詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中村節子「陽炎」

2021-05-10 07:59:54 | 詩(雑誌・同人誌)

中村節子「陽炎」(「回游」71、2021年05月01日発行)

 中村節子「陽炎」の一連目。

わたくしという木が
風に吹かれている
雲の動きにゆられている
いみじくもわたくしは木になぞらえて
耐えているがごとく
か弱く小さくゆれている
なんでここにいるんだろう
なんで葉っぱをそがれた冬の木になって
泣いているんだろう


 「いみじくも」ということばにひっかかる。なぜ「いみじくも」なんて書いたのだろう。「わたしくは木になぞらえて」だけでも、詩から逸脱して散文の方へ動いている感じがする。しかし、わけがわからないまま、この「いみじくも」「なぞらえて」のつながりに、私は絶対に書かないなあと感じる何かが書かれている気がして、ひっかかるのである。私の知らない何か、見落としてきた何かがあると感じるのだ。

わたくしという木が
風に吹かれている
雲の動きにゆられている
耐えているがごとく
か弱く小さくゆれている

 これでも十分に、つたわると思う。でも、こんなふうに「比喩」にしてしまったら、何か違うんだろうなあ。
 きっと、

なんでここにいるんだろう
なんで葉っぱをそがれた冬の木になって
泣いているんだろう


 この部分の「なんで」「……だろう」との、ことばの距離が違う感じになるのだろう。「詩」にせずに、というと変だけれど、ふつうの詩のように比喩にしてしまわず、見つめたいことがあるのだ。「なんで……なんだろう」は比喩にはできないもっと直接的な思いなのだ。比喩にしたくないのだ。比喩にせずに、確固とした「答え」がほしいのだろう。
 その気持ちが、「いみじくもわたくしは木になぞらえて」という非常に散文的な一行を生み出しているのだと思う。
 二連目。

一羽の傷ついた鳥に出会った
わたしくのみすぼらしい枯枝に止まって
さえずるのだ
おいでおいで
一緒に飛ぼう


 これは、非常に詩的。泣いている「わたくし」を誘っている。ここにも「なんで」が隠れているかもしれない。「なんで」「わたしくしの枯枝」に止まったのだろう。ほかにも木はあるはずなのに。そういう疑問が隠れていると思う。「なんで」ということばを書かないことで、この連は鮮やかな詩になっている。美しく響いてくる。
 中村は、この誘いにどう答えるんだろう。

わたくしという木が
飛んだらどうなるのだ
根っこからもぎ取って
飛んでしまったらどうなるのだ
それでもおいでおいでというのだ


 私は、ちょっとうなった。何か、現実に足を踏ん張って生きている感じ、詩なのに、詩にはならないぞと言い張ることで詩になるという感じがするのだ。
 飛んで行きたいではない。「傷ついた鳥」と一緒に飛んでも遠くまではいけないだろうという思いがあるかもしれない。
 「木」が「わたくし」なら、「傷ついた鳥」もきっと「わたくし」なのだ。
 「飛んでしまったらどうなるのだ」という一行は「いみじくもわたくしは木になぞらえて」と同じように、不思議な粘着力がある。「詩」を拒絶した、現実的な粘着力がある。そして、この現実的な粘着力があるからこそ、

それでもおいでおいでというのだ


 が強烈な「詩」として響いてくる。二連目、よりいっそう美しくなる。
 そして、「それでも」というのは、これもまた非常に散文的なことばだが、散文的であるからこそ「おいでおいでというのだ」がさびしく響く。「泣いている」中村には、耐えがたい誘惑だろう。
 ああ、いいなあ。
 他人(中村)が苦悩しているのを見て、ああ、いいなあ、と感想を漏らすのも変な感じだが、あ、この苦悩を苦しんでみたいという気持ちになる。
 文学とは変なもので、現実としてはあってはいけいなことであっても、ことばのうえでそれを味わってみたい気持ちになってしまうのだ。
 中村は、このあと、さらに散文的な疑問を発している。

わたくしはもう木ではないのか


 これも強烈だ。
 「いみじくもわたくしは木になぞらえて」と書かなければならない理由が、ここではっきりする。「木ではない」という思いがあるから、わざわざ「木になぞらえて」と言わなければならないし、その「なぞらえて」に先立って「いみじくも」と言わなければならないのだ。
 安易に詩にならない、詩を拒絶することで、逆に詩の足元を深く掘り下げる作品といえばいいのだろうか。

 

 

 

 

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