人の噂話を聞いてそのような人と決め付けたりすることは、誰にでもある。
オーム事件で、松本サリン事件で誤認逮捕された河野さんや、厚労省の汚職事件で裁判まで持ち込まれた村木さんの事件では、当時マスコミも一方的な思い込みで記事をつくり、我々はそれを信じた。
日常の対人関係でも、誤解や、思い込みは良く起きる。
人は誰でも、思い込みや、誤解をすることが多く、私もそのような傾向が多少ある。
いつもよく会う人には、余りそのよう思い込みは起きない。
いつもあっていれば、普段の会話で、誤解や思い込みがあうたびに修正されるからだ。
しかし、よく会っていても、どちらか相手に遠慮があって、お互い言うべきことを言わなかったり、はじめから誤った情報を他人から自分にインプットされていた場合は、その人への誤解は相手に質問しなければ修正されず、逆に膨らみやすい。
その挙句、陰であの人はあんな人だ、というステレオタイプのパターンで相手を決め付けてしまうことが多い。
一種のカタストロフで、小さなことが積み重なり、不信となり修正できず歪が限界に達し、信頼関係が一気に崩壊するのだ。
決め付けとは、多方面から検討し正当な理由や根拠があって断定する以外は、基本的に思考停止だと思っている。
思考停止は人間にとって楽な方法であり、迷うことなく、根拠も理由も対話もなく自分の思っていることや信じているプロパガンダを一方的に繰り返せばよい。
悩むことも無ければ、考えたり、相手の立場に立って考えたりする必要も無い。
そうした場合、相手から誤解された人間には、あいつは悪い奴だというレッテルを相手から貼られ、あんなやつは相手にするな、という全人格否定されて断交されたり、極端な場合村八分にされたりする。
だが、人間とはそんな単純な物でなく、一人の人間でも様々な側面を持っていて、いくつかの視点(例 政治的 経済的 芸術的 宗教的 恋愛感情や友情 スポーツファン・・・)だけで、その人の全人格を否定するのは誤りであることは、冷静に考えればよくあることだ。
例えば、歴史的人物や芸術家に対する評価も、時代によって大きく変化している。
人に対する評価は、思い込みや決め付けでなく、先入観を捨てありのまま、良い点や悪い点を時間を掛けて見てその人を評価すべきだと思っている。
現に、非常に中の悪かった奴と、いろいろ話しているうちに、お互いを理解して逆に仲良くなった人もいる。
丁寧に対話していると、相手が見えてくる場合がある。
例えば、同僚で詐欺師と後で分った人もいたが、その人の公私の言動から、その人はなんとなく怪しいと思っていた。
飲んで話をしていても、細かな話になると、前の話と違うところや、細かな説明を避けたりするのだ。
友人とか、会社の同僚のように、何回も会って話をしていると、猫をかぶっていても必ず、所々に本音や本性が出ることが多く、それは小さなことについての話のつじつまや、話の一貫性を見れば分る。
それを見分けるには、時間の経過が必要なのだ。
一言で判断したり、短時間で判断しては、別の側面を見逃すことになる。
よく会って話をする人でも、時に騙されたり、誤解を生んだりするのだから、たまにしか会わない人や、文章だけのやり取りの人とは、ちょっとしたやり取りでも大きな誤解を生む可能性もあるし、騙されやすいともいえるだろう。
通常は、いつも会っていれば、時間の経過もともにしていて、その人の考えの変化も分り、お互いの見方を徐々に修正し、誤解は生じることが少ないし、騙していれば、時間がたつと嘘がばれることが多い。
しかし、たまにしか会わなければ、嘘がある場合は、その人と会って確認しない限り嘘はそのまま残る。
誤解に関しては、その人と会わなければ時間の経過とともに、お互いの考え方や状況の把握を修正する機会が少なく、修正できない物が蓄積したり、想像力で誤解が膨らんだりし、先ほど言ったように破断(カタストロフ)になるまで誤解が膨らみやすい。
遠距離恋愛が破綻する確率が高かったり、メールだけのやり取りで誤解が膨らんだり、政治では主流派と反主流派の意見対立が先鋭化するのも、顔を合わせて話ししないからではないかと思う。
顔を合わせたり、電話で話しをすると親近感がわくし、相手の細かなニュアンスも伝わってくるし、細かな認識の違いの修正もリアルタイムで修正されるので、誤解は修正され、破断(破局)に至らずにすみやすい。
ところで、通常SNSのお友達が多い場合は、多くのお友達とは、頻繁に顔を合わしたり、メールでやり取りしたりすることが、少ないか、ほとんどない場合が多い。
