所もはっきりしているからなおのこと、探していた賢治の農繁期の稲作指導にふさわしいものであり、前回私は、「このことを裏付けるものが今後見つかればこれは典型的な具体事例となる」と述べていたこともあり、これで一安心したいのだが、実はこの記述内容がそのまま事実であったとは受け容れ難いので注意を要する。それは、この塚の根肥料相談所が開かれたのは昭和3年だから、その年の「その後は九月まで一人で来て、その地方の田を幾回見廻つたかは判りません。」ということは、なかなか難しいことだったからである(同年6月には20日間弱ほど滞京、帰花後はしばらくぼんやりしていたし、8月10日以降は病臥していたから、「その後は九月まで一人で来て、その地方の田を幾回も見廻つた」ということは普通はなかなか困難だったはずだ)。よって、現段階ではこのことに関しては探し求めていた具体事例だとはまだ言い切れない。
 ・「八〇 肥料設計(二)」には、
 昭和三年は岩手県の大凶作の年です。然るに石鳥谷地方は外の地方の凶作に引かへて、作があまりにも良かつたものだから、村の人々はすつかり喜んで、「お餅を搗いて宮澤先生に届けなくつちやならないな。」といふことになりました。…(投稿者略)…
 処でこんな話は凶年の例外で、他の一般地方は賢治さんの設計通りの肥料でも凶作をまぬかれかねたのでした。天候不順に備へて、賢治さんは陸羽一三二号種の播種をすゝめてたのでしたが、他の種を選んだ人たちには特に損害が目立ちました。いづれにしても、その不成績は天候の為であることが当然以上の当然の話で、その責任が賢治さんにある筈はないのです。
とあるので、特に「昭和三年は岩手県の大凶作の年です。然るに石鳥谷地方は外の地方の凶作に引かへて、作があまりにも良かつたものだから」という文脈からは、賢治の肥料設計が優れていたから「作があまりにも良かつた」と思ってしまうが、少なくとも当時の新聞報道による限りは、「昭和三年は岩手県の大凶作」は全くの事実誤認であり、昭和三年の夏はたしかに稗貫は旱魃ではあったが、稗貫の作柄は平年作以上であったと判断できる。
 よって、賢治の肥料設計や稲作指導に従ったが故に、石鳥谷地方(稗貫郡にある)は外の地方のと違って「作があまりにも良かつた」とは言い切れない。ここは、石鳥谷地方において賢治が肥料設計した田圃とそうでなかった田圃の作柄を比べてみなければ何とも言えないことである。しかも、いみじくも「その不成績は天候の為であることが当然以上の当然の話で」とあるように、いかな賢治の肥料設計や稲作指導に従ったとしても、天候不順があったならば如何ともしがたいのが実態であったであろう。そしてもちろん、同じ論理で「その好成績は天候の為であることが当然以上の当然の話で」ということもできるので、「羅須地人協会時代」全般に亘って農民たちに対して賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということを示す確たる具体事例は現段階ではまだ見つけることができない。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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