詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか 2021年5月号

2021-05-31 19:34:20 | 考える日記

詩はどこにあるか 2021年5月号、発売中です。

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目次

細田傳造「いやいやながら浮かばされて」2  Jose Manuel Belmonte Cortesのレリーフ 5

夏目美知子「トーチカ」7  阿部日奈子「俺は騙されてない」9

ティム・ヒル監督「グランパ・ウォーズ」13  森文子『野あざみ栞』16

小島数子「丘」18  和合亮一「juice 」、近藤久也「ばらばらに赴く、メトロどこへ」22

山本幸子「琵琶湖」27  田窪与思子『サーカス』30

長谷川信子「親」36  中村節子「陽炎」40

砂東かさね「春の記憶」46  愛敬浩一『メー・テイはそれを好まない』49

小松弘愛「白いガーゼのマスク」55  林嗣夫「無題」58

フロリアン・ゼレール監督「ファーザー」61  早矢仕典子『百年の鯨の下で』65

野沢啓「メタコロナ」70  池田清子「今」、徳永孝「春」、青柳俊哉「冷雨」79

金子敦『シーグラス』86  金子敦『シーグラス』(2)92

ダニエル・マイレ「日付のある詩と散歩」、ルイーズ・グリック「沈黙の鋭い言葉」99

桐野かおる「凶区」107  野沢啓「世相」111

山内聖一郎『その他の廃墟』118  高橋睦郎「いかにさびしき」122

木村草弥『四季の〈うた〉続』124  木村草弥『四季の〈うた〉続』(2)130

麻田春太『虚仮一心』134  林嗣夫『林嗣夫代表詩選 ひぐらし』136

スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」141

石松佳「離島綺譚」「フォトグラフ」145  鈴木ユリイカ「二十代の頃」151

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鈴木ユリイカ「二十代の頃」

2021-05-31 09:28:31 | 詩(雑誌・同人誌)

鈴木ユリイカ「二十代の頃」(「現代詩手帖」2021年06月号)

 鈴木ユリイカ「二十代の頃」には「第39回現代詩人賞受賞第一作」と書かれている。鈴木もまた旬の詩人ということかな。
 「二十代の頃」、鈴木は「死にたい、死にたい」と思っていた。その後半。

   私は何日も考えた そして
   死にたい、死にたい ではなく
   詩にしたい、詩にしたい と言うことにした

   青空の遠くを漂っている女を詩にしたいと書いた
   玄関を開けると五つの山々がこちらを向いたを詩にしたい
   詩にしたい、山々は雨が降っても美しい
   山々は霧につつまれても美しい
   雪が降っても美しい と詩にしたいと書いた
   犬が笑う と詩にしたい
   笑う警官 と詩にしたい
   めちゃくちゃ自由になりたい と詩にしたい
   言葉をひとつひとつ書いて 詩にすれば
   生きていけるかもしれないと思った

 詩を書きたいではなく、詩にしたい。詩は最初から存在するのではなく、あることばを書き、書くことで詩に「する」のである。
 どうしたら「詩になる」か、「詩にする」ことになるか。
 鈴木は、非常に単純だが、非常に強力な「方法」を教えてくれている。繰り返せばいいのだ。言い換えると、つづければいいのだ。「詩にしたい」を「動詞」にして、その動詞にどれだけ目的語をつけくわえつづけることができるか。その持続力が問題なのだ。
 つづけていくと、だんだんことばが変わってくる。
 「山々は雨が降っても美しい/山々は霧につつまれても美しい/雪が降っても美しい」と鈴木はつづけてみせる。そのあと、どうこれをつづけていくか。「晴れても」と書くか、「花が咲いても」と書くか、「木が枯れても」と書くか。もちろん、そう書きつづけてもいい。
 でも鈴木は、「犬が笑う」「笑う警官」と飛躍する。ことばの射程を広げていく。同じ「詩にしたい」という動詞をつづけることで、山に雨が降ること、犬が笑うこと、笑う警官がいることを、同じ世界にしてしまう。どうして、それが同じ世界? 何が「同じ」と言える? 鈴木の欲望が「同じ」にしている。ぜんぜん違うものだけれど、その違うものを鈴木の欲望が貫いている。
 かけ離れたものを結びつけるのが「現代詩」(あるいは現代芸術)という定義があるが、ただ結びつければいいというものではない。そのかけ離れたものを結びつける「欲望」(個人の肉体の根源)がなければならない。それがなければ、単なる「頭」ででっちあげた仮の意匠にすぎない。
 ここから逆に言うと。
 かけ離れたものへ、自分とは違うものへと自己を拡張していくこと、が詩なのである。そのとき、かけ離れたものの結びつきが「詩になる」だけではなく、それを結びつけたひとが「詩人」という、新しい「人間の可能性」になるのである。
 詩が、そして詩人が魅力的であるとすれば、この「人間の可能性/可能性としての人間」が、ことばといっしょに動いているからだ。
 鈴木のことばが強い(射程が広い)のは、鈴木が生きているからだ。

 

 

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石松佳「離島綺譚」「フォトグラフ」

2021-05-30 11:35:32 | 詩(雑誌・同人誌)

石松佳「離島綺譚」「フォトグラフ」(「sister on a water 」4、2021年05月30日発行)

 石松佳はH氏賞を受賞。いまが旬の詩人ということなのか、たくさん作品を見かける。きょうは単純に「発行日」にあわせて、「sister on a water 」の作品を読んだ。
 「離島綺譚」は「綺譚」とあるから、「お話」である。

昼はゆたかな膳だった。


 と、はじまる。意味は明確だが、私は、最初からつまずく。「膳か」と思う。私は古い人間だから、「膳」ということばにはなじみがある。「膳を出して」と、昔はふつうに使っていた。ふつうに使っていたと書いたが、少し説明がいる。ふつう(日常)では膳を出さない。特別なときに出す。たとえば結婚式、葬式のあとの会食のときに出す。特別の料理をもって出す。それは足つきのひとりずつの「食卓」のようなものだ。だから、当然のことながら「ゆたかな(つまり、ふつうとは違う)」料理が載っている。そういうイメージがある。私のいなかでは、膳はそういうイメージが共有されていた。だから「膳を出して」とふつうに言って、それがふつうに通じた。
 しかし、そのイメージもいまではすっかり廃れている。私には甥姪がたくさんいる。私はその甥姪と年齢が近い。それでも、「膳を出す」ということばは甥姪からは「膳を出す」ということばを聞いたことがない。兄弟からは何度も聞いた。十歳くらい年が離れると、もう「膳を出す」は日常語ではない。だいたい膳を出しての会食というものを、もう家ではしない。
 ここから思うのである。石松はいったいどこで「膳」ということばを身につけたのか。また、どういうときに、それをつかうのか。もしかすると、ことばを「書く」ときだけ? もちろん書くときだけにつかっても何も問題はないのだが、私は身構えてしまうのである。「私は、これからことばを書きます」と言われているような感じがする。それだけではなく、これから書くことばは、わからない人にはわかりようがない「特別なことば」である、と宣言されている気がして、身構えてしまう。

昼はゆたかな膳だった。海港を歩くと、海が膨らんでいるのが
わかる。雲は徐々に海の表面を犯してゆき、薄い翳りが冬らし
い奥行きを与え、暗い光を帯びた波が無数の小さな月の形で生
滅している。フランネルを来て、わたしは見たことがないもの
を見たい。


 「海港」「生滅」。どのことばも、私はつかわない。だから、正しく理解しているかどうかわからないが、漢字をとおして意味はわかったつもりになる。冬の海。海がふくらむのはなぜか。簡単に考えれば低気圧が通過するからである。気圧が低くなった分だけ(気持ちだけだが)、海がふくらんで見える。これを石松は「海の表面を犯してゆく」と書いている。感覚的なようであって、実は、とても科学的である。事実を踏まえている。だから、説得力がある。ああ、うまいものだなあ、と感心する。感心するが、同時に、同じことばを石松は日常的につかうことがあるのだろうか。ないかもしれないなあ。詩を書くときだけ、特別につかっているのかもしれないなあ、と思う。
 そういうことばがつづくのである。二連目、三連目に出てくる「屑籠」「笊」というのは、いまでもつかうことばではあるが、ことばと存在がどれほど密接に結びついているか、私には疑問に思うところがある。「笊」を漢字で書け、読むことができるひとはいまどれくらいいるか。「籠」も「笊」も竹冠である。昔は竹をあんでつくっていた、ということを知っている人になるとさらに少ないだろう。
 四連目。

