詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『赤牛と質量』

2018-10-31 23:32:37 | 詩集
小池昌代『赤牛と質量』(思潮社、2018年10月25日発行)

 小池昌代『赤牛と質量』。「ジュリオ・ホセ・サネトモ」の終わりの方に、こういう行が出てくる。

心はちぎれ 海にくだけ
そのかけらが
韓国・ポエトリーフェスティバルの夜のテーブルのうえ
言葉で十全には通じ合えないわたしたちを
音楽のようにとりまいている
わずかにわかりあえた瞬間にだけ
指先に触れた ごつい荒縄
潮をかぶった
綱手
かなしも

 詩とは「わずかにわかりあえた」もののことだろうと思う。いつでも「すべて」をわかりあえるわけではない。けれどある瞬間、それは「指先に触れ」る。私のことばで言いなおすと「肉体」に触れる。それは、もちろん「誤解」を含めてのことである。「誤解」をふくむものだからこそ「わずかにわかりあえた」と言うしかない。
 私がいまこう書いていることも、私がかってに「触れた」と感じ、「わかった」と感じていることであって、この文章を読んで、小池が「わかりあえた」と言ってくれる保証はどこにもない。
 でも、それでいいのだと私は思っている。
 「釣りをした一日」の書き出し。

生涯に二度
釣りをした
二度目は 一月 厳冬の
格別美しくもない川のほとり
男二人と女一人
早朝に作った 三人分のお弁当の
おにぎりにまぶした金ごまがナマだった

 まだ小池は若いから、釣りが本当に「生涯に二度」かどうかはわからない。これまでに二度、という意味だろう。でも、「生涯に二度」と書くと、世界が完結するからおもしろい。その完結のなかから「おにぎりにまぶした金ごまがナマだった」が、無意味そのものとして飛び出してくる。
 私はそれに「触れて」しまう。「おにぎりにまぶした金ごまがナマだった」という「事実」は、この詩の展開 (ストーリー) に影響を与えるわけではない。おにぎりの具がサケであっても、展開はかわらない。しかし、だからこそ、その「無意味さ」が「事実」としてくっきりと存在し続ける。「無意味な事実」こそが詩である。つまり、ストーリーに組み込まれずに、いま、ここに、たしかに存在するものとなる。
そうした一行は、また別な形をとることがある。「しくじりの恋」の書き出し。

路上に舞い降り
群れる雀のなかの
ただ一羽の雀をよりわけられない
そのように
人間のなかの
ただ一人の人間を
よりわけられない巨大な眼
そこに映る人間世界を想像する
朝の電車に揺られながら

「巨大な眼」で終わらずに、「そこに映る人間世界」と想像を広げていく。これは「ことば」があってはじめて可能な事柄である。ことばがつくりだす「事実」と言ってもいい。いままで存在しなかったものが、ことばといっしょに、そこに存在し始める。その存在に「触れる」と同時に、「存在し始める」ということに「触れる」。
 そのことばがこれから何になるのか、わからないまま、突然、いま、ここに「実在」しはじめる。こういうことを「実存」というのかな?
「けんちん汁を食べてってください」の最後も美しい。

けんちん汁が差し出された
新幹線の先端のような表情で
ふうふう 食べた おいしかった
あっけないほど 早く食べ終えた
浮生という言葉が李渉の漢詩にある
はかない生という意味だそうだ
その字義どおり
生は浮いている
けんちん汁を待っているあいだ
わたしは何者でもなく この世に在った
在ったというより浮いていたのだ
心の上半分が 浮世の水面に
あれを幸福と呼ぶのだろうと思う

 ことばを「統一」させようとしていない。ふっと動く、その瞬間を待って、それが壊れないようにしてつかまえている。
 余裕のある詩集だ。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(115)

2018-10-31 08:00:27 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
115  アマーストのサッポーに

 この作品には「白熱した魂を見たい?--E・ディキンスンに」という「副題」のようなものが書かれている。ディキンスンに捧げられた詩である。高橋は、ディキンスンを「アマーストのサッポー」と呼んでいる。
 高橋はディキンスンの墓を尋ねる。でも「そこにあなたはいなかった」。ディキンスンは、では、どこにいるか。詩のなかにいる。

それらの詩が書かれたのがあなたの庭なら そここそがあなたの永遠の栖み家
私は八日の間 その庭に毎日遊んで 庭の記憶でいっぱいになって帰ってきた
帰ってきて 私の庭に椅子を出して くりかえしあなたの詩篇を復唱した
いまではたぶん私の庭があなたの墓 遠いあなたの庭と一つづきの

 ディキンスンの庭と高橋の庭が「一つづきになる」。「一つになる」のではなく、「つづき」。
 これは、これまで読んできたモーツァルト、キイツ、シェリー、ポーについても言えることだ。高橋は彼らと「一つ」になることはない。あくまで「つづく」(つながる)のだ。そして、その「つづき」(つながり)のなかに、いくつものギリシアが浮かび上がる。その彼ら独自のギリシアと高橋は「遊ぶ」。そこにある「違い」と喜ぶ。
 「違い」があるということは、ギリシアが「ほんもの」だからである。どんなものでも、それに対する「思い」というものは、どこかしら「違い」を含んでいる。もし、「思い」が完全に一致するなら、それは「ほんもの」がもたらす思いではなく、「嘘」が「思い」を統一しているからだ。
 「新約聖書」はキリストの目撃証言集とでも言うべきものだが、同じキリストを見ているのに、少しずつ「違う」ところがある。これはある意味では、実際にキリストがいたということを証明する。もしまったく違いがなかったら、それは最初からつくられた「嘘」である。ことばは、それぞれがつかうから、どうしても違ってくる。同じものがコピーされるとしたら、「嘘」だからである。
 「新約聖書」がキリストと「一つつづき」であるように、高橋が取り上げた詩人たちはギリシアと「一つづき」なのである。その「一つつづき」のなかに高橋は分け入っていく。「一つつづき」になろうとしている。

 高橋の書くギリシアは、彼らの描くギリシアと違ったものを含んでいる。だからこそ、ギリシアは確実に存在する。










つい昨日のこと 私のギリシア
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(114)

2018-10-30 10:21:45 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
114  E・A・ポーに

 ギリシアはどこにあるか。地理学的には地中海にある。しかし、文学的にはギリシアという国にとらわれない。「地理」を超越したところにギリシアを出現させる。

一度もヘラスの地を踏むことなく
地中海の紺青を遠望したことすらなく
あなたはヘレネとニカイアの小舟をうたった

 ポーのことばのなかにもギリシアはある。ひとは「ことば」を通して、見たこともない土地と人を知り、交わり、生きることができる。ギリシアを生きるのである。
 ポーのギリシアは、ボードレールによって発見される。フランス人が、アメリカ人の書いたギリシアを通して新しいギリシアを知る。誰も書いたことがない。既知なのに、未知のギリシアだ。未知なのに、ギリシアだとわかってしまう。そして、ボードレールは、

あなたのために フランス語の壮麗な墓を建てた
その顰みに準って 私も日本語の簡潔な碑銘を
新大陸の孤独なヘレニスト あなたにふさわしく

 高橋もボードレールにならって碑銘を書く。これが、その詩。
 そのことばのなかに「孤独」が紛れ込んでいる。
 ポーはアメリカで孤独だった。その孤独をボードレールがつなぎとめる。そのつながりのなかへ高橋も入っていく。
 三人は、それでは「孤独」ではなくなるのか。
 そうとは言えない。「孤独」のままである。「孤独」であることが、ことばをつなぐ力になっている。
 ここに文学の不思議がある。

 「ギリシア」は孤独か。多くの人がギリシアにあこがれ、ギリシアから影響を受け、ギリシアを書く。ギリシアは孤独ではない。しかし、そのギリシアを書く人は、「孤独」であるがゆえに、他の「孤独」とつながりあう。そして、その「つながり」のなかに「ギリシア」をつくりだす。







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高橋睦郎『つい昨日のこと』(113)

2018-10-29 09:02:31 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
113  P・V・シェリーに

 この詩にはイタリアで死んだシェリーが出てくる。ギリシアが舞台ではなく、イタリアが舞台。そのイタリアを「ピュタゴラス」と「そらまめ」でギリシアに変えてしまう。

嵐の後 海が打ちあげたきみの胃袋の 二百年後の解剖が許されるなら
ひょっとして 咀嚼したそらまめの残骸が 見つかるのではあるまいか
そらまめを食べてはならぬとは 教祖ピュタゴラスの重い禁忌の一つ

しかし、この禁忌をピュタゴラスは知っていたのか。そして知っているけれども、それをあえて破ったのか。これは、わからない。
「二百年後の解剖が許されるなら」と高橋は「仮定形」でことばを動かしている。
「許されるなら」からあとのことばは、すべて仮定、空想である。つまり、高橋の内部で起きていることだ。

だが 後世のイタリア人は生そらまめを肴に 白葡萄酒を飲むのを好む
きみはヨットの上でそらまめを食べ 死者の国に招かれたのではないか
そらまめは死者たちに属しているとは ピュタゴラスの謎の言葉の一つ
そらまめで白葡萄酒のグラスを傾けながらの ぼくの肆な幻想だが

「幻想」と高橋は呼ぶ。
「幻想」は「謎の言葉」を中心に動いている。伝えられる「謎の言葉」とは文学である。高橋のことばは、いつも「文学」から出発している。そして「文学」としてギリシアへ帰っていく。ことばとことばの緊密な関係、集中力がつくりだす緊密性、構築性へと帰っていく。
「幻想」にはいろいろな種類があるが、高橋の幻想は、「構造」そのもののなかにある。
モーツアルト、キイツ、シェリーと、ギリシアではない人間、ギリシアに住んでいない人間を通して、ことばで、ギリシアと彼らの間に「文学空間」 (ことばで構築された空間) をつくる。「構築する」という動詞で、高橋は、その世界へ入っていく。「これが、私のギリシア」と断定する。
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サミュエル・マオス監督「運命は踊る」(★★★)

2018-10-29 00:56:34 | 映画
サミュエル・マオス監督「運命は踊る」(★★★)

監督 サミュエル・マオス 出演 リオル・アシュケナージ、サラ・アドラー、ヨナタン・シライ

 この映画の映像は、吐き気を催すくらい気持ちが悪い。私は目が悪いせいか、特にそう感じた。目を開けていられない。それも、冒頭の荒野のなかの道から始まる。車で走っているらしいが、全体がわからない。道路はまっすぐだ。一点透視の構造なのだが、焦点となって消えていくのではなく、空中に浮かぶ感じて道が途切れる。おそらくその先は下り坂で、坂の頂上が見えるという「絵」なのだが、この冒頭から私はくらくらしてしまった。先があるのに先が見えない。それを延々と見せられる。
 つぎに目をつぶりたくなるのが、息子の戦死を聞いた父親が椅子から立ち上がり、歩くシーン。これを天井から映し出している。床の幾何学模様は「六面体」を斜め上からとらえたもの(平行四辺形を三つ組み合わせたもの)を繰り返すパターンなのだが、この無限の三つ、終わりがない感じに、私の目はついていけない。どうしても目をつぶってしまう。
 その前の、壁の抽象画も、目を引きつけるけれど、引きつけられた目を維持することができない。目をつぶりたくなる。
 で。
 思わず目をつぶるのだけれど、この映画は、目をつぶっていてもいい映画である。セリフが極端に少ないから、目で見ていないとわからないはずなのだが、このことばの少なさが逆に映像をかってに作り出すのである。一瞬だけ見た映像が、網膜の奥にことばで押しつけられるという感じ。
 どうして、こんなにしゃべらないのか。ことばが少ないのか。
 それは登場人物の「肉体」のなかでことばが動き回っているからだ。激しすぎて、そのままでは「肉体」の外に出ることができない。抑圧というか、制御というか。
 あ、イスラエルは、「ことばの国」なのだ。私はイギリスをことばの国と考えていたが、そのイギリスとは別の意味で「ことばの国」である。
 私はキリスト教徒ではないのだが、田川建三の「新約聖書(本文の訳)」(作品社)を最近読んでいて、「ことば」ということばが頻繁につかわれていることに気づいた。イスラエルはもちろんキリスト教ではないのだが、もとは一つの「神」。そして「神」というのは、まず「ことば」なのだ、と知らされた。
 その伝統というのか、血というのか、そういうものがイスラエル人には引き継がれている。(バーブラ・ストライザンドやビリー・ジョエルが信じられないくらいくっきりとことばを発音するのも、何か、そういうものの影響があるかもしれない。)「ことば」を発することで「神」と向き合っている。「神」と向き合うために、ことばを探している。それは、対話の相手が誰であれ、同じなのだ。その人に向き合うと同時に、「神」と向き合う。自分自身が「神」となって、他者と向き合うということかもしれない。「神」にふれるまでは、ことばを発しない。
 この緊張感が、私のようないい加減な人間には、また非常に苦痛である。私なんか(この文章もそうだが)、考えずにことばを発してしまう。ことばを言ってしまってから、意味を考える人間である。つまり、口からでまかせ。私のような「口からでまかせ」人間には、この映画で語られることばは「強すぎる」。だから、思わず目をつぶる。目を閉ざせば「ことば」が見えなくなる。ことばは「聞く」ものだけれど、イスラエル人のことばは聞いていると、その「形」が見えてくるような、エッジが非常に強いことばなのである。精神の動きを語る(浮かび上がらせる)という感じではなく、精神の存在を「形」にするといえばいいのかもしれない。
 まあ、こんな「印象」はいくら書いてもしようがない気もするが。
 イスラエル人はどう見るのか(聞くのか)、キリスト教徒はどう見るのか(聞くのか)、イスラム教徒はどう見るのか(聞くのか)、それをだれかに尋ねてみたい。
 映画のなかに、父親の兄弟が出てきて「私たちは無神論者だ」というようなことを言う。イスラエルの(あるいは他の一神教の)無神論者にとっては、どう聞こえるのかも、ぜひ聞いてみたい。
 私は、「神」が存在するかどうかを考えたことがない「無神論者」なので、そういう人たちとは、この映画のことばの聞こえ方が完全に違うだろうなあ、と思う。
           (2018年年10月28日、KBCシネマ1)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(112)

2018-10-28 12:42:07 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
112  J・キイツに

まだ見ぬ 目見えることついにない ギリシアへの思いは
あなたの内側で滾る血潮となり 血しぶきとなって降り
青年像の 処女像の 処女神殿の洗い晒しの白を 真紅に染めた

 こう書くとき、高橋はギリシアを見ているのか。キイツを見ているのか。キイツが血(潮)を集中させることでつかみとる、そのときの血を見ているのか。
になっている。
 おそらく、血だ。、この詩は「血潮」と「真紅」が中心になって動いていく。しかし、私はその「色」よりも、「まだ見ぬ」を「目見えることついにない」と言いなおす、その高橋のことばに強く引かれる。ことばが繰り返される。「否定」が繰り返される。そのとき、「肯定」が強く浮かび上がる。「ギリシアへの思い」はギリシアを「肯定」する思いである。

そして あなたにうたわれたギリシアは 永遠を得た
血しぶきの永遠 真紅のギリシア

 キイツを通ってギリシアになろうとしている。
 高橋はすでにギリシアを知っている。しかし、その知っているギリシアではなく、ギリシアを直接知らないキイツの、キイツだけが知っているギリシアになろうとしている。

 知らないからこそ、知ることができる何かがある。
 それはまるで、ギリシアが「集中力」で、知らない世界を論理的に作り上げる作業に似ている。
 「知らない」からこそ、「知る」ことができるものがある。
 こう書いてしまうと、どこかからソクラテスが現れてきそうだ。
 ただし、キイツと「論理」ではなく、「血」を動かす。「血の集中力」が作り上げるギリシア。真紅のギリシア。
 それは私の知っているギリシアではないし、高橋の知っているギリシアでもないのだろう。だからこそ、刺戟的だ。



















つい昨日のこと 私のギリシア
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(111)

2018-10-27 09:18:15 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
111  モツァルトの墓

ギリシアの詩人たちは 言葉を紡ぐ人であり
それらの言葉を竪琴の絃に乗せ 音に移す人
だから あなたは彼ら 彼女らの直系の人
 
 モーツァルトとギリシア(人)を結びつけて考えたことは、私は、ない。考えるというよりも、感じることがない。私は音楽に疎いし、音痴であるからかもしれない。

彼ら 彼女らの言葉が 雪白の山嶺から来たように
あなたの音も 青空の見えない奥から訪れたもの

 この「対句」の「意味」が私にはわからない。「ギリシアの詩人」とは誰を想定してのことなのかわからないが、私はギリシア人がインスピレーションに突き動かされているとは思えない。出発点はインスピレーションかもしれないが、それを上回る「集中力」がギリシアではないだろうか。集中力でことばを結晶させる。
 モーツァルトも集中力の人なのだろうけれど、「天性」(天才)という感じの方が強い。
「意味」はわからないが、この対句にはおもしろいものがある。ギリシア人のことばは「雪白の山嶺から」来るのに対し、モーツァルトの音はさらに遠い「青空の見えない奥から」来る。
 比喩は一種の「動詞」であり、比喩のなかの「遠くから来る」が動き、遠くがさらに遠くなる。これが比喩という運動の必然。逆の対句、

彼ら 彼女らの言葉が 青空の見えない奥から来たように
あなたの音も 雪白の山嶺から訪れたもの

 は、ありえない。
 これはことばの動きの法則であり、この法則のなかにことばの「音楽」がある。

 ところで。音階を発見したのはピタゴラスだったと思うが、ピタゴラスの音階は「数学」と「物理」である。つまり「法則」であり「論理」である。モーツァルトは数学、物理の「論理性」を目指しているのか。論理性から出発しているのか。
 私は、そんなふうには感じない。ギリシアの「論理」にしたがってモーツァルトの音が動いているとは感じられない。もしギリシアの論理に従っているのなら、あんなにしつこい繰り返しはないだろうなあと思う。
 ギリシア人は「純粋(透明)」へ向かって集中するが、モーツァルトは「純粋」のなかに酔って動いている。
 単なる直感で言うのだが。
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三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』

2018-10-26 11:42:16 | 詩集
三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』(思潮社、2018年08月30日発行)

 三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』の表題作になっている「悲の舞」。

悲は斜めうしろから
すくうのがよい
真正面からでは
身がまえられてしまう

 「悲しみ」と書かずに「悲」と書く。文字で読めば「悲しみ」とすぐにわかるが、声で聞いたときはわからないかもしれない。しかし「悲」を「悲しみ」と理解していいのかどうか。すこしなやましい。
 「悲しみ」に「斜めうしろ」はあるか。「悲しみ」は「すくう」ことができるか。
 「悲」は「悲しみ」に似ているかもしれないが、「悲しみ」ではない。それは三田の認識によって、特別な形をあたえられた何かである。
 「悲」は「悲しみ」であって、「斜めうしろ」や「すくう」は、「比喩」であると考えることもできるが、「斜めうしろ」や「すくう」が現実であり、「悲」が比喩であるということもありうる。
 一連目を、三田は、こう言いなおす。

悲は日常の爪先ではなく
白すぎる紙の指で
呼吸をほどこすように
すくうのがよい

 「爪先」は「爪の先」だが、私は「足の爪先」を思い出す。手の「爪の先」とは思わなかった。だから、直後に「白すぎる紙の指」が出てきたときは、とても驚いた。
 それとも「悲は日常の爪先ではなく」は「悲は日常の爪先ではない」という一行が、ことばとして独立せずに、文章のなかになだれていったのだろうか。
 そうではなくて、やはり一連目の「すくう」が言いなおされているのだと思う。
 「呼吸をほどこすように」は、悲しみで息をつまらせているものの、息が再び動き始めるように、寄り添うように、くらいだろう。
 「すくう」は、このとき「掬う」ではなく「救う」にかわる。「救い出す」ことを「掬う」という一言で言っている。「悲しみ」を「悲」という一文字であらわすように。
 そして三連目。

太古から伝わる悲の器のように
やさしく抱え込みながら
静かな指のかたちで

 「すくう(救い出す)」という動詞は、ここでは省略され「やさしく包み込む」という動詞が代わりに動いている。「すくう(救い出す)」ということは「包み込む」ことである。
 さて。
 そうすると「悲(しみ)」というものは、自分のなかにあるのではなく、自分の外にあるものなのか。
 他人の「悲(しみ)」を「すくう」と言っているのか。いや、そうは読むことができない。三田は自分の「悲(しみ)」と向き合っているとしか読むことができない。ことばは外へ向かって動くというよりも、内へ内へと動いている。

すくってもすくっても
こぼれてしまうけれど
傷ついたいのちのすきまを
ていねいにふさぐように

 「すくう」は「ふさぐ」と言いなおされている。「ふさぐ」は「包み込む」を言いなおしたものでもある。自分の肉体から「こぼれる」「悲(しみ)」。感情とは、いつでも「肉体」から出ていってしまうものだ。しかも出て行くと、さらに感情を誘い出すのだ。だからこそ、こぼれないように「ふさぐ」。
 三連目の「やさしく」は「ていねいに」と言いなおされている。
 このあと詩は、こう展開する。

だれもいない奥の間の
ひっそり開かれる戸から
陽がさしてくればなおよい

そのとき
悲はひかりの粒子にくるまれて
必然のつれあいのように
すくいのみちをめざしながら
秘奥の悲の舞を
ひそかに演じるのでしょうか
だれもいない開演前の舞台のように

 うーむ。
 「奥の間」か。これは日本の家の構造をあらわしているのだが、それはそのまま「物理」の「構造」へとつながっていく。「ひかり」「粒子」。「粒子」は「分子」「原子」「中性子」などのことばにつながることばだ。
 三田のことばの動きは、どこかで「科学」と通じている。展開の仕方が「論理」を感じさせる。
 だから、この最終連が三田の書きたかったことなのだとわかるのだが。
 「悲をすくう」というときの「主語」は「人間(三田)」だったのに、最終連では「人間」が消え、「悲」が主人公になって舞っている。
 悲(しみ)が舞うことが、舞わせることが悲(しみ)をすくうことか。
 うーむ。
 私は、「悲(しみ)」が主人公にならずに、人間が主人公のままのところまでの方が好きだなあ。

 他の作品もそうなのだが、「論理」が勝手に動き始める。論理とはもともとそういうものなのかもしれないけれど、その動きすぎは、言いなおすと「書きすぎ」ということになる。論理が自律運動をはじめる前にことばをたたききった方が、おもしろいのでは、と思う。
 「結論」は詩人が書くのではなく、読者が書くもの。言い換えると、詩は読者が引き継ぐもの。「結論」を書かれてしまうと、その瞬間、手元に引き寄せたものか、ぱっと離れていく。
 金魚すくいで、金魚が紙を破って逃げていくみたい。あ、逃がしてしまった。あと少しだったのに。悔しい、という感じが残ってしまうのににているなあ。


















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高橋睦郎『つい昨日のこと』(110)

2018-10-26 08:22:02 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年10月26日(金曜日)
110  対話について

身近な話題から始めて 試行錯誤をくりかえし
すこしずつ すこしずつ 本質に近づいていく
かの路傍での対話法こそ 素描の原点ではないか

 「109  素描について」で、私は「対句」について書いた。「対句」の「対」は「対話」の「対」である。正確に向き合う。正確に向き合うと、違いが見えてくる。なぜ違うのか。それを考える。そこから、ことばが動く。
 プラトンの対話篇(ソクラテスの対話のことば)は、たしかに、そんなふうに構成されている。
 この運動を高橋は「本質に近づいていく」と書いている。
 たしかにそうなのかもしれないが、私は「本質」でなくてもいいのではていかな、と考えている。
 「本質」はどこかにあるのではなく、あるいは「イデア」のようなものではなく、「対」になって動くという運動そのもののなかにある。

 それがたとえば、愛、セックスという形をとるときにも存在する、と考える方が楽しい。
 ソクラテスもプラトンも「結論」を求めていない。「結論」は「わからない」。知っていると思っていたことが、実は何も知らない。これが「本質」というのでは、私は、はぐらかされた気持ちになる。
 「ほんとう(本質)」かどうかは、動いていることが、気持ちがいいかどうか。自分の納得がいくものかどうかという「肉体的」な反応のなかにある。

 詩の感想から脱線したか。
 でも、脱線するという「対」の形もある、と私は思う。
 向き合うことで、私は、こんなふうに動いてしまう。
 それは高橋が求めているもの、高橋が予想したものと違うかもしれない。
 私が予想したものとも違う。(私は予想などしない)。でも、こうことばが動いたなら、それは私のことばが求めていた動きなのだと信じるしかない。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(109)

2018-10-25 08:26:49 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
109  素描せよ

 「素描せよ と巨匠は弟子を叱咤する」。それに触発されて、高橋は「ことば」による素描を考える。さらに、ことばをこえて、「日日生きること自体」が素描ではないかと考える。

たとえば 窓を押し開け 新しい朝を入れること
たとえば 白湯を含んで 口中の闇を目覚めさせること

 この二行は、高橋の日々の暮らしをそのまま素描したものか。
 美しい対句になっている。
 「窓」を「押し開ける」。しかし出て行くためではない。「(受け)入れる」ためである。「白湯」を「含む」。しかし、内部に入れるためではない。内部にあるものを、外に出すためである。「口中の闇」は白湯といっしょに「肉体」のなかに飲み込まれていくのではなく、ほっと一息つく、その息といっしょに外へ出ていく。
 「窓」の行のなかに対があり、「白湯」の行のなかにも対がある。そして、「窓」の行と「白湯」の行も対句になる。
 この美しい動きの対句は、何のためにあるのか。

宇宙の成就という 顔のない者の無際限の大作のための

 高橋は、最終行でそう書いている。あらゆる素描は「宇宙」をつくるためのものである、と。そのとき「無際限」とは、どこまでも拡大の運動をつづけるという意味になる。
 高橋が書いた対句は、一方方向ではない動きから成り立っていた。
 宇宙の拡大も、一方方向ではないのだ。光は外へ外へと拡大する。一方、内部では闇が拡大する。凝縮する。二つは相反しているからこそ、互いを鮮やかに浮かび上がらせる。
 しかし、この「宇宙」を「顔のない者」の大作と結びつけたのはなぜだろう。
 「顔のない」は「誰のものでもない」へとつながっていくのか。
 よくわからない。
 「誰のもの」でもないのなら、それは「真理/事実」のものか。高橋のことばは「客観」へとつながるのか。そう読めば、たしかにそれはギリシア的ではあるが。


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暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(2)

2018-10-24 21:40:14 | 詩集
暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』(2)(港の人、2018年10月17日発行)

