詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陳育虹「あなたに告げた」

2011-03-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
陳育虹「あなたに告げた」(佐藤普美子訳)ほか(「現代詩手帖」2011年03月号)

 翻訳の詩に対する感想は、どこまで書いていいのかわからない。私は外国語ができないし、雑誌に掲載されている作品はたいてい日本語だけだから、両方を比較して見ることもできない。読めないのに外国語の作品を掲載しても仕方がないではないかと思うかもしれないけれど……私はちょっと変な体験をしたことがある。イタロ・カルビーノのなんという小説かも忘れてしまったが、あるとき空港でペーパーバックを買った。飛行機のなかで読めない本を開いていたら、あ、これは美しいことばだなあ、気持ちのいい文体だなあ、と感じたのである。アルファベットをそれこそローマ字読みしているだけなのだが、集中して読めば何かがわかるかもしれない、と錯覚する。そういう音の美しさ、--音のとどこおりなさ、軽快な動きを感じたのだ。そういうことは、どの国語・外国語においても起きうることのように思えるのである。
 あ、何を書いているか、ちょっとわからない方向へずれていってしまったが--日本語で外国語の詩を読む。そのとき私が読んでいるのはあくまで日本語である。そして日本語の音に反応している。その音にうまく体がついていけないとき、もとの詩がどんなにすばらしいものであっても私にはなじめないものになる。逆に、その日本語が音として私の肉体を揺り動かせば、その詩が好きになる。だから、私の感想は、翻訳前の詩に対する感想ではなく、あくまで日本語の詩に対する感想になってしまう。そんなことを、私は、いま思っている。
 「現代詩手帖」の何篇かの作品では、私は佐藤普美子の訳している詩はどれもおもしろいと思った。
 松浦恒雄の訳は、どれもこれも苦手である。「意味」はわかるけれど、音が「意味」に重ならない。分離している。「意味」を追っているとき音は完全に消えてしまっていて、それが不気味である。--詩が、ではなく、私の肉体のなかで起きていることが気持ち悪いのである。
 佐藤の訳は、そういうことが起きない。音が肉体のすみずみにまで広がる。リズムが肉体をかってに動かす。
 「あなたに告げた」。

あなたに告げた私のひたい私の髪はあなたが恋しい
なぜなら雲は天上で毛繕いするから私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい
なぜなら懸橋街や草橋通りはうら寂しげでなぜなら無伴奏のバッハが静かに町外れの
 河に滑り込むから
私の目さすらう目はあなたが恋しいなぜなら梧桐のスズメがみな舞い落ちるからなぜ
なら風はガラスの破片だから

 「なぜなら」ということばは堅苦しい。なぜ堅苦しいかというと「なぜなら」は「……だから」ということばを必要とし、その枠のなかでことばを動かすからである。(論理的?だからである。)けれど、その「枠」の存在が、逆にことばを自由にする。どんなふうに動いてもからなず「なぜなら……だから」という「音」のなかに入ってしまう。そして、その途中の「……」はもちろん「意味」ではあるのだけれど、「意味」でもない。
 特に、この詩のように「恋」を語る詩の場合、「……」に「意味」などない。ほんとうに恋をしているとき、ひとは「意味」なんか語らない。どれだけたくさん「……」を言えるかだけなのである。「……」の「意味」(中身?)が前に言ったことといま言ったこととが違っていてもまったくかまわない。ただ音が通過し、そのとき何かを動かせばそれでいいのだ。
 佐藤は、そういう「なぜなら……だから」を、単に「意味構造」(文章構造)として動かしているだけではなく、呼吸として動かしている。ことばのスピードに肉体の負荷をかけている。その感じも「恋」そのもの。性急さも、「恋」そのものなのだ。

あなたに告げた私のひたい私の髪はあなたが恋しい
なぜなら雲は天上で毛繕いするから私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい

 この2行を、句読点をつかって散文化すると、「あなたに告げた。私のひたい、私の髪はあなたが恋しい。なぜなら雲は天上で毛繕いするから。私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい。」ということになる。「なぜなら雲は天上で毛繕いするから私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい」は「なぜなら雲は天上で毛繕いするから/私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい」と切断されなければならない。けれど、佐藤は切断しない。接続というより密着させてしまう。そうすると、ことばが加速する。
 この詩は、私の○○はあなたが恋しい、なぜなら……だから、という構文が「並列」されて動いているはずなのに、その「並列」が、「直列」にかわって、まるで直列配置の電池のように、並列のときとはパワーが違ってしまう。そうして、「私の○○はあなたが恋しい、なぜなら……だから」の「……」が「意味」から消えてしまう。そこから、「声(肉体の音)」をとどけたいという苦しいような肉体の力があふれてくる。「直列」が一個一個の電池のパワーを跳び越えて巨大化するように、ことばを発するたびに、声にするたびに、「恋しい」という気持ちが「私」を超えて、飛び出していく。その「声」、その「肉体の音」が「恋」なのだ。
 佐藤の訳には、ことばを肉体で受け止め、動かしているという感じがする。その感じが「音」のなかに、「リズム」のなかにある。



 黄聖喜「アリスの家」(韓成礼訳)。韓の訳には、松浦の訳とも佐藤の訳とも違った音がある。韓国語で詩を書き、日本語でも詩を書く(自分で訳す)という体験がことばのなかで動いているのだろうか。音の動きが「外国」を感じさせない。感じさせない--と書いてしまうと、まあ、違うのだろうけれど、松浦や佐藤の訳と違って「意味」への意識があいまいになっている、気楽になっている感じがある。日本語になっていなくもいいじゃないか、私は韓国語の詩を母国語として読んでいるのだから--という自信のようなものがあるのかもしれない。ことばへの自信が音を伸びやかにしている。

揺れる水面に夜空が映る。
ヘッドライトをつけた自動車が近付く。
驚いた影たちが体の外へ飛び出す。

魚一匹が弁当を持って小走りする時の風景だ。

 「驚いた影たち」の「たち」がいいなあ。「影」の複数形って「たち」? そもそも「影」に複数形がある? いや、日本語そのものにも複数形なんて、ないんじゃない? だから、佐藤は「それらの」ということばをつかっていたじゃない? --などというのは、やめよう。(書いてしまったけれど。)
 「影たち」。そのことばが音になる瞬間、「日本語」が壊れるんだけれど、壊れながら、逆に私の「肉体」が生まれ変わるような感じもするなあ。そうか、影「たち」と言ってしまえばいいんだ。
 この「影たち」は、「文字」(印刷)で読むときよりも、耳で聞いたときの方が、鮮やかに飛び散るなあ。それこそ「体の外へ飛び出す」。とってもおもしろい。
 2連目の「小走り」もいいなあ。おいおい、魚に足があるかい? 足がないのに走るのかい? 魚は泳ぐんだろう? --原文はどういうものか知らないが、松浦恒雄には思いつかない訳だろうなあ。もし原文に「小走り」のような漢字(ハングルだから漢字ではないのだが、もし漢字で書かれた作品だとしたら、という過程である)の表記があったら、どうするだろう。「小走り」とつかってしまうか、魚は泳ぐものだからと逆にかえてしまうか……。悩むだろうなあ。でも、韓は、どんな悩みもみせず、ためらいもなく「小走り」とことばにしている。そういう強さを、句点「。」の打ち方を含めて強く感じた。



今月のお薦め。
1 池井昌樹「星工」
2 浦歌無子「K」
3 藤井五月「さかな」


現代詩手帖 2011年 03月号 [雑誌]
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デヴィッド・O・ラッセル監督「ザ・ファイター」(★★★★)

2011-03-31 09:47:21 | 映画
監督 デヴィッド・O・ラッセル 出演 マーク・ウォールバーグ、クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、メリッサ・レオ、ジャック・マッギー

 アカデミー賞の助演賞を獲得したので、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオが注目されているが(もちろん 2人の演技はすばらしい。特に私はメリッサ・レオに感激してしまった)、マーク・ウォールバーグがとてもいい。クリスチャン・ベールとメリッサ・レオのエキセントリックな演技をしっかりと受け止めて、映画の骨格を支えている。
 「ブギーナイツ」のときから主役なのに、他の役者を押し退けて自己主張するというより、他の役者の演技を受け止めて映画の骨格をつくりあげるような渋い役者だったが、なんといえばいいのか、風格のようなものがある。オーラではなく、他人のオーラを受け止めて、他人を輝かせる。そして、知らないうちに、全体を支えている。
 マーク・ウォールバーグがいるから、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオは、自由に逸脱できる。映画のストーリーそのままに、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオは、映画からはみだしてゆく。スクリーンからはみだしてゆく。スクリーンから飛び出て、観客席の、その目の前にまでやってくる。
 長男を溺愛する母親、母親に溺愛され、まわりが見えなくなる長男。彼らにはそれぞれ「家族」があるのだけれど、それは付録という感じだ。ふたりだけで「愛」が完結している。その完結した「愛」のなかに他の家族を引きこむことが、ふたりにとっては「愛」そのものなのだ。
 ここで自己を確立するのは難しいなあ。ほかの姉たちのように、母親べったりになって、「母」と自分の見分けをなくしてしまうしかない。この「愛」のなかで、マーク・ウォールバーグはもがくわけだけれど、彼にとってむずかしいのは、母親よりも(? たぶん)、兄の方が重要であるということだ。兄をとおして母と向き合う。ボクサーとしての先輩である兄をとおして、母と向き合う。また、ボクシングをとおして母と向き合う。「家族」にとって「兄=ボクシング(ボクサー)」なので、どうしても、そんな構図になる。どうしても、そこにひとつ「クッション」がある。直接、母とは触れあえないのだ。
 マーク・ウォールバーグはリングで相手のボクサーと戦っているだけではなく、ボクシングという「もの」そのものと戦っている。向き合っている。この感じを、「敵」ではなく、そこにある「ボクシング」という「もの」と格闘している感じを、マーク・ウォールバーグは肉体で具体化する。一方で、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオの演技と向き合いながら、それを越えてというか、それを統一するために「ボクシング」という「もの」と戦う。
 それもボクシングシーンで、それを具現化するのだけではない。ボクシングシーンもいいけれど、ボクシングをしていないシーンがいい。いつも「ボクシング」の影を引きずっているのだ。クリスチャン・ベールのボクシングがあくまでリングの上での戦いを現実のなかに引きずっている(これが、過去の栄光への未練という「こころ」としてあらわれてもいるのだが)のに対し、マーク・ウォールバーグは「試合(リングの上での肉体)」を現実に引きこむのではない。むしろ、リングの上の肉体を隠す。隠すことで、その底から静かにせり上がってくる「ボクシング」と戦う。
 マーク・ウォールバーグは「ボクシング」を乗り越えないことには「家族」に出会えないということを知っている。そういう哀しみを「肉体」にまとわせている。哀しみを隠している。まるで、その「肉体」をトレーナーや何かで押し隠すかのように、哀しみを「肉体」で、その静かな動きで、押し隠している。
 うーん。
 演技を通り越している。悲しいことにというべきなのかどうなのかわからないけれど、こういう演技は目を引きにくいね。でも、こういう演技にこそ、賞をやりたいねえ。ヒーローなのに、自分がヒーローであるのは兄と母のおかげとでもいうように、そっとわきに引いて、母と長男の絆を、さらには家族の絆を円満にし、その見えない要になっていく--あ、この映画は実話だというが、たぶん、その主人公の「人生」のなかにマーク・ウォールバーグはしっかり食い込んで肉体を動かしているんだねえ。
                     (2011年03月30日、福岡・中州大洋1)

