宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」

2016年01月14日 | 『地上の賢治』
《賢治研究のさらなる発展のために》
 時どき、 賢治に関する論考等において、
・私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
・昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
・一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
というような記述をしている賢治研究家に出遭う。しかし、今まで少しく賢治のことを調べてきた限りにおいては、これらの記述「一九二七年の冷温多雨の夏」「昭和二年は…未曾有の大凶作」「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏」が歴史的事実であったなどということは私には直ぐでなくても浮かんでこない。とはいえ、これらはいずれもその典拠を明らかにしていないので確かなことは言えない。

 しかしながら、いわゆる「旧校本年譜」の昭和2年7月19日の項に、
 福井規矩三の「測候所と宮澤君」によると、
「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であった。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて歸られた。」
という。
という記載があるし、相変わらず『新校本年譜』になってもその記載内容は変わっていないから、この記述を上記の賢治研究家達はそのまま引用・援用したのかもしれない。
 そして、たしかに福井は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「測候所と宮澤君」の中で、
 七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
            <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)316p~>
と述べている。
 しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから前掲の賢治研究家たちはその証言をそのま鵜呑みして前掲のことを論じていたか、あるいはその孫引きである可能性が大きいと思われる。その他にはあれこれ調べてみても、それを否定するような客観的な資料は沢山見つかるものの福井の証言を裏付けるような客観的な資料は見つからないからである。

 具体的には、私が調べた限りでは、福井の証言「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」は、当時の新聞報道専門家の論文、そしてその福井自身発行の『岩手県気象年報』等によれば全くの事実誤認であり、昭和2年は「非常な寒い氣候が續いて」いたわけでもないし、少なくとも昭和2年の米の作柄は平年作以上であったこともわかるのである。
 ちなみに、例えばその『岩手県気象年報』に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温を以下にグラフ化してみると、
《表1》

《表2》

       <『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
となるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えないことはその前後の年のデータを比べてみると、昭和2年の場合がその中では一番気温が高く、しかも大正15年も昭和3年も「非常な寒い氣候が續いて」ということなどなかったことも周知のことだから、先の福井の証言は間違いであることが判る。言い換えれば、福井自身発行の著書が福井の先の証言は彼の単なる記憶違いの間違いであったことを証明しているのである。たしかに人情としては、かつて盛岡測候所の所長だった福井の追想だから信じたくもなるが、人間の記憶はあまり当てにならないということであろう。

 結局、昭和2年は「冷温多雨の夏」でもなければ「未曾有の大凶作」でもなく、福井の証言「昭和二年は非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」は全くの事実誤認であり、間違いであったのである。そして、それは調べようとすれば素人の私でも調べることができるものだった。
 まさに、石井学部長が「情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう」と危惧したとおりのことがここでもまた起こっていたということになるのではなかろうか。

 今回のことは、やはり学問とは「疑うことから始まる」ということの一つの証左であり、そうしなければ、つまり「鵜呑みにしてしまう」と結局は「機能不全に陥ってしまう」ということの典型的な教訓となっているようだ。

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