みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(花巻農学校の辞め方、#3)

2017-07-16 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 それにしても、賢治の衝動的な年度末の切羽詰まったような退職、そして年度が明けてからの、辞めてしまった農学校にわざわざ赴いて行って「私は、今後この学校には来ません」と書いた紙を貼ったという行為は、まるで、何かに対する〝当て付け〟であったととられかねないという気さえもしてきた。どうも花巻農学校を辞め方が不自然であり、不思議でならない。

 そこで次に、賢治が花巻農学校を辞めることに関連する証言や書簡などを大正15年度以前について時系列に沿って簡潔に表して並べてみながら、その辺りを少し探ってみたい。
◇大正14年2月頃:教え子松田浩一の証言
 先生は「教師はじめじめしていやだ。おれはやめることだが、家から逃げて桜さ移るから皆遊びにきてくれ」と言っていた。
◇大正14年4月13日付杉山芳松宛書簡
 わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。
◇大正14年6月25日付保阪嘉内宛書簡
 来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます
◇大正14年6月27日付齋藤貞一宛書簡
 わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります
◇大正14年12月1日付宮澤清六宛書簡
 この頃畠山校長が転任して新しい校長が来たり私も義理でやめなければならなくなったりいろいろごたごたがあったものですからつい遅くなったのです。
◇大正14年12月23日付森荘已池宛書簡
 ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。
◇大正15年1月15日に関する証言
 宮澤家の別荘を改修:大正15年1月15日(金)に、八重樫倉蔵、民三の兄弟大工に頼んで下根子桜にあった宮澤家の別荘を改修した。
◇大正15年3月頃:愛弟子柳原昌悦の証言
 職員室の廊下で掃除をしていたら、「いや、おれ今度辞めるよ」とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。
◇大正15年3月の春休み:同僚堀籠文之進の証言
 大正十五年三月の春休みに入ってから、――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
◇愛弟子菊池信一の証言
 高野主事と議論したことが原因のようだが、国民高等学校の卒業式が大正15年3月27日に賢治は同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
◇同僚白藤慈秀の証言
 宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った、という。
◇大正15年4月:教え子小田島留吉の証言
 花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあった。
◇大正15年4月:愛弟子柳原昌悦の証言
 私たちが二年生になるとき、何人かが中心になったと思いますが、鼬幣の稲荷さんの後ろの小高い所ある小さな神社の境内に集まって、宮沢先生退職反対のストライキ集会を開いたのでしたが、宮沢先生の知るところとなり「おれはお前たちにそんなことされたって残るわけでもないから、やめなさい」との一言で、それはまったく春の淡雪のように、何もなかったかのようにさらりと消えてしまいました。
 以上の他に、年度が改まってからの次の書簡もある。
◇大正15年4月4日付森荘已池宛書簡
 お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
 よって、賢治は例えば「本統の百姓になります」と言ってはいたものの、そのための周到な準備と綿密な計画があり、 確たる見通しがあって職を辞したとは言えそうにない。有り体に言えば、行き当たりばったり、あるいは成り行きで辞めてしまったという蓋然性も低くないということを私は否定できなくなってしまった。

 この件に関連しては、萬田務氏は『孤高の詩人 宮沢賢治』の中で、
 ところが一方、十二月二十三日(頃)になると、「ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。夏には村に居ますからそれから夏には騰(ママ)写版で次のスケッチを拵えますから……」(森佐一宛書簡)<*1>というふうに変わっている。ここで、明らかなことは、まず一つは十二月中に学校を辞めようとしていたこと、そしてふたつめは、一月から東京へ出る予定であったこと、それも一週間や二週間の短期間でないこと(いつ帰るかわからないが、遅くとも夏には帰っている)、そしてあとひとつは『春と修羅』第二集を上梓する計画のあったことである。
 この書簡が他の人に差し出したものと異なるのは教職を辞す時期である。斎藤、保阪宛書簡でいう、「来春」云々は多分、三月三十一日付で退職する意であろう。それならば学年の区切りである。退職する時期として何ら問題はないが、森宛書簡でいう十二月となれば、穏やかではない。教師という職業に徹していれば、余程のことがないかぎり途中で、職を辞さないのが普通である。
           <『孤高の詩人 宮沢賢治』(萬田務著、新典社)216p~より>
と論じている。
 確かにそのとおりで、私の高校の現場経験からいっても、年度途中で教員を辞めるというような行為は許されないことの最たるものであった。殉職の場合等とは違って、そんなことは到底あり得ないことであり、考えることさえも憚られることのはずである。それは周りの仲間に迷惑をかけることであり、何より生徒を裏切ることになってとても顔向けができないことだからだ。逆に言えば、もしそのような辞め方をしたならば、周りからは極めて身勝手な行為だと誹られかねない。とはいえ賢治は、実際には1月には辞めずに、年度末に辞めていたからいくばくほっとするのだが、この「時系列」を概観してみると正直あまり後味が良い辞め方ではない。

<*1:投稿者注> 萬田氏が指す「森宛書簡」とは次の大正14年12月23日付森荘已池宛書簡215のことである。
ご親切まことに辱けないのですがいまはほかのことで頭がいっぱいですからしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京へ出る筈だったのです。延びました。夏には村に居ますからそれから夏には騰(ママ)写版で次のスケッチを拵へますからそしてそれをあなたにも石川さんにも上げますからどうかしばらくゆるして置いてください。
 今月は金はありません。
 雑誌にもだせませんしあそびにも行けません
               <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)より> 
 したがってこの文面に基づけば、大正14年12月頃の賢治は年度途中に花巻農学校を辞めて「一月から東京へ出る」つもりだったということになるし、しかもそのことをあっけらかんと口外していたという事実があったということになる。
 また、「いまはほかのことで頭がいっぱいです」と賢治は述べているから、時期的に言ってそれは明けて1月から始まる国民高等学校の講師となったのでその準備のために大わらわだということを指しているのだろうが、そのことがあるので1月には辞めようと思っていたがそれは先延ばしにするけれども、「夏には村に居ますから」ということから導かれるように、少なくともこの時点ではその決意がほぼ固まっていたとも言えるだろう。

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