先ほどファストフードで、コーヒーを飲んでいると、隣の若い男女のペアにもう一人のグループの青年が来て、夜の予定を話していた。
3人は東京弁で話していて、後から加わった青年は、今大阪に住んでいるようだった。
渡しは彼らの横に居るたので、いやおうなく話が耳に入ってくる。
その中で、気になった話があった。
どこへ行くかという話の中で、女性が「通天閣あたりの、大阪らしい薄汚れた串カツ屋に行きたい。」というのである。
この話を聞いて、私は嫌な感じがした。
大阪以外の人たちが、大阪に持っているイメージは予想がつくし、大げさに伝えられてきた。
神戸や京都の人達でさえ、大阪のことを低く見ている人が多い。
ましてや、関東の人たちのイメージは、それをもっと増幅したものであることは想像がつく。
大阪人のキャラクターについては、いろんなことが揶揄されたりする。
そうした指摘が当たっていることも多い。
大阪の人の多くが、金儲けには非常に熱心であるが、文化芸術に無関心であることは、大阪の政治を動かしている、維新の会=橋下氏の過去の言動や、例え府市の美術館に対する扱いや、大阪の誇る伝統芸能文楽の扱いを見れば一目瞭然である。
しかし大阪人は、文化的に無関心の人が多いことも事実であるが、程度が低いといった感じでバカさが強調されたりお笑いのイメージとも重なって、必要以上に歪曲強調されている面も多いようだ。
先ほど紹介した関東の人の言葉には、大阪を見下したステレオタイプ的イメージが強くあることは明白である。
大阪の下町には、そうした側面が残されていることは否定しない。
だが、最近東京に行っていないので、はっきりしたことは言えないが、昔東京の下町を見た印象では、東京の下町も大阪と良く似たものだと思っている。
そういう意味で東京の人が上から目線で地方を見下すのは、鼻持ちならない気がする。
ところで、昔は関西を上方といい、今でも使われる「下らぬものですが」は、そうした意味が含まれている。
文化の差は確かにあり、昔からそうしたものを人々は認めてきたが、今は東西文化の力関係は逆転している。
それと同じ構図で、大阪を含む大都市に住む人が、地方を見下す構図も存在するのも事実である。
現地の実情を知ろうが、無知であろうが、見下されることは、誰にとっても不愉快である。
見下すということと差別とは、同じ構造でもある。
そういう見方を変えるには、文化人類学的思考を持つことが必要だろう。
それぞれの、文化社会をよく理解し尊重することが大切であろう。
一皮向けば、文明人も未開の社会も、都会も田舎も人間的な基本構造や社会構造は、それほど変わらないものだ。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより 美術芸術や健康や情報機関関係もリンクグループ化しています。
3人は東京弁で話していて、後から加わった青年は、今大阪に住んでいるようだった。
渡しは彼らの横に居るたので、いやおうなく話が耳に入ってくる。
その中で、気になった話があった。
どこへ行くかという話の中で、女性が「通天閣あたりの、大阪らしい薄汚れた串カツ屋に行きたい。」というのである。
この話を聞いて、私は嫌な感じがした。
大阪以外の人たちが、大阪に持っているイメージは予想がつくし、大げさに伝えられてきた。
神戸や京都の人達でさえ、大阪のことを低く見ている人が多い。
ましてや、関東の人たちのイメージは、それをもっと増幅したものであることは想像がつく。
大阪人のキャラクターについては、いろんなことが揶揄されたりする。
そうした指摘が当たっていることも多い。
大阪の人の多くが、金儲けには非常に熱心であるが、文化芸術に無関心であることは、大阪の政治を動かしている、維新の会=橋下氏の過去の言動や、例え府市の美術館に対する扱いや、大阪の誇る伝統芸能文楽の扱いを見れば一目瞭然である。
しかし大阪人は、文化的に無関心の人が多いことも事実であるが、程度が低いといった感じでバカさが強調されたりお笑いのイメージとも重なって、必要以上に歪曲強調されている面も多いようだ。
先ほど紹介した関東の人の言葉には、大阪を見下したステレオタイプ的イメージが強くあることは明白である。
大阪の下町には、そうした側面が残されていることは否定しない。
だが、最近東京に行っていないので、はっきりしたことは言えないが、昔東京の下町を見た印象では、東京の下町も大阪と良く似たものだと思っている。
そういう意味で東京の人が上から目線で地方を見下すのは、鼻持ちならない気がする。
ところで、昔は関西を上方といい、今でも使われる「下らぬものですが」は、そうした意味が含まれている。
文化の差は確かにあり、昔からそうしたものを人々は認めてきたが、今は東西文化の力関係は逆転している。
それと同じ構図で、大阪を含む大都市に住む人が、地方を見下す構図も存在するのも事実である。
現地の実情を知ろうが、無知であろうが、見下されることは、誰にとっても不愉快である。
見下すということと差別とは、同じ構造でもある。
そういう見方を変えるには、文化人類学的思考を持つことが必要だろう。
それぞれの、文化社会をよく理解し尊重することが大切であろう。
一皮向けば、文明人も未開の社会も、都会も田舎も人間的な基本構造や社会構造は、それほど変わらないものだ。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより 美術芸術や健康や情報機関関係もリンクグループ化しています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます