詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

円谷英二特撮監督、多猪四郎監督「モスラ」

2021-12-31 13:05:48 | 午前十時の映画祭

円谷英二特撮監督、多猪四郎監督「モスラ」(★★★★)(2021年1 2 月2 6 日、中州大洋スクリーン1)

特撮監督 円谷英二  監督 本多猪四郎 出演 ザ・ピーナツ

 日常では見ることのできないものを見たい。これが映画を見る欲望だとすれば、映画をつくる人の欲望も日常では見ることのできないものを見せたい、だろう。その欲望で動いている作品。だから、どんなとんでもないことでも許せる。ここでいう「とんでもないこと」というのは、奇妙な外国人興行師のことである。これを批判していたら、映画にならない。
 さて、見どころは。
 やっぱりモスラの三段階の変化。幼虫、繭、蛾。これを全部描いている。いきなり蛾ではなく、幼虫からスタートする。虫が太平洋を泳いでくるなんて傑作だなあ。だれが思いついたのだろう。動きのない繭には東京タワーというアイコン。いいなあ。もし東京タワーが日本になかったら、モスラは生まれなかった。東京タワーがあるから、東京があり、だからこそモスラはやってきた。いや、ほんとうの理由(ストーリー)はもちろん違うけれど、円谷英二は東京タワーがなければこの映画の特撮を担当しなかっただろうと、私は思う。東京タワーで繭をつくるためには、その前は幼虫でなくてはならない。きっと発想が東京タワーの繭から始まっていると思う。
 怪獣が都市を破壊する。そのとき都市とはどういう都市であってもいいというわけではない。ランドマークを見たら、その瞬間、これはこの都市と分かるものでないといけない。これはまあ、「キングコング」のエンパイアステートビルみたいなものかもしれないけれど、いやあ、東京タワーがあってよかったなあ。皇居や国会議事堂でもいいのかもしれないが、皇居、国会議事堂なんて、行ったことのある人は少ない。東京タワーも、行ったことがある人は少ないかもしれないが、遠くからでも見える。わかる。行ったことがない人にも、すぐわかる。こういうランドマークがないと、怪獣が都市を破壊しても、ぜんぜんおもしろくない。
 円谷英二は、こういうすごく単純なことを、非常によく理解していたのだと思う。
 で。
 その東京タワーの対極が、ザ・ピーナツ。身長30センチという設定。これじゃあ、見逃すよ。いたとしても「人形」としか思えない。それが歌を歌う。さらにテレパシーをつかう。テレパシーはザ・ピーナツ以上に「見えない」。この「見えない」という存在が、見えるものをいっそうくっきりとさせる。そういう構造になっている。見えないテレパシーを遮断するということを「見える」ようにする変な遮蔽檻なんて、傑作だなあ。どこまでも、映画は「見る」ものということに、こだわっている。
 ザ・ピーナツが歌う「モスラ」の歌も大好きだなあ。「モスラー、ヤッ、モスラー」という歌いだし以外は何もわからないカタカナの音がつづくだけだけれど。このわけのわからないところが、実に楽しい。あのころは、どっちがどっちかわからないけれど、つけ黒子をつけて、区別のつかなさを強調していた。そういう「細かい」ところも好きだなあ。
 ピンクレディーが全盛期のときに、ぜひ、リメイクしてほしかったなあ。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(23)

2021-12-31 10:39:53 | 詩集

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(23)

(寂しさに入る)

寂しさに
入ると
空が
生き返る

過去の
影を
懐かしみ

未来の
幻を
もてあそび

円相を
転がして
戯れる
日々

 聞いたことはあるが、私がつかわないことばが、今回の詩集にはたくさんある。「円相」もそのひとつ。読んだ瞬間、一連目の「空」が「くう」に変わった。「無」があらわれ、動詞「入る」が「生き返」った。

 

 

 


(永遠が恵む)

永遠が
恵む
束の間の

時の
流れを
遡り

古楽器と
辿る
木版の
道に

咲き誇る
今日の
花々

 「永遠」と「今日」のあいだに何があるか。「木版の/道」に私は引きつけられた。私は木の彫刻家か木版画家に憧れたときがあった。あのときは、「永遠の花」が見えた。私の「永遠」は、あのとき、だったのか。

 

 

 

 

 

(あなたと)