ゆく船にさようならをしている子どもたち。糸電話。匙が唇に
触れる冷たさに驚く朝があることを知らずに、きちんと喉を潤
して、力いっぱいに旗を振っていなさい。


 中勘助の「銀の匙」は名作だから、多くの人が読んでいると思う。若い人が読んでいるかどうかは知らない。でも、いまどき「匙」ということばをだれがつかうかなあ。少なくとも「子どもたち」はつかわないだろう。日本語とは思わないかもしれない。スプーンを日本語と思っているかもしれない。一連目に出てきた「フランネル」も、いまでは「匙」の感覚だなあ。根本的には違うが、いまは「ネル」よりも「フリース」が広く行きわたっている。
 「糸電話」が遊びにつかわれる時代設定だから、ことばが統一されているということかもしれないけれどねえ。
 で、ここがポイント。
 石松の詩の特徴を「比喩の巧みさ」でとらえる批評が多い。この「巧みさ」を別のことばで言い直せば、比喩にある「統一感」がある。その「統一感」とは、一連目の膨らむ海が低気圧の通過(冬の北国の描写)のように、「定説」を踏まえるところにある。石松が発見した比喩というよりも、知識として共有されている事実を踏まえた比喩である。とても「知的」なのだ。「知の共有」を基盤としているから、必然的に(?)、そのことばの運動は静的になる。「暴力」が排除される。何でもいいから、この比喩を通して現実を突き破ってしまえ、という感覚はない。石松の比喩は、何かしらの「知的」な共有を、「教養の蓄積」を読者に要求してくる。この比喩の繊細さがわからないとしたら、それは読者の教養が不足しているからである、と言われている気がして、私は感想を書くのをためらうときがある。うまいなあ、こんなふうに書けるのはすばらしいなあ、と思うけれど。
 石松を評価するとき、それは同時に、私は石松の比喩を理解することができる教養をもっていると表明することでもある。だから、多くの人が競うようにして石松論を書いているように思える。私には。私は、そういう書き方は嫌いだから、たとえば「膳」についての私の具体的な体験を書く。体験を「文学の知識」に置き換えたくはない。

 と、ここまで書いてきたら、「フォトグラフ」について、何を書こうとしていたのか、思い出せなくなった。
 違うことを書こうとしていたのだが、つづきで書いてしまうと。

手を椀の形にして水を掬うと水は指の間から零れてゆく。その
とき、手のひらと地が結びついているような感覚が幼年時代か
らあった。


 「手を椀の形にして水を掬う」は何でもない比喩のように聞こえるが、これもまた、いまとなっては文学の「定型」でしかないように私には思える。「椀」と誰がかけるだろうか。「お茶碗」はすでに石ヘンであって木ヘンではない。ご飯茶碗は陶器(磁器)だが、味噌汁椀は木、あるいはプラスチックかもしれない。だから「椀」か、と私は思うのである。だいたい、どういうときに手で水を掬うだろうか。「椀の形」をするときは水を飲むときだが、そういうことをいまの若い人はするかなあ。山登りをしていて沢の水を飲むことはあるかもしれないが。

 石松の作品について触れるとき、もうひとつ忘れてはならないのは「リズム」である。「手を椀の形に」という連でも、その特徴を指摘することができるが、はじまりは短くてイメージが掴みやすい。イメージを掴ませておいて、そのあとに微妙なことを積み重ねて石松の世界へ誘うのである。これが絶妙である。
 「手を椀の形にして水を掬うと水は指の間から零れてゆく」というのは、水を掬って飲んだことのある人なら誰でも理解できることである。しかし、そのとき「手のひらと地が結びついている」と感じた人は何人いるだろう。私はそんなふうに感じたことはない。零れていく水は、もとの水と一緒になって見分けがつかなくなるくらいのことしか思わない。だから、「手のひらと地が結びついている」と感じるところに石松の個性、肉体があると思う。でも、その感覚について石松は、いまも責任をもっている(?)かどうかはわからない。「幼年時代」と限定しているからね。ここに、ちょっと石松の「逃げ」というか、「逃げ道」があって、うーん、利口な人だなあ、と私は感心してしまう。
 「手を椀の形に」の前の連では、こう書いている。

始まりはこうだ。一縷の真白い紐が空に靡いている。それは列
を成して飛ぶ鳥の群れなのだが、風に煽られる頼りない揺曳は
どこか性的なものを思わせる。


 「紐」は「列を成して飛ぶ鳥」と言い直され、そこから「文体」が長くなる。「揺曳」ということばを挟んで「性的」ということばにつながる。「頼りない」から性的なのか、「揺曳」するから性的なのか。それは、石松は、断定しない。とても利口だ。どこかで他人の好奇心を拒否している。
 つづく連(手を椀の形に)の「零れる」へと、断絶を挟んでつながるとき、「零れる」から性的とも読むことができる。助走と、踏み切り台としての断絶、そして接続。このリズムが非常に巧みなのも石松のことばの運動の特徴だと思う。

 


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スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」

2021-05-29 14:51:33 | 映画

スパイク・リー監督「アメリカン・ユートピア」(★★★★★)(2021年05月29日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 スパイク・リー 出演 デビッド・バーン

 私は音楽をほとんど聞かないので、デビッド・バーンもトーキング・ヘッズも知らない。この映画を見に行ったのは、監督がスパイク・リーだったからである。スパイク・リーは「ドゥ・ザ・ライトスィング」から見ているが、社会的意識に共感を覚える以上に、その映像の清潔感に非常にひかれる。清潔で、なおかつ強靱である。予告編でも、あ、これはシンプルで強靱だなあと感じたが、本編を通してみて、さらにその印象が強くなった。
 映画はデビッド・バーンが率いるグループの舞台での公演「アメリカン・ユートピア」を撮影したもの。舞台の最初から終わり(アンコール?)までをそのまま撮っている。最後に「おまけ」がついているが、基本的に、ただ公演をそのまま撮っている。もちろん映画だからカメラはいろいろなアングルから撮影されているが、切り替えが非常にスムーズであり、まるで何回にもカット割りして撮影したかのようにさえ見える。カメラがデビッド・バーンらの動きをまったく邪魔していない。いったいどうやって撮った?と思う。でも、これはあとから思うことで、見ている間は、ともかくスクリーンに引きつけられる。
 この舞台は、ある意味でとても奇妙である。音楽のこと、ライブ公演のこと、あるいはミュージカルのことを知らない私が言うのだから、きっと間違いを含んでいると思うが、何よりも舞台の出演者の服装が変である。全員が灰色のスーツ(シャツを含む)を着ている。モノトーンなのである。そして、裸足。余分なものがない。服装で観客の視線を引きつけようとしていない。デビッド・バーン自身が、もうおじさんだし、容姿で観客を魅了しようとは思っていないような感じ。
 ダンスもあるが、いまふうの「キレキレ」という感じてはなく、これならちょっと真似すればできるかな、という感じ。昔の金井克子の歌いながら踊る感じ、というとデビッド・バーンに怒られるかもしれないが、まあ、そんな感じ。あとは、演奏者との関係で言うと、ちょっとしたマーチングバンドかなあ。舞台装置は、すだれカーテンのようなものが三方を囲んでいるだけで、ほかは何もない。つかこうへいの芝居のようである。何もないから、出演者が自由に動け、その動きにだけ視線がひっぱられる。ともかくシンプルである。そのシンプルが神経質を強調するようでもある。
 で。
 映画のもう一つの要素、音楽の方はどうか。単純ではない。とくに歌詞がめんどうくさい。単純な解釈を受け入れない。歌い方も歌を楽しむというよりも、何か神経質な苛立ちの方を強く感じる。「音」も出演者が演奏する楽器の音に限られている。隠れた音(出演者以外の楽団が演奏する音)がない。そういうことも、デビッド・バーンの神経質な(?)な声を強調する。デビッド・バーンは神経質、と書いたが、その補足になるかもしれない。途中でデビッド・バーンが解説しているが、高校(?)のコーラスのために「家においで」(よくわからない、たぶん間違っている)という曲をつくった。家に友だちを招待しておきながら、早く帰ればいいなあ、と思ったりする。でも、高校生は、まったく違う解釈で歌う。ほんとうに歓迎している。まったく別の曲みたいだった、という。そう言ったあとでデビッド・バーンバージョンを歌うのだが、それはたしかに「もう早く帰ってくれよ」という神経質な思いがあふれる歌なのだ。「家においで」には、そういう「矛盾」がある。
 そして、矛盾といえば、この映画のタイトルは「アメリカン・ユートピア」である。そのユートピアのアメリカで何が起きている。ブラック・ライブズ・マター運動は記憶に新しい。そして、歌のなかには、そのプロテスト・ソングが含まれている。アメリカはユートピアじゃないじゃないか。(ポスターではUTOPIAが逆さ文字に印刷されていた。)そして、そういう抗議があるからこそ、スパイク・リーは、この映画を撮ったのだろう。問題提起だね。真剣に、何かをしないといけないと感じている。でも、誰にでもあてはまる有効な何かというのは、存在しない。と、神経質なデビッド・バーンなら言うかもしれないなあ。
 で。
 この問題提起が、また実に興味深い。映画は舞台と違う。映画ならではのことができる。映画の最後、公演が終わったあと、デビッド・バーンが自転車で帰っていく。そして仲間たちも自転車で移動している。その移動シーンに、もう一度「家においでよ」が流れる。しかし、それはデビッド・バーンの歌ではない。はっきりしないが、たぶん高校生の合唱である。「いやだなあ、もう早く帰れよ」ではなく、ほんとうに「家においでよ」と誘っている。いっしょに楽しい時間をすごそうと言っている。
 同じことば、同じ曲が、歌い方ひとつで意味が違ってくる。それを映画はちゃんと証明して聞かせてくれる。これは、スパイク・リーの「主張」なのだ。本の少しの「演出」でスパイク・リーは強烈な「主張」をこめることに成功している。
 これはまた、こんなふうに言い直すことができる。アメリカにはいろいろな問題がある。ブラック・ライブズ・マターをはじめ、いろんな運動がある。それは、アメリカを変えていくことができるという可能性のことでもある。デビッド・バーンは舞台から、有権者登録をしよう、選挙に行こう、と呼びかけている。それは、アメリカがどんな国であろうと、アメリカ国民にはアメリカを変えていくことができると言っているように感じられる。その「意図」をスパイク・リーが解釈して、語りなおしているように見える。
 で。
 ここからさらに思うのである。このラストシーンの音楽が映画の特徴を生かした「演出」であるとするなら、舞台ならではのものとは何だろうか。この映画は舞台を巧みにとらえているが、やはり舞台ではなく、映画である。どこが違うか。
 これから書くことは、期待と想像である。
 映画では、舞台の上の「肉体の熱気」がわからない。とくにスパイク・リーの映画ではカメラワークが見事すぎて、全てのシーンが「映像」になってしまっている。なりすぎている。逆に言うと、デビッド・バーン自身の「肉体」の、そして他の出演者の「肉体」のどうすることもできない熱気のようなものがそがれてしまっている。それは汗とか呼吸の乱れとかではなく、なんといえばいいのか、実態に肉体を見たときの生々しさが欠けているように感じる。このひとはいったい何を感じているのか、という直感的な印象が弱くなっているように感じる。
 だからこそ。
 あ、これは映画ではだめだ。実際に舞台を見たい。ライブを見たいという気持ちになる。「家においでよ」と誘ったけれど「もう帰れよ」と思っている。「もう帰れよ」言いたいけれど、それをがまんしておさえているだけではなく、「違う人間になって、もう一度家に来てほしい」と思っている。いまのきみは嫌いだけれど、きみが一緒でないと生きている意味がない。その矛盾した感情。デビッド・バーンの声を神経質に感じるのは、こういう矛盾があるからだろう。そういうときの感情というのは、肉体を直接みるときに、複雑に伝わってくるものである。カメラを通すと消えてしまう「肉体」の匂い。それを体験したいなあ、という気持ちになってくる。いま、ここに私とは違う肉体をもった人間が生きていて、いろいろなことを思っている。矛盾をそのまま味わってみたい。矛盾に「解釈」をくわえずに、「肉体」そのものとして向き合ってみたい、という気持ちを引き起こされるのである。
 いや、ほんとうに生の声を聴きたい。演奏を聴きたい。動きを見たい。映画がだめだからではなく、映画がいいからこそ、そう思う。今年見るべき映画の1本だね。

 

 


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林嗣夫『林嗣夫代表詩選 ひぐらし』

2021-05-29 09:28:42 | 詩集

林嗣夫『林嗣夫代表詩選 ひぐらし』(土曜美術社出版販売、2021年05月25日発行)

 林嗣夫『林嗣夫代表詩選 ひぐらし』は300ページ近い詩集。林の詩は同人誌「兆」や詩集を通して、かなり読んできている。詩集の感想も何度か書いた。文体がとてもがっしりしているという印象がある。
 というようなことは、まあ、書かなくてもいいか。
 詩集のタイトルになっている「ひぐらし」というのは、どういう詩だったかなあ。覚えていない。そんなことを思いながら、まず「ひぐらし」を読んだ。

ふたり並んで 小道を歩いた
生きていこうと
花の名を教えあった

   道の駅から 海を眺めた
   生きていこうと
   風の香りを確かめあった

   ふたり並んで 夏が過ぎていく
   かなかなかなと
   ひぐらしが鳴いている

   告げあったことばの こだまのように

 三連目には、一連目、二連目に出てきた「生きていこうと」ということばがない。書くと変なのかなあ。

二人並んで 夏が過ぎていく
生きていこうと
ひぐらしの声を聞き語り合った

 と、どう違うのだろう。
 どうして林は「かなかなかな」と書き「ひぐらし」と言い直したのかな。
 私は何の根拠もなく、一連目、二連目にも「かなかなかな」の音が響いていると感じた。一連目、二連目からも「かな」の少しさみしい音が聞こえてくると感じた。
 こんな具合。

ふたり並んで 小道を歩いた
生きていこう「かな」と
花の名を教えあった

道の駅から 海を眺めた
生きていこう「かな」と
風の香りを確かめあった

 強い決意というよりも、つまり、「押しつけ」ではなく、ふと漏らすことば。言わなくていいのだけれど、なんとなく言ってしまうことば。言うことで、こころのつながりを感じることば。
 「かな」だとひとりごとになるかもしれない。自分だけに言い聞かせることばになるかもしれない。でも、きっと、林の書いている「生きていこう」は相手に強く呼び掛けるよりも、「私は生きていこうかな、と思っている」という感じで語っているのだと思う。自分の思いを語っている。相手に押しつけるのではなく、私はこう思っている、と軽く口にする。
 一連目は誰が言ったのだろう。林かな? それとも連れ合いかな? 二連目はどうだろう。きっと一連目が林なら、二連目は連れ合い。一連目が連れ合いなら、二連目は林。
 このふたりの「距離感」もいいなあ。「生きていこう」と言われ、すぐに「生きていこう」と答えるのではなく、しばらく時間を置いて、それから同じことばを返す。「いま、なんて言ったのかなあ。なぜ、わざわざ、そんなことを言うのかなあ」と半分自問しながら、聞かされた人は一緒にいる。そうしているうちに、「ああ、そうだなあ」とわかり、何か答えようとする。そうすると、聞いたことばが自分の肉体のなかから自然にあらわれてくる。「生きていこう」と。
 この「生きていこう」の前には「ふたり一緒に」が隠されている。ふたり一緒に小道を歩くように、ふたり一緒に海を眺めるように。そして、「いま」だけではなく、「ふたり一緒に」生きてきてた過去が隠されている。詩は「夏が過ぎていく」となつのことしか書いていないが、「過ぎていく」ということばには、いままでに過ぎていった時間、過去が隠れている。
 その「ふたり一緒に」が「告げあった」の「あう」のなかに隠れている。そして、その「あう」が「こだま」のように響いてくる。

生きていこう
生きていこう

 でもいいのだけれど(その方を好むひともいるだろうけれど)、林はきっと

生きていこうかな
生きていこうかな

 の聞こえない「かな」、書かなかった「かな」がある方が好きなのだ。「生きていこう」と聞こえたけれど、耳を澄ませば「生きていこうかな」とぽつりと漏らしたのだと感じられる。そのさみしい「かな」にこころがこたえて、「いきていこうかな」と答える。もちろん「かな」は胸のなかに隠してだけれど。
 その胸のなかに隠した「かな」がひぐらしのように「かな、かな、かな」と響いている。「生きていこう」だけではなく、ふたりはきっといろいろなことを「断定」するというよりも「かな」を含んだことばで受け止め、受け入れて生きてきたのだろう。そういうかこの「かなかなかな」も聞こえてくる。
 とても静かで味わい深い詩である。「かなかな」の声が聞こえてくる詩である。

 

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麻田春太『虚仮一心』

2021-05-28 08:28:54 | 詩集

 

麻田春太『虚仮一心』(書肆侃侃房、02月04日発行)

 麻田春太『虚仮一心』に「口からでまかせ」という作品がある。


口は災いの門というけれど
世間は口も八丁手も八丁を重宝する
わたしは口が重いし 口がかたい
あなたはそんなわたしに 口をはさむ
口から先に生まれたあなたに
わたしが悪いのではない と
 口をそろえて 口にする
わたしはそんなあなたに 口をそろえて
口を出す
あなたは口をとがらせて 口を割る
 わたしが悪いのか
 世間が悪いのか
口をつぐんでしまった あなたとわたし
口から口へと伝わる うわさ
口の悪いわたしから 口が軽いあなたへ
口が減らないあなたから 口がすべる
口をきいたわたしは 口を切る

 「口」ということばをふくまない行もあるが、ほとんどの行に口が出てくる。全部の行に口があった方がおもしろいだろう。次はどんな口が出てくるかな、という期待が生まれる。そして、その期待通りのことばが出てきて、「そうだ、そうだ」と思わせるだけ思わせて、最後に「えっ」と思うような裏切り(読者の予想を裏切る、という意味)があると、いっそう楽しい。
 あとは、そうだなあ、論理だね。それとリズム。期待も裏切りも、結局は論理。リズムに乗って、論理にしたがって期待は動く。それが予想、予測。そして、それが外れる。その瞬間に、いままでとは違ったものがあらわれる。
 悪口か批判かわからないが、そういうことも口を含んだ表現になると、開いた口が塞がらなくなるだろう。

 


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木村草弥『四季の〈うた〉続』(2)

2021-05-27 09:00:42 | 詩集

 

木村草弥『四季の〈うた〉続』(2)(澪標、2021年05月25日発行)

 昨日の感想は、木村草弥が書いていることへの感想か、ピカソの「泣く女」についての感想か、よくわからないものになってしまった。「対象」への感想か、「ことば」への感想か。これはいつでも起きることであるが。
 たとえば、これから書くことも。

 「エピステーメ」という作品群がある。木村の第五歌集『昭和』の抜粋である。

  千年で五センチつもる腐葉土よ楮の花に陽があたたかだ
  手漉紙のやうにつつましく輝る乳房それが疼くから赤い実を撒かう
  紅い実をひとつ蒔いたら乳房からしつとりと白い樹液が垂れた

 おんなの体を描いている。しかも、それは男の立場から書いているというよりも、木村がおんなになって書いている。たとえていえば、森進一が、「惚れて振られた女のつらさ……」と女の心情を歌うようなものである。歌っているのは男、しかし、「内容」は女の気持ち。こういうとき、どういう感想が「正しい」のか。たぶん、「正しい」かどうかは考えず、ただ、思いついたまま書くしかないのである。
 この三首では、「千年で」は男の歌か、おんなの歌かわからない。「手漉紙」は「乳房それが疼く」ということばから「男の乳房ではない」と感じるが、なかには乳房が疼く男がいるかもしれないが、私は古くさい概念にとらわれている人間なので、これはおんなだな、と思う。「紅い実」は乳房から「白い樹液が垂れた」を乳房から「乳」が垂れたと読み、やはりおんなだと判断する。「白い樹液」という比喩は、私から見ると、ちょっと客観的すぎる。肉体の内部から生まれてきたことばというよりも、肉体を外から見ている感じがするので、おんなの歌であるけれど、男の視線が動いていると感じる。
 で。
 こういうことを書くと、いまの時代は、時代後れというか、フェミニスト(あるいはジェンダーフリーの立場の人)から批判を受けそうだが、その「白い樹液」と同じように、「陽があたたかだ」の「だ」という音の響き、「白い樹液が垂れた」の「垂れた」という断定の響きにも、男の語調を感じる。「撒かう」のきっぱりした意志の表明にも、男を感じる。リズムが男っぽい。
 そして、このおんなの歌なのに、男の感覚がつらぬかれているところに、森進一のうたではないが、何かさっぱりした「客観性」(どろどろした情念を洗い流したような、さびしさ)を感じる。

  呵責とも慰藉ともならむ漂白の水に漉かれて真白き紙は
  フーコーは「思考の台座」と名づけたがエピステーメ、白い裸身だ

 「呵責」「慰藉」「思考の台座」というような、漢語のつらなりも、おんなのことばというよりも男の概念、一種の非情さを含んだ響き。

  振り向いてたぐる時間は紙子のやうにしなしなと汚れているな
  われわれはひととき生きてやがて死ぬ白い紙子の装束をまとひ

 「たぐる」や「やうにしなしな」はおんなの肉体から発せられる響きにも感じられるが、「時間」ということば、「汚れているな」の「な」の響き。ここに、わたしは、やはり男を感じる。
 「われわれ」は、やはり男だ。この「われわれ」とは基本的には男とおんな、二人のことだが、ふたりをはみだして「人間(人類)」を視野に含んでいる。それは、前の歌の「時間」ということばにつうじる。「ひととき生きて」というが、この「ひととき」は「わたしだけの時間」ではなく「われわれの時間のなかの一瞬」という、奇妙な「哲学」を含んでいる。「短歌」を超えて「概念」がひろがる。

  惜しみなく春をひらけるこぶし花、月出でぬ夜は男に倚りぬ

 この歌で、はじめて(?)おんながおんならしく振る舞っている(男に倚りぬ)が、そう感じるのは、男の視点というものだろう。

  くるめきの季にあらずや〈花熟るる幽愁の春〉と男の一語

 これもおんな。「男」を出すことで、「わたしはおんな」と主張している。「惜しみなく」と同じ構造である。
 そうやって、種明かし(?)をした上で、歌はつづいていく。

  花に寄する想ひの重さ計りかね桜咲く日もこころ放たず

 これは作者が伏せられていたら、おんなが詠んだ歌と思うかもしれない。「こころ放たず」の「こころ」が「肉体」という感じで響いてくる。
 ほーっ、と思わず声が漏れてしまう。私は。

  異臭ある山羊フロマージュ食みをりぬ異臭の奥に快楽あるかと
  私が掴まうとするのは何だろう地球は青くて壊れやすい

 「快楽はあるかと」の「と」の使い方、「青くて壊れやすい」の断定。ここで、木村はふたたび男にもどっておんなを呼んでいる。
 木村にとって、おんなが認識の出発点、ということを書いているのかもしれないが、おんなに溺れていない、淫していないことろが、ちょっと森進一の歌い方に似ている、と私は感じる。
 ついでに書いておくと、私は森進一の歌い方はとても好きなのである。美空ひばり、森進一、都はるみが、私は好きである。もちろん、山口百恵、ピンクレディーも大好きなんだけれどね。ピンクレディーのあとの、サザンオールスターズまでは知っているが、その後の歌手はまったく知らないから、私の感想は、まあ、古くさいかもしれない。

 

 


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木村草弥『四季の〈うた〉続』

2021-05-26 11:40:44 | 詩集

 

木村草弥『四季の〈うた〉続』(澪標、2021年05月25日発行)

 木村草弥のブログに書かれたものの第二弾。『愛の寓話』という詩集から「ピカソ「泣く女」」という散文詩がそのまま転載されている。「泣く女」は、私は美術の教科書で見たのが最初である。中学生のときだったと思う。とても有名な絵である。モデルは、ドラ・マール。当時、ピカソの愛人だった、と木村は書いている。つづけて。

ピカソと知り合ったのは、この絵の描かれる前年、二十九歳のときで、ピカソは五十五歳だった。
ピカソの女性関係は伝説的である。
何しろ女性は彼にとってインスピレーションの源なので、必要なとき相手が有頂天になるほど崇め、不要になればボロ雑巾のごとく捨てるだけ。みごとに誰ひとり幸せにしてやらなかった。


 うーん。
 私はピカソに夢中の人間なので、ちょっとうなった。
 まず、木村がピカソの生涯に詳しいこと。私は簡単な伝記を読むには読んだが、内容はぜんぜん覚えていない。誰が最初の愛人で、そのとき何歳だったか、というようなことは完全に意識から消えている。だから、

みごとに誰ひとり幸せにしてやらなかった。


 に、いっそう驚いたのである。
 えっ、相手を幸せにしてやることが、愛人を持ったり結婚したりすることの条件なのか、と。
 ピカソは絵が描きたかった。ピカソは、自分が幸せになりたかった。それだけだと思う。他人の幸せは、ピカソの意識になかったと思う。
 それは、あの「泣く女」一枚を見てもわかる。ぜんぜん同情していない。「泣く」というのは、ある意味で、ありふれた感情の評言、爆発であり、とくに新しい行為ではない。男から見ると、(女は怒るだろうけれど)、泣かれたら、ちょっと面倒くさい。そういう気持ちも起きる。
 この絵には、泣く女は面倒くさい、というようなピカソの、男の気持ちはぜんぜんあらわれていない。なんておもしろいんだろう。これを絵にすれば、ぜったいおもしろい。傑作になる、と確信している。そういう発見の喜びに満ちている。
 私は、あえて印象(記憶)だけで書くので間違っているかもしれないが、この絵にはいくつものおもしろい点がある。
 女はハンカチをまるで噛み千切るようにして噛んでいる。その手と歯とハンカチの顔を多いながらも歯が見える(噛んでいる様子)パートと、顔を覆いながらも目が見える(目が覆われていない)パート、そして派手な帽子や髪といった感情とは別なパート。大きく言って、三つのパートで出来ている。三つのパートなのだけれど、ひとつに見える。そういう絵だと思う。
 歯も印象的だけれど、目もとても興味深い。日本の漫画(?)では、目の輝きを白い星であらわす。でもピカソは、たしか泣いている目を黒っぽい星で描いていた。それが、私にはうるんでいる、濡れているように見えた。泣いているというよりも、泣きそう、という感じである。一方、目からこぼれて尾を引いていく涙もある。だから、うるんでいるを通り越して、涙が止まらないのだ。そして、もうひとつ。顔を覆う手の指、その爪が、また涙のようにも見える。爪か涙かわからない。好意的(?)に考えれば、涙が手(指)をも濡らしている、ハンカチなんかでは間に合わない、ということかなあ。その一方、派手な帽子は、女の感情なんか、無視している。非情である。だから、絶対的な美しさを獲得している。
 この描き方を、木村は、美術用語をつかって最初に説明していた。

「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法である。


 教科書みたいな説明である。たぶん、そうなのだと思うが、私には「立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築」したとは思えないのである。
 再構築というよりも、見えたものを、見えたままに描いた。
 ハンカチを噛んでいるのが見えた。だから、それを描いた。そして、目が涙で濡れているのが見えた。だからそれを描いた。そして、涙が頬をつたって落ちていくのが見えた。だから、それを描いた。そして、帽子は美しいままである。だから、それをそのまま描いた。「そして」がつづいて一枚の絵になっている。どこから描き始めたのかしらないが、それは「再構築」ではなく、見えたままなのだと思う。見えたところを描いて、それが終われば次の部分を描き、さらに見えたものを追加して描く。それだけなのだと思う。
 ピカソは描くのに時間をかけない。迷わない。どの線も、どの色もスピードに満ちている。ピカソは描きなおさない。修正しない。別なことばでいえば、「有頂天」になって、突っ走って描いている。描くこと以外、何も考えていない。
 だから、

何しろ女性は彼にとってインスピレーションの源なので、必要なとき相手が有頂天になるほど崇め、


 というよりも、ピカソは女性のなかに見つけた美に「有頂天」になって、ただそれを追いかけている。女を有頂天にさせているのではなく、ピカソが有頂天になっている。それがたとえ泣きわめいている女であっても、その泣いている姿に有頂天になる。「困った、面倒くさい」なんて思わないのだ。ピカソをつらぬいているのは「有頂天」のスピード、いま見ているものしか見えないという絶対的な「有頂天」の視力だ。

芸術家は怖い。
蜘蛛が餌食の体液を全て吸い尽くすように、他人の喜怒哀楽、全ての感情を吸い取って自分の糧にしようとする。
(略)
蜘蛛が干からびた獲物の残骸を網からぽいと捨てるように、ピカソはドラを捨てた。
ピカソの残酷さが遺憾なく発揮された『泣く女』は傑作となり、ドラの名前も美術史に永遠に残ることになった。


 名前が美術史に残ることが「幸せ」かどうかわからないが、多くの人はドラのことを思い出すかもしれない。木村が「残酷」と書いていることを、しかし、私は「有頂天」と読み替えた、ということだけは書いておきたい。
 どの傑作(というか、私の好きな作品)でも、私はそこにピカソの「有頂天」の超スピードを見る。
 あ、こんなことは、木村の詩とは関係がないか。
 こんなことを書いても、木村の本を読んだ感想にはならないかもしれないが、しかし、これがきょう動いた私のことばである。木村のことばを読まなかったら、こんなことは書かなかった。そういう意味では「感想」のひとつなのである。
 で、こんなことを書きながら思うのは。

「キュビズム」というのは、立体を一旦分解し、さまざまの角度から再構築する描法である。


 の「キュビズム」の「キュビズム」に該当するわけではないのだが、木村の書いている「泣く女」に対する詩は、「泣く女」をさまざまな角度から再構築しているといえる。モデルが誰であったか、ピカソとどういう関係にあったか。さらにふたりの関係はどうなっていったか。あるいは、ピカソの女性関係はどう展開したか。ほかの作品との関係はどうか。引用しなかったが、そういうことがとても丁寧に書かれている。最後には、ピカソの長い長い本名まで紹介している。ある対象の「背景」には何があるか。知りうる限りを木村は丁寧に書く。そうすることで対象を「立体的」につかむ。つまり構築する。「一旦分解する」のではなく、細部をひとつずつ丁寧に積み上げる。そういう「手法」を、他の作品分析でも展開している。
 この一冊は、木村がブログで書き綴ってきたものをまとめた第二弾だが、木村がやってきたことは、そういう丁寧な時間の積み重ねであり、それが自然に一冊になった。いや、二冊になった、ということだ。
 付け足しのようになってしまったが、これは大事なことだ。
 本の帯に「十数年執筆の苦労は嘘をつかない」と書いてある。その通りだと思う。木村の書いていることに、嘘はない。だからこそ、私は平気で、瞬間的に思ったことを書くことができる。私が何を思おうが、何を書こうが、それは木村の書いたことを傷つけない。木村の文体は、私の感想をはね返して、この本の中でしっかりと生きている。読めば、そのことがわかる。

 

 

 

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コロナ感染者数のなぞ

2021-05-26 08:15:26 | 考える日記

はっきり見えないかも知れないが、これは読売新聞の2021年5月25日、26日の朝刊国際面に掲載されている世界のコロナ観戦状況。
フランスに注目。
25日598万人を超えていたのに、26日566万人激減している。
私はフランスの感染者が600万人に達するのと、ドイツの感染者がスペインの感染者を上回るのは、どちらが先か気にして注目していた。
ドイツの方が先だった。
あのドイツでさえ、感染者抑制に手を焼いている。
フランスの今までの数字が間違いだったのか、26日の数字が間違いなのか。
あるいは、表は恣意的に操作されているのか。
という疑惑を持つのも、日本の数字に疑問を持つからでもある。
たとえば。
アメリカは、24日(日本時間25日)、日本への渡航中止勧告を出した。なぜ、いま?
日本の9都道府県に出ている緊急事態宣言は延長される見通しになったが、感染者は減っていると発表されている。奇妙である。
国民には知らされていない数字が、どこかにあるのではないか。
フランスのきょうの数字が間違っているだけなのかもしれないが、私は、いろいろ疑問に思うのだ。
 
 
さらに。
国内のコロナ感染者。
東京都の25日の感染者は542人。記事には1週間前に比べて190人すくなく、12日連続で前週の同じ曜日を下回った、と書いてある。
事実だろう。
しかし、24日発表は340人なのだから、前日比では202人の増加である。数字の評価は、基準をどこに置くかで変わる。
危険を小さく見せるか、大きく見せるか。
客観的に見えて、恣意的なのが数字の魔法である。
見出しにしても、25日は、新規感染3000人下回る、一か月ぶり、だったのが、26日は沖縄最多256人、全国3900人感染。全国的には前日を900人も上回っているのに知らん顔である。
情報は、自分で分析してみよう。
その分析が、専門家からみて不適切であっても、自分の疑問を大切にしよう。
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高橋睦郎「いかにさびしき」

2021-05-25 17:23:37 | 詩(雑誌・同人誌)

高橋睦郎「いかにさびしき」(「現代短歌」2021年07月号)

 高橋睦郎「いかにさびしき」は55首の短歌。いつものように旧字旧かなで書いている。旧字(正字)が印字できないので、一部通用字体で引用する。
<blockquote>
溺れ谷いくつ海へと溺れ入るノルウエイの白夜チリの黒日
</blockquote>
 ではじまっている。ノルウエイからチリまでの果てしない距離、白夜と黒日の距離が、同じフィヨルドの時間、溺れ入るという動詞によって結びつけられる。溺れるだけでは不十分、溺れ入ると書かずにはいられない。もちろん谷そのものが溺れるのではない。谷のなかを通ってきた想像力が溺れ入るのだ。過剰な何か、現実に存在しているものを超えて、動き出した人間の何かが溺れる。
 この奇妙な生きものは、いま、現在動いているのだけれど、そのいのちはいま、現在だけから生まれてきたのではない。長い時間の中を生き抜いてきて、いま、ここに生まれる。その長い時間をそのまま刻印するために高橋は旧字旧かなをつかう。だから、それを通用している俗字に書き直すことは冒涜なのだが、私の冒涜ぐらいでは、高橋の守り抜いているものは傷つきはしない。そう思って、私は通用字体で引用している。
 高橋のことばのリズムは、口語的とは言えない。口語の読みやすさがない。
<blockquote>
溺れ谷背景に立ちまた坐せる男と思へば女の眩しセラフィタ
セラフィタを生ししバルザック ステンボリ いづれを母と父と呼ばむ
</blockquote>
 「立つ」と「坐す」、「男」と「女」、「父」と「母」。それは「また」で結ばれるが、この「また」は「即」だろう。だから、読みやすくはない。分裂と統合が共存している。滑らかさ(整えられた流動性)を嫌った固さのなかを、奇妙に流動的なものが流れている。内に秘めている流動性がつよすぎるために、それをおさえているのかもしれない。ごつごつさせることで、流れてしまうのをおさえている。それによって、逆に、内部の激流が見える。
 たぶん、この矛盾、内部の激流と、それを形に押し込めようとする精神のぶつかりあいが、高橋のことばの強さを生んでいるのだと思う。
<blockquote>
牢籠めの四とせがうちの孤食孤屎思へば寒く酸く鼻ひびく
乱倫と禁欲親しみつみつし王女姉妹笑み交はすがに
攫ひこし幼な男児の睾丸噛み長生叶はざりき西太后
</blockquote>
 読みやすくはないが、声に出すと、声そのものが自分のものではない何かになってしまいそうな、恐ろしい強さがある。万葉に通じるかもしれない。繰り返し読めば、自分の声そのものが変わってしまいそうである。声が、新しく生き始めるに違いない。
 それはおもしろい体験かもしれないが、危険な体験でもある。私は臆病だから、高橋の短歌を空で詠もうとは思わない。

 


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山内聖一郎『その他の廃墟』

2021-05-24 09:40:38 | 詩集

 

山内聖一郎『その他の廃墟』(書肆梓、2021年05月20日発行)

 山内聖一郎『その他の廃墟』は分厚い詩集である。この厚さに、読む前に気後れしてしまう。読み始めたばかりだが、「その他の廃墟」というのは、山内には「親しい」廃墟があるということだろう。「その他」に分類されているのは山内が「親しさ」を感じる廃墟とどう違うのか。そんなものは廃墟ではない、という否定が込められているかもしれない。つまり、ここに書かれている廃墟を突き破ったところに、山内の「絶対的(超越的/特権的)廃墟」がある、と。
 その絶対的、超越的、特権的な存在を私は知っている、という主張(声)は、巻頭の「月統」という作品にもうかがえる。本文は行頭がそろっていないのだが、引用はそろえた形で紹介する。


刑の執行猶予を得て白い車で
法廷を脱けだしたあの男は
必ずまた私の居場所をつきとめて
鬼の眼つきでやつて来るだろう
霧の出た日の夕刻、白い月が昇る頃

 いきなり「物語」としてことばが動く。「刑」というかぎりは、その前に「犯罪」という過去がないといけない。その「過去」を知っているのは書いている山内だけである。この「過去」を「廃墟」と言えば、山内の「特権性」がわかるだろう。その存在、それがどんなものであるか知っているのは山内だけなのだ。
 「過去」がある、と告げて詩ははじまる。

白い雲ひとつ湧かぬ、まつ青な空
突き抜けたような淋しさだ
雨にでも降られて地に俯すように
死にたい
麗らかな陽が敵のように背筋を照らす
憎い、此の世が憎い、人の世を呪い
平安を疎んじて片輪のような
出来損ないが死にたいのだ

 「過去」は欲望(感情)の宝庫である。その欲望は、いきなり「死にたい」と生を超越してしまう。この感覚を、「淋しい」と山内は呼んでいる。
 ここまで読めば、あとは、この変奏が繰り返されるだけだろうと思う。途中までしか読んでいないからわからないか、そういう予感がする。

犬が淋しかつたのを知るか?
男に捨てられてひとりぼつちの犬を
知つているか? おまえの
流れ去つた川面に詩の言葉ひとつも
浮かず、ただ
沈黙と月と星が、夜を流れただけ
川辺には悲しく思う男がひとり

 「過去」は「犬」であり「詩」である。それは「男(山内)」と向き合っている。「男(山内)」を存在させるのは、「犬」であり「詩」であり、「淋しさ」ということになる。
 ここに「詩」が登場するところに山内の特徴がある。「過去」は山内にとっては「物語」ではなく「詩」であるということだ。詩は、現在は、現実からは見向きもされていない。(と、書くと、多くの詩人は怒るだろうが、私にはそう見える。)「詩」は、いわば「廃墟」である。
 そんなことを思いながら、私は山内のことばを読むのだが、非常に気にかかったのが「死にたい」の「たい」である。欲望をあらわす、そのことば。
 それは「黄泉の傘」にも出てくる。

いつまでそうしていようと
雨宵の刻に夜道は闇を纏つている
力尽くで美を踏みにじりたい
他人の心に斬りつけたい、そんな
敵を思い描くことで生きる勇気を得た者は
つまり自分の心の宵闇に酔つて生きてきたのだ

 「踏みにじりたい」「斬りつけたい」という「たい」という形であらわれる欲望。欲望をもつことが「生きる」ことである。これは逆に言えば、欲望をもてなかった「過去」が山内にはあるということだろうか。その「過去」を突き破って、欲望に目覚める。それは新しい山内の誕生である。
 言い直せば、この詩集は山内の「再生」のためのことばの運動、その記録ということになるだろう。
 「力尽くで美を踏みにじりたい/他人の心に斬りつけたい」という思いで、詩を書くとき、詩は「力尽くで美を踏みにじるもの」「他人の心に(を)斬りつけるもの」でなければならない。だから、山内のことばの響きには暴力的なところがある。近寄りがたいところ(親しみにくいところ)がある。他者の否定が山内の出発点である。
 ここに書かれていないことばを補って「たい」をつかって言い直せば、

詩が書きたい

 になるだろう。
 その叫び声が、ページを開くごとに聞こえてくる。「詩が書きたい、詩が書きたい、詩が書きたい」という声が。
 だから書くしかないのである。だから、分厚い詩集になるしかないのである。私は、まだ44ページまで読んだだけだが、そんなことを感じた。

 

 

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野沢啓「世相」

2021-05-23 11:31:08 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「世相」(「ファントム」5、2021年06月20日発行)

 野沢啓「世相」の書き出し。

そうか編集者なんてそんなものなんだ
一般の技術屋と同じさ
何が肝腎かなにもわかっていない
「詩人とは、痛みや悲しみといった人の心の揺らぎ、雰囲気、歴史的なものなど、
見えないものに言葉で形を与える存在」だと
こういう恥ずかしい評言を新聞ジャーナリストは平気でできる
この類い稀な凡庸さ
悲惨が型にはめられて再現される


 「凡庸」は「型」と言い直されている。
 その「型」(凡庸)を、ではどうやって破っていくことができるのか。

ここから思考ははじまらなければならない
この十年をなにごともなかったかのようにやり過ごしてきたもの
いまも生き延びているもの
その深い根を断つために
ことばで致命傷を与えよ
それだけが凡庸さを逃れる手段だ
ことばをもたないものたちの代弁はできない
そうした代弁者を気取るものも絶えないが
編集者はその嘘が見抜けない


 再び「凡庸」が出てくる。それは「深い根」という比喩でもあらわされている。「型」も「根」も具体的に存在する。しかし、それはふつうは見えない。型は根と違い、隠れていないように見えるが、実はさまざまな意匠によって隠されている。意匠が根を隠す土なのである。
 そう把握した上で(誤読した上で)書くのだが。
 「凡庸」は、ほんとうに「ことばをもたない」のか。
 私は、ここに疑問を感じる。むしろ、「凡庸」は手ごわいことばをもっているのではないだろうか。「凡庸」は意匠によって「型」を隠すという知恵をもっている。「凡庸」は土になって「根」を隠す(根を守る)という知恵をもっている。
 困ったときは、いつでも「凡庸」に逃げる。私は凡庸な人間ですから、むずかしいことはなにもわかりません、と。「凡庸」に「致命傷」を与えるということは、むずかしい。むしろ「凡庸」によって、あらゆることばが「致命傷」を受けざるを得ないというのが現代かもしれない。

自然は不穏なままに現前している
人間どもの浅知恵など簡単に洗い流してみせる
汚染水を海に流すという二重の過ち
自然は許さないだろう


 ここに書かれている「自然」は、人間以外のもの、人間の支配できないものを指している。
 それとは別に、人間の「自然」というものが、どこかにないだろうか。
 これから書くことは、おそらく野沢には、トンチンカンなことばに感じられるかもしれない。
 私は「人間以外の自然」と同様に、「人間の自然」も「不穏なまま現前している」と感じている。それは、あえていえば「凡庸」であり、それは「浅知恵」といえるかどうかはわからないが、他人のことばから自分のいのちの根っこをまもるための「意匠」であり「土」である。
 いたるところで、そういうものにぶつかる。
 たとえば、安倍批判をする。そのとき、「だって、安倍以外にだれもいないでしょ?」ということばでかえってくる反応。さすがに、私は「だって、菅外にだれもいないでしょ?」ということばはいままで聞いたことがないが、「でも、だれがいるかなあ」という「凡庸」を聞いたことは何度もある。
 野沢のことばを借りて言えば「思考」の放棄である。自分で考えない。他人の考えを待つ。自分の考えでないから、自分自身が傷つくことはない。いざとなれば、「私も実はそう思っていた」と言えばいい。最初から「二重」を生きている。最初から、「型」にしたがって「意匠」のなかに生きている。それは、やはり「知恵」なのだ。

いまを屋内ですごさなければならないわたしには
頼るのはひとのことばではない
時代はたそがれても わたしはたそがれない
あくまで知ろうとすること
自分のことばそして信頼すべきことばを手放さなければ
思考することだけはできる
それで十分ではないか


 「自分のことばそして信頼すべきことば」。この不思議な並列。「信頼すべき」のあとにことばが省略されていないか。信頼すべき「自分の」ことばではなく、信頼すべき「他人の」ことば。野沢は、そう言っているように、私には聞こえる。直前に「頼るのはひとのことばではない」と書かれているが。信頼すべき「自分の」ことばであるなら、自分のことばそして信頼すべき「自分の」ことばと、同じことをくりかえしてしまうことになる。どうしても「自分の」以外ことばを補わないと、私にはこの一行が理解できない。
 「自分以外の信頼すべきことば」と読むのは、私の「誤読」だろうけれど、私は「誤読」したまま考える。考えるということは、もともと「誤読」といわれる領域へ踏み込んでゆくことだと私は思っているからである。「誤読」を繰り返し、その果てに、何を考えていたのかさえわからなくなる。そして、ほうりだしてしまう。それが私の「考える」というこことだからである。「わからない(答え=結論が出せない)」から、何度も繰り返す。
 で、野沢がいう「信頼すべき(他人の)ことば」とはいったいどういうものなのか。私は、ここでつまずくのである。野沢が読み、理解し、選んできたことば。「文献」のなかのことば。野沢の思考を支えてくれることば。それを「信頼すべき」と呼んでいないか。たとえば著名な哲学者のことば、尊敬する詩人のことば。詩の最後に書かれている「古い時代もまんざらではない/死んだものたちからいろいろ拝借するだけで/いまを豊かにすることができる」は「死んだ先人の信頼できることばを拝借するだけで/いま(の自分のことば)を豊かにすることができる(強くすることができる)」と読み直すことができる。
 しかし、こういうことは、野沢だけではなく、だれもがそうしているのだ。野沢が「信頼すべき」と思っていることばと、ほかの人が「信頼すべき」と思っていることばが違うとき、どうするのか。野沢は怒るかもしれないが、安倍を支持してきた多くの人は、たとえば吉本隆明のことばよりも安倍のことばの方が「信頼できる」と考えているのである。そして支持しているのである。あるいは、安倍に逆らう(安倍批判をする)と首になるという「知人(上司)」のことばを「信頼」しているのである。それは、野沢から見れば、もちろん「間違っている」。しかし、その「間違い」を「間違い」であると証明するのはむずかしい。何よりも、安倍を支持している人(支持していた人)、上司の意見に従った人は、野沢のことばを読んだりしないからである。
 いちばんの問題は、ここにあるのだと思う。
 「信頼すべきことば」は、また、次のようにも読み直すことができる。「ことば自身のもっている信頼すべき力」と。ことばには、ことば自身の「論理力」というものがある。それは「伝統」というものかもしれない。どこの国のことばでも、翻訳できない「文法」をもっている。それは長い間、「国語」として共有されることで育ててきた「力」である。それを掘り起こし、「自分のことば」を鍛えるのにつかうということかもしれない。野沢は、そういう「国語」の力をさらに拡大し、「ことばの運動する力/人類のことばの到達点」という意味でつかっているのかもしれない。しかし、そうすると、それはそれでやっぱり「他人のことば」につながってしまうと、私は感じる。
 野沢の力点は、そこではなく、「いまを屋内ですごさなければならないわたし」にあるのかもしれない。「孤立」している、私。この「孤立」を、野沢は別のことばであらわしている。