3月のお薦め--今月は6本。
1 白いリボン(見逃したら一生後悔する)
2 再会の食卓
3 ザ・ファイター
4 アレクサンドリア
5 冬の小鳥
6 トゥルー・グリッド
   (「白いリボン」「冬の小鳥」は2010年公開作品。
     いまは、一般上映していないかもしれない。)
 


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拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)ほか

2011-03-30 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)ほか(「現代詩手帖」2011年03月号)

 「現代詩手帖」03月号は東アジアの詩を特集している。中国、韓国、台湾の詩人の作品が紹介されている。
 拾柴「くちなし」(松浦恒雄訳)が特集の最初の作品である。わざわざこんなことを書いたのは、実は、私はこの作品につまずいて、ほかの作品を読む気力がなくなったからである。

路地口。黒い石を畳んだ小径に
襲来する。くらなしの
初々しい
暗香。老婦人の手のひらに
純白のたおやかさが包まれている
陽を浴び
はらりとほつれた白い髪が
くちなしよりも目にまぶしい
この朝
老婦人は誰よりも早く
春の先っぽを摘み取った

 ここに書かれている「くちなし」は私の知っているくちなしと同じ花であるかどうかわからない。私の知っているくちなしは「春」というより、梅雨ごろ(6月か7月ごろかなあ)に咲くからである。
 それは、まあ、別にして、私は「日本語」につまずいたのである。私は中国語が読めないし、この作品の原文を知らないのだが……。
 2行目。「襲来する」。「しゅうらいする」。このことばの「音」が、前に書かれていることばの「音」とつながらない。「意味」はわかるが、「しゅうらいする」という音に私は身構えてしまう。肉体がついていけない。
 4行目。「暗香」。「あんこう」だろうなあ。(ためしに広辞苑をひいてみたら、「あんこう、暗香。どこからともなく漂ってくるかおり。闇のなかに漂う花の香、とある。)これも「意味」はわかる。「意味」だけではなく「ニュアンス」も、それなりにわかる。けれど、音についていけない。「あんこう」なんて、私は口にしたことがないし、聞いたことがない。「文字」で読んだからわかるのであって、聞いても絶対にわからない。こうやって、広辞苑で意味を調べたあとでも「あんこう」と聞いて「暗香」という「文字」は思い浮かばないだろう。

 私は松浦恒雄の訳が嫌いなのかもしれない。苦手を通り越して、きっと嫌いなのだと思う。
 捨柴が中国語の詩で「襲来」「暗香」という文字をつかっているのかもしれない。けれど、中国語で(漢字で)、「襲来」「暗香」と書いたからといって、それがそのまま「日本語」になるとは私には思えない。「文字」は正確につたえているのかもしれないけれど、だいたい同じ漢字であっても中国語と日本語では読み方(音)が違うのだから、同じ文字をもってくれば正確とは言えないだろう。ことばは、文字であるよりも、まず音なのだから。
 それに、「襲来」が中国でどういう「意味」をもっているのか知らないが、花の香(それも、どこからともなく漂ってくる香)が、「襲いかかってくる」というのは、どうにも変である。襲来を襲いかかってくる、という意味だと私は感じている。「どこからともなく」に力点をおけば、そのふいの感じ、防ぎようがない感じは、襲いかかってくるととれないこともないけれど、うーん、襲いかかるとしたら「漂う」香ではなく、強烈な悪臭だろうなあ。
 松浦恒雄の訳は、どうも、このことばの次にはこのことばという、常識(?)の脈絡からかけ離れている。そして、そのかけ離れたものを、原文の「漢字」を根拠に押しつけてくる。「文字」を押しつけてくる。
 どうにも気持ちが悪い。漢字とひらがなのバランスに、私は納得ができない。

 趙●「半球」(佐藤普美子訳)。(●は「日」偏に、「斤」)  
 その1連目。

北半球は、河を何本持てるのか?
それらの河は、魚を何匹持てるのか?
それらの魚は、鱗を何枚持てるのか?
それらの鱗は、北半球を何分煌めかせられるのか?
河よ河、おまえは魚におしえたかい?
魚よ魚、おまえは私が鱗に問うているのを知っているかい?

 ここに書かれている「音」はとても美しい。中国語の原文は知らないが、ここに書かれている日本語の音は美しいし、その音が日本語からはみだして大陸風(と私は中国を勝手に想像しているのだが)に広がっていくのが楽しい。日本語は(日本語の音は)、こういう発想をしない、というところへことばが動いていくのが楽しい。
 「それらの河」「それらの魚」「それらの鱗」--この「複数形」のあり方が日本語の音としてとても自然である。「それらの河々」「それらの魚々」「それらの鱗々」ではない。「それら」のなかに複数があり、それを受ける「名詞」は単数のままである。(中国語も同じ? それとも違う?)この複数と単数の組み合わせから、単数そのものが「普遍」の存在へとつながっていく。そして、その普遍が「河よ河」「魚よ魚」という繰り返しとなって響く。そのとき、その「河よ河」「魚よ魚」のなかに一本の河、一匹の魚ではなく、いままで私がみてきた「すべての河」「すべての魚」が流れ、動く。あ、すごい。中国大陸そのものが見える--という感じ。
 「それらの」という「音」。その滑らかで、広がりをもった音が、たぶんこの詩を美しく、広大なものにしているのだ。少なくとも、私の「肉体」の何かと呼応して、楽しい気持ちにさせるのだ。
 1連目だけにかぎらないのだが、この詩には「繰り返し」が多い。「音」が何度も繰り返される。「意味」が繰り返されるというより「音」が繰り返される。ことばが繰り返されるというより「音」が繰り返される。
 そして、「音」が変化していく。「名詞」が変化していくのではなく、「名詞」はなんでもいいのだ、「意味」はなんでもいいのだ、「音」そのものが変化していって、そこに自然と、音が単独で存在しているときとは違った「意味」が浮かび上がってくる。
 それは「論理」ではなく、音楽の「和音」のようなものである。「音」が繰り返される、少しずつ「音」を変えながら繰り返される--その果てに、単独の「音」ではもちえなかった「和音」が響いてくる。
 あ、これは快感だなあ。
 中国語の詩もいいのだろうけれど、きっと佐藤の訳もいいのだ。佐藤はちゃんと日本語の「音」を知っていて(肉体のなかに音をもっていて)、その音を「訳」として書き留めているのだと思う。





現代詩手帖 2011年 03月号 [雑誌]
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ワン・チュアンアン監督「再会の食卓」(★★★★★)

2011-03-30 21:22:04 | 映画
監督 ワン・チュアンアン 出演 リン・フォン、リサ・ルー、シュー・ツァイゲン、モニカ・モー

 前半にとてもおもしろいシーンがある。台湾から上海に帰って来た老いた元兵士。その男を歓迎する食卓で、その地区の党の委員が挨拶をする。「家族の再会」というところを「恋人の再会」と言ってしまう。間違えたのだ。「あ、間違えちゃった」という感じで笑ってしまう。出席している人たちも「あ、間違えて言っている」と気が付く。どうするんだろう、という感じでみつめる。委員は、笑いながら、「家族の再会」と言いなおして映画がつづいていく。
 アドリブ? それとも脚本どおり? いや、どうも単純なミスだと思うのだけれど、それをそのまま映画に取り込んでしまう。これがなかなかいい。アドリブでも、脚本どおりでも、こんなにうまい具合にはいかない。出演者全員が「あ、間違えている」と気づくような顔はできない。これを、そのまま映画にするんだ、と判断(決意)する一瞬の力--これは、すごいなあ。
 このシーンを見るだけのために、この映画があるといってもいい。これは、もし神様がいるとしたら、映画の神様がこの映画のためにくれたシーンである。
 なぜなら、どんなときだってひとは間違える。そして間違いを修正して人生はつづいていく。--というのが、この映画のテーマであり、このシーンはテーマそのものを象徴することになるからだ。
 もちろん歓迎の挨拶のように、あ、間違えちゃった、言いなおします--というだけではやりなおせないのが人生なのだが、笑ってやりなおすしかないのが人生でもある。そして、それはこの映画そのものでもある。この監督の「人生観(思想)」でもあるように思える。
 台湾から帰って来た男は、これまで女と連絡をとらなかったのが間違いだと気づく。いわば、恋人を取り戻しに上海に帰って来たのだ。いま、上海で家族をつくっている女と男は離婚し、元兵士といっしょに女が台湾へ行くことにいったんは同意する。しかし、上海の男が病気に倒れたために、女は男を捨てて台湾へゆくことはできないと思う。いっしょに暮らしてきた時間の重さを感じ、それを大切にしようとする。
 「間違い」に気がつき、その「間違い」だと気づいたことが「間違い」だと気づく。そんな具合に、人間のこころは動くのだけれど、人間のこころが動くとき、そこには「間違い」なんて、ない。あるのは、何を大切にしたいかと思うこころだけである。何かを大切にしたいと思うこころに「間違い」などありえない。
 「家族」というべきところを「恋人」と言ってしまうのは、それがほんとうは「家族」ではなく「恋人」の再会でもあるからだ。委員は「家族」の再会とは思っていない。名目は「家族」だが、実際は「恋人」の再会であり、「恋人」の帰還なのだ。そして、そこには「恋人」は「恋人」のもとへ帰るべきだというほんとうの願いが込められている。そういう思いがあるから台本の「家族」を「恋人」と「誤読」し、ことばにしてしまうのだ。「家族」というせりふを「恋人」と読み間違えたとき、委員(委員を演じた役者)は自分自身のこころを読み間違えてはいないのである。
 こころは読み間違えることができない、自分のこころは「誤読」できない。だから、人生は複雑になる。そして豊かになる。
 この映画は、俳優たちが、自分自身のこころの「誤読」を表現する一瞬を待つかのように長回しで撮られている。どのシーンも長い。どのシーンも、先に書いた挨拶の間違いのシーンをのぞけば、間違いはないのだが、長回しのために不思議な余裕がある。上海の風景が自然にスクリーンのなかに入ってくる。他人が入ってくる。他人の暮らしが入ってくる。それがこの映画を、とても自然な感じにしている。
 それは最後のシーンと比較すると明確になる。上海の女と男、そして姪は、古い家から高層マンションに引っ越している。豪華な食卓がある。けれど、そこには「他人」(家族)がいない。3人だけである。窓の外には上海が見えるが、それは暮らしではない。
 このシーンの前の、元兵士が上海に帰る前に挨拶する「路上の食卓」。そこには他人がいる。家族を越える他人の暮らしがある。他人のなかに吸収され、受け止められることで静かに落ち着いていくこころというものがある。長回しの映像はそういうものをやさしく取り込んでいる。
 最後のシーンも、長回しではなのだが、状況が違ってきたために、暮らしではなく「孤独」を取り込んでしまう。

 「孤独」と「誤読」は音にすれば一字違いだが、その隔たりはとてつもなく大きい。「孤独」の夢は他人に共有されない。「誤読」の夢は他人のなかでひろがり、笑いとともに生きる。「誤読」の夢は、ひとに、一種の希望を呼び起こしてくれる。

 *

 あ、映画の感想とは言えないものを書いてしまったかなあ。
 「食卓」について、少し書き加えておく。
 中国(台湾)の映画は食卓が豊かである。いつでも、とてもおいしそうである。いっしょに食べて生きる、それが人生だとだれもが思っているのだ。それが豊かな色と味になる。自分の箸で料理を取るだけでなく、自分の箸で取ったものをだれかの食器に運んでやるという「お節介」もいいなあ。お節介をしながら、生きていく。その料理を食べたいと思うのは、その料理を箸で運んだものの「誤読」である。お節介は「誤読」から成り立っている。--でも、そのお節介のおかげで、こころというものを知ることができるのだ。
 と、いうところから、この映画を語りはじめてみると、また違ったことが言えるかもしれない。
 でも、まあ、省略。
                   (2011年03月27日、福岡・ソラリアシネマ2)


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誰も書かなかった西脇順三郎(203 )

2011-03-30 14:59:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「故園の情」。その1連目。

秋も去ろうとしている
この庭の隕石のさびに枯れ果てた
羊歯の中を失われた
土の記憶が沈んでいく
あのやせこけた裸の音を
牧神は唇のとがりを
船の存在に向けて吹いている

 この7行を「散文化」しようとすると、どうしていいかわからなくなる。1行目はわかる。季節のことを書いている。「秋」が主語。「去る」が述語である。ところが「この庭の」以後が難しい。次に出てくる主語は? 4行目の「土の記憶(が)」が主語? 述語は「沈んでいく」? では、それまでのことばは? 修飾節になるのかもしれない。後ろから逆に読むことになるが「失われた/土(の記憶)」「枯れ果てた/羊歯」という具合につづいているのかもしれない。
 そうだとすると。
 へたくそな文だねえ。「学校教科書」の作文なら、もっと整理して、わかりやすく、と指摘されるかもしれない。
 でも。
 この「へたくそ」な感じが、詩だなあ。
 こんなふうにぎくしゃくとは書けないなあ。私のことばは、こんな複雑な「構文」を動くことができない。
 ということは。
 私は、いま書いたような「複雑な構文」にしたがって読んでいるわけではない。
 この庭には隕石があって、その隕石のさびのせい(?)で羊歯が枯れ果てているのだけれど、その枯れ果てた羊歯のなか(茎のなか? 葉のなか? 羊歯という存在のなか?)を、失われた土(隕石によって「さび」た?土、疎外された?土)が沈んでいく。羊歯は枯れ果てながら、土のことを思っている--というふうに読んでいるわけではない。
 私はただ「音」を読んでいる。「音」はことばであるから、当然「意味」を含んでいるが、その「意味」を優先して読んでいるのではなく、ただ「音」を読んでいる。そうすると、遅れて「意味」がやってくる。
 「音」と「意味」とのあいだに「ずれ」がある。
 その「ずれ」は改行によって増幅される。「枯れ果てた/羊歯」「失われた/土(の記憶)」とひと呼吸置いて(改行を挟んで)音がつながるとき、そのつながりの奥から「意味」が駆け足でやってくる。
 それを振り払うようにして、ことばの「音」はさらに先に進む。
 「あのやせこけた裸の音を」--あ、これは「土の記憶が沈んでいく」音なんだなあ。と、思う間もなく、「牧神は」と主語が変わる。
 西脇のことばは「意味」を拒絶している。
 ことばはどうしても「意味」を持ってしまうものだから(読者は、どうしたってことばに「意味」を読みとろうとするのもだから)、どんなに飛躍したことばを書いても、そこに「意味」が出てきてしまう。そして「重く」なる。
 この「重さ」を拒みながら、西脇はことばをただ「音」に帰そうとしている。
 実際に、西脇のことばは「軽い」。「音」が軽快で気持ちがいい。
 たとえば、

 この庭の隕石のさびに枯れ果てた

 行頭の「この」は、何のことかわからない。つまり「意味」がない。「意味」をもたない。単なる「音」である。でも、とても重要である。「庭の隕石のさびに枯れ果てた」では「庭」の「意味」が重くなる。
 「この庭」と言ってしまうことで、「庭」の「意味」を軽くする。
 「この」というのは、すでにその存在が意識されていることを示している。それは、まあ、西脇にはわかっている「この」庭であるということを意味する。そして、「この」という音を持ってくることによって、読者に「すでにその存在が意識されている」ということを「共有」させる。読者を、西脇のことばの運動の共犯者にしてしまう。そうすることで、ことばを動かすということを、西脇ひとりの仕事ではなく、読者の仕事にもしてしまう。
 なんだか書いていることが矛盾してしまうようだがてんてん。
 「この」は、だから、とても「意味」がある、ということにもなる。「この庭」の「庭」意味があるのではなく「この」に重要なものがある。意識の動きのポイントがある。
 「文章」としては「意味」を持たない。けれども、ことばの運動としては「意味」を持っている--それが、「この」なのである。「この」という「音」なのである。
 書かれているのは「もの」のようであって、「もの」ではなく、「意識の運動」なのである。「意識の運動」というのは、まあ、適当なものである。適当というのは、かならずしも「学校教科書」の文法どおりには動かないということである。思いついたもののなかを、かってに動き回る。そして、「意味」は、それを繋ぎ止めようとして必死になって追いかけてくる。
 西脇は、そういう追いかけっこを「音」を優先させることで動かしている。追いかけっこのエネルギーは「音」のなかにある。その「音」を気持ちよいと感じ、それを選びとる「耳」や「喉」といった「肉体」のなかにある。
 西脇の詩を読むと、私はいつも「耳」がうれしくなる。「喉」がうれしくなる。「肉体」が共振する。


ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店
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藤井五月「さかな」

2011-03-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井五月「さかな」(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日発行)

 藤井五月「さかな」は、「主語」が揺れ動く。「文法」的には一貫しているのだが、読んでいると、私の方が揺れ動く--そういう揺れ動きを誘う「主・客」の変化がある。

古い洋食屋に入り席に着く
テーブルの上に錆びた魚が置いてある
おおい、キッチンの方へ大きな声をかける
さかなが、はい、と返事をした

大丈夫か、私はさかなに声をかける
はい、いささか錆びておりますが、食べられないこともないでしょう、もう何
年も動きそうにない体ですが、と答え、さかなはフォークを見た
付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた
誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ、とさかなはフォ
ークを見た