あなたと

天と

闇が
光を生み
光が
闇を生む

大気と水
言葉と
音楽

終わらない世界
それだけで
いい

 「それだけ」と谷川は書くが、「それ」とは何か。「私」「あなた」を始めいくつも名詞が出てくる。「それだけ」というには多すぎる。一方、動詞は「生む」だけ。そうか、「生む」があるかぎり「終わらない」。

 

 

 

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇127)Jesus Coyto Pablo

2021-12-30 20:35:32 | estoy loco por espana

Jesus Coyto Pablo "Días de tiempo gris"

200x200 mixta

Esta cuadro sacude mi memoria.
Es mejor decir que esta cuadro me rasca las emociones.
La persona en el centro está dibujada en un lienzo en capas.
Aunque es un paisaje, solo él está aislado.
Me parece que el camina bajo la lluvia de la memoria.
Este tipo de experiencia puede ser algo que todos tengan.
La ciudad conocida,la calle conocida. Y la gente conocida.
Pero no puedo comunicarme con nadie. Incluso conmigo mismo.
Estoy caminando mirando solo a mi soledad.

Cuando miro el cuadro, el cuadro me mira a mí también.
Cuando miro el cuadro, ya no soy yo.
La persona en el cuadro, él me habla.
No le conozxo, pero él conoce mi corazón.
Entonces me descubro a mí mismo.

Un día lluvioso, ciertamente, caminé en soledad.
No, he hecho que la soledad camine como "él"  de este cuadro.
La memoria en ese momento se revive.
Me duele y me aflige.
Pero no sé por qué, pero estoy contento con eso.

この絵を見ると、記憶が揺さぶられる。
記憶を引っかかれると言った方がいい。
中央の人物は、貼り重ねられたキャンバスに描かれている。
ひとつの風景なのに、彼だけが孤立している。
まるで記憶の雨の中を歩いているようだ。
こういう経験は、誰にでもあるものかもしれない。
いつもの街、いつもの通り。いつもの人々。
でも、 だれとも心が通わない。
自分の心だけをみつめて歩いている。

絵を見ることは、絵に見つめられることだ。
絵に見つめられると、私が私ではなくなる。
絵の中の人物が、私に語りかけてくるからだ。
知らない人なのに、私の心を知っている。
私は、そうやって、私自身を発見する。

ある雨の日、私は確かに孤独の中を歩いたことがある。
いや、孤独を、この絵の中の人物のように「別の存在」として歩かせたことがある。
そのときの記憶がよみがえる。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(22)

2021-12-30 10:32:06 | 詩集

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(22)

(音楽の束の間に)

音楽の束の間に
身を委ね
いつか知識を
蔑んでいた

何一つ
私は
知らない

過去の奥
未来の深み
物語を
始めたくない

言葉が
私を掠めていく

 最後の「今」。私はここで目が覚める。「今」だけが「物語」に属さない。「過去」も「未来」も持たない。「今」は「束の間」に通じる。「今」は、どこからやってきて、どこへ行くか。「音楽」だけが知っている。

 

 

 

 

(生まれる前の)

生まれる前の
無名無縁の
いのち
私?

胞衣を
纏い
羊水に
浮き

すでに
死を
知っていた

あどけない
この世の
終始を

 そうかもしれない。想像力は生まれる前のことも死んだ後のこともことばにすることができる。しかし、そのことばは、どこからやってきたのか。たとえば「胞衣」を谷川は生まれる前から知っていたと言えるだろうか。

 

 

 

 


(問いがそのまま)

問いが
そのまま
未来の
答え

言葉が
出来ないことを
音楽は
する

魂が
渇く
この数小節

調べとともに
輪廻する

 「音楽」と「輪廻」。それをつなぐのが「魂」か。私は「魂」ということばは知っているが、その存在を感じたことがない。「渇く」のは、何に対して渇くのか。「輪廻する」ことを「魂」は欲しているのか。

 

 

 

 

 

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(21)

2021-12-29 12:43:43 | 詩集

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(21)

(昨日は)

昨日は昨日
今日にならない
今日は
知らぬ間に明日

手足と
心は
日めくりに
従い

陽を浴びる
草木を
妬む

氷山は
遠い
遺跡も

 「遺跡も」のあとのことばは? 「従う」か「妬む」か。しっくりこない。「遠い」が落ち着く。自分から「遠い」存在は、どうやって時間を過ごしているのか。「遠い」のは「昨日」か「明日」か。

 

 

 

 

