詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加藤思何理『すべての詩人は水夫である』

2014-01-31 10:59:47 | 詩集
加藤思何理『すべての詩人は水夫である』(土曜美術社出版販売、2014年02月10日発行)
 加藤思何理『すべての詩人は水夫である』には読みやすい詩と、読みにくい詩がある。読みにくい詩について、なぜ読みにくいと私が感じるか--ということについて書いてみる。
 「桑の実で歯を紫に染めた花嫁としての自画像」の最初の句点「。」までの行。

青い家、その青い家の緑の扉を開けると
麻と羊歯の瘤蜜柑の匂いを積んだ小さなつむじ風
が、世界のねじを巻き戻すためにふたたび細心に、だが狂おしく
吹きはじめる。見れば裏庭に面したベッド
に横たわる彼女の乳房には、白い貂
の毛の生えた不純な矢が刺さり、首には荊と蜂鳥
の影が渦を巻く、額からは緑の幹を持つ家系樹
があざやかに伸びて、その根は鼻や頬や顎を突き抜け
背骨と二つの心臓を貫き、仙人掌と蜘蛛猿
の土壌へと無傷で呑みこまれてゆく。

 読みにくさの原因は、ことばの「行渡り」が多いからである。1行で文節が完結しない。次の行にまたがってしまう。そして、その「行渡り」の特徴は、行の最後が「名詞」で終わることである。一行一行が「体言止め」なのである。(もちろん、そうではないところもあるが、「体言止め」が特徴として見えてくる。)
 「体言止め」の羅列(連続?)というのは私の「感覚の意見」でいうと、一階から二階へゆくのに、エスカレーターや階段でゆくのとは違って、エレベーターか飛翔(飛躍)でゆく感じである。そこには断絶がある。そして、このとき文章(ことはば)を支配する「主語」は「名詞」にかわる。「私」という存在は存在感が薄くなり、「体言止めであらわされたもの(名詞)」が「主語」になり、「もの」から「もの」へと動いていく。「主語」が変化しつづける。
 「もの」から「もの」へ飛躍していく。「もの」と「もの」の間には「断絶(切断)」がある。それは飛躍する前は「断絶」なのだが、飛躍してしまえば(到着/着陸)してしまえば「接続」にかわる。そういう種類の「断絶」がある。
 ことばというのは、まあ、どんな具合にでもつながってしまうから、接続不可能な断絶(切断)というものはないのだが……。
 で、それがくり返されると、文章の「主語」(文章を支配する何か)は、「もの(名詞)」というより、ことば字体の「断絶/飛躍」ということになる。この「主語」を追いつづけるのは、かなり抽象的なことである。
 で、読みにくいなあ。読みつづけるのがめんどうだなあ、という感じになる。

 読みにくいと感じるのは、ことばの運動の仕方に「飛躍」が多いからだということになるが、--詩を、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いと考えるなら、飛躍の多い方が詩的であるということになるかもしれない。で、まあ、そういうことを狙って書いているんだろうなあ、とは思う。

 ということとは別にして。
 私は少し違うことも考えるのである。これから先は(これまでもそうかもしれないが)、詩の感想というのとはかなり違うことを書く。
 私の「感覚の意見」では、名詞は人間にはわからない。多くの名前は、単に名前である。それをわかるためには、それを「動詞」にしないといけない。一本のバラの花さえ、それをわかるためには、「バラの花がある」という形で「ある」を補足しないとわからない。そのとき私が理解しているのは「バラの花」というよりも「ある」という「動詞」である。「ある」という「動詞」で私とバラがつながる。私がいまここに「ある」とき、バラも「ある」。
 何かをわかるためには「動詞」をくぐらせないといけない。動詞というのは人間の「肉体の動き」である。肉体の動きなら、たいていは人間は真似ることができる。肉体で動きを真似ながら、そこに起きている「こと」を私たちは把握し、理解している。私は、「把握」とか「理解」ということばにも抵抗感が合って、最近は「わかる」で押し通しているのだが(多用しているのだが)。
 目の前で何かが起きている。「こと」がそこに「ある」。それを「肉体」を動かして真似ると、そのことが「肉体」に「わかる」。「肉体」は肉体の動きをとおして、そこに起きている「こと」を「おぼえる」。「おぼえる」が積み重なると、いちいち「肉体」を動かさなくても、起きている「こと」が「わかる」。「肉体」を動かさなくても「わかる」ことを「知っている」と私たちは呼んでいると思う。で、そのために、ときどき変なことも起きる。「知っている」には「肉体」と無関係なこと(肉体が十分に動けないこと)も含んでしまう。英語を「知っている」、アメリカを「知っている」、でも英語を「つかえない」。水泳(泳ぐこと)が「わかる」、泳ぎを「肉体」で「おぼえている」。一度おぼえると、たいてい忘れない。いつでも「泳げる」。「泳ぐ」という運動のために肉体を「つかう」ことができる。「わかる/おぼえる/つかう」は一続きの「肉体」である。「知る」は「肉体」から分離した「頭」の領域での架空の運動である。
 で、私は、ことばを読むとき、ことばを貫いている「運動」に目を向ける。名詞は「動詞」に変換してつかみとる。名詞が動詞派生のことばであるときは、名詞で終わっていてもいいのだが、そうではないとき名詞を突きつけられると、私は戸惑ってしまうのである。どう向き合っていいのかわからない。書かれていることばの「意味」は「頭」では「わかる」つもりだが、それは「知っている」だけで、「わかってはいない」ということが起きる。
 加藤の詩にもどって具体的に言いなおすと……。
 2行目の「つむじ風」。これは「知っている」。ぐるぐる巻きあがる風、旋風。それを「わかる」ために、私は「ぐるぐる巻きあがる」という動詞を補ったのだが、そうしないことには、私は先へ進めないのである。「ぐるぐる巻きあがる」という「動き」のなかには私の肉体で再現できるものとできないものがある。「ぐるぐるまわる」は再現できる。「あがる」は飛び上がることで半分再現できるが、風のように「巻きあがる」ことはできない。そのできることと、できないことを感じながら、私は「つむじ風」が「私」ではないということを「わかる」。「知る」という形に、ととのえ直す。
 で、その「わかったこと」が、次の行の、「ねじを巻き戻す」という動詞のなかで反復される。ぐるぐる「巻く」「巻き」もどす。「巻く」というのは「まわる」ということにもつながる。自分で「まわる」こともできるし、何かを「まわす」こともできる。「まわったもの」は「巻かれたもの」でもある。私は、この行の「巻き戻す」の「巻く」という動詞で、前の行の「つむじ風」を反復している。同時に、その「巻く」が少し変質しながら別のことばにつながっていくのを感じている。
 そんなふうに読むと、加藤は体言止めの行を多用しながら「動詞」を二重につかっていることが「わかる」。動詞を反復しているのだが、その反復を、見かけ上は省略しているということになる。動詞の量(?)が半分に省略されているために、「肉体」よりも先に「頭」が動いて、「肉体」を動かないようにしている感じがする。「知る」という形の「ととのえ」が先行する。先に「知る」が動いていく。
 それが私には苦しい。
 つむじ風が巻いている。そのつむじ風は世界のねじを巻き戻すようだ、と二回にわけて「巻く」をつかえば、それだけそのことば(動詞)は肉体に覚え込まれるのに、反復を避けて先走る。
 これが苦しい。読みにくい。

 とは言っても……。加藤は反論するだろう。「反復」は最初から提示している。反復に気づかない方が悪い、と。
 最初から提示している、というのは。1行目、

青い家、その青い家の緑の扉を開けると

 その書き出しに、「反復」としか言いようのない形で書かれている。「青い家」がそのまま反復されているし、ていねいに「その」という指示詞で先行する「もの」があることを示している。この書き出しから反復を受け取ることができないとしたら、それは読む方が悪い、頭が悪すぎる。
 たしかにそうなのだ。私は頭が悪い。悪すぎる。
 自覚しながら、頭がいいふりも少ししてみよう。聞きかじったことばを利用して、適当にことばを動かしてみる。頭の悪い私は、いま書きつらねたことを、「流通言語」を利用して次のように整理し、ととのえる。
 加藤が書いているのは反復こそが、世界のなかに反復できない何か(ずれ/差異、というのかな?)を生み出す。その、反復されるまでは言語化されていないものを、ことばを切断させながら飛翔するように(飛躍するように)進んでゆくときに(疾走するときに、といった方が加藤のことばの運動の感じが出るかな?)、新しい世界、ことばでしかたどりつけない世界、つまり詩が出現する。
 あ、かっこいいなあ。
 私は自分の書いたことなのに(その加藤の肖像に)、そんなふうにも思うのだけれど、こういう「意味」って、嘘くさいと思う。「意味」なんて、ことばをつないでゆけば、どんな具合にも生まれてしまう。詩は「意味」にしてはいけないんだと思う。「意味」はかたちづくるためにあるのではなく、たたきこわしていくためにあると私は感じている。
 だから、加藤のことばは「読みにくい」というところにとどまって、ごちゃごちゃと何事かを言ってみるのである。