 「私」と「さかな」という登場人物(?)がいる。そして、この「さかな」がかわっている。錆びている。さかなって、錆びる? さらに、しゃべる。さかなって、しゃべる? さかなは錆びないし、しゃべれない。でも、この詩では、錆びていて、しゃべっている。詩(文学)なのだから、こういう「嘘」は平気である。嘘のなかでも、ことばは動いていく。
 おもしろいのは、こういう嘘に出会ったとき、読者は(私だけではないと思うので、私は「読者は」と書いてしまう)、嘘の方に引きずられてしまう。簡単に言うと、もうひとりの登場人物である「わたし」のことは忘れてしまう。嘘をついている(?)さかなの方に引っ張られてしまう。
 「誰も食べてくれないんですよ、檸檬でもあればいいのかなあ」という発言はさかなにふさわしいことかどうかはわからないが、そうだよなあ、古くなったさかな(錆びた、というのは古くなって傷んだという印象を呼び起こす)は檸檬で消毒(?)しないとなあ、そうすれば少しくらいなら食べられるかもしれない。檸檬には殺菌作用があるからなあ、となんとなく思ってしまう。
 ここに書かれていることは、さかなが錆びる、しゃべるという嘘そのものなのだが、その嘘のなかに、私たちが信じている「真実」のようなものが、するりと入り込んでいて、その「真実」に気を取られ、嘘であることを瞬間的に忘れる。
 「付け合わせのラディッシュは溶けて色素が皿に染みていた」というのも、古くなった料理の描写そのものなので、ここに書かれていることが「嘘」であるということを忘れてしまう。
 嘘と本当が、どこかですれ違い、そのすれ違いの瞬間に、入れ代わってしまう。そして、それにあわせて「主・客」も入れ代わってしまう。ごく基本的に考えて、1行目の「古い洋食屋に入り席に着く」というときの「主語」は「私」であり、その「私」が体験したことが書かれている詩だと思い、私たちはこの作品を読みはじめるのだが、いつのまにか「主語」が「私」ではなく、「私」はわきに退いて、「さかな」が「主語」になっている。「さかな」がしゃべる、というのは「私」の錯覚の類かもしれないが、しゃべりはじめると「さかな」が主体になり、物語というか、ことばの運動そのものを支配していく。そしてそこには「嘘」だけではなく、「ほんとう」と思われることも書いてあるので、その語られることを信じてしまう。そうして、自然に、さかながしゃべるという嘘もほんとうになってしまう。
 で、このあと。3連目が絶妙である。

銀色のフォークには美しい細工が施されており、さかなはそれを見ていた
気に入ってね、昔、給料二月分の値段でしたが買ってしまって、なかなかきれ
いでしょう
その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた

 「銀色のフォークには美しい細工が施されており」は「事実」の描写。客観的な描写。でも、次の「さかなはそれを見てい」は? 主語は「さかな」だけれど、「見ていた」という「事実」を語るのは? さかな? それとも私(作者、藤井)? わからないねえ。フォークの細工の描写を「事実」とすれば、この「見ていた」も「事実」を書いた「客観的描写」になるのかもしれないけれど……。うーん、「主観的描写」と「客観的描写」って、どこが違う? 何を根拠に「主観的」「客観的」という? 特に、この詩のように「嘘」が平気で語られているときは、「主観」「客観」って、区別はどこでする?
 主語がすれ違い、入れ替わり、事実と嘘がすれ違い、入れ代わるなら、主観・客観もすれ違ったときに、入れ代わってしまう。
 そうすると、ほら。

気に入ってね、昔、給料二月分の値段でしたが買ってしまって、なかなかきれ
いでしょう

 これはフォークを買ったひとのことばなるだが、フォークを買ったひとって誰? ことばの動いている状況からいうと、どうしたって「さかな」になる。2連目の「はい、いささか錆びておりますが」以後、藤井のことばを主体的に動かしているのは「さかな」だし、「私」は「古い洋食屋」の「客」なのだから、客がフォークを買うはずがない。でも、そうなると、変ですねえ。「さかな」って月給もらったいるの? 「さかな」ってフォークをどこで買うの? なぜ、そんなものを買う必要がある?
 こういう疑問を振り払うように、「その細工は葡萄の房とツル、葉がバランスよく配置されていた」という「客観描写」が書かれる。「客観」というのは、「疑問」を拒絶するものだからねえ。
 そうして、ことばはさらに動いていく。

セットのナイフは買うのやめたんです、きれいすぎて、俺、どうかなっちゃう
んじゃないかと思って、フォークを見て下さい、まだ錆びてないんですよ、俺
の体はとうに錆ついてしまっているのに、ナイフまできらきら輝いていると思
ったら、お客さんを殺しかねないからね
俺の鱗なかなかきれいだったんですよ、錆びる前は食べようとしたお客さんも
食べるのをやめちゃうぐらいもったいない体だったんだ、でも食べられなけれ
ば意味がないんだけどね
そこまでいうとさかなは目を閉じ、少し体を硬直させ、フォークが体を突き刺
す瞬間を想像した

 ここから始まることばは「さかな」のことばである。「さかな」が「俺」になって、語っている。
 この瞬間、もう一度、「主・客」というものがくずれる。「私」が「主」、「さかな」が「客」で始まり、「私」が「わき」(客、とは言えないようなものに、ずれていっている)、「さかな」が「主」という状態を経て、新しい「主語」として「俺」が誕生している。
 「俺=さかな」というのが見せ掛けの論理(嘘の論理)。学校文法の論理。それにこだわると、ここに書かれていることは、説明(?)がややこしい。
 こういうときは、もう、文法や論理構造というような面倒くさいものはほっぽりだしてしまう。詩、なんだから、そんなものはどうでもいい。「嘘」が嘘として動いていく--そのことばのおもしろさ、あ、こういうとき、ことばはこんなふうにして動いていけるということだけを楽しめばいいのである。
 大事なのは、1連、2連、3連とことばが動いてきて、4連目で「俺」が誕生したこと。生まれたこと。藤井はことばを動かしはじめたとき「私」だった。それが「さかな」に引っ張られる。「さかな」がことばを動かしはじめる。そのことばを追っているうちに、「私」と「さかな」がへんに入り交じり、そのはてに「俺」が生まれる。「私」は「俺」にかわってしまう。
 ことばを動かすということ(詩を書く)ということは、「私」が「私ではなくなる」ということなのだ。

 「私」はどこへいったの? これ、いったい何が書いてあるの?という疑問は、「私」という存在がかわらないことを前提にしたときに生まれる疑問である。ひとは、「私」という存在はかわらないものと考えがちだが、詩はひとはかわるもの、「私」という存在はかわるものということを前提としている。
 何かに感動したとき、ひとの考え方は変わる。
 それと同じように、ことばを書く、ことばを動かすということは、「私」が「私以外のもの」になるという危険(楽しみ)をおかすことである。「私」が「私以外のもの」になってしまてこそ、そのことばの運動は詩である。文学である。

 4連目は、「さかな」のことばでも、「私」のことばでもありません。それは、あくまで「俺」のことば。「俺」なんて、それまでいなかった。それまでいなかったのだから、もう何を言ってもいいのです。それまでの決まりから自由に語るために生まれてきた存在が「俺」なのです。
 きれいなナイフ。食べること、食べられること。その意味。殺意。--「寓意(寓話)」をここから作り上げこと、ここに書かれていることを「現実」を「比喩」(虚構)として書かれたものと、とらえることができるかもしれない。けれど、そんな面倒なことはしなくていいい。その嘘のなかで、ことばが突っ走る、そのときの気持ちよさ、藤井のことばに触れるときに私が(読者が)感じる、ことばにならないものが肉体のなかで動きはじめるときの快感--それと「俺」が触れ合っているということ、それを楽しめばいいのである。
 「俺」が語ることは、まったくの「自由」。だとしたら、私たちが感じることもまったくの「自由」。
 藤井と私たち読者は、そのとき、ナイフが登場するから言うのではないが、ことばで刺し違えるのだ。殺し合うのだ。これはセックスだね。「死ぬ!」と叫んで果てたものが負けたのか、勝ったのか、勝ち負けを言える人間はいない。

そこまでいうとさかなは目を閉じ、少し体を硬直させ、フォークが体を突き刺
す瞬間を想像した

 これは、誰のことば? 誰のでもいいね。ややこしいことは考えずに、ことばで刺し違えあうよろこび、殺し、殺されあう快感を想像しよう。


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松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」

2011-03-29 18:17:29 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」(「朝日新聞」2011年03月29日夕刊)

 東北巨大地震。松浦寿輝は「afterward」という作品を書いている。松浦もまた、ことばを待っている。

悲嘆も恐怖も心の底に深く沈んで
今はそこで 固くこごっている
それが柔かくほとびて 心の表面まで
浮かび上がってくるのにどれほどの
時間がかかるか 今は誰にも判らない

 「悲嘆」「恐怖」ということばは使い古されたことばである。詩人独自の「意味」が含まれていない。それは「こごる」「ほとびる」という松浦のにおいのこもったことばと比較すれば、どれほど「安直」なものであるかわかる。しかし、私はいま「安直」と書いたのだが、それは仕方がないことなのである。そこで起きている「悲嘆」「恐怖」を松浦独自の肉体を通したことばにするには「時間」が必要なのである。そして、その「時間」がどれだけかかるか、「今は誰にも判らない」。
 書けないなら、書かずに待てばいい――という考え方もあるかもしれないが、それではことばが動かなくなる。書けなくても書かなくてはならないのだ。書きながらことばをはげまさなければならない。
 でも、何を書くか。書けることば、安直と言われようと「悲嘆」「恐怖」というような、誰もがとりあえず使うことば、すでにそこにあることばを書く。その「安直」を、あ、さすが松浦だね、私のようにそれこそ安直に、粗雑にいわずに、丁寧にことばを動かしている。それが次の部分。

