詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サム・ペキンパー監督「ワイルドバンチ」(★★★★)

2010-02-28 21:47:04 | 午前十時の映画祭

監督 サム・ペキンパー 出演 ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン

 サム・ペキンパーの描写の特徴は、バイオレンスをスローモーションで描いたことだ。普通は見えないものを見えるようにする。普通見えないものが見えると、それが美しく見える。ペキンパーの暴力は美しい。
 それは、肉体の発見と言っていいかもしれない。
 暴力はその荒々しさのために多くのものを見えなくする。暴力は肉体に対して振るわれるが、その暴力を受けた肉体がどんな風に動くかということは意外と知られていない。「痛み」は誰もが知っているが、その痛みを感じる瞬間の肉体の動きを知っている人は少ない。
 スローモーションで明らかになった肉体の動き、それを見るとき、あ、人間は死んでゆくときも動くのだとわかる。その発見は、悲しい。その破壊は、だからこそ美しい。
 そしてそれが、肉体に疲れが出てきた男たちをとおして描かれるとき、そこにさびしさも漂う。あるいは、それは疲れ切った肉体の表現できる最後の美しさなのかもしれない。破壊され、破滅していくとき、あふれでる肉体のもっているものの蓄積。
 主役のウィリアム・ホールデンは左足に古傷をかかえているが、そういう傷をもった肉体もまた滅びるとき、破壊されるとき、古傷の存在を超越して、「いのち」として噴出してくる。
 同じ犯罪者の破滅でも、「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」の若い肉体の死は、華麗で、かっこいい。「あたたかい」ではなく「さわやか」。逆に、もっと高齢の2人の犯罪を描いた「人生に乾杯!」では、それが年金受給者という高齢ゆえに、またかっこいい。そして潔い。
 「ワイルドバンチ」はその中間にあって、ともかく無様である。
 無様であること、敗北を承知で、それでも無様に肉体をさらして踏ん張ること。そういう生き方への郷愁に満ちた映画。その郷愁を引き出すための、スローモーション・バイオレンスだったんだなあ、と今思う。
 だから、その血の描き方にしろ、それは「迫真」のものではない。「血」はあくまで、つくりものであることがわかる。(当時の技術はそれまでだったのかもしれないが……。)血よりも、血を吹き出す「肉体」、まだ温みのある肉体の悲しさを感じさせるためのものだったのだと、今見えかえしてみて、そう感じる。

 肉体というものが、なつかしく、なつかしく、ただひたすらなつかしく感じられる映画である



 それにしても、映画の暴力描写、スピード感はずいぶん違ってしまったものだ。いまはもう、ペキンパーの描いたような暴力の郷愁は存在しない。
 映画のスローモーションのつかい方、肉体の表現の仕方は、ずいぶん変わってしまった。
 「マトリックス」でキアヌ・リーブスが弾丸を身を反らして避けるシーンがあるが、このスローモーションが「ワイルドバンチ」が違う点は、「マトリックス」のそれが可能性としての肉体である点だ。「マトリックス」のスローモーションは、あくまでスピードを見せるものである。ほんとうは速くて見えない。だから、ゆっくり再現しなおして、それを見えるようにする。ゆっくりであればあるほど、それは速さの証明なのだ。「ワイルドバンチ」は、速さを認識させるためにスローモーションをつかっていたわけではない。
 また、カットの切り替えにしても、ペキンパーは、いまから思えばカットが少ない。アップのつかい方が、ペキンパーの場合は、あるシーンをはっきり見せるためにつかう。けれど、いまは、そのシーンを見せるということよりも、そのシーンに視覚を集中させることで他の部分を強烈に印象づけたり、逆に省略するという方に力点が置かれているように思う。「ボーンアルティメイタム」のアップ、カットの切り替えは、映し出しているものを見せるというより、それを「見ている」視線の主体、ありかを強く感じさせ、画面を映し出されているカットより広い空間に広げていく。アップの瞬間こそ、「もの」が映し出されるのではなく、その「もの」が存在する空間の複雑性が浮かび上がるように作られている。
 逆の言い方をしよう。たとえば、ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインは銃弾を浴びて血まみれである。そのアップは、あくまで「肉体」のアップである。けれど、「ボーン・アルティメイタム」のさまざまなアップは、その「肉体」を見るというよりも、その「肉体」がある空間の複雑性を印象づける。あるときは見え、あるときは見えない駅の雑踏。その空間をくっきりと浮かび上がらせる。ウィリアム・ホールデンとアーネスト・ボーグナインの血まみれを見ても、戦いの現場の広さ、地形のあれこれは見えて来ない。
 映像のつかい方がまったく違ってきているのだ。


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富山直子『マンモスの窓』

2010-02-28 00:00:00 | 詩集
富山直子『マンモスの窓』(水仁社、2010年02月13日発行)

 富山直子『マンモスの窓』は、見えそうで見えない風景、見えないようで見えてしまう風景をすばやくスケッチしている。
 たとえば「散歩売り」。

街角にリンゴ飴の露店が出ている
その後ろからコツコツと歩いて来る人がいる
彼は散歩売りだ
広場にはあまり人けはない
男はブランコに三回だけ乗って
一つ一つの広場に抜けていく
散歩を売りに来た合図だ
広場から広場へ隈無く歩く
桜の咲く広場やいちょうが散る広場
雪の中を歩く次は蝉時雨の中にいる
けん玉とニンテンドーDSを携えているが
本当は子供たちと相撲を取りたいと思っているいらい
めまぐるしく変化する年齢の中にいる
結局子供たちと一言も話せずに夕方が来て
自分の散歩を売ってしまった
自分の夢さえ売ってしまいたかった
それが散歩売りだ
そして男がいなくなると
リンゴ飴の露店のリンゴ飴一つが
消えていた

 ただ歩いている人。その人は何をしているのか。散歩しているのか。富山は、その人を「散歩売り」と名づけてみた。「散歩を売る」とはどういうことだろう。何もわからないけれど、ふと、そう思ったので、そう書いて、そのあとことばがどう動くかをおいかけてみた。
 富山は「あとがき」に「この詩集は物語を意識してつくりました。」と書いている。
 ストーリー。ことばの運動にしたがって、何かが起きる。そして、登場人物がかわっていく--それが「物語」だろうか。
 富山が「物語」をどんなふうにとらえているのか、よくわからないが、富山のことばには「何かが起きる」というほどのことは起きていない。
 この作品では、男が「子供たちと相撲を取りたい」と思いながら歩いているが、何が起きたか。「リンゴ飴が一つ/消えていた」ということが起きるだけである。男が、どんなふうに変わったのかも、明確には語られていない。
 それでも、それが「物語」だとすると……。
 何かが「起きる」、そしてその結果、登場人物が「かわる」(成長する)というのが「物語」なのではなく、ただ「もの」を「語る」ということが、「物語」かもしれない。なんでもいい。なにかを語る。それも「ほんとうのこと」ではなく、ことばでしか語りえないことを「語る」。
 「語る」はしたがって「騙る」でもある。「嘘」をつく。「散歩売り」というものは存在しない。けれども、存在する、と嘘をつく。嘘の世界へ人を誘う。
 そのとき、何が起きるだろう。読んでいる人間にとって、何が起きるだろう。
 「嘘」とわかっているけれど、その「嘘」を追いかけたいという気持ちが起きる。「いま」「ここ」にあるものではないものが、ことばのなかではありうる。人は、「いま」「ここ」とは関係ないことを、ことばで追いかけることができる。
 富山は「あとがき」で、「基本的には、日常がその(物語の)窓口になっています。」とも書いている。「嘘」は最初から全部「嘘」なのではない。「日常」の「ほんとう」を含んでいる。「日常」から出発する。「事実」から入って、「嘘」をつみかさねることが人間にはできる。
 なぜ、そんなことをするのだろう。人間は、なぜ不必要なことをするのだろう。
 もしかすると、それは不必要なことではなく、必要なことなのではないだろうか。「いま」「ここ」から出発して、「ほんとう」ではなく、「嘘」をつく。それは人間にとって欠かせないことではないのだろうか。
 「嘘」は「いま」「ここ」の否定である。「いま」「ここ」にないことをいう。それは「いま」「ここ」を認識していないとできない。「いま」「ここ」を認識して、なおかつ、その「いま」「ここ」とは違うことを言う。
 それは、批判、ということと似通っている。
 「語る」が「騙る」と同じ音のなかに同居するが、「嘘」と「批判」は「いま」「ここ」への批判という内容のなかで同居する。そしてそれは、ともにことばである。
 こんなことを書いていくと、ちょっと富山の書いていることと違ってきてしまうのだが、「物語る」ということのなかには、なにかしら「いま」「ここ」では実現されていない「真実」をことばで先取りするというような「本能」が生きている。「物語」のなかで、富山は、そういう人間の「本能」(欲望)を取り戻そうとしているのかもしれない。
 実際、その「嘘」からは、とても美しい「本能」が噴出して来ることがある。人間の、いのちが、「物語」突き破って、現れて来ることがある。
 「噴水」。その全行。