すべての詩人は水夫である (100人の詩人・100冊の詩集)
加藤思何理
土曜美術社出版販売
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西脇順三郎の一行(75)

2014-01-31 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(75)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

やせた鹿はモナ・リーザのように                  (87ページ)

 この一行はきのう取り上げた一行に比べると「意味」が不完全である。「ように」のあとの用言がない。引き継ぐ動詞がない。そのために、この一行だけでは意味がわからない。
 鹿とモナリザ。まったく無関係なものが一行のなかで「用言」を遠ざけられたままであっている。そのために新鮮な印象がする。
 しかしただそれだけではない。鹿を形容する「やせた」が不思議な効果をもっている。「やせた」ということばは反射的に「ふとった(ふくよかな)」ということばを思い出させる。「乏しい」「弱い」というような類似のことばも呼び寄せるかもしれないが、モナリザの丸い頬の感じなどが「やせた」によって自然にスポットを宛てられたような、意識に浮かんでくる。
 手術台の上のミシンとこうもり傘のような、かけ離れたものでありながら、かけ離れること(対立すること)が、逆にことばをどこかで接続させている。その接続があるから、それにつづいて「古典的な微笑をかくして」の「微笑」が、読者を安心させる。


2014年02月01日(土曜日)

西脇順三郎の一行(77)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

ピカソは土人がなめる石の笑いに                  (88ページ)

 「なめる」という動詞が強烈に動く。その前の「ブレークはトラの笑いにもどり/ジョイスはイモリの笑いにもどり」と比べると、ピカソの一行の不思議な強さの印象がさらにあざやかになる。
 この一行は、

ピカソは土人がなめる石の笑いに「もどり」

 と、「もどり」が省略された形とも受け取ることができるが、「なめる」がそういう「形」を拒絶している。ある予定された軌道を逸して動こうとしている。その力に押されて「もどり」ということばは消えてしまったのだろう。
 「なめる」は「もどる」とは逆の動きなのだ。引き返すのではなく、より積極的に近づいていく。近づいていくを通り越して、そこにあるものを自分の中に入れてしまう。「なめる」は「食べる」とは違うのだけれど、舌が触れるということは半分口の中に入るということである。
 「もどる」は自分があるもののなかへ入っていくのに対し、「なめる」はあるものを自分のなかに入れること。「肉体」が逆に動いている。
 奇妙な言い方しかできないのだが、「もどる」と「なめる」を比較するとき、「もどる」は男性的、「なめる」は情勢的な感じがする。なかへ入っていく男、なかへ受け入れる女--そういう対比もついつい考えてしまう。
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水口京子「人真似」

2014-01-30 09:23:24 | 詩(雑誌・同人誌)
水口京子「人真似」(「どぅるかまら」14、2014年01月10日発行)

 水口京子「人真似」について、何を書けるだろうか。どう書けるだろうか。(と、書きながら、私は時間稼ぎをしている。--ことばが動くのを待っている。)わからないが、引用してみよう。

生き人形
あまりに精緻に人に似せられたので
人のつもりになってしまっていた
植えつけられた髪は
人形師の娘の遺髪で
玉蟲色めいて艶やかだった
スミレ色がかったグラスアイ
かの娘は整然そういう瞳をしていたという
みながみな人形を「生きているやうだ」と讃えるので
人形もそのつもりになっていた
生きている証にと人形師の娘と同じように
鴨居に組み紐を渡して縊死しようとしたが
--死ななかった
首を吊ったまま
スミイのグラスアイをパチパチと瞬かせた

 「人形もそのつもりになっていた」という行に、私は傍線を引いている。ここから感想を書きたいと思ったのだ。3行目にも「人のつもりになってしまっていた」と似たようなことばが出てくるが、これは出てくるタイミングが早すぎて(私がぼんやりしすぎていて?)、読みとばしている。ことばは、ある程度くりかえさないと伝わらないものらしい。で、この「人形もそのつもりになっていた」にも実は繰り返しがある。「そのつもり」の「その」。これは前の行の「生きているやうだ」。人形も「生きている」つもりになっていた、ということ。3行目のように「人のつもり」だけでは、どういうことが「人」なのかわからないが、「生きている」ということばで言いなおされて、そうか「人というのは生きている」ということか。人形は「生きている」とは言わないわけか……とわかる。
 この意識の変化の過程に「髪の艶」「目の色」などが挿入されて(?)、そうか、人間は「生きている」ということを髪の輝きや目の色からも判断するのだなあ、とわかる。この「わかる」は「思い出す」。自分も誰かを見たとき髪の艶、目の輝き(色)を見て、いきいきしているなあと感じたことを思い出す。だから、そういうことがことばになって、そこにあると、「そのつもり」になる。
 で、「そのつもり」になるのは、私が人間だからなのだが。「人形」って、「そのつもり」になる? いや、人形じゃないからわからないけれど--人形には「思い(感情/思考)」というものはない。と私は思っている。思っているので「人形もそのつもりになっていた」という行に驚く。
 そして「驚いた」瞬間、私は、その「驚き」に引きずり込まれる。私にもどることができない。「人形になったつもり」になる。私に人間なのに(読者なのに)、人間であることを忘れてしまって、その「人形」になって、「人形のつもり」になって動いて動いてしまう。
 人形は自分では動けないのだけれど、「生きている」のなら、動くだろう。そしてほんとうに「生きている」というのなら、死ぬことができるはずである。「生きている」ということの証明は「死ぬ」ことをとうして、逆説的に証明できる。死んだなら、それは生きていたからである。生きているもの以外は死ぬことはできない。で、人形は首を吊ってみるのだが、「死ななかった」。
 あたりまえのことなのだが。
 その「あたりまえ」を「あたりまえ」と思うまでの間に、私のことばは、いま書いたようなことのなかを、うろうろと動き回る。動き回りながら、人形と人間、生きていること、死ぬということが、くっついたり離れたりする。区別はあるのだが、区別がつかなくなる--つかなくなるというとちょっと違うけれど、まあ、そういう感じ。
 この感じは、きのう読んだ河邉由紀恵の詩のなかで「つゆくさ」と「おんな」の肉体がごっちゃになるのに似ている。区別がつかなくなる--というより、「つゆくさ」のなかに「おんなの肉体(感覚/感性)」を見るというのに似ている。そうか。私は「人形」なのなかに「人間の肉体(思想)」を見ているのか。水口は「人形」のなかに「人間の肉体(思想)」を重ねて動かしているのか、と気づく。
 人間は、自分の思想(肉体)を自分の肉体だけで語るというのは難しいのかもしれない。何かに託す、託すふりをして客観化する(客観化したつもり)。そうすることで、やっと何かがわかるのかもしれない。自分の肉体のままだと、どこにことばを差し挟んでいいかわからない。肉体はあくまでつながっていて、一部を取り出すことができないから、何かを切り離して考えようとするとき(考えを独立して深めようとするとき)、比喩が必要になるのかもしれないなあ。

 「人形」と「人間」の区別がなくなった、と思っていたら……。

   「つまんないの」
と、ぶら下がっていたら
人形師の悲鳴がした
師は人形を引き摺り下ろすと
鉈で頭から胴からめった打ちにし
人形を粉々に砕いた

 うーん。「人形」と「娘」、それに首を吊っている娘を見たときの「人形師」が重なるなあ。娘が首吊り自殺をした理由はわからないけれど、人形が言っているように、何かが「つまんないの」という感じだったのかもしれない。人間なので死んでしまったが、娘はただ「つまんないの」と言いたかったのかもしれない。自殺している娘を発見したとき、人形師は、娘の遺体を大切にあつかうかわりに、ばかやろう、と叩きこわしたかったかもしれない。死んでしまった娘の「欲望(気持ち)」を叩き壊せば、娘は生き返ると思ったかもしれない。--人間はいつでも矛盾したこと、理不尽なことを思うものである。矛盾して、理不尽であるからこそ、感情は肉体のなかにきびしく刻まれる。

師は泣き喚いた
割れ残ってころりころがったスミレ色が
それ見ていた
グラスアイの中で人形は生きていた
   「つまんないの」
が、ひとつ残ったソレに人形師は気付き
鉈の背で叩き割った
   「つまんないの」
生まれて死んでそれだけだった

 人形の気持ちが書かれているのか、人形師の気持ちが書かれているか--どうもわからない。区別ができないが、そこに起きていることがわかる。人形師の悲しさ、悔しさというものが、ことばにならないまま、わかる。
 人形師そのものになったつもりになる。「人形」にもなったつもりになるし、「娘」にもなったつもりになる。3人(?)が「ひとり」のようにあらわれて、そこに「事件」がある。

 ことばとは、人を(読者を)、「そのつもり」にならせるものなのだろう。「そのつもり」っていったい何なの? 問われたら、答えるのが難しい。でも、「そのつもり」にならせてくれることばというのは、きっと、優れたことばなのだ。
 書いた人も「そのつもり」を自分で探しているに違いない。読者も「そのつもり」を自分の「肉体」のなかに探す。何をおぼえているか。何を思い出せるか--明確には言えないけれど、何かを私は思い出している。激しい悲しみに襲われたとき、それを叩きこわしたいという気持ち、そういう衝動がどこかにあって、それは「愛」ゆえなのだと言い訳する。そういう「論理」がどこかにあって、そしてその「論理」をそんなばかなと否定する「論理」もあって……。
 「そのつもり」は「わかる/わからない」がきつくからみあっている。そのなかであっちへ行ったりこっちへ来たり。その右往左往のなかで、なんとなく、筆者と「一体」に「なったつもり」になる。--こういうことが、私は好きだなあ。


外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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西脇順三郎の一行(74)

2014-01-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(74)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

生殖が終つたらすぐ死ぬといい                   (86ページ)

 「意味」の強い一行だが、「生殖」と「死ぬ」といういわば反対のことばが非常におちついか感じでおさまっている。なぜだろう。「終つたら」(終わる)ということばが仲立ちしているためかもしれない。「終わる」と「死ぬ」はなじみやすい。
 「死ぬ」の反対は正確には「生まれる」かもしれない。それを「生殖」(性交)という「誕生」以前の運動で向き合わせているのも、ことばをなじみやすくしているのかもしれない。
 「すぐ」というのは強調なのだけれど、「すぐ」という音の中になにか「一呼吸」ある。「意味」を強調しているにもかかわらず、一種の「間」がある。これも対立することば(概念)をなじみやすくしている。
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河邉由紀恵「つゆくさ」

2014-01-29 09:53:42 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「つゆくさ」(「どぅるかまら」14、2014年01月10日発行)

 河邉由紀恵「つゆくさ」は朔太郎の「竹」のような感じで始まる。つまり、根っこが土のなかにはびこって、絡んでゆく感じ。

あおい青いつゆくさはどこへむかってのびて
いるのかかわいた土をすこうしつかんでえび
色の節からちろと根を出し枝わかれしてつな
がってふたたび土をつかんでぐびぐびぐびと

 「ちろと」「ぐびぐびぐびと」という音の動きにいつもの河邉の肉体を感じるが、その前の「ふたたび土を」の「ふたたび」に私はうーむ、と思う。根が増えていくのは初めてのことではなく「ふたたび」になるのか。新しいね(のびた根)にとっては、どこも新しい世界であって「ふたたび」ではないのになあ、と思いながら読むと……。

のびてゆくなかにもほそいしんをもつおんな
の足の骨のようにしたたかな茎くきはとおい
遠い北のほうをむいているからこころをなり
ゆきにまかせてあおい青いつゆくさがのびる

ほう北の方に向かっておんなの足になりすま
してついてゆけばあらあらみなみひがし西の
方からもじょろじょろとあおい青いつゆくさ
の知らないおんなの足たちが追いかけてくる

 つゆくさの根が「おんなの足」になる。なるほどなあ。河邉はおんなである。つゆくさの根の動きにおんなを見ている。つまり自分の「にくたい」を見ている。つゆくさの根ののびる「運動(いのちの動き)」におんなを見ている。だから、それはどんなに新しいことであっても「ふたたび」なのだ。自分の肉体が覚えていることを、そこであらためて見ているのだ。
 そうして見てみると、そのあたりには「おんな」だらけ。河邉ひとりではなくおんなというものが生きて動いている。
 どこへ?

いな穂がみのる田んぼのあぜ道のそば土手の
うえ小道のわきをどこまでもどこまでも進む
四人のおんなの足たちは坂のうえに見えるう
すぐらい牛小屋にむかってのびているようで

たどりつくと小屋のなかには牛はいないけれ
どさっきまで牛がいたようになつかしいぬる
いくぼみが北のほうにあるのをあおい青いつ
ゆくさのおんなの足たちは知っていたらしい

 「牛」は比喩か。「おとこ」の比喩か、あるいはセックス(行為)そのものの比喩か。--ということを私は感じてしまうのだが、それは牛がもっている獣(動物)のにおい、そしてそれが「なつかしい」とか「ぬるい」ということばと一緒に動いているからである。「牛」が何であるかわからないけれど、「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」ということばが、「おんな」と一緒に動きだし、そこに「くぼみ」ということばまで加われば、男の私は、どうしてもセックスを思い浮かべる。
 そんなことは書いていない、と河邉が主張しても、そんなことは関係がない。作者というのはいつでも本心を指摘されると否定するものである。つまり、否定せざるを得ないほどほんとうのことなのである。--という「理屈」も私は付け加えてしまうのだが……。
 まあ、何が書いてあるかというのは、読む人(私)にとっては二の次。何を読み取れるか、何を「誤読」し、そこで知らない誰かと出会えるかしか考えない。
 河邉が何を書きたかったのか、私は「ほんとう」をつきとめたいとは思わない。「ほんとう」かどうかわからないけれど、この詩を読むと、河邉が書いているのは「つゆくさ」なのか「おんな」なのか、わからなくなる。「つゆくさ」が比喩なのか、「おんな」が比喩なのかわからなくなり、混じりあう。そしてそれは、「土」のなかをのびているはずなのにいつのまにか「牛」にであう。「牛」をもとめている。「うすぐらい」「なつかしい」「ぬるい」「くぼみ」ものと交わっている。
 「くぼみ」と交わるのは男であっておんなではない--まあ、理屈は、そうだね。
 でも、それを「再確認」しているとしたら? つまり、意識のなかで「ふたたび」思い出しているのだとしたら? 自分のことを「くぼみ」と呼んだとしても、そんなに不思議ではない。何かを「ふたたび」確認するとき、それは少し「姿」を変えて、比喩にするとよりわかりやすくなるからね。比喩というのは「ふたたび」認識するための強調なのである。
 で、この「ふたたび」の「認識」。それがあきらかにするのは、

知っていたらしい

 の「知る」。「知っている」のは「おぼえている」こと。肉体が「おぼえていること」を河邉は「知っている」と書いている。それは「忘れられない」という意味でもある。
 ね、
 こんなふうに「誤読」すると、これはますますセックスになるでしょ? 最終連。

牛小屋のくぼみのなかにおんなたちがよろこ
んでじょろじょろと足ゆびをいれるとそのぬ
るさにより足たちはちぢんであおい青いつゆ
くさのほそいしんをもつ骨がのこされている

 さて、ここからセックスにつながることばを、あなたはいくつ書き出すことができますか? あなたの肉体が「おぼえている」セックスとどのことばがつながりますか?

桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
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西脇順三郎の一行(73)

2014-01-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(73)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

それは淋しいことだが仕方がない                  (85ページ)

 長い作品なので、この作品も1ページ1行ずつ選んでみる。
 「淋しい」ということばは西脇のお気に入りのことばである。しきりに出てくる。そのせいだろうか、「仕方がない」と書いているのだけれど、どうも「あきらめた」という感じがしない。
 むしろ、当然、いや「必然」という感じで響いてくる。
 しかし、この感想は「正直」ではないかもしれない。「淋しい」ということばが頻繁に出てくるということを私はすでに知っている。だから、その熟知のことと「必然」を結びつけているのかもしれない。
 「淋しい」を肯定して、その先へと動いていく感じがする。
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手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』

2014-01-28 10:41:00 | 詩集
手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』(ふらんす堂、2014年02月01日発行)

 手塚敦史『おやすみの前の、詩篇』は私にはとても読みづらい詩集だ。活字が小さい。活字の線が細い。インクが黒ではなく灰色。私は目が悪いので、灰色というのは勘違いかもしれないが、ふつうの黒には見えない。線の細さが影響しているのかもしれない。
 さらに私の知らない漢字がたくさん出てくる。
 そのことばの繊細さを強調する文字のあり方を「見た」とき、私はふと高貝弘也を思い出したのだが、高貝のことばが離れながら、その離れることで浮かび上がる「声」を聞きあう(あるいは、遠ざかりながら「和音」を残す--遠い文学の音を虚無に、無の力を借りて誘い出す)のとはまったく違うことに気がついた。
 手塚の詩集を読むとき、高貝のことばを読むのとはまったく違うことが起きる。手塚の詩集を読むとき、私に何が起きるかというと、世界から「音」が消えていく。「無音」になる。その「無音」のなかに、見えるか見えないかの文字が散らばったりぶつかったりする。それは文字の内部に音を沈殿させつづける。そして、その沈殿が見える。出てこようとはしない音が。
 うーん、つらないなあ。苦しいなあ。と思いながら、もう少し読めばわかるかな……。そして、「72」の断章に出会う。

どこから来たのか分からない一まい一まいの葉は、
マス目におさまりきらないメモの文字そのちらかるありさまのよう
足ははつねに高さがあり、枝は揺れ
ゆびは宙に浮く
眼を凝らしても、音が鳴っている樹の茂みの鳥はあらわれず、そのまま書きあぐんでいても
のびた建物のかげの地点からなら再び書き表して移動してゆける

 そうなのか、やっぱりそうなのか。私には「音」は聞こえないが、手塚には「音」が聞こえている。そして聞こえる「音」が目に見える形にならないときは、別の目に見えるものをたよりに動いてゆける。そういう詩人なのだ。視力の詩人なのだ。「眼を凝らしても……」からのことばの動きに、そう感じた。眼を凝らして何かを見ようとしても、それが姿を見せない。そういうときに手塚は別な何かを見て、その見えたものからことばを動かしてゆける。そのとき「聞いた」はずの「音」は無音のなかに消えてゆく。「音」は記憶のなかの鳥の足、指となって木の茂みの奥で幻の視力を鍛える。--いや、これは私の書き方が間違っている。
 鳥が見えなくても、鳥の声が聞こえる。そのとき手塚は、その聞こえたものを手がかりに、さらに見えないはずの鳥の足、指、さらに鳥の足と指が触れている木の枝、その揺れ、つまり鳥と木の間の力の移動のようなものさえも見る視力で、「音」を消していく。「眼を凝らしても」鳥が見えないのではない(姿をあらわさないのではない)。最初から鳥の声を消そうとしているのだ。鳥が見えないのに、鳥の足、指、枝を、つまり世界の「部分」を強い視力で浮かび上がらせて、その浮力によって「音」をないものにする。沈殿させて消してしまう。そのうえで、新しい「影像」(見えるもの)の方向へ動いていく。
 どこまでもどこまでも視力の人間なのだ。私が灰色のインクが苦しいと感じるのに対して、手塚は灰色でさえも見えすぎると感じるかもしれない。もっと薄いインク、たとえば詩集の内表紙に刻印された「型押し」のような、光の屈折がみせるようなもの--それを見ることが「詩」であると感じているのだろう。

 私が唯一「音」を聞いたのは「0」の断章であるけれど。

みずからの影に接吻することもできたあなたに、最後は光の何かを贈りたかったのだが、
人の皮膚はいつまでもくっきりと、そこにあるだけてあって
ひふ(皮膚)、みな(見な)、
いつ(何時)、む(無)、ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、この、とお、…

 「ひ、ふ、ふみ、よ……」という数を数える「音」は「皮膚」という文字、「見な」という文字によって、強制的に別の意味になる。目で見ることで浮かび上がる意味になる。視力がなければ、そにあったものが、そこになくなってしまう。
 「皮膚、見な、何時、無」その目で見る文字が浮かび上がらせる「表意」。漢字が抱え込んでいる意味、聞くのではなく見ることが大切なのだ。「音」は聞こえないようにして(音に煩わされないようにして)、「意味」を動かす。
 視力を集中させるために、手塚は、わざと読みにくい細い活字、小さい活字、薄いインクをつかっている。眼を凝らす人間だけが把握できる「意味」を書こうとしている。

 「眼を凝らす」というのが手塚の「思想(肉体)」なのである。「眼」を凝らし、文字に凝る(文字も凝らす)、文字の見えたかも凝らす--この「凝らす」は強調である。「わざと」である。
 詩集の途中から、(おやすみの先の、詩篇)というのがある。「おやすみの前」と「おやすみの先」というのは、眠る前と、眠った後という前後関係のようでもあるけれど、「おやすみしたその方向の前」「おやすみしたその方向の先」ともとれる。「前」と「先」はどこかで重なるので、「前後」と言う具合には明確に区別できない。「おやすみ」ということばから「前」と「先」という文字だけを分離し、それを見極めようとすると、さらにそれが分からなくなる。「前」と「先」は「視力」にとっては同じ方向である。
 そこには、不思議な「混乱」がある。本来もっているはずの「過去(時間)」から分断された浮遊感。あるいは不安定な離脱感。その不安定さがすがってしまう何か……。

あの孤悲(こい)びとのいた方向を見あげ、左右の隙間を大きく侵蝕して行きながら
脈絡のない物事のうちを漂い、縺れ合って行った

 「孤悲(こい)びと」という「表記(視力でとらえたことば)」のなかには、ある混乱がある。重なり合いがある。「恋」は「こい/こひ」。「悲」は「ひ」。「ひ」は「い」。「こいびと」と「声(音)」にしてしまうと「ひ(火)」は消えるが、「孤悲」と書くことで「悲しみ」が孤立したままいつまでも消え残る。そして「文字」のなかで定着する。ちょうど、型押しの刻印のように。耳ではわからないもの、眼を凝らすことでしかわからないものとして。

 もっとていねいに書くべきなのだろうけれど、目が疲れてしまった。感想はここまでにする。(詩集の最後の方に「/(スラッシュ)」で区切ったことばがつづく詩があるが、私はこの「/」による無音の表現が苦手である。無音をわざわざ視力に見えるようにするという表記に、どうも肉体の奥(感覚の融合している部分)を切り刻まれる感じがする。むりやり聴覚と視覚を分離させられるような感じがして、とてもつらい--と書いておく。(いつも以上に誤字・脱字が多いかもしれない。手塚の作品は詩集で再確認してください。)
おやすみの前の、詩篇
手塚敦史
ふらんす堂
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西脇順三郎の一行(72)

2014-01-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(72)

「田園の憂鬱(哀歌)」

--「どうもよくみえない」

 これは眼鏡が曇ってよく見えないので、眼鏡を吹きながらの「台詞」になるのだが……。行頭の「--」。これがちょっとおもしろい。西脇はひとのことばを引用(?)するとき、鍵括弧をつかっている。この行でも「 」は書かれている。
 では、なんだろう、これは。
 「間」なのだと思う。眼鏡を拭くという行動がある。それからことばが出てくるまでの「間」。
 「間」と沈黙は同じものだろうか。違うものだろうか。違うと思う。「間」は文字通り、何かと何かの間。沈黙は「間(あいだ)」にあるものではなく、それ自体で存在する。でも、「間」は単独では存在できない。
 ということは。
 「間」とはリズムということかもしれない。
 「音楽」にはいろいろな種類がある。ことばの音楽では、もっぱら音韻が語られる。リズムの場合でも音韻数(あるいは拍)が語られる。しかし、それ以外にも「間」のリズムがある。
 西脇は、そういうものも再現できる「耳」をもっていたのだ。
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一月一五日に上京したとき、