それまで 私はただ背筋を伸ばし
友達にはいつも通り普通に挨拶し
職場ではいつも通り普通に働いて
この場所にとどまり 耐えていよう

 「いつも通り普通に」。まず自分の肉体を「いつも通り普通に」戻すことをしなければならないのだ。それは、ことばを「いつも通り普通に」することである。私たちのことばは、いま、いつもとは違う。いつもとは違う形で動いている。松浦は「悲嘆」「恐怖」と書き、私はそれこそそういうことばを何も考えずに「安直」と批判したりする。その「批判」が的外れであることを知りながら・・・。「いつも通り普通に」松浦のことばを読んでいるのではない――そういうことが、わかる。わかりながら書き、書きながら、私は私のことばを「いつも通り普通に」動かせないかと思い、ああでもない、こうでもないと書くのである。
 こういうとき、「私はただ背筋を伸ばし」ということばが出てくる――とは、私は実は松浦のことばから予想していなかった。そういう意味では、松浦は、巨大地震以後、たしかに変わってきている。影響を受けている。「背筋を伸ばし」と「肉体」を立て直すところから、ことばを立て直そうとしている。そのことがわかって、実は、私はとてもうれしい。「この場所にとどまり 耐えていよう」というのも、「肉体」ができることを正直にみつめたことばだと感じる。うれしく感じる。

心の水面を波立たせず 静かに保つ
少なくとも保っているふりをする
その慎みこそ「その後」を生きる者の
最小限の倫理だと思うから

 松浦が、とても正直に動いている。「少なくとも保っているふりをする」と書くときの、その「ふり」に松浦の悲しみがある。「悲嘆」と書いてきたものを超える悲しみがある。それを「倫理」と言い聞かせなければならない「悲しみ」。
 ここから、松浦のことばは「柔かくほとびて」動きはじめる――はずである。



 和合亮一の「詩の礫(つぶて)」(ツイッターでの発言)が同じ朝日新聞に紹介されている。

 5日ぶりの買い出しをする。トマトを買おうと思った。余震。店外退避。戻る。トマトを買う。家に持ち帰り、塩を振ってかじりつこうか。熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。(23日)

 短いことば。削り込んだことば。そのなかに「家に持ち帰り」ということばがさしはさまれる。これはきっと、いま、しか書かれないことばである。トマトを買う、それは家に持ち帰り食べるのが当たり前だから、普通は書かない。けれど、いまはその「いつも通り普通に」が成り立たない。だから「特別なことば」になる。いまの和合を刻印したことばになる。そういうことばを通って、ことばは正確に動く。

野菜が涙を流している

 あ、それは「野菜」であって野菜ではない。それは和合であり、ことばをまだ「声」に出していない多くのひとたちなのである。「トマト」のなかで和合は、多くのひとと出会い、手をつないでいる。
 こんなふうに、いま、ことばは動き始めている。
 「熟れたトマトを持ってみて、分かった。」というのも感動的である。「持つ」という動詞、肉体とものとのつながり――すべてのことは「つながる」ことで「わかる」へと動いていくことができる。
 いま、多くのひとが「つながる」ことを求めている。「つながる」ために動いている。



吃水都市
松浦 寿輝
思潮社


入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(202 )

2011-03-29 11:47:55 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

この寂しいわさびの秋の夜に
ランプの夜明けがある
このコップに夕陽のあの
野ばらの実の影が残る
人間が残ることがあるだろうか
人間の声が残るだけだ
ああ きぬたの音がする
おお ポポイ ポポイ

 「人間の音」ではなく「人間の声」。どこが違うのだろうか。
 これから書くことは私の印象である。
 「音」と「声」を比べると、音の方が原始的(根源的)である。音をととのえ、そこに「意味」をもたせたものが声である。声は「ことば」でもある。実際、ここに書かれた「声」を「ことば」と置き換えると、「意味」が生まれてくる。
 時間が流れ、すべてが移りゆく。けれど自然や宇宙の生成は変化をしながら時間を越えて「残る」。人間は死んでゆく。残らない。ひとりひとりは残らないが、そのかわりに「ことば」が残り、ことばが「永遠」になる。
 でも、そんな「ことば」というのは、何か味気ない。「真理」というのは、味気ない。人間がいなくても存在するのでは、どうにもつまらない。
 何か、真理とは切り離されて、永遠とは切り離されて、「いま」「ここ」と深く切り結ぶ何かがないとつまらない。そういうときの「切りむすび」のきっかけは、私の考えでは「間違い」である。「ずれ」である。人間は真理そのものとは一体になれない。何かしら「自己」がにじみでてしまう。そのにじみでたものが「間違い」「ずれ」。それがあるから、「真理」も見える。
 そして、その「間違い」や「ずれ」を含んだものが「声」なのだと思う。「肉体」の刻印が「声」なのだ。それは「意味」から逸脱した何かである。だから西脇は「ことば」とは書かなかったのだ。

村の花嫁の酒盛りに行つた
ムサシノの婦人は帰つて来る
この夕暮れ近く
あの疲れた人も帰つて来る
「夏ならまだ日が照つているのだが」
と鼻の高い青ざめた男が言つている
カシの木の皮も青ざめている

 これ連に出てくる「夏ならまだ日が照つているのだが」が、「声」である。そのことばに「意味」はあるが、そんな「意味」はあってもなくてもいい。男が帰って来たひとに声をかける。その行為、そのなかにこそ、ことばにならない「意味」がある。
 そして、このことばにならなかった「声」が「音」なのだ。
 西脇は、男の「ことば」を記憶していて、それを書いたのではない。また、男の「声」を記憶していて、それを書いたのではない。西脇は、男の「ことば←声」を聞いて、そこに「←音」を感じたから、ここに書き留めているのである。
 「音」は「→声」になり「→ことば」になることで、見えにくくなる。聞こえにくくなる。だから、この行に「音」が書かれていると言っても、それは私の妄言(私の「誤読」)にすぎなくなるのだが、私が感じるのは「意味」ではなく、「音」なのである。
 「音」が聞こえるから、おもしろい。





西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会



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現代詩講座のお知らせ

2011-03-29 11:44:47 | その他(音楽、小説etc)
4月からよみうりFBS文化センターで「現代詩講座」を開きます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
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豊原清明「たんぽぽの婦人」

2011-03-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「たんぽぽの婦人」(「白黒目」28、2011年03月発行)

 03月11日、東日本を巨大地震が襲った。だれも体験したことのないことなので、ことばはなかなか動かない。阪神大震災のあと、季村敏夫は「ことばは遅れてやってくる」と書いたが、ことばはいつでも遅れてしか動けない。
 豊原清明「たんぽぽの婦人」は、その動けないことばを何とか動かしている。

おーい、たんぽぽ
日本列島、大地震の知らせばかりだぞお
そろそろ お前さんが
やってきて、
陽気に俳句を、と
思うとった
我が子の死に
泣くひとと
世界の地面の叫びとなって
お前は どこで咲くのかね

 そうだねえ。自然はある意味で非情である。人間の哀しみを無視して動いている。季節がくれば、たんぽぽが咲く。そして、そのたんぽぽに、ひとは何らかの思いを託す。そこに何かの意味を見出そうとする。たんぽぽは、亡くなった子どのかわりに咲くのか、哀しみの叫びとなって咲くのか……。
 でも、なかなかそんなふうには思えない。そういう「意味」に、ことばは動いてくれない。大地震の衝撃、そこで奪われたいのちや暮らしがあまりに大きすぎて、ことばとそれを受け止めることはできない。
 「たんぽぽ」の抒情(?)では、絶望はすくいきれない。

 ことばは、どう動くことができるか。

今頃、親戚のひとは、
たんぽ~ぽ~
ぽうねんと
ほうぽう
てんと おてんとさまは
お腹を空かしてイルノダヨ
オモチも食えずに
兎くんに お願いしましたら
ぽぽう ぽんぽん
砧を打って 月で本を読んでいる

 ここに書かれていることは、私にははっきりとはわからない。わからないというのは「意味」として私自身のことばに置き換えて自分の中に取り込むことができないという意味である。豊原の書いていることばと、私の肉体は、ここでは手を結ばない。「和解」しない。
 では、反発するのか。豊原のことばを拒絶するために、私自身のことばが動きだすのか、といえば、そうでもない。
 立ち止まってしまう。
 どうしていいか、わからない。
 わからないけれど、私の肉体は豊原のことばに接近していく。「たんぽぽ」を頼りに、なんとかことばを動かしたい。ことばを動かさないことには、自分自身が押しつぶされてしまう。その苦しみと豊原が向き合っている--そう感じてしまう。「意味」ではなく、豊原の「肉体」が見える。(私は豊原に会ったことはないから「肉体」が見えるといっても、これは比喩なのだが……。)
 「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」--この「音」だけのことば、「意味」になっていないことば、それを「肉体」で動かしている豊原が見える。
 「意味」に追いつけないことばが、それでも「音」を出して、何かを守ろうとしている。そういうことを感じる。
 大地震の絶望に、「たんぽ~ぽ~」「ぽうねん」「ほうぽう」「てんと」「おてんとさま」「ぽぽう」「ぽんぽん」という「音」はふさわしくないかもしれない。けれど、その「ふさわしくない」という感じの奥底に、どういえばいいのだろう、絶望しても絶望しても生きてしまうというか、死を乗り越えてしまう力と共鳴するものがあると思う。感じるのだ。ひとは死ぬが、一方でひとは死なない。ひとは悲しむが、一方で喜ぶ。大勢のひとが亡くなることは悲しむべきことだが、いま私が生きているということはうれしいことである。そして、いま私が生きているといううれしさがあるから、またひとのいのちが奪われたことが悲しいのである。--肉体はいつでも矛盾の中にある。
 その矛盾のなかで「意味」にならないものが、ことばの輪郭をなくしたまま「音」として動く。「音」をたよりに、どこかへ動こうとしている。