噴水の近くに座って
マンガを読む少年
登場人物はつらいシーンで
涙をこらえている
少年の方は一足早く泣いている
三十ページ位ひと息で読んだ
太陽に目を向けた
頬に細やかな水しぶきが当たっている
コインを一枚、置いていこう

 マンガの登場人物は涙をこらえている。けれど、それを読む少年は、彼がマンガの主人公ではないのに泣きはじめている。「嘘」に誘われて、少年の「本能」が泣いている。つらいときには泣く、いや、つらくても泣かないのが人間だ--考えて我慢している主人公の気持ちがわかって、代わりに泣いてしまう。
 他人に共感するということは、他人のあとを追いかけることではなく、他人に先回りして、自分が他人になってしまうことだ。
 自分が他人になってしまうなんて、そんなことはありえない、そんなことは「嘘」だ。そうなのだ。「嘘」なのだ。そして「嘘」だからこそ、真実なのだ。この矛盾。それはことばでしかつたえることのできない真実という名の矛盾だ。

 さりげないけれど、美しい。富山は、大事なことを書いているのだが、大事なことを書いていると声高に言わない。書くという行為に溺れてしまわない。余裕をもって、ことばとつきあっている。
 本気で「嘘」をつくのではなく、「これは嘘なんだから」と先に言っておいて、でも、「こういうふうに嘘を語れるって、楽しいでしょ。こういう嘘って楽しいでしょ」とささやく。
 たしかにそれは楽しい。そして、とても美しい。

みたわたす
富山 直子
詩学社

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誰も書かなかった西脇順三郎(115 )

2010-02-27 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「デッサン」は、私にはとりとめのない詩に感じられる。しかし、その書き出しはとても好きだ。

初めもない終りもない世界に
とりくむことはほねが折れる
どうして始めるかわからない。

 何に対して「どうして始めるかわからない。」と書いたのかわからないが、私は、西脇がこの詩を書きはじめたことに対して、その感想を書いているのだ思った。
 自分のしていることについて自分で感想を書く。書くということは、ことばを動かしてしまう。いや、ことばが動いてしまうと言うべきなのか。

旅からもどつてノートを整理する
ことは実にいやな角度と色彩を
もつていると思う。

 書くということはことばを動かすこと。そして書くということは、思うことよりも「時間」がかかる。そうすると、その「時間」のあいだに(書いているあいだに、考えていることを書き終わるあいだに)、また考えが忍び込んでしまうことがある。
 「旅からもどつてノートを整理することは実にいやなことである」、と書こうとするが、一気に書ける(考える、感じる)ことができるのは、「旅からもどつてノートを整理する」までである。そうする「ことは実にいやな」と書いているうちに、というか、書こうとしているうちに、「いやな」が「角度」と「色彩」の違いだということがわかってきて、それが紛れ込む。ノートを整理するとき、「視点」をかえなければならないというような大げさなことではなく、たとえば机に座っている。ぼんやり、何かを見ている。それをやめて、ノートを開く--ただそれだけでも、視界は変わる。それが「いや」のすべてだ。
 一般的に、文章というのは、そんなふうにして文章を書いている途中に紛れ込んできた雑念(?)のようなものを省略しながら(除外しながら)、結論へむけてことばを動かしていくものである。けれど、西脇は、そういう直線的なことばの動かしかたをしない。
 逆に、結論へむけてまっすぐに進もうとすることばを、破壊し、ねじまげてしまうもの、「ノイズ」のようなものをていねいにすくいながら、ことばを書きすすめる。
 意識--結論へむけてというか、まあ、先へ先へと進もうとすることばの、その方向をねじまげてしまうもの、そこに「いのち」を感じているからだろう。(ねじ曲がった樹木に対する嗜好は、そういう思想の反映である。)あらゆるものは、ねじ曲がる。そのねじ曲がるという動きには、結論へむけて動くベクトルに対して、ふいに侵入してくる何かがあるからだ。

ノートは時間の混迷を避けることが
出来ない全く化石になつてしまつた。
春の次に冬が来たり、春がつづいてまた
春になることもある。

 意識、時間は、分断されながらつづいていく。分断から分断へ、脱落もある。西脇は脱落を補おうとはしない。それは侵入を阻止しないのと同じである。
 ことばに対して「矯正」をほどこさない--それが西脇の、ことばに対する基本的な姿勢だ。文脈を破壊するものがあるなら、その破壊する力の方に、いのちがある。破壊する力が弱ければ、そういう攻撃に対して、前へ進む力はまけたりはしない。侵入を拒絶して、ただ進むだろう。
 純粋な、ことばそのものへの信頼が、西脇のことばを支えている。




旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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郡宏暢「土」

2010-02-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
郡宏暢「土」(「ペーパー」6、2010年02月01日発行)

 郡宏暢「土」に「来歴」ということばが出てくる。

この土地は
来歴を持たない
零れ落ちた麦穂と
乳色の灌木
そして鳥のように閃く影を差すだけの高さと時刻
とが
土手下に行き止まったまま
堆く積まれ
風上から
この土地に無縁な人たちによって火が放たれる

 「来歴」とは何だろう。私は簡単に「過去」と考えている。きのう読んだ秋山基夫の詩に関連づけて書けば「物語」。「いま」を「いま」「ここ」に成立させているための構成要素。そこには「事実」があり、また、その「事実」と向き合って考えられた「思想」がある。それが「来歴」であり、「時間」というものだ。
 郡は「この土地は/来歴を持たない」と書く。そして、その「来歴」のかわりに「時刻」を持っている、と書く。「時刻」が「行き止まったまま/堆く積まれ」ている。それは「いま」が「過去」から切り離され、そこに存在している、ということだろう。
 それは、あるいは、「この土地」の「過去」は、「いま」「ここ」で封印されるということかもしれない。「過去」を持たないのではなく、「過去」が「いま」「ここ」で封印され、なかったことにしてしまう。「いま」、そういう瞬間に、郡は立ち会っていて、それをことばにしている。
 「過去」が無効にされる瞬間、ことばは動いて行かず、思わず「来歴を持たない」と書いてしまう。「過去」を無効にされた状態へことばが暴走し(先走りし)、そこから「いま」をみつめているのだ。
 そのことばの暴走(先走り)を、「過去」が追いかけてくる。「土地」の「過去」は火を放たれることで「無効」にされる。そこに何があったか、その痕跡を消される。けれど、たとえ土地がまっさらになろうと、記憶は「無効」にはならない。「無効」を宣言するものを飛び越えて、よみがえってくる。「土地」を越えて、「人間」へ直接結びついてくる。

一斉に走り出した犬
と それに追われる焦燥の中で
例えば白い病院が燃え
人々の行列が燃え
毛深い寒さだけが針のように折れ曲がる
かつて路地だった場所を吹き抜ける風
が紅く染まり
石鹸と歯ブラシと錆びた剃刀以外の
何物をも持たなくなった私たち
大きな家族風呂のような平野で
体の汚れを落とし
髭を削ぎ落とし
今までもそんなふうににして毎日を送ってきたのだ

僅かな湯気を分け合いながら
古毛布の中
肩を寄せ合っている

 「土地」の「来歴」が「無効」にさせられたことは「過去」にもあったのだ。それは「ここ」ではないかもしれない。別の土地だったかもしれない。その土地に向かって、あるとき「火」が放たれる。火に追われ、逃げまどう人々。逃げ、そして、ふたたび帰ってきて、そこに「かつて路地だった場所」を、つまり暮らしの痕跡を、「過去」を見つける。「過去」と「いま」を結びつけるものは、そのとき「石鹸と歯ブラシと錆びた剃刀」だけである。暮らしを清潔にととのえる基本的なもの、それだけである。その「事実」は、その「土地」の暮らしというものが、暮らしを清潔にととのえるだけのぎりぎりのものであったということを静に語る。そして、そういうつましい暮らしを、火を放って消し去る暴力というものがあるのだ。
 それは、「過去」のことだけではない。「いま」も。
 あらゆる「場所」は、「過去」に火を放ち、「過去」を消し去ってしまうという「暴力」の「来歴」を持っている。
 「この土地は/来歴を持たない」は「反語」である。「土地」は「来歴」を持たないかもしれないが、そこにはある人々が別の人々に対してふるってきた「暴力」の「来歴」を持っている。「土地」が「来歴」を持たないんとしても、人間は「来歴」をもっていて、その「来歴」は、それぞれ個別の「土地」と結びついている。
 この「記憶」は消えない。

夜明けまでに
わずかに思わせぶりな地名も
平らに燃え尽きてしまうだろう
あのプラタナスの並木も自然体に還り
出口に折り重なるようにして燃え尽きた影
としての私たちの姿だけが
記憶されるだろう

季節と土地

冬風に舐められながら
燃える
地図よりも前にあった地形を
再び
晒すように

 郡の詩は、そのことばは、その「土地」の「来歴」が燃え尽くされるよりも前の、人間の「暮らし」の「来歴」、「暮らし」の「形」を少ないことばで、静に語り、暴力に抗議している。暴力を告発している。「晒す」は、隠しているものを見えるようにするということなのだ。