2014-01-27 19:21:26 | 
一月一五日に上京したとき、

一月一五日に上京したとき長谷川等伯を見た。
上野の国立博物館の二階の二号室。

入った瞬間に、雨にぬれた。
墨の濃淡が描く雨が部屋中に広がっていた。
松は屏風のなかでけぶっていた。
雨がわずかな風に、集まったり散らばったりしている。
松と松の間を雨が近づけたり遠ざけたりしている。
その雨が屏風からあふれ、流れ、ただよって、私を取り囲む。
そう書くと詩になるかもしれないが。

違った。
私は雨ではないものにぬれた。
              私は、ふるさとの山の中にいる。
山では雨は空から降るのではない。
地面から水蒸気がわきあがる。
土の温かさがこまかい水分を蒸気にして吐きだす。
それがゆらゆらと揺れる。
細かな蒸気はゆらゆらと高みへのぼり、空にたどりつき、雲になり
雨になってかえってくるのだが、
寒い日は水分は天にまでのぼりきれない。
雨になれないまま、不完全に、そこにただよっている。
ただよって広がっていく。
形をくずしていく。
さびしい、かなしい、こまかなこまかな水蒸気。
山は、まだ何かを吐きだそうとしている。
飽和しているもののなかへ。
その飽和を抱え込み、しかも揺する山の土の、草の、湿り。

微分も積分もできない、
灰色の輝き。

ああ、これは能登のつけ根の、ふるさとの山じゃないか。
七尾からつながっている能登の山の
どこへもいかない湿り。
どこへも行けないものたち。
見たことがある。
私はそれを見ている。
松ではなく、その細かな息のような水の形を。
山の気配を。


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木村恭子「調味料」

2014-01-27 09:19:15 | 詩(雑誌・同人誌)
木村恭子「調味料」(「くり屋」60、2014年02月01日発行)

 木村恭子「調味料」は「調味料」とは関係のないところからことばが始まる。学校はどこにあるかと人に尋ねられ、ついでがあるから案内しますと一緒に歩きだす。

歩き始めると おおもりゆきこさんを覚えていらっし
ゃいますか と言うのです その瞬間むしょうに懐か
しいもので胸がいっぱいになりました
でもへんなのです おおもりさんの思い出は何一つ浮
かんできません
わたしは 遅刻して夏休みのひっそりかんとした教室
にぽつんと立っているような気がしました

 こういうことは私は体験したことがないけれど、ありうることだと思う。知っているはずなのに思い出せないことというものはあるからね。
 「遅刻」した夏休みの教室というのは、現実にはありえない(夏休みだから遅刻しようがない)のだけれど、気分的に「わかる」。夏休みの教室へ行ってみるとだれもいないので、まるで遅刻してきたためにみんなに会えなかったのか、と思う感じ。遅刻したら全員に会えるのだから、この感じは「矛盾」を含んでいるのだけれど、その「矛盾」が逆に真実のように思える。--「矛盾」した感じでしか言えないような、奇妙なことがらがある。そして、この詩の場合、すでに「懐かしい」のに思い出せないという矛盾を抱え込んでいるので、算数でマイナスとマイナスをかけたらプラスになるような、「理屈」では説明するのが難しいけれど、めんどうだから、そういうことにしてしまえ、みたいな(?)感じで何かが伝わってくる。
 自分の知らないところ(完全にたどりつけないところ)に「真実」があって、それがなぜだか見えてしまうような感じと言い換えることができるかなあ。
 こういう感じはなかなかことばにすることができない。うれしい予想がぴったりあたってしまったために逆に拍子抜けしてがっかりする感じ--なぜか逆に「裏切られた」というような思いがふっと胸にはいり込んでくるのに似ている。人間は天の邪鬼なのかもしれない。思い通りにならない方が「真実」と思う癖がついているのかなあ。
 こういうことを、さらりと書いてしまうのはすごいなあ。
 そのあとも、なかなか興味深い。

困っているとその人が話し始めます
ホラ いつかあなたがお母さんにひどく叱られた朝 
一緒に登校してくれたでしょ 仲間はずれにされた日
も 校庭の隅で 黙って並んで縄跳びをしてくれたで
しょ それからあなたが骨折した時 毎日励ましてく
れたじゃないですか

ああそれなら人違いです わたしには骨折の経験がな
いですし と言おうとし でも一方で数年前に実家の
整理をしていた時 片腕を三角巾で吊るしたピンボケ
の子供の写真があったような気がします するとやは
りおおもりゆきこさんは いつもわたしの傍にいてく
れた子供なのでしょうか

 人間の記憶はまだらになっているというか、思い出せることと思い出せないことがあり、そこには勘違いも入ってくる。なんでも人間の脳は自分の都合のいいように「事実」をねじまげて処理してしまうらしいから、あれは、ほんとうはどっちだったのだろうということはしばしばあるものだ。
 不思議なことに、木村の詩を読みながら、母親に叱られたこととか、仲間はずれにされたこととか、誰かに励まされたこととか、骨折したこととか(あるいは誰かが骨折したのを見たこととか)、昔の写真をぼんやりとみつめたこととかが、思い出されてくる。
 木村が木村の過去を思い出しているのか、私が自分の過去を思い出しているのか、知らず知らずのうちにどこかで、あいまいになる。
 たぶん。
 「その人」と「わたし」が会話をする、そしてその会話の中に、ほんとうにあったことか、記憶の間違いかわからないようなものが混じりあうという「こと」が、逆にはっきりと目の前に浮かんでくる。木村は「わたし(木村)」と「その人」、あるいは「おおもりさん」との間にあった「事実」ではなく、人の記憶というものはまじりあうという「こと」を正確に書いているのだと思う。
 「こと」というのは、ちょっと抽象的すぎて説明にならないのだけれど……。それを木村は、あっと驚く「比喩」で語ってしまう。

それからふと お砂糖やお塩のことを思いました 役
目を終えると 名指すことの出来ない味わいだけを残
して 姿を消してしまうもののことを

 あ、いいなあ。この説明。「姿を消してしまうもの」。
 で、感激してしまって、私は何を書こうとしていたのだったのかなあと思わず考えこんでしまうのだけれど、いや、思い出しながら困ってしまうのだけれど。
 木村は、ある「こと」を正確に書いた。その「こと」というのは、説明しようとすると「姿」を正確にとらえることができない。「こと」というのは「名詞」ではなくて、「動詞」のようなものなんだろうなあ。動きのなかでのみ存在する何か。「姿」のような「名詞」には転換できない何か。
 木村は、

お砂糖やお塩の「こと」
名指す「こと」
姿を消し去ってしまうものの「こと」

 と三回「こと」を繰り返している。そして最終連にも「しだいにそれらのことすらわからなくなってゆくのでした」と「こと」が出てくる。この詩は「こと」に関する「哲学」、「もの」と「こと」は違うという哲学、「もの」は名詞(姿)であるけれど、「こと」は動詞(きえてしまう)であるという哲学を書いているんだね。

六月のサーカス―木村恭子詩集 (エリア・ポエジア叢書)
木村 恭子
土曜美術社出版販売
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西脇順三郎の一行(71)

2014-01-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(71)

「坂の夕暮れ」

なければならないのか

 きのう書いたことのつづきになるが、この「なければならないのか」という一行は一行として不自然である。文章になっていない。前の行の「急ぐ人間の足音に耳を傾け/なければならないのか」とつながって、初めて「意味」がわかる。
 「……なければならないのか」はこの作品にはほかにも出てくる。「悲しい記憶の塔へ/もどらなければならいのか」「まだ食物を集めなければならないのか」。他のところでは、「意味」が通じるように書かれているが、私の取り上げたところだけ、一行が独立している。
 なぜなんだろう。
 「なければならないのか」という「音」が、それ自体として好きだったのだ。西脇はその「な」と「ら行(れ/ら)」が交錯する音が音楽としておもしろいと感じたから、それだけを単独に取り出して聞いてみたかったのだ。音楽として響かせてみたかったのだ。
 「意味」ではなく、「音楽」が西脇のことばを動かしている。
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テオ・アンゲロプロス監督「エレニの帰郷」(★★★★★)