ぽんぽん たんたん
とんとん
おはよう おはよう
ふふふと笑って
ぽんたん ぽんちゃん
ランドセル抱えて
花を見ている
ふぃーん ふぃーんと
いななきながら
おやすみ~

 「ぽんぽん たんたん」は「たんぽぽ」という「音」から生まれたものだろう。その前に出てきた「ぽうねん」「ほうぽう」「ぽぽう」も「たんぽぽ」が「ぽんぽん たんたん」になるために必要な「径路」だったのかもしれない。「兎」は「たんぽぽ」の綿毛の印象から生まれたきたものかもしれない。それも「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるための「径路」だったのかもしれない。
 「ぽんぽん たんたん」という「音」が生まれるのか、それともそういう「音」になるのか、あるいは、そういう「音」の源へ還るのか--よくわからない。
 私がわかる(感じる)のは、あ、ことばがことばになるまでは、ことばは「音」そのものとして生きるしかない、ということだ。そして、こういう「音」そのものとして生きているときのことば、肉体を、たいていのひとは書かない。多くの詩人は書かない。けれど、豊原は書いてしまうのだ。
 書かなければ、たぶん、豊原の肉体は暴走する。その暴走する力を受け止めるために豊原のことばは動いている。そう感じる。

ふぃーん ふぃーんと
いななきながら

 これは、たんぽぽから生まれた兎くんの「声」なのか。私には、豊原自身の「声」のようにも思える。「音」にしかならない「声」、ことば以前の、ことばにならろうとする哀しみ--それに対して、豊原は「おやすみ~」と呼び掛ける。
 それは豊原自身への呼びかけであるし、また多くの被災者への、豊原のせいいっぱいの「ことば」でもある。「おやすみ~」と言われても、被災者の絶望、哀しみは眠ることはできないだろう。そうわかっていても、「おやすみ~」というしかない。

 ほかに、どんなことばがある? 眠って、もう一度目覚めて、生きること。それ以外に、何ができるのか--それを「ことば」にすること、「意味」にすることは簡単ではない。
 その簡単ではないことに向き合う--そのことから豊原ははじめている。


 


夜の人工の木
豊原 清明
青土社



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平田俊子「ゆれるな」

2011-03-28 19:21:06 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「ゆれるな」(「読売新聞」2011年03月28日朝刊)

 東北巨大地震について詩人は何を語れるか。
 平田俊子が「ゆれる」という詩を書いている。

ゆれるね
きょうもゆれてるね
地球が荒ぶるゆりかこだったとは
知らなかった代
おとなも子どもも眠らせない
意地悪なゆりかごだったとは

三月なんだよ 春なんだよ
春眠あかつきを覚えない
優しい季節のはずなのに
今年の春は
ひとをゆさぶり
眠らせまいとする

地球よ お前は
いつの日も
愉快にまわるだけでいい
ゆれるのは
風に吹かれる花や
庭の洗濯物にまかせて
お前はいつも
無邪気にまわれ

地球をゆらすものは
泡となって消えろ
ゆれるな
れるな
るな


な!

 誰も経験をしたことがないものに出合ったとき、ことばは動かない。ひとは自在にことばを動かして思いを語っているようで、自在ではない。自分の知っていることばしか使えない。わからないことが起きた時は、ことばが動き回って、どんなことばになることができるか探しまわっている。
 2連目の「春眠あかつきを覚えない」はもちろん「春眠あかつきを覚えず」という詩から来ているのだが、「意味」はまったく違う。まったく違う「意味」を語るにも、知っていることばを使うしかない――いまは、それしかできない。いや、この詩の中では、漢詩にあるとおりの「春眠あかつきを覚えない/優しい季節」という「意味」につかわれているのだが、そこには「あかつきを覚えない」、つらい地震後の思いが流れ込み、「意味」をゆさぶる。知っていることばと、知らないことがぶつかりあって、平田をゆさぶる。それこそ、平田のことば自身が「大地震」を起こすのだが、悲しいねえ、意識は大揺れ、肉体も大揺れ、感情の大揺れなのに、ことばがその大揺れの通りには大揺れにならない。揺らせるものなら揺らして、大地震と向き合いたい、大地震をはねのけたい。けれど、できない。
 それが、再終連。

ゆれるな

 そう言いたい。でも、それではことばが不十分。向き合えない。で、ことばが壊れる。平田のことばが壊れる。それでも、言いたい。言わずにいられない。「ゆれるな」を超える、もっと、もっと、もっと、強いことばを。東北の地震は「ゆれる」を超えている――平田の知っている「ゆれる」を超えている。だから「ゆれるな」ではダメなんだ。
 でも、それはどんなことば?
 わからない。わからないまま、ことばは壊れ「な」だけになってしまう。「○○するな」の「○○」にあてはまることばを探したい、探して届けたい――その思いが残される。
 ここに「現代」よりももっと厳しい「現実・現在」がある。
 平田のこの詩は「現在詩」なのである。



 松浦寿輝は「毎日新聞」2011年3月28日夕刊の「詩の波 詩の岸辺」という時評のなかで、巨大地震にふれて書いている。

 亡くなられた方々のことを考えると心が痛む。収束の見通しも立たない原発事故の行く末は恐ろしい。しかし、悲嘆も恐怖も、実はまだ心の底に固くこごったままで、どんな言葉を口にしても嘘(うそ)臭(くさ)くしか響かない。血なまぐさい修羅場と化した波打ち際の光景からどんな詩が生まれるのか、生まれうるのか、わたしにはまだ見当もつかない。
 しかし、それでも詩は持続する。

 そして「田村隆一全集」に触れている。その指摘は、松浦らしい詩的だが、その指摘の前に置かれた「それでも詩は持続する」に、松浦の「願い」がある。それは「持続したい」と言い直せば、松浦の決意になる。
 そうなのだ、どんなときでも、詩人は書かなければならない。
 平田の作品のように、ことばがみつからず「な/な/な!」であっても。





詩七日
平田 俊子
思潮社
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大西美千代「内省する」

2011-03-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「内省する」(「橄欖」90、2011年03月20日発行)

 大西美千代「内省する」のことばは、私のわきをすっと過ぎていく。その素早い感じに視線が誘われ、ついていってしまう。

私の中の悪いものがペロリと出て
ちょっと出かけてくるよ
というふうに首をかしげて
目の前の路地に入っていった

すうすうする
私の中の悪いものの赤い尻尾を見送って
うなじのあたりから風邪をひきこみそうだ
いつの間にか世界の音が消えている
内省する。
内省すると
風邪をひくのだろうか

 「私の中の悪いもの」。それが何かわからない。わからないけれど、何かがわかる。「ペロリと出」る感じ、「ちょっと出かけてくるよ」という声、「首をかしげ」る姿が見える。見えるから、「目の前の路地」が、そのまま納得できる。
 「主語」がわからないのに(私の中の悪いもの--を「主語」と私は思って読んでいるのだが)、それ以外のものがわかる。聞こえる。見える。私の行ったことのない「路地」さえも、見える。見えるだけではなく、そこに書いていない匂いまで感じるような気がする。「主語」以外のものが全部、リアルに感じられる。
 これが1連目。
 そして、その1連目が過ぎると、「主語」がふいに変わってしまう。

すうすうする

 すうすうするのは「私の中の悪いもの」ではないなあ。「私」そのものだなあ。それがすぐに納得できる。
 読み返すと、1連目は、「私の中の悪いもの」の動きを描きながら、それを見ている(聞いている)「私」を描いている。「私」の「肉体」をこそ描いているのだ。
 「私の中の悪いもの」の動きを見ている視線としての肉体、「ちょっ出かけてくるよ」という聞こえない声を聞いてしまう耳、首をかしげるときの、その肉体の動きがもってしまう「意味」をつかみ取る肉体--それを描いている。
 そこに肉体が描かれているからこそ、「すうすうする」が「私」の「肉体」の感じてあるとわかるのだ。
 この「私の中の悪いもの」という抽象的な「主語」から、「肉体」そのものへの変化の素早さ、そして、その肉体を「うなじのあたりから風邪をひきこみそう」と書くことで、肉付けしていくその素早さ--あ、いいなあ。
 この「肉体」があるから、「内省」がリアルになる。「内省」と「私の中の悪いもの」が一致するのか、それともまったく反対のものなのか--これは、とても難しいが、そういう難しいことはどうでもいいのだ。「肉体」があって、「すうすうする」感じがあって、「風邪をひく」という感じがあって--それは、どうやら「内省する」というこころの動き(?)が「肉体」に残す刻印のようなものなのだ。
 この「刻印」を克明に追っていけば、まあ、「哲学」の本が書けるかもしれない。これも、面倒なので、省略。
 私がいまいちばん関心を持っていることについて書いておく。

いつの間にか世界の音が消えている

 この1行。これはなんだろうなあ。なぜ、この1行を書いたのかなあ。この1行にはふたつの問題が隠されている。「いつの間にか」の「間」と、「世界の音が消えている」の「音」。で、いまの私には「音」の方か関心があるので、そのことを書く。
 なぜ、ここで「音」?
 わからないね。
 わからないから、そこに「思想」がある。「音」と書かなければいられない何かがある。「いつの間にか世界から色が消えている」「線が消えている」「高さが消えている」「においが消えいている」ではなく、「音が消えている」。
 「音」は、大西にとって、世界と肉体をつなぐ何かなのだ。そして、それはもしかすると「私の中の悪いもの」と関係があるかもしれない。私のなかから何かが出て行ったとき、世界から「音」が消える。そして、その「音」が消えたとき、何かを奪われたような寒い感じ--すうすうするがあり、それが肉体に影響して「風邪」になる。
 「音」は「私の中の悪いもの」といっしょに「私の中」から出ていってしまった。路地に入っていってしまった。

 それから、どうなる?