こんな時代でもひとは子どもを産む
いい年で離婚もし再婚もする
いいじゃないか
不幸な時代は誰もが自立する
そのことにもっとはやく気がつけばよかった
でもまんざら遅くもないか
技術だけは身につけたし
ことばも豊富にある
ひとの役にたとうと思わなくても
結果はそうでもない


 「自立」。そして「ひとの役にたとうと思わな」い。野沢の決意は決意として、私は、少しだけ「違う」ことを書きたい。私は特に「社会」のために役立ちたいとは思わないが、何かしている人の役に立ちたいとは思う。私のやっていることは、役に立たない、とわかっていても、役に立ちたいとは思う。誰かの何かの役に立たないなら「自立」しているとは言えないと思う。
 たとえば、この文章を読んだ人が、何かを感じてくれたら(反発でも、賛成でもいい)、それはその人が考えることの「役に立った」と思いたい。これを野沢の詩に当てはめれば、野沢の詩は、私がこれだけの長さの文章を書く(これだけことばを動かし続ける)ことの役に立っている。野沢も「結果はそうでもない」と書いている。野沢は、それは「役に立っている」のではなく、野沢を批判しているだけだと受け止めるかもしれないけれど。
 まあ、それはそれで、しかたがない。

 

 


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桐野かおる「凶区」

2021-05-22 10:06:33 | 詩(雑誌・同人誌)

桐野かおる「凶区」(「潮流詩派」265、2021年04月10日発行)

 桐野かおる「凶区」は蠅が多い地区のことを書いている。

蠅には生えタタキ
蠅にはキンチョール
というのが常識だが
この地区で蠅タタキやキンチョールがよく売れている
という話は聞いた事がない
みんな丸腰で
平気な顔をして蠅が飛び回る中を歩いているが
私が出かけるときの必須アイテムは蠅タタキとキンチョール
キンチョールで弱らせておいて
蠅タタキでバシッとやる
けれども蠅は後から後から湧いてくる
殺しても殺しても湧いてくる
そのスピードに
私の蠅タタキとキンチョールは追いつかない


 この二連目が傑作だなあ。リズムがいい。「この地区で蠅タタキやキンチョールがよく売れている/という話は聞いた事がない」と行わたりの文体でリズムを変化させて、一気に加速する。「キンチョールで弱らせておいて/蠅タタキでバシッとやる」は、そうか、そうすればいいのか、と思わず思うだけではなく、あ、これ、やってみたい、と感じる。楽しいだろうなあ。いや、そんなことが楽しいはずがないのだが、楽しくないはずのことを楽しくやってしまうコツのようなもの、勢いがある。
 けれども。「けれども蠅は後から後から湧いてくる」。「殺しても殺しても湧いてくる」。この「後から後から」を「殺しても殺しても」と言い直す、畳みかけなおすリズムがとても好き。なんというか、「蠅、頑張れ、桐野に負けるな」と言いたくなる。
 変でしょ? さっき私は桐野になって蠅をバシッと叩き殺す動きをやってみたいと思っていた。でも次の瞬間、蠅、負けるな、叩き殺されても叩き殺されても、桐野を襲え、と思っている。
 矛盾しているけれど、この矛盾が、きっと人間なのだ。
 エイリアンと人間が戦う映画(ゾンビと人間が戦う映画でもいいけれど)、人間が打ち勝つのもいいけれど、人間が襲われるのも、なんだか快感だよなあ。どっちの味方というよりも、そこで起きている「闘いのリズム(事実のリズム)」そのものに興奮する。それに似たものが、この桐野の文体にある。
 桐野も、きっとこういう「リズム」と「スピード」が好きなのだ。
 三連目(最終連)。

ここらでこの地域を出てやろうと思うのだが
その境界を跨ごうとする時
私を追いかけて蠅がついてこないか
私の体に卵が産みつけられていないか
気になって気になって
なかなか跨ぎ越せないでいる
片手に蠅タタキ片手にキンチョールを持ったまま
境界線を眼の前に
明日はここを出てやろう
明後日はここを出てやろう
私は腑抜けた決心を口にしている


 ここでは「気になって気になって」が、私にはとてもうれしい。「後から後から」「殺しても殺しても」と同じリズム。終わりがない。桐野の気(持ち)は、後から後から湧いてくる。「私の体に卵が産みつけられていないか」という意識は、蠅のように殺しても殺しても、生まれてくる。
 桐野は桐野でありながら、蠅なのである。蠅は、桐野の生きている「地区」なのである。人間と「地区」は切り離せない。仮に桐野がそこから出ていったとしても、桐野の生きている「場」が蠅の生きる場になる。桐野以外に、だれもキンチョール片手に蠅との闘いをやめる人間はいないからだ。キンチョールでプシュッ。蠅タタキでバシッ。桐野の肉体から生まれ続けるもの、あるいは桐野に肉体(正直)が呼び寄せるもの、「不穏な意識」を叩き殺し続ける。
 「気になって気になって」は最後に「出てやろう」「出てやろう」という形で繰り返される。
 何でもそうだが、人間は繰り返すしかない。繰り返すということは、それが「思想」だからだ。本質だからだ。桐野は「腑抜け」ということばをつかっているが、いいじゃないか、腑抜けを生き抜けば。
 他人のことだから(桐野のことだから)、私は、自分を棚に上げて、そう思うのである。だって、蠅との戦争をつづける桐野をいつまでもいつまでも見ていたい。蠅のいないところで、きどって高級料理を食べているという詩など読みたいとは思わない。

 

 

 


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ダニエル・マイレ「日付のある詩と散歩」、ルイーズ・グリック「沈黙の鋭い言葉」

2021-05-21 10:41:00 | 詩(雑誌・同人誌)

ダニエル・マイレ「日付のある詩と散歩」、ルイーズ・グリック「沈黙の鋭い言葉」(「彼方へ」6、2021年04月15日発行)

 ダニエル・マイレ「日付のある詩と散歩」は連作だろうか。「一月六日」は東京駅へ向かう地下鉄に乗っている。コロナ時代の車内風景が描かれる。

 車両の中に一人
 気になる男がいるのである
 彼は腕を組んでゆったりと座席に沈み
 目を閉じて
 至福の表情をしているのである

 鳥の囀りが聞こえる
 山の奥 誰も知らない木立の中に
 湧き出している清らかな湯

 彼は今 その中に浸かり
 雪を戴いた山脈を彼方に眺めている
 日が沈めば
 彼自身が釣り上げた渓流の魚と
 一壜の澄んだ酒

 私の想像を乗せて
 地下鉄は走る

 「目を閉じて」が自然でとてもいい。男を描写しているのだが、たぶん、つられてダニエルも目を閉じる。目を閉じるという動詞のなかでふたりが重なり、ひとつの夢を見る。
 この夢をダニエルは「私の想像」と呼んでいるが、理由もなく浮かんだ想像ではないだろう。想像には、かならず想像を裏付けるもの、現実の出発点がある。
 だから、詩は、それを説明するかのように展開していくのだが、これはちょっと味気ない。夢を現実の額縁に入れて飾って見せる感じがする。額縁なしの世界を見たい。ことばがすでに額縁なのだから、もう一度額縁に入れる必要はない。

 ルイーズ・グリック「沈黙の鋭い言葉」(岡野絵里子訳)は、公園で老婦人と会話する。

私たちは沈黙の中に腰掛けた。薄闇が降りて来て、
列車の個室にいるような、
閉じ込められた感覚が来た。


 「降りて来て」「感覚が来た」。「来る」という動詞が二回繰り返される。この畳みかけが、とてもいい。「来た」ものにさらわれて、どこかへ連れて行かれる、ということがはじまる。

若かった時、と老婦人は言った、夕暮れに庭園の小道を
歩くのが好きだった、
もし小道が充分に長かったら、月が昇るのが見えたでしょうね、
それが大きな楽しみだったの、sexでも食べることでも
俗な娯楽でもなくね。
月の出が好きだった、その瞬間に、時々聞こえることがあったの、
「フィガロの結婚」の最後の合唱の崇高な旋律が。あの音楽は
どこから来たのかしら?
どうしてもわからなかった。


 ここに、また「来た」(来る)という動詞があらわれる。「来た」もの、何かわからないものが、やはり人をさらっていく。
 詩は、こう変わる。

庭園の遊歩道って環状になっているものでしょう、
毎晩散歩の終わりには、気がつけば自分の玄関ドアの前に来ていて、
じっと見つめているの、暗闇の中で、やっと見分けられる
光るドアノブを。