2014-01-26 22:52:25 | 映画
監督 テオ・アンゲロプロス 出演 ウィレム・デフォー、ブルーノ・ガンツ、ミシェル・ピッコリ、イレーヌ・ジャコブ


 テオ・アンゲロプロスの映画で、私はギリシャにも雪が降ることを初めて知った。「旅芸人の記録」で、である。そして、冬の空気、湿っていてほの暗い感じが私の故郷の空気に似ていると思った。ぬれた道に灰色の空と、空気の湿り気がそのまま映る感じが、とてもなつかしい。外国の風景なのだが、「空気」は北陸の冬に似ている。雨の降り方も、なんだかわびしく灰色の冷たい感じが不思議に故郷を思い出させた。違うのは、その灰色の中にテオ・アンゲロプロスは黄色を配置することである。黄色い雨合羽。これが美しい。--私は、その灰色と黄色に魅せられてテオ・アンゲロプロスが好きになった。
 この映画を見る前、私はひとつの不安をかかえていた。二年前から、私は白(灰色が少し入った白)がピンクに見えるようになった。テオ・アンゲロプロスの灰色と白がピンクに見えたらどうしよう、と思っていた。さいわい、テオ・アンゲロプロスの灰色と白はさびしく、しめったまま、体に押し寄せてくるという印象は変わらなかった。
 というのは、あまり意味もない前置きだったが……。私は、まず雪を見たのだ。そしてなんとなく安心し、安心したまま映画の中へ入っていった。
 で。
 列車がロシアを走るシーンの、草の上につもった雪に、私にはびっくりした。美しい。初めて見る白だ。地面につもった灰色の雪とは違って、不思議な純粋さがある。それはギリシャの白い大理石のように汚れを拒絶している。草をそのままドライフラワーにして白く塗りかえたように、張り詰めた形をしている。彫像のようだ。雪のつくった造花のようだ。えっ、ロシアの雪はこんなふうに草の葉っぱ一枚一枚にぴったりと貼りつき覆ってしまうのか--と空気の冷たさに身をたたかれる思いがした。
 その白に感心して、ぼーっとして、あ、この白を見るだけで映画を見る価値があるなあ--というようなことを思ってしばらくして。
 私は、あ、見落としていた、と叫びそうになった。
 この映画では登場人物がひたすら歩く。そのことに気づいたのだ。歩くとき、登場人物に「目的地」はあるのだが、その「目的地」は必ずしも自分の求めている方向とは言えない。自分を守るために、何かから逃れる、死から逃れる、殺されないために逃れる--その「逃れる」を目的として歩くことがある。シベリアの収容所の、じぐざぐの階段を上るシーンが印象的だ。散歩の帰りか何かなのだろうが、主人公たちは帰りたくて歩いているのではない。階段を上っているのではない。決められた通りに歩かないと死んでしまうから歩いている、死を逃れるために歩いている。 登場人物は、最初「逃れる」ことを目的として歩きはじめ、「逃れ」切ったあと(強制的な死の恐怖が消えたあと)、もといた場所へ戻るために歩く。
 テオ・アンゲロプロスは「歩く」を描きつづけていた。「歩く」人間を描きつづけていた、と急に気がついたのである。
 「旅芸人の記録」でも一座はただひたすら歩く。歩いてたどりついた街で芝居をして、また歩きはじめる。追われながら、逃れながら、ひとつの芝居を守るようにして歩く。車屋列車も出てきたかもしれないが、歩いているシーンの印象が強い。家の影から、歩いて通りに出てくる。最初はひとり。そのあとに、二人、三人……そして一座になる。その一座の黒い衣装の塊がとても印象に残っている。でも、私は「旅芸人の記録」について感想を書くとき、彼らが「歩いている」ということについては触れなかったような気がする。ほかのことに気をとられていた。
 歩くのは、そうなのだ、「自分を守る」ためなのだ。
 自分の中にいる誰か、自分のなかの自分--それを守るために歩く。歩くしかない。集団で歩くのは、集団で自分たちを守るために歩いているのだ。旅芸人たちは「芝居」のなかで動いている人物、その肉体を自分自身と感じて、それを守ろうとしている。自分のいのちと同時に、芝居の中に生きているいのちを守ろうとしていた。
 ばらばらになると自分を守るのは難しくなる。軍にとらえられ強姦されるシーンが印象的だが、ひとりになると自分を守るのは難しい。
 とらえられても、それは「外形」としての自分、こころの中で常に「自分のなかの自分」は歩いている。「歩く」ことを忘れない。どこかに閉じ込められたときには手紙を書いて、ことばを歩かせる。主人公のエレニは会えなくなった恋人に手紙を書きつづける。ことばは「歩く」のである。旅芸人たちは困難ななかで芝居をもって歩く。芝居のなかの人物を演じることで、ことばを歩かせる。
 で、この映画では、そういうエレニたちの「歩く」行為と、映画をとる監督の様子が重なり合う形で描かれる。映画を撮るというのはエレニが手紙を書くという行為が重なる。旅芸人が芝居をするのと重なる。言い換えると、監督は映画を撮ることで「歩く」。「自分のなかの自分」へ帰ろうとしている。自分のなかの自分へ向けて歩いているのだということがわかるのである。
 でも、「自分のなかの自分」というのは抽象的で、ちょっと哲学的で、あまり好ましい言い方とは言えないなあ。あまりにも抒情的なにおいが強くなる。テオ・アンゲロプロスには、につかわしくない--と私は思う。
 だから、言いなおそう。
 私はギリシャ現代史はまったく知らないのだが、それでもテオ・アンゲロプロスの映画を見るかぎりは、戦後、ナチスに抵抗してきたひとたちが、次にあらわれた軍政によって迫害されたということがわかる。この映画の主人公のエレニも共産党に関係していたために追われたのである。国を守るために戦った人間が、国を追われる。こんな理不尽なことはない。その理不尽から、主人公たちは帰郷を目指す。それは感傷的なことがらではなく、精神的なことがらではなく、哲学的なことがらでもない。事実としての行動、叙事なのである。テオ・アンゲロプロスは、「歩く」こと、「帰る」ことの困難さを、いくつもの国を描くこと、国境を描くことで「具体化」している。国境での人間の振り分け、さらには入国審査(出国審査)での全裸透視の監視は、人間は「ひとり」になって「歩く」という「事実」をつたえる。「帰郷」するのは「精神」ではない。「肉体」なのだ。帰るためには、具体的な「国境」を越えなければならないのだ。そこには軍隊がいて、見張っているのだ。--「自分のなかの自分」というような抽象的なことばをつかってしまうと、そういうことを見落としてしまう。そして抒情的になってしまう。テオ・アンゲロプロスは映画を撮りながらギリシャの現代史を歩いているのである。歩きながら、自分の「出自」を確立しようとしているのである。「叙事詩」あるいは「悲劇」をつくっているのである。

 これはとてもつらい映画だが、最後のシーンには美しい安らぎがある。エレニは死んでしまうが、孫娘のエレニ(同じ名前)がエレニの夫(つまりおじいさん)と手をつないで雪の街を走る。ベルリンなのだと思うが(違っているかもしれない)、そのときの二人の足の運びがぴったりあっていて、まるで恋人である。その走る姿は「事実」であると同時に、死んだエレニの夢でもあるだろう。
 そのときの雪は、それまでテオ・アンゲロプロスが描いてきたギリシャの湿った雪でも、シベリアの凍った雪でもない。ふわふわと軽い。まるで天使の羽根のようである。この映画には「ベルリン天使の詩」のブルーノ・ガンツがエレニのこころの恋人(親友)として登場するし、ほかにも天使が第三の翼を求めているというような台詞もある。ひとつの「夢」がラストシーンの雪には託されているに違いない。
                 (2014年01月26日、t-joy 博多スクリーン11)



テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々)
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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吉本洋子「活ける」

2014-01-26 10:52:26 | 現代詩講座
吉本洋子「活ける」(現代詩講座@リードカフェ、2014年01月22日)