 暁方ミセイ『紫雲天気、嗅ぎ回る』に「小岩井農場 二〇一六年」という作品がある。宮沢賢治を訪ねていったのだ。その書き出し。「パート一」

あなたもここを通ったのだ
送電塔が気高く山の上に並び立ち
田の水は澄んだ鏡面反射
目膜も肺も
青くしてしまう 今朝の田沢湖線に
わたしは飛び乗った

 こうして、暁方は宮沢賢治になる。私がいちばん宮沢賢治を感じるのは三行目。「田の水は澄んだ(澄んでいる)」は誰もが書く。そして、それが鏡のようになっているも多くの人が書くだろう。さらに田の水が反射しているとも書くだろう。しかし、それを全部ひとつづきにして「鏡面反射」ということばに押し込めることは、普通はしない。できない。間延びしてしまう。間延びさせずに「鏡面反射」ということばのなかに世界を凝縮する。ここが宮沢賢治である。宮沢賢治になってしまった暁方の書き方である。
 「パート九」に、

山からは絶えず
一直線の連絡は来る

 という行がある。この「一直線」の「一」の感じである。そこにあるのは「一」ではない。いくつもの要素がある。しかし、それを「一」にしてしまう。「一」にすることで、それまで存在しなかったものを炸裂させる。
 「鏡面反射」の「反射」によって、私たちは「反射」しか見ない。いや「反射」によって、それまで見たものがみんな見えなくなる。光がまぶしすぎる。光は、まるで鉱物のように私たちの目を射抜いてしまう。
 この「一直線」、あるいは「一」は、こんなふうに展開する。

ツユクサ
アカマンマ ツメクサ
シロツメ ああこれはきいろい
朝ならこれらが
硝子というのもよくわかる

 複数の植物が、朝の光で「硝子」に変わってしまう。私たちは、何を見たのか。何を見たにしろ、それは「硝子」に結晶する。そして、その「硝子」のプリズムを通して、記憶の中で「ツユクサ」をはじめとする花にもう一度分裂(炸裂)していく。
 この「一」になり、さらに「複数」になっていく透明を暁方は、こんなふうに書く。

(広大なる
稲をわたってくるこの風と秋津
秋津
蓄積された
五百年のさみしさが はがれてここらをたくさん舞う)

 「さみしさ」と暁方は書くが、これは感情というよりも「孤立」(孤独/独立)という状態、「生き方」だろう。言いなおすと「思想」だ。誰にも寄り掛からない、独立した「生き方」が世界を凝縮させ、さらに分光する。その光が激しく乱舞する。乱舞なのに、そこに「統一」がある。














*

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紫雲天気、嗅ぎ回る 岩手歩行詩篇
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港の人
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(108)

2018-10-24 09:14:51 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
108  喧嘩の後に ポンペイのらくがきから

「おまえのけつに おれのもの つっこんでやる
おれのはでっけえから おまえの口から出るぞ」
「おれのはもっとでっけぇから おまえの口から
つん出て むこうの壁をつき破るからな」

 ことばは暴走する。ことばは、できないことも語ることができる。ことばによって語られたのは、「欲望の事実」、あるいは「本能の真実」である。

つき破った壁のむこうは空 何もない青
ふり返れば壁も 穴も 突起もなくて
何もない 青い悲しみばかりが ひろがって

 「何もない」のか、「青い悲しみ」があるのか。あるいは「ひろがり」があるのか。
 この詩の「青い悲しみ」は、「107  地中海」の「紺青の渦のかがやき」である。
 地中海は、青い。そして、そこにはいつも透き通った太陽がある。輝きがある。あまりにも集中しすぎて、透明になってしまった認識。それはあらゆる存在を、透明な力で明晰な論理にしてしまう。
この喧嘩も、喧嘩なのに論理的である。論理はいつも、ばかばかしい。
 「青い悲しみ」とは、そういうあまりにもギリシア的な精神かもしれない。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(107)

2018-10-23 09:07:17 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
107  地中海

ローマに征服されたギリシアが 逆にローマを征服した という
しかし それ以前にギリシアがまず 地中海に征服されたのだ

 ローマ帝国はギリシアを征服した。けれどもギリシア文化はローマを征服した、という意味だろうか。ギリシア文化がローマ文化に大きな影響を与えたことを、そう言いなおしているのだろうか。
 そうであるなら、二行目は、ギリシア文化と思っているものの「起源」は地中海にあり、ギリシアはその影響を受けているという意味になる。
 だが、地中海とは何なのか。

私たちがギリシアの魅力と思っているものは じつは地中海の蠱惑

 「蠱惑」は名詞だが、動詞にすると、どうなるだろうか。「たぶらかす」「まどわす」。だが、どうやって、たぶらかし、まどわすのか。
 その次の行で、高橋は、こう書いている。