では、そのように、物理的に余り会えない人とのコミュニケーションは、どうすればよいか。
客観的な、事実で判断するしかない。
先ず、相手が友好的か(好感を持っているか)、敵対的か(嫌がっているか)を、客観的に見る必要がありそうだ。
はっきりしていることは、招待状や、案内状や、コメントを書き込んだり「いいね」といったサインは、全て程度の差こそあれ、相手が自分に対し友好的・好意的ということだ。(その度合いも、単なる知人から、親友まで、いろいろな段階があることを考えておく必要があるが。)
その場合は、安心して交流を盛んにすればよい。
お友達と、何も交流が無い場合は、そのままにして置けばよい。
通常、SNSでは、最初は友人関係なので、お互い好意的である。
しかし、時間の経過とともに、文面だけを読んでの交流で、誤解したり、お互い反発したり、そりが合わなくなったり、敵対的になったりすることもありえる。(通常1-2週間では人間関係は大きく変化しない。)
そのような場合、自分に対し悪い感情を持っている人や、そりの合わない人や、どちらかと言うと自分を嫌っている人からは、招待状(ネット上での招待状も含む)や案内状を送ったり(ネット上で案内を告知している場合は、費用が掛かるので、いつも交流している人には、送付を省略することが多い。)、コメントを書き込んだり、「いいね」といったサインは送ってこないだろう。
フェイスブックやツイッター上の友人で、相手が自分のことを嫌がっていることがはっきり分った場合や、自分の催し物に来て欲しくない相手とか、自分が嫌な人であれば、友達リストから削除するべきだろう。
(八方美人で、嫌いな人にもいい顔をしていると、誤解を与えトラブルを招く。)
特に、相手が誤解して、ストーカー的な反応や状況があれば、発展しないうちに早く削除すべきだろう。
(友達の削除:友達リストで、情報送りたくない人の名前の上にカーソルを、置くとポップが出てくるが、ポップの下の友達ボタンにカーソルを移すと、友達の設定のポップが出てきて、その一番下に「友達から削除」がありそれをクリックすると削除できる。)
無論、通常のお友達どうしの日々の対話や、「いいね」のやり取りは、当然ストーカー的ではない。
また、自分が相手に送ったメッセージに対し、相手の人から、自分のメッセージだけに相手からの反応がない状態が数回続けば、相手からの否定的な反応なのだ。
その場合は、それ以後こちらからは、積極的にコメントや「いいね」といったメッセージは控えたほうがいいだろう。
ただし、相手が人気者で、多くの人からのコメントが寄せられている場合や、相手が忙しい場合は、返信が大変なので、好き嫌い関係なくそのままにする(反応が無い)ことは、一般的に考えられるので、気にしなくいいのではないだろうか。
その場合は、他の人への返信も無いので区別が付く。
お友達の、お友達のような、会ったことの無い知人は判断しようが無いので、お互いの出方で決まり、何も無ければ現在の状態の維持すればよいし、問題がおきれば友達から削除すればよい。
余談だが、フェイスブックやツイッターで、特定の人やグループに向け好意的メッセージを書いたとする。
その場合、書く内容や、書き方により、それを読んだ多くの読者は、自分のことと勘違いする人は多いだろうし、内容が一般的過ぎると、特定の人やグループには、充分メッセージが伝わらない可能性もある。
その意味では、範囲の限られた広告媒体としては、特に向いているのかもしれない。
しかし個人的な友人関係では、多くの人に誤解を与えるため、内容によっては人間関係を複雑にする可能性もあるが、逆に、ファンクラブのようなサークル的な動きに発展する可能性も考えられる。
文章なり用語をひねって書けば、一見、一般的な感想を書いているようで、実はコアな人達だけによくわかる表現や、特定の人達だけが分る文章が出来るかもしれない。
また、単純な内容でも、表現の仕方で、多くの人の反発を買う可能性もあるし、逆な場合もあるだろう。
SNSやブログも、こうしたことを考えると奥が深いし、文章力を磨く必要を痛感する。
ただ、上記のようなことをいちいち気にしていては何も書けないので、当面、私のお友達には否定的な人はいないものとして、書いていきます。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより
オーム事件で、松本サリン事件で誤認逮捕された河野さんや、厚労省の汚職事件で裁判まで持ち込まれた村木さんの事件では、当時マスコミも一方的な思い込みで記事をつくり、我々はそれを信じた。
日常の対人関係でも、誤解や、思い込みは良く起きる。
人は誰でも、思い込みや、誤解をすることが多く、私もそのような傾向が多少ある。
いつもよく会う人には、余りそのよう思い込みは起きない。
いつもあっていれば、普段の会話で、誤解や思い込みがあうたびに修正されるからだ。
しかし、よく会っていても、どちらか相手に遠慮があって、お互い言うべきことを言わなかったり、はじめから誤った情報を他人から自分にインプットされていた場合は、その人への誤解は相手に質問しなければ修正されず、逆に膨らみやすい。
その挙句、陰であの人はあんな人だ、というステレオタイプのパターンで相手を決め付けてしまうことが多い。
一種のカタストロフで、小さなことが積み重なり、不信となり修正できず歪が限界に達し、信頼関係が一気に崩壊するのだ。
決め付けとは、多方面から検討し正当な理由や根拠があって断定する以外は、基本的に思考停止だと思っている。
思考停止は人間にとって楽な方法であり、迷うことなく、根拠も理由も対話もなく自分の思っていることや信じているプロパガンダを一方的に繰り返せばよい。
悩むことも無ければ、考えたり、相手の立場に立って考えたりする必要も無い。
そうした場合、相手から誤解された人間には、あいつは悪い奴だというレッテルを相手から貼られ、あんなやつは相手にするな、という全人格否定されて断交されたり、極端な場合村八分にされたりする。
だが、人間とはそんな単純な物でなく、一人の人間でも様々な側面を持っていて、いくつかの視点(例 政治的 経済的 芸術的 宗教的 恋愛感情や友情 スポーツファン・・・)だけで、その人の全人格を否定するのは誤りであることは、冷静に考えればよくあることだ。
例えば、歴史的人物や芸術家に対する評価も、時代によって大きく変化している。
人に対する評価は、思い込みや決め付けでなく、先入観を捨てありのまま、良い点や悪い点を時間を掛けて見てその人を評価すべきだと思っている。
現に、非常に中の悪かった奴と、いろいろ話しているうちに、お互いを理解して逆に仲良くなった人もいる。
丁寧に対話していると、相手が見えてくる場合がある。
例えば、同僚で詐欺師と後で分った人もいたが、その人の公私の言動から、その人はなんとなく怪しいと思っていた。
飲んで話をしていても、細かな話になると、前の話と違うところや、細かな説明を避けたりするのだ。
友人とか、会社の同僚のように、何回も会って話をしていると、猫をかぶっていても必ず、所々に本音や本性が出ることが多く、それは小さなことについての話のつじつまや、話の一貫性を見れば分る。
それを見分けるには、時間の経過が必要なのだ。
一言で判断したり、短時間で判断しては、別の側面を見逃すことになる。
よく会って話をする人でも、時に騙されたり、誤解を生んだりするのだから、たまにしか会わない人や、文章だけのやり取りの人とは、ちょっとしたやり取りでも大きな誤解を生む可能性もあるし、騙されやすいともいえるだろう。
通常は、いつも会っていれば、時間の経過もともにしていて、その人の考えの変化も分り、お互いの見方を徐々に修正し、誤解は生じることが少ないし、騙していれば、時間がたつと嘘がばれることが多い。
しかし、たまにしか会わなければ、嘘がある場合は、その人と会って確認しない限り嘘はそのまま残る。
誤解に関しては、その人と会わなければ時間の経過とともに、お互いの考え方や状況の把握を修正する機会が少なく、修正できない物が蓄積したり、想像力で誤解が膨らんだりし、先ほど言ったように破断(カタストロフ)になるまで誤解が膨らみやすい。
遠距離恋愛が破綻する確率が高かったり、メールだけのやり取りで誤解が膨らんだり、政治では主流派と反主流派の意見対立が先鋭化するのも、顔を合わせて話ししないからではないかと思う。
顔を合わせたり、電話で話しをすると親近感がわくし、相手の細かなニュアンスも伝わってくるし、細かな認識の違いの修正もリアルタイムで修正されるので、誤解は修正され、破断(破局)に至らずにすみやすい。
ところで、通常SNSのお友達が多い場合は、多くのお友達とは、頻繁に顔を合わしたり、メールでやり取りしたりすることが、少ないか、ほとんどない場合が多い。