 吉本洋子「活ける」は相互評で好評だった。どれくらい好評かというと、「好き」「おもしろい」「吉本さんの世界」というような単発の声が出るだけで、あとがつづかない。「ここがきらい」「ここがわからない」というような批判がでない。こういうことはよくある。
 その作品。

伸びつづける根を見ている

怠けつづけた庭仕事のつけが回って
敷き詰めた煉瓦の下からどくだみの根
みつばの根
なまえを知らない草の根
訳のわからない根っこが蔓延って
庭からせめて来る

三日前にベランダへ這いのぼり
二日前には台所に乱入
昨日はリビングにまで触手がのびて
家族のひとりが絡め捕られた
あわてて裏口から庭にまわり
一番太い蔓を引っ張ってみた

日焼けもしてない生白い蔓が
なつく様に添ってくる
眼もない耳もついていない白子の蚯蚓
あんたなんかになつかれても困る
邪険に振り払って近所の便利屋を呼びつけた
根こそぎ引っこ抜けと迫る私に

こりゃあいけませんや通し柱に巻き付いて
金輪際離れるもんじゃあありませんぜと
ハードボイルドに決めて帰って行った

それなら私も覚悟を決めて
花鋏片手に風情を生かして付き合うわ
絡め取られた柱を真として
しんそえたいは不等辺三角形
無駄な枝は情け容赦なく切り落とし
風の通り道はさりげなく

足もとはきりりとしめるのが流儀だけど
ついつい片足に力がはいる
少し傾きかけた背景は
非対称の妙味とでも呼んで
あんばらんすであんふぇあー
家族の重力とリンクしているね

明日
どくどく呼吸しながら伸びている根を
さすり擦り見ている

 唯一、具体的な(?)感想は4連目、「あんたなんかになつかれても困る」という行がおもしろい、という指摘である。ほかのことばが出てこない。
 うーん、困った。
 いや、私もこの日はことばがあまり出なかったのだが。私は基本的に参加者の発言を拡大していくという形で話を進めるのだが、この日は参加者も少なく、いろいろな声が出なくて、ちょっと戸惑ったのだが……。

 でも、書いてみよう。同人誌や詩集で作品を読んだときのように書いてみよう。私はだいたい詩を読んで、3行くらいメモがとれるとその作品について10枚くらいの文章を書く。(引用があるので私自身の文章は少ないが……)。
 私がぐいと引きつけられたのも、4連目である。参加者が指摘した行と、その直前の、

なつく様に添ってくる

 この行に読みながら傍線を引いた。2行に共通するのは「なつく」ということばである。これは、どういう意味か。参加者に質問すべきだったなあ。「なつく」というようなことばはいつも口にしているし、なついている、なついていないというようなことは何にでも感じることなので、いざ定義(?)しようとすると難しい。わかりきっているので、別のことばで言いなおすことが難しい。
 簡単に言いなおすと、なれた感じ、べたべたした感じ、まあ感情の距離感がない感じなんだろうなあ。感情に距離感がなくて、それがそのまま肉体の距離感のなさにつながる。隔てるものがなくて、くっついた感じ。「なれ」+「つく(くっつく)」=なつく、という感じかな。
 なぜ、これがそんなに印象的なことば、詩のことばになって迫ってくるのだろう。
 詩に圧倒されて、そのときは思いつけなかった質問をしてみよう。架空の「質疑応答」をしてみよう。

<質問>4連目の「なつく」ということば、詩のなかのほかのことばで言いなおすと、どうなるかな?
<受講生>?
<質問>大事なことばは、たいてい言いなおされる。何を言いなおしたものだろう。なついたものがすることは? たとえばなついた犬や猫はどうする?
<受講生>すりよってくる。
<質問>似たことばはない? 植物が「すりよる」というのは、どういう姿で?
<受講生>這いのぼる?
<質問>ほかには?
<受講生>触手がのびる。
<質問>すりよられるとうるさい感じがするときがあるね。そういうときに似たことばは?
<受講生>からまる?

 だんだん、書いていることがつながってきたね。吉本は1連目で「蔓延って」ということばをつかっているが、これを吉本は「からまって」と読んだ。蔓が伸びて、伸びた蔓はからむ。
 何かが自分に近づいてきたとき、そしてこそに悪意を感じないとき、たぶん、ひとはそれを「なつく」という。めんどうくさいとき「からまれた」というね。「なつく」と「からむ」は親類みたいだ。というか、受け取り方次第というか……。

<質問>では、悪意が感じられたとどういうだろうか。
<受講生>攻撃する、攻めてくる。

 ほら、ますます詩のことばの「連絡」が見えてきた。
 雑草(吉本にとって好ましくないもの)が庭にどんどんはびこる。増殖する。根っこは土のなかで見えない手をのばし、家へ家へと攻めてくる。家の中まで入ってくる。「家族のひとりが絡め捕られた」というのは比喩だけれど、まるで人間にまで絡みついてくるような勢いである、ということだろう。
 この攻撃を、簡単に雑草の暴力といわないところが、この詩のポイント。「思想」である。
 この攻撃を、吉本は「からむ」と同時に「なつく」とも呼んでいる。
 「なつく」というのは、でも、一般的に「攻撃」ではない。愛情の表現である。でもねほら、愛情の表現というのはいつもいつもうれしいものではないね。めんどうくさいときがあるね。いちいちつきあいたくない。もう少しさばさばしたら?
 恋愛の初期でもそういうことはあるだろうけれど、夫婦生活が長くなると、べたべたも考えよう。「夫、元気で留守がいい」なんていう言いぐさもある。
 4連目の「あんたなんかになつかれても困る」の「あんた」は「白子の蚯蚓」、つまり雑草のはびこった根なのだけれど、そういうものを「あんた」と呼ぶところに、ふっと連れ合いの「あんた」が重なってくるね。
 雑草のことを書いているのに、なぜか、夫婦関係のようなものが、重なるように侵入してくる。雑草が夫婦関係に侵略されている。混じりあって、ごちゃごちゃ。
 雑草と連れ合いが、「あんた」と「なつく」ということばのなかで手を組んで吉本に迫ってくる。参加者のひとりが端的に指摘したように、この行がこの詩のいちばんおもしろいところ、読み落としてはいけないところだね。

 さて、どうしよう。きっぱりと別れてしまおうか。完全に処理してしまう方法はないものだろうか。
 いやいや、

こりゃあいけませんや通し柱に巻き付いて
金輪際離れるもんじゃあありませんぜ

 これは蔓草のことであるようで、一緒に暮らしている連れ合いの比喩のようでもある。切り離せない。切り離すと大黒柱(通し柱)を欠いてしまう。それでは家が壊れる。
 しようがない。

それなら私も覚悟を決めて
花鋏片手に風情を生かして付き合うわ

 覚悟を決めて付き合いをつづけ、その「付き合い」に生け花をするように「風情」を盛り込んでいくしかない。
 このあたり、雑草と連れ合いの比喩が融合してしまっている。雑草のことを書いているふりをして、連れ合いへの対処法を書いている。ときには「情け容赦なく」、でもそればっかりおしとおすわけにもいかないので、「あんばらんすであんふぇあー」。まあ、「なついている」人には理解してもらえる(強要してもらえる)範囲で工夫を凝らすということだろうねえ。

 実際に吉本が何をしたかはわからない。そのときに吉本が感じたことのすべてがわかるわけではない。
 でも、吉本は庭にはびこった雑草の処理に困ったとき、まるで連れ合いみたいになついてくるなあ(からんでくるなあ)と感じたんだろうなあ、連れ合いを思い出したんだろうなあということはわかる。そして、連れ合いに向き合うときも、雑草に向き合うときのように時に容赦なく、時にバランスを考えて……というような行動がわかる。
 あ、この「わかる」はほんとうに「わかる」というのではなく、勝手に想像できるということだけれど。
 これがおもしろいのだ。
 ひとは他人を勝手に想像する。そして、その想像というのは、実は自分の「肉体」の反映というか、自分の姿を映したものなんだけれど。他人の姿を笑うということは、自分のあれこれを棚に上げて、自分じゃないみたいにして笑うことなんだけれど--そういうことをとおして、ひととひとは交流する。互いを「わかる」。