(いつでもどこでも)

いつでも
どこでも
誰でも
同じ

死は

生は

人に
満ちて
なお

自ずから
然る

 「なお」。なぜ、谷川は「なお」と書いたのか。「なお」と書かずにいられなかったのはなぜか。谷川のことばには、どこか、谷川自身の孤独を信じきっていない感じがある。他者にゆだねたいのちがある。

 

 

 

 

(無限に抱かれて)

無限に抱かれて
1はいる
始まりと終わりを
懐胎して

ヒトは
1で生まれ
1で死ぬ

雑音から
生まれた
自分の旋律を
独奏して

(ヒトは皆
体に音楽を
秘めているのだ)


 「雑音」とは他者の音。他者と出会うとき、自分自身の音が目覚める。1が存在するとき、すでに無限が存在し、無限が1であることを覚醒させる。そのとき音楽、無限とわたりあうための沈黙という音が生まれる。

 

 

 

 

 

(知ラナイノニ)

知ラナイノニ
分カッテル
気ガ
シテル


答エテルカラ
モウ
問ワナイ


キレイ
空モ

小サイケド
イルヨ

 「イル」ことは「分カル」。「知ル/知ラナイ」を超えた意識のありかただ。言い換えれば「分カル」には意味がない。「知ル」(知識)は他者と共有できるが「分カル」は共有できない。「僕」と同じように。

 

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思想とことば

2021-12-28 21:41:00 | 考える日記

 思想とことば。
 普遍的なものを含んでいないと、それは思想ではないのか。
 ある人とフェイスブックで対話していて、そういう問題にぶつかった。
 私は普遍というものを考えないことにしている。
 私は読んだことはないのだが、たとえばマルクスの「資本論」。そこに書かれている「思想」。それは普遍的であり、普遍的である限り論理的だ、と一般に人は考えている。私は、そういう考えに与しない。
 誰のことばを読もうが、それはその作者(筆者)と私のことばが向き合うだけで、「普遍」とは関係がない。簡単に言うと、もし私がマルクスを読んだとしても、そこで考えたことを他の誰かと「共有」したいとも、「共有」できるとも思わない。私はただマルクスを読む瞬間に、マルクスと向き合い、自分のことばをつくりなおすだけである。
 私は、もう年をとってしまったせいなのかもしれないが、そういうこと以外に何かをしたいとは思わなくなった。

 千人がマルクスを読めば「千人のマルクス」がいる。それは決して「共有」される存在ではないと思う。「共有」できないからこそ、ひとは、それぞれに自分でマルクスと向き合う。それはマルクスを読み、理解するというよりも、自分自身のことばを読み、自分を理解することだ。
 私は、この「理解」を「自己解体」とか「自己破壊」と呼んでいる。

 これは、どう考えても不可能なことなのだけれど、不可能だからこそ、やってみたいことである。

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Estoy loco por espana(番外篇126)Jose Enrique Melero Blazquez

2021-12-28 20:59:17 | estoy loco por espana

La obra de Jose Enrique Melero Blazquez
PSN2021

Hierro con vida salvaje (o bárbara).
No sé si este tipo de expresión es posible en español, pero eso pensé.
Existe un poder salvaje (o bárbara) para sobrevivir en la jungla de hierro.
Utilizo la palabra salvaje (o bárbara) en un sentido muy positivo.
La obra de Jose Enrique Melero Blazquez es muy erótico. Es apasionante.
Amo su trabajo.


野生の命を持った鉄。
こういう表現が、スペイン語で可能なのかどうか知らないが、そう思った。
鉄のジャングルの中で生き抜いていく野蛮な力がある。
野蛮ということばを、私はとても肯定的な意味でつかっている。
彼の作品は、非常にエロチックだ。情念的だ。
私は、彼の作品が大好きだ。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(20)

2021-12-28 16:43:16 | 詩集

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(20)

(裸の足で)

裸の足で
地面に立つ
地球が
頼りない

空の方が
確かだ
生は

毛虫の
地に
飽きて

空で
星々に
迷う

 「裸の足」は誰の足か。谷川の足か、蝶の足か、蝶になる前の毛虫の足か。「確か」と「迷う」は、どういう関係にあるのか。「迷う」が美しく感じられるのは「星々」のせいなのか。「地に飽き」たせいなのか。

 

 

 

 

(青空は)

