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昨日記160225木(同窓会関連と高校の思い出 乙巳の変と前期難波の宮)

2016年02月27日 15時20分31秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =9.0  1.8
25日は良く冷え込んだ。
この日は同窓会の事務的なことが気になり、FBを使ったグループを利用できないか考えた。

同窓会の時にFBの話をしたことがあったが、1名していただけで前回の同窓会で聞くと、お友達申請をすべて承認していると、怪しいお友達が増えたのでやめたといっていた。
結局同窓生で、誰もFBをしていないのだ。
少なくとも、卒業した工業高校では電子計算機の授業もやっていたので、当然PCは使い慣れていてSNSはしているものと思っていた。
ほとんどの同窓生は、会社ではPCを使いこなしたり、そうした関係の管理職・責任者をしたりしている者もいたが、プライベートではほぼ全員SNSは全く使っていなかった。

参考までに学生時代当時の状況を述べると、当時母校(母校は、消滅し複合型の職業高校に再編された。)は先端技術のモデル校だった。
そのころ、PCはなく最先端の技術でも業務用の交換機用リレーを使用したったコンピューター<リレーをトランジスタ化したものが最先端であった。>で機械語を使っていた。メモリもパラメトロンといった記憶素子が最新技術で、まさに電子計算機の草創期であった。普段、技術者の計算はみんな計算尺を使っていた。電子計算機の実習はリレー式計算機を使用したもので行われていた。
同時に、そのころカラーTVは最先端の技術であり、解説書すらほとんどなかった。そうした電子回路も学んだが、10―20年後にはICが普及し個別の電子パーツ(抵抗、コンデンサ、トランジスタ)を多数使ったプリント板は姿を消した。
工業高校卒業後5年以上たった時に発売された、シャープの電卓は衝撃だった。
それ以前はモーター式の機械式計算機であった。(歯車とカムを使用)
その後電卓の関数計算機が発売され、私も普及して値段が下がったときに購入した。
当時母校に勤務していた、下村先生は半導体物性を教えられたが、大学を含め適当な教科書がなく、電子物性の基礎と応用の本を卒業後出版されたが、我々はその本のゲラ刷りで学んだが、そこには当時最先端の理論や技術がわかりやすく掲載されていた。
ノーベル賞を受賞した江崎氏のエサキダイオードの理論もその時学んだ。
その本は最近まで工業高校や高専の教科書として使われていたようだ。

話しが思い出話にそれたが、FBで同窓会のグループを作ろうにも、クラスメートがFBに参加していないので、グループ化できないので、後日クラスメートに働きかけてクループを作ろうと思う。

そのついでに、アメリカ在住のクラスメートの住所があったので調べてみた。
噂では、世界企業の役員クラスまで行ったというが、ちょっと信じられない。
まず、FBで検索したがヒットしなかった。
グーグルで検索すると、ヒットした。
いくつもの、関連記事がある。
紳士録のようなサイトがあったので検索すると、電話番号を含む詳細な情報が出てきた。
西海岸のロスやサンディエゴに自宅がありそうだ。
それ以上調べても意味がないのでやめておいた。

夕方から、予約していた『大化改新と難波長柄豊碕宮(大阪大学21世紀懐徳堂i-spot講座)』に出かけた。http://21c-kaitokudo.osaka-u.ac.jp/events/2016/ispot0225
講師は、市 大樹(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

会場の懐徳堂は、緒方洪庵の適塾にあるものと思っていたが、ネット情報を見るとどうも違うようなので、改めて正確な位置を調べた。
そこは、地下鉄淀屋橋の10番出口を出たところの淀屋橋odona 2階らしいということが分かった。
始めていく場所だ。

何とか時間通りに間に合った。
会場は満員で、参加者のほとんどは中高年の男性であった。
難波の宮に関しては、『古代を偲ぶ会』という会で、顧問の長山雅一先生(当時大阪市教育委員会 後流通科学大学教授)から何度も難波の宮やその関連の話しについての講義を受けていた。
当時会の役員をしていたこともあって、先生とも会の帰りに有志と一緒に直接話をお伺いしたことも多かった。

そんなわけで、最新の難波の宮と、大化の改新=乙巳の変 の話を聞きたかった。
多くの話は、以前聞いたり文献を読んだりして知っていた話も多かったが、まったく新しいみかたや考え方もたくさん学ぶことができた。
文献の解釈から、前期難波の宮がいつ建てられたかということと、乙巳の変も実態についていろいろ学者の間で意見が分かれているようだ。

乙巳の変(645年)の国際的背景や、孝徳天皇の果たした役割の評価とか、前期難波の宮の造営順序から見えてくる孝徳政権の性格や大蔵省と思われる官衙(かんが)の構造・構成から推察されるその機能(蔵を持ち本格的に大蔵省の機能を果たしていたらしい・・初めから計画的に造成)や、宮の構造と書紀に書かれた記述の場所との行事の時間的経過といった一連の関連したことから判断すると、孝徳天皇は、乙巳の変を主導し、理想に適合した本格的宮を造営したと市教授は解釈しているようだ。
(例えば、天皇の住居は仮宮にして、まず国家の中心機能を担う建物から造営していったようだ。)
しかしその改革が急進過ぎて、皇族や豪族がついてこられず、難波の宮に孝徳天皇を残したまま飛鳥に戻ったのではないかという解釈をしている。(652年)
短い時間でレジュメの大量の文献資料が提示され、話しについていくのが必至だったが、唐の勃興により国際情勢が大きく変化していく過程で、危機に対応した孝徳天皇の意思が見えてくるように思えた。

その後、白村江の戦い(663年)に破れ、更に倭国は危機感を持ち、北九州から瀬戸内海一帯に巨大な朝鮮式山城を築き、都を飛鳥から近江へ遷都(667年)し、その後天智天皇(中大兄皇子)没後(671年)に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子の間で皇位継承をめぐり、古代史上最大といわれる壬申の乱(672年)が発生し、天武(大海人皇子)政権ができる。
この講座を聞いて、改めてこの時期が大きく国際情勢に絡んでいたことや、本当に国家存亡の危機感を持って倭王権が対応したことがわかる。

天武天皇は、専制政治を敷いたといわれ、天皇の称号は天武朝に時代に成立したといわれている。
天武天皇(686年没)の意向を引き継いだ持統天皇の時代、701年の大宝律令制定により倭国(ヤマト政権)から日本へと国号を変え、中央集権国家の形を整えたようだ。

講座終了後は、ビル内の本屋でしばらく雑誌類を見た後、帰宅した。
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