やがて
しんと沈んだ路地の向こうから
じょじょに子どもの笑い声が聞こえてくる
男や女の声が響いてくる
この場所でひとり
からっぽの私はふいに歳を取り
とてもいい人になり
誰も愛さなければ自由に生きていけるということに気が付いて
愕然とする 

 「音」は「音」が消えたむこうからやってくる。「音」が「肉体」にではなく、まわりに満ちてくる。そのとき「私」は「からっぽ」であることを、強く実感する。「からっぽ」は「すうすうする」でもある。
 このとき「私」と「音」は分離している。この「分離」の意識が「愛」とつながるんだろうなあ。--でも、これはちょっと「倫理的」でおもしろくないなあ。「とてもいい人になり」からの3行は、詩としてはおもしろくない。(大西は、それを書きたいのかどうか、よくわからない。ことばが動かなくなって、ついつい書いてしまったのかもしれない。--そう思いたい。)

 「音」が私から出ていって、別の音が遠くからやってくる。どうなるんだろう。

近所をぐるりと回って
人生のきれぎれを尻尾にくっつけて
それは帰ってくる
最良のものと最悪のものをコレクションしてきて
少しやさしくなっている

私は飲みこんだのだろうかあるいは
飲みこまれたのだろうか
いずれにせよ音は戻ってきた
何ほどのこともない浅春の午後
ふと雲が動いて日が陰る

 うーん。大西に異義をとなえてもしようがないけれど、「音は戻ってきた」というのはほんとうかなあ。
 最初の2連のことばのスピード、動き方(変化の大きさ)と後半ではずいぶん違っている。「とてもいい人になり」からあとは「意味」がことばを支配していて風邪を引きこんだ「肉体」もどこかへ消えてしまっている。
 「音」がいつのまにか「意味」の中心になっていて、「論理」がことばを動かしている。それが、後半がつまらない原因だと思う。

 「音」はきっと「論理」(意味構造)からもっとも遠いところにあるのだと思う。あるいは深いところにあるのだと思う。そして、矛盾した言い方になるがもっとも遠いからもっとも近い、もっとも深いからもっとも浅いところにある。言い換えると、「肉体」のどの部分にもからみつくようにして生きている。ペロリと出る舌にも、かしげた首の傾きにも、目にも、うなじにも--というのも「音」とは「ことば」が「ことば」になる前のもの、「未生のことば」だからである。
 それは、大西が書いているように、「しんと沈んだ露地の向こうから」あらわれるとき、それに呼応するようにして大西の「肉体」の感覚がからみあった「場」からもわき上がったくるものだと思うけれど--思いたいのだけれど、音の消えてしまった「肉体」から沈黙を破って「音」が噴出してくる感じを、大西は書きそびれている。

 そんなことを大西は書こうとしていない。私の読み方は「誤読」である--という指摘があるだろう。それは承知している。でも、もしそれを大西が書いてくれたら、私はうれしいなあ。そういうものを書いてもらいたい、と思うから、その思いを「誤読」に込めるのである。
 前半はとてもおもしろい。その前半の勢いをずーっと持続して、「音」を大西の肉体からあふれさせ、露地の向こうからやってくる「子ども」や「男や女の声」を押し返したときが、ほんとうに「音は戻ってきた」と言えるときなのではないのだろうか。




詩集 てのひらをあてる (21世紀詩人叢書)
大西 美千代
土曜美術社出版販売



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アッバス・キアロスタミ監督「友だちのうちはどこ?」(★★★★)

2011-03-27 21:37:23 | 午前十時の映画祭
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ホダバフシュ・デファイ

 冒頭のシーンがとても美しい。小学校の教室。ドア。風(?)のためにゆれている。ゆれるたびに、柱にコツンコツンとぶつかる。その小さな動き。その映像が美しい。スクリーンを分割するドアと柱の左右のバランスが美しいのだ。そして、その分割された画面の中の、古びたドアのペンキの色。ノブ(取っ手、ということばの方がぴったりくるかなあ)の手触り。そこにある「時間」そのものが美しい。--そして、この美しいというのはリアリティーがあるということと同じ意味である。
 アッバス・キアロスタミというのはリアリティーがあるということであり、リアリティーがあるということは、そこに「蓄積された時間」がある、つまり「暮らし」があるということでもある。
 庭に洗濯物を干す。そのときのたとえばシャツの掛け方、そしてその空間にシャツが占めることによって起きる空間のバランスの変化--そういうことは繰り返されることによってある「安定」を形作る。それがそのままスクリーンに定着する。それが美しい。
 一階と二階のバランス、階段の角度、その板の古びた感じ、何もかもが絵になる。何もかもが「時間」をもって、そこで生きている。少年が友だちの家を探しに行くその村(?)の石の階段、露地、古びた石造りの感じの肌触り。そこに漂う空気や、家の仕事を手伝う子どもの動き、ぶらぶら歩いている犬さえ、「蓄積された時間」をかかえていて、とても美しい。主人公の少年の祖父をはじめ、何人も登場する老人たちも、「蓄積された時間」そのものである。「哲学」をもっている。その「哲学」に共鳴するかどうかは別の問題だが、きちんと「哲学」にいたるまで「ことば」のなかに「蓄積された時間」をもっているのが美しい。「蓄積された時間」が表情となって、自然ににじみでるのである。

 この映画はノートを友だちのうちにとどけに行く少年を追いかけるようにして動いているが、それとは別に語られる「ドア」の変化もおもしろい。最初に教室のドアの美しさを書いたが、少年をひっかきまわすのは「ドア職人」である。ドア職人はロバに乗った中年と、老人と二人出てくる。二人が出てくることで「ドア」そのものにも「時間」が生まれる。いまの職人(中年の職人)のつくるドア、老人がつくるドアの違い。中年の方は「鉄」の方に力を入れている。老人はあいかわらず木の手作りのドア(窓、といった方がいいかもしれない)にこだわっている。鉄の方は堅く閉ざされ内部が見えない。木の方は飾りの透かしから明かりが洩れる。何も見えないものと、何かが見えるもの--見えるものの方が、美しい、という「時間」がそこにある。
 主人公の少年は、見えるものと見えないもののあいだを行ったり来たりする。ノートの持ち主の少年のうちはどこ? わかるっていることがある(見えているものがある)一方、わからないこと(みえないこと)がある。そのために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするのだ。そうすることで、少年は自分のなかにある「時間」を発見する。自分がその「時間」をつかって何ができるか--それを発見する。
 とてもおもしろいねえ。
 そして、その「発見」の瞬間--というか、その「発見」を導くように、窓が開く(ドアが開く)。これもいいなあ。
 さらに、さらに。
 最後の最後。宿題のノート。それを開くと、そこには、老人のドアつくり職人がくれた路傍の花が「押し花」のしおりになって挟まっている。その美しさ。「時間」を抱え込んで、その「時間」がそのまま色と形になっている。
 アッバス・キアロスタミは、どんなものでは「映像」に変えてしまう。美しい映像にしてしまう監督である。
         (「午前10時の映画祭」青シリーズ08本目、天神東宝、03月25日)




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稲垣瑞雄「水の炎」

2011-03-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
稲垣瑞雄「水の炎」(「双鷲」75、2011年04月05日発行)

 稲垣瑞雄「水の炎」はタイトルが矛盾している。水と炎が出会えば、水が蒸発するか、炎が消えるか、いずれかであり、その二つの存在が「の」で結ばれることはありえない。そして、その「ありえない」ことをことばの運動として成立させてしまうのが詩である。あるいは芸術である。芸術の「特権」である。

水の炎は
抜き手を切るように
流れの上をわたっていく
その火をかいくぐって
ぼくは 生まれた
やがて鱗が生え
ぼくは炎の
魚(うお)になる
 
 この書き出しは、「芸術の特権」を考えるとき、いろいろなヒントを与えてくれる。1行目を読むかぎり「主語」は「水の炎」である。矛盾した存在である。矛盾というものは、瞬間的に存在しえるけれど、永続的には存在しえない。「水の炎」は、最初に書いたように蒸発するか、消えてしまうか、いずれかを否定すること(破壊すること)、一方が生きのびる。--というのが「現実」であるが、「芸術」では、そういう「法則」(学校教科書の「科学」)は無視される。

ぼくは 生まれた

 主語は「ぼく」になることで、「水の炎」という矛盾を超越してしまう。そして「ぼく」はまた「ぼく」ではなくなる。人間であることを否定して、「魚」になる。その「魚」も水のなかにいる普通の魚ではない。「炎の/魚」である。
 この一連の変化のなかの、「生まれる」「なる」という運動--そこに「特権」が象徴的にあらわれている。
 「生まれる」「なる」ということは、それ以前とは完全に違った存在を「主語」とする。「芸術」の「特権」は「主語」を自由に選べるということである。あらゆる法則にしばられず、逆に新しい法則を生み出すために、「主語」は捏造される。
 「芸術」の「主語」は常に「嘘」である。「非現実」である。嘘、非現実を「主語」とすることで、ひとは、いま、ここで起きえないことを体験するのである。
 そして、ここからがちょっと矛盾するのだが、その嘘、非現実の運動を支えることばの動きには矛盾があってはならない。そして、その「矛盾」というのは実は相いれないこと--ではなく、「ためらい」のことである。躊躇のことである。「芸術」の「特権」を生きることばは、あくまでも軽く、すばやく、いろんなことを考えさせてはいけないのだ。軽やかに駆け抜けなければならないのだ。