 またしても「来ていた」(来た/来る)である。もちろん、その「意味」は微妙に違うのであるが。そして、原語が、はたして「来る」という動詞かどうか私にはわからないが、それを岡野は「来た(来る)」という同じことばで訳している。
 ここにこの詩の、非常におもしろい部分がある。
 「来る」とはいったいどういうことか。「あらわれる」か、「到着する」か。そして、また「来る」というとき、この詩に書いてあるように「どこから」来たのかが問題になる。また、書かれていないが「どうして」来たのかも問題になる。
 思い返そう。詩人は老婦人と話している。老人はどこから「来た」のか、「なぜ」来たのか。どこからは「家」からということになるが、家とは、では何なのか。
 詩は、こう展開する。

それは、と彼女は言った、偉大な発見だった、私の現実生活の
発見ではあったけれど。


 ここには「来る/来た」は書かれていないが、「発見」は、やはり「来た/来る」である。それは最初からどこかに存在した。「発明(生まれる)」ではない。「発見」はすでにあるものを見つけることである。それは「来る」のだ。
 そして、「来る」と「現実」になる。「現実」の奥から、必要な「現実」があらわれて「来る」。
 「来る」(来た)ものは、また去って「行く」。そして、再び「来る」ときは、以前「来た」ものと同じに見えても同じではない。「往復」が明るみに出す何か。「往復」から何かがやって「来る」。動詞が「更新」される。そのとき、あらゆの存在が「更新」される。
 この詩は、そういう果てしない運動へと私を連れて行ってくれる。
 この「往復」のなかの「来る」、「来る」を生み出す「往復」は「枠組み(額縁)」ではない。
 「私」がいて「老婦人」がいて、対話するという構造は、それ自体時間の枠組みを連想させるが、「来る」という動詞で、その額縁を破っていくものがある。
 「来る/来た」という訳語は、岡野の「創作」と読みたい。「来た」という訳語によって、この詩は非常に強いものになっていると思う。

 

 

 


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金子敦『シーグラス』(2)

2021-05-20 13:07:04 | 詩集

 

金子敦『シーグラス』(2)(ふらんす堂、2021年04月21日)

 金子敦『シーグラス』の、つづき。2017年以降の作品を読んでみる。ただ、思いつくままに。
 俳句はことばが少ないだけに「音感」が他の文学よりもいっそう大切だと思う。寺山修司はとてもいい「耳」をしていたと思う。耳が俳句と短歌を支えていた。でも、「音感」というのは不思議なもので、「個人の音感」と「時代の音感」がある。寺山修司は「時代の音感」に声をあわせることがとびぬけてうまかったのだと思う。たんなる「印象批評」だけれど。
 金子の場合は、どうか。

  紙コップ微かに歪み水温む

 「か」みコップ「か」すかに、と「か」の頭韻。ゆが「み」「み」ずぬるむ、のしり取り。か「す」かに、み「す(ず)」ぬるむの揺らぎ。ゆが「み」、ぬる「む」のま行の響き合い。意識して書いたものではないと思うけれど、その無意識であることがとても自然。
 ただこの「音感」は、時代の感受性とかなりシンクロしているように思う。言い直すと、金子の年齢にわりに近い私には「自然」に感じられるが、もっと若い世代にはどうなんだろう。
 「紙コップ微かに歪み」のなかにある「手触り」と「水温む」の響き合いがどれくらい共有されるのだろう。
 意外と、夏の冷たい水が、氷が解けて温くなる。そのときの、少しだらけたような紙コップの感触を思い出し、「水温む」が季語だと気づかないかもしれない。季語を無視して、夏のひとこまと読んでもいいのだろうけれど。

  父の日の大言海の重さかな

 私は、こういう句は大好きだが、「大言海」という音に、若い世代はどう反応するか。「重さ」は単に辞書が重いという物理的な(数学的な)重さではないことが「大言海」から通じるか。「なぜ、広辞苑じゃない?」と思うかもしれない。「父の日の広辞苑の重さかな」だと「重さ」がつたわらない、父の風格が出てこない、がつたわるか。そもそも「父の日」が、いま、そんなに重いか。
 「父の日の父トイレにもいない」というような句(字足らずなので、私の記憶が間違っていると思う)にどこかで出会ったことがある。これが、今風の「音感」という感じがする。軽さ、おかしさ、が。
 金子の句は美しいが、ちょっと違うと思う。

  書割の海を負ひたる菊人形

 好きだけれど、「書割」は、やはり「大言海」かなあ。「かき」わり、「きく」にんぎょう、のか行の音間の「海」のひろがり、「負ひたり」というゆったり(雄大な)調べ、それとは対照的な「書割」というチープな存在。そういうことばの出会いが楽しいけれど、現代の「音感」とは少し違うと思う。
 で、こういう句に感心しながら、私は、どうも私は古い人間だなあ、古い人間だからこういう句にひかれるんだなあと、少し悩むのである。

  鉄棒の端にマフラー結はへあり

  セーターの胸にトナカイ行進す

  冬帽子に小さきハートのやうな穴

 これはきのう読んだ「牛丼」のつづきみたいな句。「セーター」「冬帽子」は、とても現代的な音。特に「セーター」がいいなあ。「胸に」の「に」がいいなあ。行進しているのがセーターを着ている人か、セーターのなかのトナカイか、一瞬わからなくなる。この一瞬わからなくなる感じ(はっきり識別しない感じ)がクリスマスの「うきうき感」にぴったりくる。

  寒月とチェロを背負つて来る男

 これは、もう、なんといえばいいのか、私には「古い現代詩」の音感。イメージはわかるが、「わかりすぎる」感じがして、俳句に必要な「驚き」が感じられない。「女」だったら、少しは今風な音かもしれない。嫌いじゃないけれど、積極的に好きとは言えない。△をつけて保留する感じの句かなあ。誰も選ばないなら取り上げるけれど、他人が取り上げるならケチをつけたいというような句。
 こういうような句が、読んでいて、いちばん困る。

 2018年の句。

  赤ん坊の髪のぽよぽよ桜餅

 これはいいなあ。「ぽよぽよ」が楽しいし、「髪の」の「の」が「赤ん坊の」の「の」と響き合い、「ぽよぽよ」へなめらかにつながる。「桜餅」の季語もいいなあ。春を告げるだけならほかにも季語があるだろうけれど、「ぽよぽよ」が「餅」によって触感として迫ってくる。
 この句からは金子の「音感」のよさがはっきりつたわってくる。

  エッシャーの階段上りゆく朧

 「寒月と」とおなじく、読みようによってはギョッとする。スノッブな感じがする。そしてスノップというのは、なんだか私には「少し古い」という感じがするのである。「チェロ」とか「エッシャー」というカタカナの音が、それに拍車をかける。

  烏瓜の蔓を引つ張るカメラマン

 なんとなく、もったりした感じ、俳句になりきれていない音の響きだが、この俳句になりきれていないという印象が妙にうれしい。完成する前の、あ、完成しそうという予感がいいかなあ、と思う。

 2019年の句。

  そやなあが口癖の人山笑ふ

 この口語がいいなあ。「ぽよぽよ」に通じるものがある。「山笑ふ」の季語とあいまって、気持ちがほぐれる。

  白鳥も白鳥守も白き息

 俳句の常套的な表現方法のひとつなのかもしれないが、この「白」の繰り返しがいい。文字は同じだが、「はく」「はく」「しろ」と変化していく。そして「はく」のなかには「吐く」があり、「吐く息」へとつながるのも、肉体を刺戟してくる。

 2020年の句。

  手に載せて三秒ほどの薄氷

 「三秒ほど」がいいなあ。

  別室にルンバの回る朝寝かな

  落書きのゴジラ火を吐き花吹雪

 こういう句をもっと読みたい。「落書き」はゴジラの吐いた火が、そのまま花吹雪に変わるようで楽しい。「落書き」でなければ(たとえば着ぐるみだったりすれば、あるいは本物であったりすれば)、こういう具合にはいかない。らくが「き」、ひをは「き」、なはふぶ「き」の畳みかけるリズムがうれしい。
 「書割」と同じように、嘘が嘘を超えて本物になる瞬間。嘘と本物が逆転する楽しさがある。それはきのう書いた巻頭の句「初空へ」にも通じる。

  モビールのやうな家系図ちちろ鳴く

 これも△の句。

  刈田より見ゆる剃刀ほどの海

 とても好きだけれど、この「剃刀」、どこまでつうじるだろうか。「剃刀」は、もはや理髪店でしか見ないかもしれない。その重さ、その鋭さ、その誘惑。「剃刀ほどの海」なのだから、それは刈田に比べると非常に小さいはず。視覚的に、小さく見えるはず。でも、ことばにした瞬間、刈田と剃刀が拮抗し、あるいは収穫が終わったあとの刈田と比較すると、刈田を超えてなまなましい死の匂いをともっなって、重さが逆転する。それがいいんだけれど、「剃刀」が若い人にわかるかなあ。
 ある詩人が、ある有名な詩人の「剃刀」が出てくる詩について感想を書いているのを読んだことがあるが、その感想を読むと、あ、この人は「剃刀」で髭を剃ったことがないんじゃないか、「剃刀」を研いだこともないだろうなあと思ってしまった。私とほぼ同年代の詩人なのだけれど、「剃刀」の誘惑の重さ、あるいは重さの誘惑と向き合っている感じがしなかった。
 安全剃刀はすたれ、T字型の安全剃刀も、いまや切り傷防止のものが主流だから、こんなことを書いてもどうしようもないのかもしれない。

 


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