みちのくの山野草

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農繁期の稲作指導(初期資料等より)

2016-06-14 08:30:00 | 賢治の稲作指導
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 まさか『新校本年譜』に、「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月の間にたったあれだけの記述しかなかったとは思いもしなかった。ということであれば、私の先の「認識」は一体どこから来たものだったのだろうか。こうなったならば、賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということと関連しそうな記述等を『新校本年譜』以外の図書等から、時間軸に沿って拾い出してみることにしたい。

 それではまずは、今回は初期資料等からそれらを探してみたい。
《『宮澤賢治追悼号』(草野心平編、昭和9年)》所収の
 ・「宮澤賢治(藤原嘉藤治)」には、
 農學校の教師をやめて北上河畔に農場を開いて盛んに耕作し、詩と童話とを書き乍ら自炊生活をやつてゐた頃の事である……
 ・「追憶記(森惣一)」には、
 その村の一軒家に居た宮澤さんは、羅須地人協會を組織し、村人を集めて、農業を基本にした農民文化運動に着手して居た。「宮澤の肥料學」と云へば、岩手縣の農事方面の専門家がみなある尊敬を以て觀て居た。その肥料講演會を無料で開くために、ゴム靴をはいて東奔西走した。
とあり、「その肥料講演會を無料で開くために、ゴム靴をはいて東奔西走した」とはあったからこれはその例の一つかなと思えたのだが、これがずばり農繁期の稲作指導のための奔走だったとは言えなさそうだ。

《『宮澤賢治研究第』(草野心平編》
 ・「同 第一号」(昭和10年4月)
 ・「同 第二号」(昭和10年6月) 
 ・「同 第三号」(昭和10年8月)
 ・「同 第四号」(昭和10年10月) 
 ・「同 5・6号」(昭和11年12月)
ただしこれらの中には、取りた立て関連するほどのものは見つからなかった。

《『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年)》
 故あつてそこ(花巻農学校:投稿者註)を辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協會』といふのを開設して、自ら農耕に從った。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の硏究に餘念なく、精根の限りを盡くされた。そして日曜や公休日には、農學校の卒業生や近隣の靑年を集めて、農村問題や肥料の話などをしながら、時にはレコードやセロを聽かせて、時には自作の詩を發表した。
             <同書一頁より>
とある。

 したがって、これらの初期資料等による限りは、「羅須地人協会時代」の賢治が農民たちに対しての農繁期の稲作指導のために東奔西走したというところまではまだ断定できなさそうだ。それは、これらの資料からは、賢治が「羅須地人協会時代」全般に亘って農民たちに対して稲作指導のために東奔西走していたということまで窺わせるものは見つからない、と判断する方が合理的かなと思えるからだ。

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 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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