青空は
見つめきれない
無垢な獣の
瞳も

見えない
細やかな繊維を
束ねている
身と心

よじらずに
ほぐさずに
私は

目を閉じて
何を
聞くのか

 耳を澄ますとき「目を閉じる」のはなぜだろうか。「見つめきれない」「見えない」ものを「見る」ためか。「目を閉じて」「見る」のは美しい旋律か。見ると聞く、目と耳は交錯しながら「宇宙」になる。

 

 

 

 

 

(意味よりも)

意味よりも
確かに
無意味は
在る

言葉から
逃れる
術はなく

空に

人に人

ただ
白昼の
放心を
無心に代える


 「放心」と「無心」。「放心」は、まだ「意味」に縛られているか。「無心」は「無意味」か。それとも「絶対的な意味」、つまり「意味」を超絶した「意味」か。確かに「言葉から/逃れ」て考えることはできない。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(19)

2021-12-27 19:33:38 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(19)

(事実が)

事実が
物語となって
終わる
後に

黙りこむ
人と
卓上の
果実

解釈を
許さない
存在を

時に
任せて
眠る

 セザンヌの静物画を思い出す。「解釈」は画家からの働きかけではなく、存在が画家に働きかけてくるときに生まれる。セザンヌは静物を「解釈」したのではなく、「解釈された」。これが、私の「物語」だ。

 

 

 

 

(言葉が落としたもの)

言葉が
落としたものを
詩は拾う

草むら
横断歩道
プラネタリウム
動物園で

言葉の
落としもの
燃える
ゴミ

炎を
上げずに
くすぶっている

 「言葉が落としたもの」と「言葉の落としもの」は、似ているけれど違う。その違いが、「燃える」「燃えない」の違いを生む。「燃えるゴミ」はほんとうは燃えていない。怨念のようなものが、残っている。

 

 

 

 

 

(記憶にないのに)

記憶にないのに
思い出す
その道をあなたは
去って行った

山々は
不機嫌で
池は
静まりかえっていた

何ひとつ
拒めない世界の
哀しみ

渇くわけを
心は
知らない

 「思い出す」を「知っている」と読み替えてみる。「記憶にないのに知っている」。私個人の体験ではなく、人間が共有する体験だからだ。「いのち」が共有することだからだ。いのちには、拒めないことひとつがある。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(18)

2021-12-26 08:48:40 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

(秋 落ち葉の)


落ち葉の
葉脈を辿って
迷う

世界は
きりのない
言葉を秘めて
無言

理は偽るが
美は
真のみ

闇に守られて
眠る

 「闇」は「偽る」ことはない、ということか。見えるのは、自分の内部にあるものだけ。でも、「美」や「真」だけ見つめていては退屈。だから「眠る」のか。夢で「迷う」のは「言葉」か「無言」か。

 

 

 

 

(昨日は嘘)

昨日は

明日は

今の

私は私

無数の

一個の

熟してまた
未知の
種子

 「また」がいいなあ。「種子」に帰る、の「帰る」という動詞が隠されたまま予告されている。「未知」にだけ、「嘘」は含まれていない。「明日」にはすでに「明日」という「知(嘘)」が含まれている。

 

 

 

 

 

(本にひしめく)

本に
ひしめく
語たち

語は
語を喚び
語は
語と通じ

意味を
孕み
時に歌う

文字を
忘れ
電子の
声で

 「文字を/忘れ」を読んだ瞬間、声は?と思ったら、その「声」が出てきた。でも「電子」の「声」。あっ、電子に「声」があるのか。私は知らなかった。「通じ」「孕む」という動詞に「ことばの肉体」を感じた。

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「外交ボイコット」と言え。

2021-12-25 20:41:49 |  自民党改憲草案再読

読売新聞に、こんな記事。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211225-OYT1T50019/ 

北京五輪 人権考慮、閣僚派遣見送り…米と足並み 政府発表

 政府は24日、来年2月に開幕する北京冬季五輪・パラリンピックに政府代表団を派遣しない方針を発表した。閣僚など政府高官の派遣を見送る。香港や新疆ウイグル自治区などの人権問題を考慮した。すでに「外交的ボイコット」に踏み出している米国や英国などと足並みをそろえた。
 岸田首相は24日、中国に自由、基本的人権の尊重、法の支配の保障を働きかけていることを指摘した上で、「北京五輪への対応については、これらの点も総合的に勘案し、自ら判断を行った」と語った。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 中国の人権問題に抗議し、北京五輪に政府代表団を派遣しない。ここまでは納得できる。
 問題は、次の部分。