炎は刻々と
色を変え
新たな魚たちを
生み出(いだ)す
その虹のような
妖しい きらめき
ぼくもまた新しい光を
見つけ出さなければならない

 1連目から2連目にかけて、飛躍がある。2連目1行目の「主語」である「炎」とは何か。「炎の魚」の「炎」である。「水の炎」は「ぼく」になり、「ぼく」は「炎の/魚」になり、それからその「魚」の「炎」になる。ことばは循環して、すべてが融合する。「水」と「炎」と「ぼく」と「魚」の区別はなくなる。
 「主語」はかわりながら、「主語」を超越して、「場」になる。次々に「主語」を生み出す「混沌」になる。そこにあるのは「矛盾」ではなく「混沌」である。そして、その「混沌」は、この詩では「暗く」はない。きらきら輝いている。まるで「矛盾」を眩しさで隠してしまうようだ。
 そして、その眩しさなのかで、「ぼく」は(水は、炎は、魚は)、その「きらめき」を超越する「光」にならなければならない。

体の芯を研ぎ澄まし
ぼくは透明な魚になって
空を翔めぐる
炸烈する白い光が
ぼくを貫いていくとき
ぼくはまた 新たな
太陽の魚となって
銀河を渡るのだ

 さて、「主語」は何?
 どうでもいいのだ。--と書くと、いいかんげんなようだが、「主語」はなんだっていいのだ。「ぼく」であろうが「魚」であろうが、それはそのときどきの「運動」を明確にするための仮の「主語」。ほんとうの「主語」というか、「主役」は軽やかなことばの運動そのものなのである。
 わからなくていい。
 ことばが猛烈なスピードで動いていった。それだけで、いい。

 そして。
 そのことばが、気持ちよければ、それが詩である。
 稲垣のことばは、私には気持ちがいい。私の「肉体」を軽くする。「肉体」の奥の、ことばにならない「音」と響きあって動いている。


月と蜉蝣
稲垣 瑞雄
思潮社



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小池昌代『弦と響』

2011-03-25 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『弦と響』(光文社、2011年02月25日発行)

 小池昌代『弦と響』は四重奏団のラストコンサートの一日を中心としたオムニバスである。人間関係よりも、そのなかに出てくるひとりひとりの音楽に対する感じ方、それを書いた部分にひかれた。そして、いま、ひとりひとりの、と書いたのだが、そのひとりひとりの音楽に対する感じ方の違いというのは、この小説ではあまり感じられない。ひとりひとりの区別は、肩書(?)や名前、少しずつあらわれてくる人間関係のなかで描かれているが音楽に対する感じ方のなかにまでは個別化されていないように思える。言い換えると、小池は彼女自身の音楽に対する思いを、幾人かに語らせているのだが、そこにそれぞれの個性が出るというよりも、小池自身が顔を出してしまっているということである。

 正直を言えば、長く聴いてきて、心底、感動したという記憶は数えるほどだ。しかも、その感動には実体がない。演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれないし、たまたま、わたしに何か哀しみや悩みがあって、心が敏感になっていただけのことかもしれない。そうした、様々な要因が重なり合って、感動という、得体の知れないものは作られる。確かなものなど、一つもない。

 「演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれない」という部分に、私は共感を覚える。私はめったにコンサートに行かないが、コンサートにかぎらず、芝居、映画でも言えることだが、「感動」には「聴衆の一体感」が大きく影響する。コンサートでは、いい演奏のとき、あるいは演奏がよくなるとその瞬間、聴衆の姿勢がすーっとよくなる。そして会場の空気がぴーんとはりつめる。はりつめた空気のなかで音がまっすぐにのびる。それは、こころ(感情)を通り越して、肉体そのものに響いてくる感じがする。
 これを小池は「感動」と呼んでいる。この感じ方に、私はとても共感する。
 こういう共感から小説が始まると、読んでいて気持ちがいい。小説は小説なのだが、小池の気持ちを読んでいるような感じ、小池の声を聴いているような感じで、誘われるように読んでしまう。

 初めて聴いた曲を好きになることは、わたしの場合、まれである。幾度も幾度も聴いているうちに、その時間が堆積して、身の内に積もってくる。それこそ、雪のように。ある重みまで積もったとき、その曲はもう、わたし自身だ。だから聴けば、それを聴いた、かつての時間が総動員され、それが巻き上がって感動をつくる。わたしは音楽を、それを聴いた、かつてのすべての記憶とともに「いま」という時間のなかで聴く。

 小説とは関係なく、というといいすぎになるのだろうけれど、こういう部分を読むと、小池はここに書いているような「音楽観」を書きたくてこの小説を書いたのだと思えてくる。
 音楽を聴いた「時間が堆積して、身の内に積もってくる」。この「時間」は「感情」(思い)と重なるものだろう。音楽を聴いているあいだ(時間)、ひとは何かを思う。そういう「体験」そのものが、「身の内」につもる。この感じは、私にはとても納得がいく。共感を覚える。「身の内」ということばは非常に幅が広い。「身」を私なら「肉体」というけれど、そのときの「身」(肉体)というのは骨や肉や内臓だけではなく、神経、感覚も含むものである。
 それが、かつて聴いた曲をもう一度聴くとき、「いま」という「とき」のなかに噴出してくる。そのことを「記憶とともに」に小池は書くのだが、その記憶は「身の内」の「身」と同じである。肉体のすべて、そして感覚のすべて--分離できないものとともに聴く。
 これは別なことばで言いなおせば「いま」をこそ、聴く、ということかもしれない。「いま」というのものは「過去/記憶」とともにある。「過去/記憶」とどこか遠いところにあるのではなく「いま」のなかに蓄積(堆積)している。
 そう考えると、音楽とは音楽ではなく、「いま」「ここ」そのものなのだ。それはまた「わたし」そのものだ。「その曲は、もうわたし自身だ」。
 こうした「時間」のあり方、音楽のあり方を、小池は「セカンドバイオリン」のなかで次のように言い換えている。

 音楽のなかに「時間」が見えた。それは普段の時間のように、一直線上を進んでいくものでなく、同じところにいて、噴水のように繰り返し、噴き上がっては落下する時間だ。メロディーは円を描きながら、回転し上昇し、そして天上に解けて消える。波が海辺を一掃するように、聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る。

 「同じところ」とは「いま」(ここ)である。「いま」のなかへ「記憶」が噴き上がっては落下する。「いま」から出ていかない。それは天上へ消えていく。何も残らない--とはいうものの、記憶のなかに時が去ったという感触、切ない感触が残る。この「残る」というのは「堆積する」ということである。「記憶」が「感触」をもつなら、その「記憶」とは「身(肉体)」にほかならない。「身(肉体)」のなかに「触覚」(触った感じ--感触)があるのだから。 

 引用の関連づけが前後するが、「聴衆の一体感」に重なることばは、「チェロ」の部分に次のように書かれている。

ほんとに音楽が好きだったら、すばらしい演奏に、自我なんてものは吹っ飛び、嫉妬なんかは消滅してしまうもんだと思うけどね。音楽のよろこびは、自己の消滅にあり。他者と溶け合って自分が消えてなくなる。

 「他者と溶け合って自分が消えてなくなる」。それは「一体感」のことだが、ここからまた別のことばも動きだす。「他者」とは何か。「身」にとっての「他者」とは「記憶」。それはしかし、「溶け合う」のである。「身」のなかで「身」ではありえないのも、「記憶」(たとえばことばで語りうること、あるいはことばそのもの)が溶け合う。区別がつかなくなる。よろこびとは、区別がつかなくなること。何か、いままでの自分ではないものになってしまう瞬間に訪れるエクスタシーの総称かもしれない。自己がなくなるとき、自己が生まれる。他者となって生まれ変わる。
 それはまた、「過去/記憶」が「いま」に噴出してきて、「いま」が「過去/記憶」なのか、それとも「過去/記憶」が「いま」なのかわからなくなるのと似ている。

 また引用が前後するが「聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る」は次のようにも言い換えられている。「マネジャー」の章。

たとえ演奏が聴けなくても、ホールには「残響」というものが漂っていて、演奏会が終わったあとの、興奮の残った会場を掃除することはうれしいことだとも。

 「切ない感触が残る」のは「身/記憶」(肉体)だけではない。それは「身」の外部である「ホール」にも残る。ホールには「残響」が漂う。同じように、音楽を聴いた「身/感覚」(肉体)のなかにも、「残響」が漂い、それが「堆積」するのである。

 音楽をとおして、音楽を聴くことで「身」が「記憶」になり、「感情」になる。あるいは「感情」が「記憶」になり、それが堆積して「身」になる。それは、音楽(楽器の音)と「聴衆」、「音楽」と「ホール」の関係にも似ている。
 それぞれに名前がある。名前があるということは区別があるということである。けれど、音楽のなかで、その区別がなくなる。あるのは「一体感」と、その「一体感」がもたらすよろこびである。
 --と、書きすすめてくれば、この小説の「狙い」と「成果」もおのずと浮かび上がってくる。
 この小説は「オムニバス」である。複数の登場人物が語り手となり(筆者自身も、ときどき語り手として姿をみせる)、自分の立場から、いろいろなことを語る。それは、ほんとうは区別があるひとりひとりである。けれど、ストーリーがすすめば、それはひとりひとりでありながら、「一体感」をもった「集団」のようにもなる。意識されない「かたまり」である。「身」と「記憶」と「感覚」と、さらには「ホール」が加わる。そして、それは「四重奏」ならぬ、もっと複数の「重奏」(あるいは交響曲)となり、ひとつひとつ(ひとりひとり)では到達できなかった「音楽」に結晶する。

 小池はこの小説で「音楽」を語りながら、小説そのものを「音楽」にしようとしている。



弦と響
小池 昌代
光文社



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