では、そのように、物理的に余り会えない人とのコミュニケーションは、どうすればよいか。
客観的な、事実で判断するしかない。
先ず、相手が友好的か(好感を持っているか)、敵対的か(嫌がっているか)を、客観的に見る必要がありそうだ。
はっきりしていることは、招待状や、案内状や、コメントを書き込んだり「いいね」といったサインは、全て程度の差こそあれ、相手が自分に対し友好的・好意的ということだ。(その度合いも、単なる知人から、親友まで、いろいろな段階があることを考えておく必要があるが。)
その場合は、安心して交流を盛んにすればよい。
お友達と、何も交流が無い場合は、そのままにして置けばよい。
通常、SNSでは、最初は友人関係なので、お互い好意的である。
しかし、時間の経過とともに、文面だけを読んでの交流で、誤解したり、お互い反発したり、そりが合わなくなったり、敵対的になったりすることもありえる。(通常1-2週間では人間関係は大きく変化しない。)
そのような場合、自分に対し悪い感情を持っている人や、そりの合わない人や、どちらかと言うと自分を嫌っている人からは、招待状(ネット上での招待状も含む)や案内状を送ったり(ネット上で案内を告知している場合は、費用が掛かるので、いつも交流している人には、送付を省略することが多い。)、コメントを書き込んだり、「いいね」といったサインは送ってこないだろう。
フェイスブックやツイッター上の友人で、相手が自分のことを嫌がっていることがはっきり分った場合や、自分の催し物に来て欲しくない相手とか、自分が嫌な人であれば、友達リストから削除するべきだろう。
(八方美人で、嫌いな人にもいい顔をしていると、誤解を与えトラブルを招く。)
特に、相手が誤解して、ストーカー的な反応や状況があれば、発展しないうちに早く削除すべきだろう。
(友達の削除:友達リストで、情報送りたくない人の名前の上にカーソルを、置くとポップが出てくるが、ポップの下の友達ボタンにカーソルを移すと、友達の設定のポップが出てきて、その一番下に「友達から削除」がありそれをクリックすると削除できる。)
無論、通常のお友達どうしの日々の対話や、「いいね」のやり取りは、当然ストーカー的ではない。
また、自分が相手に送ったメッセージに対し、相手の人から、自分のメッセージだけに相手からの反応がない状態が数回続けば、相手からの否定的な反応なのだ。
その場合は、それ以後こちらからは、積極的にコメントや「いいね」といったメッセージは控えたほうがいいだろう。
ただし、相手が人気者で、多くの人からのコメントが寄せられている場合や、相手が忙しい場合は、返信が大変なので、好き嫌い関係なくそのままにする(反応が無い)ことは、一般的に考えられるので、気にしなくいいのではないだろうか。
その場合は、他の人への返信も無いので区別が付く。
お友達の、お友達のような、会ったことの無い知人は判断しようが無いので、お互いの出方で決まり、何も無ければ現在の状態の維持すればよいし、問題がおきれば友達から削除すればよい。
余談だが、フェイスブックやツイッターで、特定の人やグループに向け好意的メッセージを書いたとする。
その場合、書く内容や、書き方により、それを読んだ多くの読者は、自分のことと勘違いする人は多いだろうし、内容が一般的過ぎると、特定の人やグループには、充分メッセージが伝わらない可能性もある。
その意味では、範囲の限られた広告媒体としては、特に向いているのかもしれない。
しかし個人的な友人関係では、多くの人に誤解を与えるため、内容によっては人間関係を複雑にする可能性もあるが、逆に、ファンクラブのようなサークル的な動きに発展する可能性も考えられる。
文章なり用語をひねって書けば、一見、一般的な感想を書いているようで、実はコアな人達だけによくわかる表現や、特定の人達だけが分る文章が出来るかもしれない。
また、単純な内容でも、表現の仕方で、多くの人の反発を買う可能性もあるし、逆な場合もあるだろう。
SNSやブログも、こうしたことを考えると奥が深いし、文章力を磨く必要を痛感する。
ただ、上記のようなことをいちいち気にしていては何も書けないので、当面、私のお友達には否定的な人はいないものとして、書いていきます。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより
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