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誰も書かなかった西脇順三郎(114 )

2010-02-26 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ふと、思い出したことがある。「現代詩手帖」2009年10月号は、金子光晴と西脇順三郎の「特集」を組んでいた。西脇をめぐって、吉岡実、那珂太郎らが対談している。昔の対談の採録である。そのなかで、たしか那珂だったと思うのだが、「淋しい」というようなことばが頻繁に出てくるので、西脇の詩にびっくりしたと発言している。詩は「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くもの--そう思っていたから、と。
 あ、そうか。
 でも、「淋しい」ということを「淋しい」ということばをつかわずに書くのは、その詩が「感情」を表現するものだからだろう。もし、西脇が「感情」を表現することを目的として詩を書いていなかったとしたら、つまり「淋しい」ということばの意味を、より繊細に、より深く、よりリアルに書こうとしていたのでなかったなら、「淋しい」は「淋しい」と書いてしまうだろうなあ。
 那珂がびっくりしたのは、那珂自身が、無意識のうちに詩を「感情」を書くものと定義していたからだろう。「四季」の詩を読んできていたので、とも書いていたので、たぶん、そういうことなのだろう。
 では、西脇は何を書こうとしていたのか。
 「十月」に「叙事詩」ということばがあるが、西脇が心を動かしていたのは「抒情」に対してではなく「叙事」だったのかもしれない。

二十年ほど前は
まだコンクリートの堤防
を作らない人間がいた。
あのすさんだかたまつたシャヴァンヌの風景があつた。
ススキの藪の中に
キチガイ茄子のぶらさがる
あの多摩川のへりでくずれかけた
曲つた畑に
梨と葡萄を作つている男
の家に遊びに行つた。
地蜂の巣をとりに
牛肉を棒の先につけて
イモ畑をかけ出した
あの叙事詩。

 「二十年前」と「いま」を比較して、物思いにふける。これは、「抒情詩」ということかもしれないが、ここに書かれているのは「作る」という人間の生きかたである。「作る」というとき、そこには「感情」があるかもしれないけれど、それは「作ったもの」のなかにこそある。作ったものが美しければ、それを作ったひとは美しい--という事実関係があるのであって、そのときの「感情」には、西脇はあまり配慮をしていない。
 何を作ったか、何をしたか--それを書くのが叙事詩。西脇は「叙事詩」の流儀にしたがってことばを動かしている。
 那珂のことばにしたがえば、つまり「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くのが詩なら、「叙事詩」の場合も「叙事詩」ということばをつかわずに書くのがいいのかもしれないが……。
 西脇がここで「叙事詩」ということばをつかったのには、理由がある。
 「抒情」(感情)が、あらゆる人間に共通であるように、「叙事」も時間と場所を越えて、人間に共通のものだからである。--少なくとも、西脇は、「叙事」(物を作る、そしてそこに人間がいるという関係)はあらゆる時間、あらゆる場所に共通する「こと」と考えていた。感じていた。もし、西脇に「抒情」というものがあるとすれば、それは「ものを作る人間のこころ」である。それが一番重要な「感情」である。そして、そのときの「感情」というのは、「思い」ではなく、「工夫」である。
 具体的に言えば、「地蜂の巣をとる」ために「牛肉を棒の先」につけるという「工夫」(蜂を引き寄せるための工夫)、それを担いで「かけ出す」という「工夫」。人間の実際の「肉体」の動き--肉体を動かすのが「感情」なのである。そして、そのときの「肉体の動き」が叙事なのである。
 この「工夫」「肉体の動き」「肉体に刻印されるもの」は時間と場所を越える。この「叙事」の事実は、次のように展開される。

十月の末のころでその男の縁側で
すばらしい第三の男にあつたのだ。
彼は毎日肩のやぶれたシャツを着て
投網で魚をとるのだがその
顔はメディチのロレンゾの死面だ。
すばらしい灰色の漆喰である。

 多摩川の近くに住む男。それがイタリアのメディチ家とつながる。時間も場所も違うが、人間の顔に刻印されたもの--その「肉体」が何をしてきたかが刻印しているもの。それが同じ。「感情」はどこかにあるかもしれない。しかし「感情」はどうでもいい。「毎日肩のやぶれたシャツを着て/投網で魚をとる」という「肉体」の「仕事」(肉体を動かしてするさまざまな工夫)、そしてそれが具体的になるとき、そこに詩がある。「抒情」ではなく「叙事」としての詩がある。

 西脇は、あるところで詩とは「わざと」書くものだといっている。この「わざと」は「工夫」と同じである。人間の仕事もまた「わざと」するものである。「わざと」棒の先に牛肉をつてけ走る。それは地蜂を引き寄せる「工夫」である。「わざと」のなかに、人間のすることがらの「すべて」があるのだ。「思想」があるのだ。

 西脇のこころは「叙事」がむすびつける時空を超えた「場」で遊ぶ。

彼は柿を調布のくず屋から買つてきた
剃刀でむいて食べた。
終りは困難である。
登戸のケヤキが見えなくなるまで
畑の中で
将棋をさして来た。

 「感情」は語らない。けれど、「将棋」のようなルールに従って展開するゲームの中では、こまの動きに、そのひとが思っているあれこれが微妙な影を落とす。その、こまの動き、どう動かすかという「工夫」の、その「叙事」なのか美を、「抒情」と呼ぶことができるかもしれない。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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秋山基夫「黒い窓」

2010-02-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「黒い窓」(「ペーパー」6、2010年02月01日発行)

 秋山基夫「黒い窓」は、まず「黒い窓」というタイトルの詩(?)があって、「「黒い窓」のための物語」、「参照文献及び若干のノート」という部分から構成されている。通俗的というか、「流通文学鑑賞」的に要約すれば、「物語」は秋山の体験した事実。「文献」は体験としての「物語」を濾過する装置。「物語」が「文献」によって整理、補強され、「黒い窓」という「詩」に昇華(?)する(される?)。
 「詩」の部分は、私にはあまりおもしろくない。

こりゃあ烏賊にも蛸にも陳腐な物言いで、恐れ入り谷の、聖戦完遂の、非常時の、時節柄もわきまえず、鬼子母神も顔負けの容姿物腰、弩派手な色と柄の長い袖を振りながら、艶やかにおチャラチャラを開始したではないですか。

 「烏賊にも蛸にも」というような、それこそ「陳腐」なことばが並んでいる。これは、Y氏(実は「吉田氏」と、「物語」で書かれている)が「チャラチャラチャラチャラ袖を振って」と言ったことばから、秋山が「妄想」を展開して広がった世界である。
--とは、「詩」と「物語」を総合的に読んで、私が判断したことであり、事実かどうかは知らない。
 こういう説明的な「詩」と「物語」のつながりも、おもしろくない。

 おもしろくない、おもしろくない、と書きながら感想を書いているのは……。

 「文献」の部分がおもしろいからである。そして、そのおもしろさというのは、私の勝手な「妄想」を許してくれるからである。秋山がなぜその文献を引用しているかということは、ほとんど関係がない。
 たとえば、先に引用した「聖戦」の部分と関係してくるのだと思うが、そこに高村光太郎の文章が引用されている。太平洋戦争中、詩の朗読がはやったらしい。そのことを高村は歓迎している。そして、秋山は、ていねいに高村光太郎の「説」を解説している。

高村はまず、①民族と詩とを一体と考えて、民族が動けば詩も動く、と考えている。そしていまみんそ句の精神が詩として発現しているのは、心強い、と言っている。次に、②詩の朗読によって、陶酔状態で詩と肉体的に合体するという。さらに、③「音響」によって詩は、淘汰し、洗練されるのだから、朗読の技法が大切である、といい、結論として、④この書をその指針にしなさい、という。

 「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」という副詞(副詞節?)+番号という念の入った書き方が秋山のことばの特徴だけれど、いいよなあ、このことばの追い込み方。
 というところから、秋山の「妄想」ではなく、私の「妄想」(ことばの暴走--あ、妄想と暴走は韻を踏んでいるね)がはじまる。
 なぜ、私が秋山の詩がおもしろいかと感じるかというと、秋山の念押しの箇条書き、ていねいすぎる解説に、気持ちが半分(半分以上?)、秋山のことばから離れてしまい、秋山がていねいに書けば書くほど、なんというか、いいかげんに読んでも大丈夫、という気がしてくるからなのだ。私が「誤読」したって、また、そのうち、秋山は同じことを繰り返し書くに決まっている。だから、全部理解しなくていい、少しずつつまみ食いする感じで理解しておけば、なんとなく全体がわかるだろうと感じ、気楽に読めるからなのである。それは、変な言い方になるが、秋山の発することばへの「信頼」である。こんなふうに、ていねいにていねいに書く、ことばを動かすのが秋山である、という秋山への信頼と言い換えてもいい。
 ね、ことばへの信頼というのは、結局、その人への信頼でもあるよね。その人が信頼できれば、何をいっていてもそれを信じてしまう。そういう安心感があって、私の妄想ははじまる。

 で、私の妄想(ことばの暴走--誤読)というのは。
 ことばというのは、やっぱり「書かれてしまう」から暴走するんだなあ。「書きことば」だから暴走するんだなあ、ということである。高村光太郎は「朗読」を推奨しているのだけれど、その推奨は「書かれている」。「書きことば」として、そこにある。それを読んで、秋山は、「妄想」(正しい想像、と秋山はいうだろうけれど)している。
 秋山風に言えば、まず①高村のことばを書き写す。(引用する。)次に、②1文ずつ秋山のことばで書き直す。(解説する。)そして、③それに自分の感想を書きつらねる。(この部分は長くなるので引用しないが、私が引用した部分のあと、改行し、秋山は、あれこれと書いている。)
 書き写し、書き直す--これは、高村のことばが「書かれている」(書きことば)だからである。これが、講演や対話のように「声」のことばだったら、こういうことができない。先行することばを、自分のことばのスピードで反復しなおす余裕がない。
 あくまで、自分の「ことばの肉体」のスピードで反復しなおす。そこには「時間」の「差」というか、「ずれ」が生まれ、その「差」(ずれ)のなかへ、秋山自身のことばが入り込んで行く。「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズム、どこまでもどこまでも、読者が誤解しないようにと念をおしながら進む「ことば」の論理が侵入してくる。

 秋山の「思想」は、その「正確」への念おしなのである。(秋山への信頼というのは、秋山は常に「正確」をめざす、ということへの信頼である。)

 「詩」を書く。詩というものは、特に現代詩というものは、「難解」と決まっている。「難解」というのは、「誤読」のもとになる。「ことば」が正確につたわらないから、誤読されるのだ。だから、ほら、秋山は「詩」を、まず、①「物語」で解説する形で、そこに書かれていることを念おしする。次に、②「物語」でも書き切れなかったことを「文献」で補足し、さらに、③その「文献」に秋山自身の解説を書き加える。
 そうやって、「正確に」「正確に」「正確に」、「詩」という「いま」を、「過去」で説明しようとする。「詩」があるのは、「これこれの過去」があるから。そして、その「過去」は、さらなる「過去」で「これこれ」という具合に説明できる。どのことばもきちんと「裏付け」をもっている。「裏付け」というのは「意味」である。だから、「誤解(誤読)」しないでね、と秋山はいうのである。

 おかしいでしょ? 私は笑ってしまいますねえ。秋山を信頼できるといいながら「笑う」のはおかしいと思う人がいるかもしれないけれど、笑うというのは「安心」と同じことだからね。警戒していると、笑わない。信頼しているから、笑うことができる。

 秋山が高村光太郎のことばを書き写し、それについての思いを書くなら、私だって、秋山のことばを書き写し、それについて感想を書く。読むというのは、けっして消えないことばを反芻することであり、書くというのは、けっして消えないことばを残すということである。そして、その行為は、「朗読」(聞く)と違って、自分ひとりで、自分のペースでおこなえることである。
 そういうとき、人間というのは、自分の「過去」を(知っていることを)、どんどんほじくりながら、ああでもない、こうでもないと、ことばを動かす。
 書けば書くほど、「ノイズ」のようなものがあふれてくる。ノイズが互いのノイズを聞きながら、ああ、うるさい、とまた好き勝手にノイズを発する。
 でも、これが、私は詩だと思っている。
 「意味」が次々に解体していって、ぶつかりあう。それは秋山が最初に書いた「黒い窓」へはつながらない。「黒い窓」の形を次々に破壊していく。「黒い窓」がどんなことを書いてあったか忘れたけれど、私は、「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズムで増殖していくことばの運動忘れない。
 何が書いてあったか--それは、きっと忘れる。「黒い窓」と同様、「内容」は忘れてしまう。こういう、勝手気ままなことばの運動を許してくれることば--それが、私は大好きだ。





詩行論
秋山 基夫
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(113 )

2010-02-25 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『第三の神話』の巻頭の詩。「猪」。その書き出しに驚く。

タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。

 「タビラコ」は、「田平子」だろう。黄色い花をつける小さい草。でも、カタカナで書くと、うーん、何だろうと思う。「ギリシャ語」ということばが目に入ってくるので、外国語?とさえ思ってしまう。
 こういう部分からも、西脇は「絵画的詩人」というよりも「音楽的詩人」という印象が生まれる。西脇は「耳」で、というか、「音」で世界をとらえていたのだ。
 と、書いたあとで、私は矛盾したことも書く。
 この詩の不思議さは、書き出しの2行の、行のわたりにある。
 
「では/なく」
 
 2行目の行頭の「なく」が1行を読み終わらないうちに視界に入ってくる。そのことが、西脇のことばを活性化させている。
 「なく」は、「タビラコはギリシャ語で(あり、それ)は」○○という意味である、という具合に動いていく意識も、「タビラコはギリシャ語ではなく」○○語であるという文なろうとする意識も、一瞬のうちに否定してしまう。

 西脇はとても耳のいい詩人だと思うが、また、同時に視力も非常にいい詩人なのだと思う。「もの」を見る目というより、「文字」を見る目がいい。2行目の「なく」が無意識に与える影響を「肉眼」で知ってしまっていて、それを必然のようにして書き分けてしまうのだ。
 
 文字を読む視力は、詩をつづけて読むともっとはっきりする。

タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。
タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。
タビラコは女と飲む心の酒杯で
この聖杯をさがしに坂をのぼつた時は
もう暗かつた牧歌のような門をくぐり
石垣を上つて山腹の庭へ出てみた。

 「タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。」というのは、「タビラコは仏の座ともいうので、巡礼はそれに小便をかけるようなこと、仏の座の咲いているところで小便などしてはいけない」くらいの「意味」なのかもしれない。
 けれど「田平子」ではなく「タビラコ」とカタカナで書かれているので、1行目の「ギリシャ語」と文字(表記)の上でつながり、「大原の女のなまりだ」と書かれているにもかかわらず、なんだか外国の何かを感じさせる。そして、それが「巡礼」と結びつくので、「タビラコ」っていったい何? という疑問がわいてくる。
 いいかえると、「タビラコ」の「意味」が固定されない。
 「田平子」では、きっと一気に「意味」が固定され、おもしろくなくなる。
 「意味」が固定されず、ことばがことばとして独立し、かってな連想を誘う(誤読を誘う)ものが詩だと私は信じているが、「意味の固定」を否定する、「意味」を破壊するということを、西脇は「視力」の力でもおこなっている。
 「では/なく」という不思議な表記の仕方が、それを耳ではなく、それを見てしまう目に影響を与え、その作用が意識全体を動かすのだ。

 このカタカナ表記と日本固有のものの出会い(タビラコ=田平子、ギリシャ語≠大原の女のなまり)の形は、最後まで、この詩を活性化させている。

山茶花の大木が曲つていた
花が咲いていてこわかつた
ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような髭をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする

 シシおどしが、とても新しいもののように見えてくる。

続・幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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石山淳『邪悪な者』

2010-02-25 00:00:00 | 詩集
石山淳『邪悪な者』(編集工房ノア、2010年03月08日発行)

 石山淳はさまざまな詩を書いている。そのことばを貫いているのは何だろうか。「「のじぎく賞」考」という作品は、車のなかで練炭自殺を図った女性と、それを助けた人、その行為に対する「賞」について思いめぐらした詩である。助けた人(3人)行為は正しい、と書いた上で、石山はことばをすすめる。

だが、自殺を図った女性は
死の意思をもって 自己を消滅させようとてしていたのだ
個人の意思判断で 現実から開放されたいと願ったのであろう
それを悪徳な行為として 誰が追求することができよう
むしろ 個人の死の意志と自己開放への希いを
3女性は阻止し これを妨害したのではないだろうか

 ここに書かれていることは、あることがらを一方的に見つめるのではなく、複数の視点で見つめてみようとする姿勢である。「こと」を中心にして、複数の人間が向き合う。対峙する。そして、その対峙のなかで、石川自身のことばを鍛えていこうとする。
 これは、たんに石川自身のことばを鍛えるというよりも、他人のこころをくみ取り、他者の中の、まだことばにならないことばをすくい上げようとする姿勢へとつながって行く。
 「母の入院」。

五月の陽射しの爽やかな朝
「ちょっと 待って……」
よろよろしながら
母は 玄関出口で棒立ちになる
まるで見納めでもあるかのように
庭のチューリップや桜草、
樹木までもじっと眺めている

 「じっと眺めている」間、ことばは、ただ母の「肉体」のなかだけにある。それは、ただ母の「肉体」を描写することでしかすくい取ることができない。「ああ思っている、こう思っている」と勝手にことばにはできない。だから、そういうことは書かない。書かないけれど、その書かないことに、書くことが含まれる。
 そしてそこには、母のことばだけではなく、草花や樹木の「声」も含まれる。草花、樹木はもとよりことばをもたないけれど、彼らがことばをもたないからといって、そのとき母と草花、樹木とがしっかり向き合って、何事かの会話をしなかったということはない。向き合えば、その間に、ことばは動く。
 「じっと眺める」はきちんと向き合う、正確に「対峙する」という石川の姿勢が必然的にすくい上げた「人生の美」である。母の姿が美しいのは、そのためである。



 なにごとかと向き合う、対峙する。そのとき、その向き合ったものの間に、ことばを超えたことばが動く。そのことに通じる不思議な「現象」を石川は書き記している。「幻影の人」。西脇順三郎の『旅人かへらず』の詩を中心にして、いくつかのことばが向き合う。
 そのなかのひとつ。遠藤周作のことばと西脇のことばの「対峙」に石川は目をむけている。「3 無鹿」。遠藤の小説に『無鹿』というものがある。「初冬、宮崎県の延岡駅前からバスに乗って無鹿(むしか)でおりた。」この「無鹿」が、西脇の「人間の声の中へ/楽器の音が流れこむ/その瞬間は/秋のよろめき」という行とかよいあう。

これは西脇順三郎の詩集『旅人かえらず』の(略)
一一九であるが、小説の他の個所では<楽器の音(ムジカ)が流れこむ>と
無鹿の感情がルビにより現されていた。

 無鹿(むしか)、楽器の音(ムジカ、ミュージック)。この不思議な「音楽」。「意味」を超越して、「音」が響きあい、その響きのなかから、いままで存在しなかったものが突然噴出してくる。
 それを石山は、一瞬のうちに把握している。

遠藤周作の小説『無鹿』の書き出しはこうだ

 「初冬、宮崎県の延岡駅前からバスに乗って無鹿(むしか)でおりた。」

私は この地名に幻影の人を感じた
鹿ではない鹿
それは 神に仕える牡鹿だった

 「無鹿」が「鹿ではない鹿」なら、「幻影の人」は「人ではない人」であり、「ことばではないことば」は詩である。そして、それは「神に仕える」。人間にではないものに。そして、その「人間ではないもの」は、石川の「肉眼」には、人と人のあいだ、ある「こと」をとおして向き合う(対峙する)人と人の「あいだ」に、ふっと姿を現してくるものかもしれない。


 

石山淳詩集 (トレビ文庫)
石山 淳
日本図書刊行会

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ジョエル・ホプキンス監督「新しい人生のはじめかた」(★★)

2010-02-24 12:00:00 | 映画

監督 ジョエル・ホプキンス 出演 ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソン

 退屈な映画である。何がいけないのか。配役がマズイ。ミスキャストである。
 ダスティン・ホフマン。彼はジャズピアニストをこころざしたこともある男である。ジャズピアニストになれず、コマーシャルソングを作曲している。--あ、でもねえ、ダスティン・ホフマンはミュージシャンには見えません。「音楽」特有の「軽さ」がない。ノリのよさがない。ピアノを弾いてみせるシーンがある。1曲目は、まあ、自分で弾いているんだろうなあ。勉強家というか、努力家なのはわかるけれど、指がうつっていないピアノ越しのシーンなんか、とても重たい。暗い。ミュージシャンなら、もっとノーテンキでないと……(と、書くと、私の偏見?)。
 まあ、落ちぶれたというか、人から相手にされないという感じはよくでているんだけれど。
 でも、それって、人を引きつける要素じゃないよなあ。
 エマ・トンプソンはなぜダスティン・ホフマンに惹かれ、恋する? その理由が、私にはまったくわからない。同情から恋がはじまっていけないわけではないけれど、ちょっとなあ。
 一方のエマ・トンプソン。あ、あ、あ、あ。引き込まれていきますねえ。うまい。ともかく演技がうまい。ブラインドデートのいよいよ佳境という時に、男の方の友達がやってきて、男と男の周囲はもあがる。エマ・トンプソンだけが浮いてしまって、ぽつんとしている。まるで「事実」みたい。
 ダスティン・ホフマンとのやりとりでも、ダスティン・ホフマンがエマ・トンプソンに惹かれる理由はわかる。イギリス人特有のとりすました感じがなく、アメリカ人のようにオープンである。しかも、皮肉屋というか、相手に譲らない頑固なイギリス人の要素もしっかり具現化している。ダスティン・ホフマンがそれまでアメリカで出会った女とは違う雰囲気がある。それに惹かれていく。それに、ダスティン・ホフマンから見れば、十分に若い。
 うーん。
 なぜ、エマ・トンプソンが年もずいぶん離れたダスティン・ホフマンに惹かれていくのか。さっぱりわからないねえ。
 だから、チラシにもっている(ポスターもそうかな)シーン、エマ・トンプソンが身長差をごまかすために膝をまげて、身を乗り出すようにして、ダスティン・ホフマンに軽いキスをするシーン--のような、不自然なシーンが気になる。「映画映え(?)」を気にして、ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンの身長差をごまかすようなことをして、どうするんだあああ。ほんとうに男に惹かれたんだったら、身長差なんか、関係ないだろう。そのほかのシーンでも、わざと猫背をさせるなど、むりな演技をさせるなら、キャスティングをかえたらいいのに……。
 最後の、エマ・トンプソンがハイヒールを脱いで、裸足になって、猫背をやめて、しゃんと背筋を伸ばして歩く二人のシーンが、泣かせます。はい。エマ・トンプソンが、かわいそう。 



ハワーズ・エンド [DVD]

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北川透「「海馬島伝」異文」(2)

2010-02-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「「海馬島伝」異文」(2)(「詩論へ」2、2010年01月31日発行)

 詩の感想を書いているうちに、その対象(テキスト)からどんどんと離れて行ってしまうことがある。ある行が、その作品のなかでどういう位置を占めていて、どういう「意味」をになっているか……ということなんかは関係なく、そこに書かれていることばに刺激されて、私自身のなかでことばがかってに動いていく。
 これはいいことか、悪いことか--というようなことは、誰にとって、何にとってということが問題になるし、「いい」「悪い」の定義もからんでくるから、まあ、私は気にしないで、ことばが動くままにそれを追いかけている。
 たかが、日記なのだし。
 あるとき、あるひとのある作品について感想を書いた。そうすると、感想にコメントの投稿があった。その後、そのコメントには「個人情報」が書かれているので削除してほしいという依頼が来た。依頼にそって削除はしたけれど、あ、この私の「日記」、そんなに読んでいるひとはいませんよ。城戸朱理が、あるところで「ブログのビジターが1万人を超えたのでやめられなくなった」、松下育男が「ビジターが大型観光バス何台にものっいてやってきた」と書いていたけれ。私はこの日記を2005年からはじめているけれど、私の日記のビジターは1年の日数、365 人にも満たない。とりあげた詩集(詩人)について、「ブログに感想を書きました」と連絡しても「ブログ、読んでいません(読めません)」という返事がわざわざ返ってくるくらいだから、何が書いてあるかなんて、あまり気にしないでね。私としては、悪口を書き放題なのに、ぜんぜん悪口が広がらないのが悔しくてたまらない、という気持ちはあるのだけれど。
 気がむいたら、「谷内がブログでこんな悪口を言っていた」と陰口を広めてくださいね。ツィッターなんて便利なものもあるし。

 あ、余分なことを書いてしまった。私は、話していても余分なことを口にしてしまうが、書いているともっと余分なことを書いてしまう。

 実は、いま書いたこの2行が、きょうの「テーマ」です。はい。

 詩の感想を書いているうちに、その対象(テキスト)からどんどんと離れて行ってしまうことがある--と、私はきょうの「日記」を書きはじめたが、「書いているうち」が問題。「話しているうち」と「書いているうち」はまったく違う。話しているときは聞き手がいて、話の腰を折る。(けしかけるときもあるかもしれないけれど。)ところが、書いているとき、書いていることばを止めるものがない。
 文字は、書いている私の手から離れて、勝手に動いていく。「声」と違って消えてしまわないので、その勝手気ままさが「目」に見え、そのことがさらに勝手気ままさに拍車をかける。
 これは私だけに起きることではない、と思っている。
 「いっしょにしないでくれ」と怒られるかもしれないが、たとえば、北川透「「海馬島伝」異文」を読むと、これは「書かれた詩」だから、こんなふうなのだ、と思ってしまうのだ。(北川透は「朗読」もするようだけれど、あくまで「書いた詩」を「声」にしているのだと思う。最初から「声」にだして詩を作っているのではないと思う。)
 「交換」という詩の、1ページ目の途中くらい。

すべてがあらゆる点でいかがわしい。それは今語っているわたしが何者であるかを、わたし自身が語れないことと通じている。さらに疑わしいのは、島ではことばが文字としてだけ存在することだ。

 「いかがわしい」と「疑わしい」にどれくらいの「差異」があるのかよくわからないのだけれど、「さらに疑わしいのは、島ではことばが文字としてだけ存在することだ。」こんなむちゃくちゃなことば、「書きことば」以外では成り立ちえない。このことばを引き継いで、ことばが「暴走」すると、そのことはもっと明確になる。

人と人、人と物、物同士、動物と植物など、どんな関係のコミュニケーションにも、ことばが介在しているのに、それは文字として表象されいるばかりで、音声化されない。音声としては、まったく意味不明瞭な、ただのノイズとしてしか響いてこない。

 で、さあ、それじゃあ聞くけど、というか、こんな質問が成り立つのかどうかもわからないのだけれど、「文字」を何で書いているの? 何に書いているの? 先にそれを教えてよ。
 --あ、私って、意地悪でしょ? こんな質問を差し挟むなんて。
 「話しことば」の世界では、私はすぐにそういうことをやってしまう。(私は小学校時代「窓際のトットちゃん」状態でした。先生の言っていることを聞いていられない。すぐに質問してしまう。そして、授業をめちゃくちゃにしてしまう。)
 「書きことば」は、すごいなあ。
 私がこんなふうに「質問」をはさんでみても、平気。そんな質問などなかったかのように、どんどん動いていく。

それでいて人にも植物や動物にも、口や口に似た発声器官があり、ノイズ、雑音に似た音の響きは、絶えず飛び交っているし、何よりも文字が光の粒子のように空中に舞っているので、いちおうは相互に了解し合っているように見える。

 「書きことば」を止めることができるものなど何もないのだ。筆者にだって、それは止められない。「話しことば」と違って、「書きことば」は「文字」として、いつまでもそこに存在し「過去」をつくる。「過去」があれば、「過去」は「いま」の空白を見つけて文字を侵略させ、領土を拡大し、「未来」の空白を侵略しはじめる。空白が足りないなら、紙を買って来るということさえ、人間に強いるかもしれない。
 北川は、あることばになにかの「意味」をこめて書いたかもしれない。けれど書かれてしまったことばは、きっと北川の書こうとした「意味」を振り捨てて「暴走」する。
 「それでいて」ということばが象徴的だ。この「それでいて」は、そこに書かれていることはそこに書かれたという状態までのことにして、というのと同じである。そのことばで書こうとした「意味」は「意味」としておいておいて、新たに何かを「書く」のである。「書きことば」を動かしはじめるのである。いや、「書きことば」が勝手に動いていくのである。
 「それでいて」に似たことばに「そうは言っても」というのもある。これもまた、それまでに書かれた文字の「意味」は意味としておいておいて、別な動きを動きはじめる。

そうは言っても、二つのことばや文字、物の表象、アイデア、観念の交換は島外の視点で見ると、かなりいいかげんというか辻褄が合わないものが多いことは確かである。むろん、交換にあたっては、見かけの上での等価性に、最大の注意が払われている。

 いいなあ。この無節操な(?)暴走。文字にし、書いてしまうと、どんなことばも粘着力を持って、緊密にくっつく。(というのは、実は、嘘--こういうことができるのは、北川が「書きことば」の文法を北川なりに確立してきた空のこと。)どんなむちゃくちゃを書いても、ことばはくっつくく。だから、その粘着力をふりきるために、さらにことばは暴走し、その「暴走することば--暴走する書きことば」を北川は筆記具(ワープロ?)でただ追いかける。

 こんなことはいくら書いてもきりがないので、途中を省略して……。

わたしがひそかに作成した島国の地下洞窟群の測量地図が、一夜にしてコピーされ、剽窃された、という文脈が、おまえはそんな可愛い顔をしながら、産まれてくる花瓶やら、マッコウクジラやら、草履の天婦羅やらを絞め殺したという文脈と、どうしてこの島内ではやすやすと交換可能になるのか。

 「書かれているから」。「書きことばだから」。私は、そう答えよう。「書かれている」(書きことばである、文字である)からこそ、私たちは、それを並べて比較し、かけ離れた場所にあろうと、それを近くに引き寄せ、また逆にあるものを遠くにやるという空間操作をおこないながら、「等価」のシートバランスをつくってしまうのだ。書き上げてしまうのだ。
 「書かれている」からこそ、コピーが簡単であり、剽窃も簡単であり、「切り貼り」(交換)も簡単であり、「交換」(切り貼り)だけでても暴走はできてしまう。

 この簡単さと戦い、さらにことばを暴走させるにはどうすればいいか。この、一種の不可能な「場」において、北川は、さらに戦いつづけている。
 --北川は、この詩において「書きことば」について書きたかったのかどうかわからないが、そしてそうだとしても私が書いたようなことを書きたかったのかどうかわからないが、私は「書きことば」について考えてしまった。
 「書く」ということ、「書きことば」というのものは、ほんとうに、その出発の「テキスト」とは無関係になってしまう。そういう不思議な「自由」をもっている、と、北川の書いている詩を読むと、強く感じてしまう。




溶ける、目覚まし時計
北川 透
思潮社

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中島まさの・中島友子『まさのさん』(2)

2010-02-23 21:16:17 | 詩集
中島まさの・中島友子『まさのさん』(2)(編集工房ノア、2010年01月26日発行)

 中島友子の作品には母が生きているときに書いたものと、母が亡くなってから書いたものがある。生きているときに書いたもの、母とのやりとりが具体的なものの方が私は好きである。
 「書写山参道で」の全行。

もう引き返そう
「まだまだ
 行ったらええやんか」
あした しんどいしんどい
言わんといてよ
「しんどかったしんどい言うよ
 言うたらええやんか」

もうすぐ母の誕生日
八十七歳になっても
来られますように

 きのう書いたことに通じるが、母のことばには「行間」が過剰にある。「行間」が「行」の終わりにきたときは、「余白」になる。「余韻」という言い方もできるかもしれないが、「余白」の方が、たぶん気持ちがいい。

「しんどかったしんどい言うよ
 言うたらええやんか」

 この2行のあとには、現実ではさまざまなことが起きる。怒ったり、どうにもならなくて泣いたりするかもしれない。それはもう、それが起きる前からわかっている。わかっているけれど、母のことばは、そういうわかりきったことがらを「余白」で消してしまう。というか巨大な「余白」を用意することで、そこで起きている事柄をめんどうくさいあれこれの一大事ではなく、ほんのちいさな出来事にしてしまう。
 母は娘に、そういう「巨大な余白」をもった人間になれよ、と静に教えている。

 「行間」と「余白」には人生を生きてきた人間の、人生を俯瞰する力がみなぎっている。どんなに騒いでみても、それは人生のなかにすっぽりおさまってしまうだけのこと。あ、この哲学は、「死」と向き合いながら、いま、自分にある「余白」をしっかりとみつめることができる人間だけにしか実現できない哲学だろうなあ、と思う。
 そういう哲学としっかり向き合うことができた中島友子はしあわせだと思う。そして、また、そういう哲学をしっかり娘に語ることができた母もしあわせだと思う。
 親というものはいつでも、子どもが50歳になろうが70歳になろうが、子どもを「子ども」として向き合いがちである。対等な人間という感じではなかなか向き合えない。でも、中島まさのは友子と対等に向き合っている。そういうことができたのは、中島まさのが、死と対等に向き合っていたからかもしれない。死を生と同じように、自分と対等なものとして向き合っていたからかもしれない。恐れもしない。喜びもしない。その瞬間を、ただ充実して生きようといていたということかもしれない。

 母の死(あるいは生)と関係があるのかどうかはっきりしないが、「遠距離恋愛」という詩がとても印象に残った。

蝶が私の車に乗りこんで
途中で降りていきました
好きな人に
会いに行くのでしょう
胸がどきどきして
羽が動かせなくなったのでしょう

 この蝶を、私は中島友子の母、中島まさのと置き換えて読んでみたい。母が子を生むのであって、子が母を生むのではないから、友子の人生という旅、その車に、途中から母が乗り込んできて、途中で降りるというのは奇妙かもしれない。
 けれど、実際の人生においては、そういうことはあるだろう。ずーっといっしょにいる。いっしょにいて、いることさえ忘れている。けれど、あるときから、その存在がはっきりと自覚できるようになる。そんなふうにして、友子が母・まさのと新しく出会いなおす。友子は母の人生の途中に乗り込んできた子どもであるけれど、ある瞬間、母と娘が対等になり、娘の人生の旅に母が同伴する。いっしょに旅をする。
 そして、気がつけば、母はまた自分だけの旅に出発する。娘を置き去りにして、死んでしまう。
 その死を、母・まさのは恐れてはいない。まるで恋人のように感じている。受け止めている。胸が高鳴る。どきどきする。--そして、とても自分ひとりでは歩けなくなったので、ちょっと娘の車に同乗させてもらう。
 そんな感じ。
 この瞬間の、対等な感じ。それがとてもいい。
 母・まさのは、生に対しても死に対しても対等に生きた。誰それに対しても、娘に対しても。その美しい「人生」が蝶のように自由に舞っている。そんなことを感じた。


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北川透「「海馬島伝」異文」

2010-02-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「「海馬島伝」異文」(「詩論へ」2、2010年01月31日発行)

 北川透「「海馬島伝」異文」は、いくつもの章(で、いいかな?)で構成されている。すでに発表済みのものも、もう一度編み込まれているので、これは1冊の詩集が同人誌のなかに組み込まれていると考えてもよさそうである。1冊の詩集の「量」に相当する長さである。
 どの「章」もおもしろいが、「骨」のリズムが私には気持ちがいい。

(その島には骨塚と呼ばれる小高い丘がある。そこには解体された骨が捨てられているが、骨は骨同士で連帯して生きている。多くの骨の仲間うちで、一番でっかくて不恰好だった骨は、デカ骨と名づけられていた。デカ骨は冷たく刺々しい外気に触れると、妙にギクシャクし始め、上下左右に突っ張り始める。

 この北川の文体は、きのう読んだ福間健二の文体が「並列の詩学」であるのに対して、「直列」である。福間のことばが、突然あらわれる「過去」によって「いま」が解体される運動であるのに対して、北川のことばは「いま」のことばが手を伸ばして「未来」のことばを食べながら、「未来」を「うんこ」として排泄しづける文体である。
 この場合の「未来」とは、「流通する意味」に反するすべてのことばを指す。「流通する意味」はすべて「いま」につながる「過去」を持っている。「流通することば」のなかには「過去→現在」という「流通する時間」が含まれている。この「流通する時間」「流通する意味」には含まれないものが「未来」である。
 たとえば、

骨は骨同士で連帯して生きている

 「骨」、特に「解体され」「捨てられた」骨の、「流通する意味」は「死」である。「生」ではない。生きていたもの(過去)は死んでしまうと(いま)、肉を失い骨になる。そして、捨てられる。
 「骨は(骨同士で連帯して)生きている」というような、骨と「生」をむすびつけることばは、「流通する意味」「流通する時間」を否定していることになる。そういう「過去→いま」という時間意識(意味意識)と矛盾している「生きている」ということばを取り込み、それをかみ砕き、消化して、排泄する。そのとき、ほんとうに排泄されるのは、実は「骨は生きている」という「流通言語」と矛盾することばではなく、いままで「流通していた言語」、つまり「骨は死んでいる」ということばである。「骨は生きている」という、「新しいことば(未来)」を取り込みながら、「骨は死んでいる」という「ふるいことば(過去)」を「うんこ」として排泄しながら、ただひたすら前へ前へと進む。
 この「直列」の運動は、「過去→現在→未来」というような「図式」ではなく、「未来→現在→過去」というベクトルを描く。そして、この「未来→現在→過去」のベクトルは、「未来→現在」は「現在」から「未来」へ向けて手を伸ばし、それを取り込む・吸収するという運動をあらわし、「現在→過去」は「現在」のなかに残っている「過去」を排出するという運動をあらわす。
 「現在」というのは「生命体」であり、それは「未来」という新鮮なもの、を食べながら、「肉体」のなかにある古いものを排泄することで、「いま」を活性化し、「未来」へ進むのだ。このとき、「未来」と「過去」とは無関係である。「過去→現在→未来」という「流通時間」が「過去」の影響を受けるのに対して、「未来→現在→過去」という北川ベクトルは「過去」の影響を受けない。それは「過去」からの自由、「過去」からの解放となる。

 北川のことばの運動は、ことばがもっている「過去」の時間をほうむり、新しい運動の可能性を切り開くものなのだ。そういう運動を、「未来→現在→過去」という形で具体化しているのである。

 骨から「死」を捨て去ってしまえば、その運動は、もう自由である。その運動は、最初は「ギクシャク」しているだろう。仕方がない。どこへ進むべきかなど、決まっていない。いや、想定さえされていない。めざすべき目的地などないのだ。

季節ごとに島を襲う、あの猛烈な竜巻の神話ほど手におえないものはない。それに巻き込まれると、建物も樹木も生き物も精神までも、ばらばらに解体されてしまう。しかし、それと果敢に戦う地下茎のように、放射状に伸びる骨たちもいる。

 「季節ごとに」から「解体されてしまう」までのことばは、そのなかに「神話」ということばを含んでいるが、まあ、「過去」のなにかを「意味」しているかもしれない。でも、何を意味しているか、ちょっと、わからない。わからないと、困る--という意見もあるだろうが、私はわからなくてもかまわない、と考える。
 北川は、ここでは、骨が「生きる」とはどんな具合に生きるかを書きたいだけだ。「地下茎のように」生きる。その「地下茎のように生きる」ことをくっきり浮かび上がらせるために、「季節ごとに」から「解体されてしまう」までのことばがあるのだ。「神話」を含む「過去」は「地下茎のように生きる」ということばで、過去として排泄される。
 そして、次のような未来を現在として提示する。

戦場の猛々しさが、骨を鍛える。骨になっても背長を止めないのだ。骨! 骨! 骨! 骨! 骨!

 「背長」は「生長」あるいは「成長」の誤植なのかもしれないが、「背骨(せぼね)」を連想させて、非常になまなましい。背骨がどんどん伸びて、たくましくなっていくことを特別に「背長」と書き、「せいちょう」と読ませたくなる。
 こういう「誤読」は「過去→現在→未来」という「流通時間」からは許されないことだろうけれど、「未来→現在→過去」という北川時間では、きっと許してもらえる。北川のことばの運動自体が、そういう「誤読」を利用した過去の破壊だからである。
 骨は死んでいない。生きている。それだけではなく、背長(せいちょう)している。そういう運動に、北川はかけている。
 もちろん、その運動が必ず結果を生むとは限らない。だから、北川は次のようにも書く。

無駄骨折ったり、転んだり。怖気づいた震え声の骨だっているさ。でも、骨のない奴らに、骨の歯軋りや暗闘は聞こえない、見えない、匂わない。

 「無駄骨」であってもかまわない。その「骨」の「歯軋り」「暗闘」が「骨」を「生きる」ひとに、聞こえ、見え、匂えば、それでことばは動いたことになるのだから。
 「無駄骨」になるかどうかは、北川は問題にしない。あらゆる運動を「無駄骨」にしてしまうか、そうではなく、その「無駄」のなかに「無駄」を超えるなにかを生きてみるかどうかが問題なのだ。
 北川の「直列の詩学」はいつでも「生きる」と「自由」につながっている。





窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
思潮社

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フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

2010-02-22 18:16:43 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン

 2010年02月22日、福岡の天神東宝で見た。席はEの10である。私は、この席が空いている限り、ここで見る――と、奇妙なところにこだわっているのは・・・。
 最初に「ゴッドファザー」を見たのは、小倉の東宝。いまは、廃業し、建物もない。駐車場になっている。その、なくなってしまった映画館で見た記憶では、この映画は「黒」の色が輝くほど美しかった。この映画で私は「黒」の美しさに気がついた。私にとっては画期的な映画だった。
 ところが。
 「黒」が美しくない。
冒頭の、書斎での会見(面会?)。ブラインドを下ろした室内。屋外で行われている結婚式の明るさとはうらはらな生臭い暗いやり取り。マーロン・ブランドたちが着ている服の黒い色。それが中途半端で、なんとも不思議だ。それにつづく結婚式でも、礼服の黒が安っぽい。それと比例する(?)ように、白にも華やかさがない。昔もこんな色だったのだろうか。私は、妙に気がそがれてしまった。
それでも。
やっぱり結婚式のシーンはいいなあ。活気がある。登場人物がばらばらに動いているのに統一感がある。喜びの生命力が満ち溢れている。無垢な感じがとてもいい。ジェームズ・カーンの能天気な明るさが、とてもいい。
それにしても。
やっぱり時間の経過というか、時代の動きは凄いもんだねえ。当時は「バイオレンス」に見えた描写が「バイオレンス」からほど遠い。どの殺戮も美しい。びっくりしてしまう。馬の生首は馬と血の色がとても似合っていて奇麗だ。酒場で、手をナイフで突き刺され、首を絞められるシーンなど、記憶の中では自分の首が絞められているような苦しさがあったが、いまはもう平気。高速道料金所の銃撃も、とてもあっさりしている。
うーん、人間の感性はおそろしく発展(?)するものだ。
驚いたシーンをもうひとつ。
マーロン・ブランドがトマト畑で倒れるシーン。短い。私の記憶の中では3倍くらいの長さになっていた。マーロン・ブランドの演技はそんなに素晴らしいとは思わなかったが、このシーンだけはまねしたいくらい好きだった。それがこんなに短かったとは。

それにね。
 アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン。みんな若い。こんなに若い時代があったなんて、驚いてしまう。ロバート・デュヴァルという役者は私は大好きだが、印象としては、もっと禿げていて、もっと歳をとっていて、マーロン・ブランドより少し年下と思っていたけれど、マーロン・ブランの子供(養子)だったなんて。 ダイアン・キートンって、いつから垂れ目のブスになったの? ウッディ・アレンと別れてから? なんて、映画とは関係のないことまで思ってしまうのも、古い映画を見る楽しみかも。



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中島まさの・中島友子『まさのさん』

2010-02-22 16:41:38 | 詩集
中島まさの・中島友子『まさのさん』(編集工房ノア、2010年01月26日発行)

 中島まさの・中島友子『まさのさん』は母と娘の2人の詩集である。前半に母・まさのの詩をおさめ、後半が娘・友子の詩で構成されている。母・まさのは死去している。
 まさのの詩を読んだだけだが、不思議な強さがある。
 「八十八歳八か月」という詩が最後におかれている。死の直前の作品と思われる。