その紺青の渦のかがやきから生まれた 神神も 知恵も 詩も

 「かがやき」でたぶらかし、まどわす。「かがやき」で「真実」を見えなくする。「神」も「知恵」も「詩」も、輝きであって、真実ではない。「嘘」だ。逆に言えば、嘘も輝くなら真実になる。
 ただの輝きではなく、絶対的、超越した輝き。
 うーむ。
 そうすると、「絶対的」「超越的」ということ、言い換えると非人間的、あるいは超人的なことが、たぶらかしであり、まどわしなのか。たぶらかすとき、まどわすとき、その主体は「絶対的」「超越的」である。「絶対的」「超越的」であれば、それがどんなものであれ「真実」。
 この関係を「真実」は「絶対的」「超越的」という「評価」によって「征服された」と言いなおすことができるかもしれない。

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estoy loco por espana (番外16)Borjaの作品

2018-10-22 11:30:19 | estoy loco por espana

Borja Trénor Suárez de Lezoの作品から。

線を引く

一本の線は
面を分割することにより線の運動を挑発し
線を引く者の認識形態としての
線の保有する意味を
視野に客観化させる
その操作を恒常化することで
視野の有限化を試みる

線の形態は
線の延長する力の遭遇する空間に
線を引く者の
継起的意志の連絡を投影する
また 像化された意志を弁別し
不在の線の捕捉をうながす

そのようにして構成される空間において
方向的意志の所産である線は
内部感覚の習慣の結果の亀裂と重複し
知覚的意志を表象する線の総体に
等価値の無数の経路を与える
知覚の新しい結集
と なる

(私のスペイン語能力では、とても翻訳できない。
googleに任せてみた。
あまりにもでたらめなスペイン語だと思う。
だが、訂正する方法を私は知らない。


Con mi habilidad en el idioma español, no puedo traducirlo mucho.
Lo dejo a google.
Creo que es demasiado aleatorio español.
Pero no sé cómo corregirlo.)

Dibuja una línea

Una linea es
Propagando el movimiento de la línea partiendo la cara.
Como forma de reconocimiento de quienes dibujan líneas.
El significado que posee la línea.
Objetivo al campo de visión.
Al hacer la operación permanente.
Intento de finito el campo de visión.

La forma de la línea es
En el espacio encontrado por la fuerza para extender la línea.
Los que dibujan lineas
Proyectar un contacto de una voluntad recurrente.
También discrimina la voluntad imaginada.
Rápida trampa de líneas ausentes.

En el espacio así construido.
La línea que es producto de la voluntad direccional.
Se superponen con grietas como resultado de los hábitos sensoriales internos.
A toda la línea que representa la voluntad perceptiva.
Dar innumerables caminos de igual valor.
Un nuevo rally de percepción.



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(106)

2018-10-22 00:24:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
106  もう一つの顔

 ソクラテスのことを書いている。

知恵の人よ あなたの太い首の上の顔については さんざ語られている
しかし 二つの腿の付け根のもう一つの顔に関しては 言及の例を知らない
想像するに下の顔は上の顔の醜さに匹敵するほど 美しかったのではないか

 性器を「顔」と呼ぶのはふつうのことなのか。私は「例を知らない」。
 もうひとつ、この詩には「醜さに匹敵するほど 美しかったのではないか」という表現がある。こういう例も、私は知らない。しかし、「匹敵する」という「動詞」を中心にみつめなおせば、なんとなく「わかる」。「醜さ」と「美しさ」が比較されているのではなく、醜さの「程度都」、美しさの「程度」が比較されている。ソクラテスの顔の「醜さ」は誰もが知っている。一目でわかる。その、一目でわかるという「程度」が匹敵する。
 性器の「美しさ」とはなんだろうか。形だろうか。性交する「能力」のことだろうか。「子沢山」ということばでソクラテスのことを書いているから、今年流行りのことばで言えば「生産力」が高いということか。この詩で問題になっているのは男色だから、「生産性」ではなく、勃起能力ということかもしれない。
 「顔」は見目のよさ、人を魅了する力で勝負する。性器は勃起力で勝負す、人を魅了する。なんだか露骨すぎておもしろくない。
 この詩には、こういう行もある。

見せなかったせいで それは想像の中でますます美しくなっていった
                    
 「美しさ」は固定していない。「美しくなる」という動詞としてつかわれている。しかもそれは「想像の中で」である。想像する、という動詞が加わってくる。想像すると、美しくなる。想像するのはソクラテスではない。そして「想像する」は、詩を読み直してみれば先に引用した三行目にも登場している。
 「想像する」ことが「匹敵する」を呼び覚ましている。「想像する」が「匹敵させる」のである。そうだとすれば、それは「美しくなる」のではなく「美しくさせる」。
 ここにギリシアのすべてがあるかもしれない。
 想像する、想起する。それが「現実」を美しくさせる、完全なものにさせる。ギリシアの、この想像するときの集中力は、ものすごいものだと思う。美しくできないものは、何一つない。

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