 最終連もいいなあ。

明日

 そうなんだ。この仕事は「きょう」で完結するのではない。明日も同じようにつづいている。それが「わかる」。人間はかわりようがない。雑草よりもかわらない。

 きょうの復習(?)。おさらい。
 印象的なことば(キーワード)は、ほかのことばで言い換えられている。言い換えられていることばを少しずつ追っていくと、そのことばのなかにほかのものがまじってくる。比喩で振り分けたつ,もりでも、比喩なので振り分けても振り分けても、現実(事実)がまじってくる。そのあいまないなまじったものを強引に拡大し「誤読」する。そうすると、その「誤読」のなかに自分(読者)の生活がはいり込み、自分の「肉体(体験)」を基盤にして、さらに「誤読(誤解)」が進む。--それは「誤解」なんだけれど(つまり作者の書いていることと完全に一致するわけではないのだけれど)、誤解のなかにも重なり合うものがあるので、その重なりあいから、そこに起きている「こと」がわかる。それが「わかる」と楽しい。だから「誤解(誤読)」しよう。


詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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西脇順三郎の一行(70)

2014-01-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(70)

「水仙」(ここからは『禮記』)

この野いばらの実につく

 この一行は「文章」として不完全である--と思うのは、その次の「霜の恵みの祈りよ」という一行を読んでいるからそう思うのである。「つく」は終止形ではなく「連体形」であるとわかるのは次の行を読んだときである。
 もちろん「この野いばらの実につく」は、「つく」が終止形であると判断するには、少し不自然なことばの動きである。助詞がおかしい。実「に」つく、ではなく実「が」つくというのが自然なことばのうごきなのかもしれない。だから、この一行の「つく」を終止形思うのは、「助詞」を無視した早とちりということになる。
 けれども、そこには何か早とちりを誘うものがある。
 行頭の「この」という指示詞が印象的である。「この」と突然指し示されるのだが、読者(私)には、その「この」がわからない。「この」がわかるのは西脇だけである。この一行は、そういう意味では「強引」なのである。何がなんでも西脇の意識の方へ動いていく。そういう強引さがあるから「実につく」という助詞と動詞の活用の組み合わせがねじまがって、「終止形」に見えてしまう。(これは私だけの錯覚、早とちりかもしれないが。)

 ということと同時に、私には、何か「終止形」にこだわりたい気持ちがある。
 西脇の詩には、ことばの行わたりがある。本来一行として連結していなければならないものが、途中で切断されて次の行に行ってしまうことばの展開がとても多い。
 そのとき、それはほんとうに「行わたり」なのだろうか。
 そうではなくて、いったん切断している。そこで終わっているのではないのか。終わった上で、次の行であたらしくはじめている。どんなに行がわたっても、西脇にとってはそれぞれの行は「終止形」なのではないのか。
 「感覚の意見」として言うしかないのだが、一行一行が独立した「音」として和音をつくりだす。そういう「音楽」が西脇の詩にはある、と思う。
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青山かつ子「小春日和」

2014-01-25 10:24:05 | 詩(雑誌・同人誌)
青山かつ子「小春日和」(「すてむ」57、2013年12月10日発行)

 詩のなかの、なんでもないことばがとても気になるときがある。青山かつ子「小春日和」は病院に入院している老婆のことを書いている。

「おばあちゃんの肌やわらかいね」
細くなった
顔 腕 指の一本一本に
ていねいにクリームを擦りこんでいく

野良仕事できたえられた
節太のぶあつい手も
日に焼けた顔も
歳月にすっかり晒されて-

病院のサンルーム
持参した和菓子と抹茶のつつみを解き
孫娘はサラサラとお茶をたてる
車椅子の老婆は
茶碗をなでさすり
「ありがとう ありがとう」
を くりかえす

真っ青な空に
雪の阿武隈山脈がひかっている
「わ家(げ)は あっちのほうだなぁ」
あの山並のふもとへ
雪がとけたら
雪がとけたら…

帰れるか

 「車椅子の老婆」と青山自身か、あるいは青山の母か。孫娘が青山、ということはないだろうけれど、私は青山とは面識がないので、そういうことは判断しない。
 私がこの詩で何度も読んでしまうのが、

「ありがとう ありがとう」

 である。誰もが言う。誰もが言うのを聞いたことがある。それはたいていの場合は「ありがとう」と一回なのだが、この詩の老婆は「ありがとう ありがとう」と繰り返している。もっと正確に言えば「ありがとう」を繰り返したのではなく、すでに繰り返されている「ありがとう ありがとう」という二回つづきの「ありがとう」を繰り返したのかもしれない。人は、時に、そういうことをする。
 このときの「ありがとう」を説明するのはむずかしい。「感謝」なのだけれど、感謝ということだけではあらわせないものがある。うれしい気持ちや切ない気持ちがまじりあう。「ありがとう」を「有り難う」と書く人もいる。「有る」ことが「難しい」。「有る」の主語は「私」、「難しい」の「主語」も「私」。私が、いま/ここに「有る(生きて存在する)」ことはほんとうは「難しい」のだが、その難しさをあなたが支えてくれるので私はいま/ここにこうしていることができる--という思いを「あなた」につたえるのが「ありがとう」なのかもしれない。
 でも、きっと、そういう「説教臭い」ことばなら、しんみりとはつたわってこないなあ。
 一度目の「ありがとう」はたしかに相手に対する感謝かもしれない。けれど二度目の「ありがとう」は私自身に対する感謝かもしれない。私は、あえて、そんなふうに読んでみたい気持ちがしてくる。あ、いままで生きてきた、その私の肉体というものに対して「ありがとう」と言っているような気がする。こうやって生きているから、あなたの行為に対して「ありがとう」ということもできる。
 こういう考え方は自己中心的? ただ素直に相手に対して何度もありがとうを言う。何度言っても感謝をつたえきれないから繰り返す……。そうなのかもしれないけれど。
 でも、自分に「感謝」するというのは、そんなに悪いこと(自己中心的)なことだろうか。
 前半に、「細くなった/顔 腕 指」ということばがでてくる。お茶をたててくれる孫娘に対する感謝だけなら、そういう描写はなくてもいいだろう。老婆であるということを客観化しているのかもしれないけれど、そうれよりも「いま/ここ」にこうして生きている肉体そのものの、長い時間を思い出し、その肉体に感謝するというのは、とても大切なことのように私には思える。私たちは、ついつい自分の「肉体」を忘れる。「精神/感情/認識」を忘れるよりも頻繁に「肉体」を忘れてしまうような気がする。「肉体」があることを忘れて何かに夢中になる。「肉体」がなければ何もできないのに、極端な話、この肉体さえなければこころは自由に飛んで行けるのに、ということさえ思ったりする。

 「肉体」に感謝している、その感謝が「ありがとう ありがとう」の繰り返しの中にあると思うのは、

「わ家(げ)は あっちのほうだなぁ」

 という一行と「ありがとう ありがとう」が響きあうからかもしれない。「わが家(や)」とは書かずに、青山は「わ家(げ)」と書いている。「意味」は「わが家」である。でも「わげ」と書かずにはいられない。それは青山の、「ことばの肉体」である。青山は、「わげ」ということばで「わが家」をつかみとった。そのとき、その「家」を「わげ」と呼ぶ人がいた。そういう人と、青山は「肉体」の区別がないまま(つまり、この人は他人という意識のないまま)つながっていた。「肉体」は「土地」「暮らし」のなかで「一体(ひとつ)」になっていた。その「ひとつ」がなければ、青山は生まれてこなかった。存在しなかった。--ほんとうに感謝しなければならないのは、そういう「つながり」なのだ。そして、そういうつながりを具体的な「かたち/もの/こと」にしているのが、いま/ここにある「肉体」なのだ。
 青山は「ありがとう ありがとう」を繰り返すことで青山自身の「肉体」をとおって、「いま/ここ」にはない「肉体」、青山の「肉体」が生まれてきた「肉体」にまでさかのぼっている。その「肉体」にふれている。「いのち」の存在そのものにふれている。自分の「肉体」に対して「ありがとう」というとき、それは、その「肉体」を生み出してくれた(この世に連れてきてくれた)いのちそのものに「ありがとう」ということなのだ。

 「わげ」に帰りたい--というのは郷愁をとおりこして、本能のようなものかもしれない。「いのち」に帰りたいという本能かもしれない。





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青山 かつ子
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