これから
どんどんやせて
死んでいくやろう
多田さんも
土山さんも
松岡さんも
みな のうなった
みんな死ぬんや
どうもないがな

 私はついつい余分なことを書いてしまうが、ここには余分なものがない。見当たらない。
私は、詩は余分なもの、言おうとすること(ストーリー)からはみ出していくものだと考えている。その私の定義からすると、こういうことばに詩はないはずなのだが、私の定義を裏切るように(?)、あ、いいなあ、と感じてしまう。
 でも、ほんとうにはみ出していくもの、はみ出したものがないのかな?
 ある、と思う。

 何が過剰か。何が「ストーリー」をはみ出しているか。「行間」である。

みな のうなった
みんな死ぬんや

 この2行には、「行間」はない。ない、というと変な言い方になるが、この2行は関西弁(?)と標準語で繰り返しているだけである。同じことを言っている。2行は重なり合っている。
 でも、次の

どうもないがな

 はどうだろう。どう、つながるのだろう。脈絡があるようで、ない。
 私は、この脈絡の「ない」状態をもちこたえることができなくて、ついつい、「説明」の道筋をつけてしまう。「行間」に「意味の橋」をかけてしまう。
 中島まさのは、そういう「意味の橋」を思いつかないほど、過剰な「行間」を提出する。それがあまりに過剰すぎて、差し出された「行間」が「見えない」。見えないので「ない」と思ってしまうが、それは「ない」のではなく、読んでいる「私、谷内」をすっぽりと包んでしまっているのだ。
 だから。
 あ、娘の中島友子に語りかけたことばなのに、それは私、谷内に対して語りかけているように感じてしまう。
 私は母の死に目に会えなかった親不孝な人間だが、こういう詩を読むと、あ、母もそんな気持ちで死んでいったかな、となぜか安心する。

 「娘へ」はとてもいい作品だ。この作品を成立させているのも、巨大な「行間」である。 「行間」が巨大すぎて、そこには不純物が存在しえない。「行間」になにが紛れ込もうが、そんなものはミクロの塵の存在になりえない。

人が言うてくれてのは
できると思てやから
受けたらええ
やってみることや

 この大きな「行間」。そこにすっぽりと入り込むうれしさ。いいなあ。


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福間健二「レッスン、書けない小説のための」

2010-02-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
福間健二「レッスン、書けない小説のための」(「詩論へ」2、2010年01月31日発行)

 ことばの暴走にはいくつか種類がある。電池の配列でいうと「直列」と「並列」があるが、「並列」は科学の世界ではたぶん「暴走」とは言わないだろう。「並列」では電力がアップするわけではないから。
 けれども、ことばの運動では、この「並列」も暴走であると、私は思う。西脇順三郎がその代表的な詩人であると思う。
 「並列」の暴走詩は、西脇がやり尽くしたようにも思うけれど、「並列」なので、どこまでも広がりつづけていくことができるとも言えるかもしれない。限界がない--と言い換えてもいいかもしれない。
 福間健二「レッスン、書けない小説のための」を読みはじめて、すぐ、そんなことが思い浮かんだ。

父の話を聞き、花を眺め、コーヒーを
何杯も飲んで、「役に立つものも、少しは
つくった」
という書き出しを考えた
つかのまの、停戦のための休暇。
それから長い時間がたった。その主語である父はもういない。
「何を言われても、反論してはいけない」
と忠告してくれた精神科医も失意のうちに亡くなった。
言いかえさない機会に向かって
父は語った。
雲の話。夢の話。戦争の話。
焼きつくされた盆地の村の
裏口から出た遅い午後の野に、甘ずっぱい匂いがただよったのは
「青い豹」としての父たちに記憶される
女盗賊が走ったから、ではなかった。

 タイトルの「レッスン、書けない小説のための」ということばにしたがえば、「役に立つものも、すこしは/つくった」というのは小説の書き出しかもしれない。それは、まあ、私にとっては重要ではない。
 この詩には「長い時間がたった」ということばもあるが、このときの「時間」が問題である。「時間」を問題にしたい。
 「時間」の定義は、ひとの数だけあるかもしれない。だが、厳密なことは別にすれば、「時間」は一般的には「ふたつ」ある。
 ひとつは、いわゆる「直線」としての「時間」がある。過去-現在-未来が一直線上に配置されて説明される時間。これは、ある意味では「直列」の時間かもしれない。こういう「時間」は「長い」「短い」という尺度で測ることができる。ある単位を基準にして客観的な数値としてあらわすことができる。福間は「長い」と簡単に書いているが、この「長い」はそういうことを考えさせてくれる。
 もうひとつは、「螺旋」としての「時間」がある。春-夏-秋-冬。この繰り返し。「時間」はいつもある特定の「刻印」のある「とき」に螺旋を描きながらもどってくる。その「螺旋」を「螺旋階段状」にすると、その特別な「とき」と「とき」の間をひとつの単位として「長い」「短い」ということもできるかもしれない。これはしたがって、ある意味では、「直線」の「時間」を「曲線」に書き換え、さらに「平面」から「立体」に書き換えたものだと言えるかもしれない。
 私は、実は、その一般的にいれわている「時間」の形態とは別のものがあると感じている。
 それは、どこにも属さない「時間」--言い換えると、「直線」、あるいは「螺旋」からはみ出してしまう「単独」の時間のことである。何にも属さず、ただ「単独」に、そこに存在してしまう時間。
 福間の詩にもどって言えば、「役に立つものも、少しは/つくった」という小説の書き出しのことばが内包する「時間」。もちろん、その書き出しが小説として完成すれば、その「内包」された時間は、解きほぐされ、拡大され、ひとつの「直線」、あるいは「螺旋」を描く。けれど、小説が完成に向けて動いていかないとき、それはただそにに存在する「孤独」な存在である。
 こういう「時間」が、実は詩である。そして、こういう「時間」は、ほんとうにただ「並列」として存在するだけである。どんなに「並列」が増えても、それは運動の推進力そのものには影響しない。
 けれど、それは「長持ち」する。
 この「長持ち」の感覚--それが、詩の、豊かさだ。
 福間の詩には、こういう「単独」の時間がたくさん出てくる。「長い」「短い」で測られることなく、「時間」とも名付けられずに、ただ登場する。
 精神科医と父の関係は説明されない。「直列」に連結されることなく、ただ「並列」に置かれている。ときには、その「電池」にはエネルギーがないかもしれない。けれど、平気で(?)「並列」に配置される。ときには、

女盗賊が走ったから、ではなかった。

 と否定形で登場する。それは「直列」どころか、「並列」からも除外され、「物語」のさらに「外」に置かれてしまうのだが、この「外」の拡大、「物語」の破壊が詩である。何ものをも推進しない。「時間」をつくらない。それが詩である。
 福間の、この「並列の詩学」には、「ではなかった」という否定形と、もうひとつ、特徴的なことばがある。
 作品のつづき。

「なにかおいしいものを食べさせてくれよ」
食べることにまるで関心のなかった父が
急にそんなことを言いだして
鐘がなった

 「急に」が、福間の「並列」のもうひとつのキイワードである。「急に」とは「突然」ということであり、それは「関心(関係・脈絡)」の「無」(否定)とつながっている。「直列」の「時間」には「脈絡」がひとつしかない。「並列」にはそれは無数にあって、その無数はいつでも「急に」(突然)、他の脈絡とは無関係に成立する。
 それは「急に」であるからこそ、衝撃がおきる。何かが刺激される。その刺激が詩のすべてなのだ。
 この部分の「なにかおいしいものを食べさせてくれよ」に限らないが、先の引用の部分の「青い豹」「女盗賊」も、それがどういうものか、詩のどこを探しても「脈絡」がない。どんなものでも「過去」を持っているはずだが、ここでは「過去」が説明されず、「過去」というものから自由な「もの」(とき)が氾濫する。
 もし、ここに書かれていることに「過去」というものが存在するなら、それは福間の側にあるのではなく、読者の側にある「過去」である。書かれたことば--その「肉体」から独立したことばは誰とでも結びつき、結びつくことで読者の「過去」を攪拌する。
 それはあるいは「他人」「他者」と呼ぶべきものかもしれない。書いている福間にとってでさえ「他人」「他者」であるもの。その力によって、「文脈」をつくってしまおうとするものを壊す。叩き壊す。そのときの刺激--それが、「並列の詩学」の運動なのだろうと思う。

 この「並列の詩学」。西脇がはじめ、西脇が完成させた詩学と福間の詩学はどこが違うか。感じ方の違いといえばそれまでだが、私には、西脇の詩学には「音楽」があると思う。ことばをつらぬく「音楽」が「肉体」として存在する。福間にもあるのかもしれないが、私には、その「音楽」は聞き取れない。私の性にあっていない、ということかもしれない。「音楽」ではなく、また別なもの(美術とか……)が福間の詩学の基本なのかもしれないが、それもよくわからない。わからないけれど、まあ、「並列の詩学」として、福間のことばは動いている--いまは、そう感じる。



福間健二詩集 (現代詩文庫)
福間 健二
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