 自民党の安倍元首相ら保守系議員らが政府に「外交的ボイコット」を求めていたが、首相は「日本から出席のあり方について特定の名称を用いることは考えていない」と語った。「ボイコット」と呼ばないことで、中国側に一定の配慮を示したものだ。

 この「特定の名称を用いることは考えていない」という、ばかげた表現に、私は笑いだしてしまった。そして、その「表現」に配慮して、「外交ボイコット」という文言を見出しにとらない読売新聞に怒りを覚えた。
 「実態」(事実)を無視して、政府がつかうことばをそのままつかう。それでジャーナリズムといえるのか。「外交ボイコット」ということばをつかわなければ、外交ボイコットにならないのか。
 こんなことを認めていたら、「核兵器」ということばをつかわずに、「戦争抑止力兵器」ということばをつかうようになるだろう。被爆者を「戦争終結にともなう必然的犠牲者」と呼ぶようになるだろう。「先制攻撃」と呼ばずに「敵基地攻撃」というのも同じである。
 すでに「丁寧な隠蔽(完璧な隠蔽)」を「丁寧な説明」というのが自民党トップの表現として定着している。政府が言っていることばをそのままつかうのではなく、実態が国民にわかることばに言いなおすのがジャーナリズムの仕事である。そのまま「正確に」報道するのは、単なる「宣伝」にすぎない。
 それでなくても、中国は「外交ボイコット」されたとは言わないだろう。コロナ感染拡大に配慮し、外国政府要人の招待を控えたと言うだろう。いまの時期、北京五輪に外国要人がこなくても、中国は痛くも痒くもない。コロナ拡大という「名目」がある。それを利用できるからである。
 だからこそなのである。「外交ボイコット」ということばをつかわないことには、中国の人権姿勢を批判したことにならないのだ。それだけではなく、それは中国の人権侵害を認めることになるのだ。岸田の「ことば」は間違っている、と言う必要があるのだ。

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「ことば」は個人のもの。共通語は存在しない。

2021-12-25 20:06:25 | 考える日記

 私は今、ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語で読んでいる。スペイン人に手伝ってもらって読んでいる、というのが正しい言い方だが。
 先日までは、ホセ・サラマーゴの「白い闇」をスペイン語で読んだ。原文はポルトガル語だから、これから書くことは「正確な印象」というわけではないのだが。途中で挫折した、アントニオ・マチャードの詩の印象を含めて言えば。
 外国語で読んでみてわかることは、「ことば」はそれぞれ個人のものであるということだ。マルケスとサラマーゴ(翻訳)、マチャードのスペイン語は、それぞれまったく別の「外国語」である。「スペイン語」と思って読むと、わけがわからなくなる。
 これは日本語の作家でも同じ。鴎外と漱石では、同じ日本語に見えるが、ほんとうは違う。私が日本語で育ってきているから、その違いよりも、たまたま共通の「文法」が見えるだけである。鴎外語であり、漱石語なのだ。中上健次語があり、村上春樹語がある。
 そういう「ことば」を読むときは、私の「ことば」自体がかわらないと読めない。他人の「ことば」を読むということは、他人に自分の「ことば」を読まれることである。鴎外を読むとき、鴎外に読まれているのである。別なことばで言うと、私の「ことば」がかわらないかぎり、鴎外とはほんとうの対話はできない。つまり、読書したことにはならない。「ことば」に触れたことにはならない。
 脱線してしまうが。
 私はNHKのラジオ講座の初級編にもついていけない人間だが、やっぱり「語学(ことば)」の勉強をするなら、小説を読まないといけない。何よりもおもしろくない。「共通のスペイン語」というようなものはない、ということを自覚しないといけない。
 「スペイン語」とか「日本語」とかいうのは、便宜上の「くくり」である。そんなものは、存在しない。文学だけに限らず、「日常語」でも、そうだと考える必要があるだろうなあ。
 さらに脱線して。
 日本の高校では、国語から「文学」を排除する動きがあるが、そんなことをしていたら日本は「二等国」から「三等国」へあっというまに転落するだろう。自分の「ことば」を持たずに、個人というものは成立しないからである。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(17)

2021-12-25 10:20:24 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(17)

(自然に帰依して)

自然に
帰依して
神を
忘れる

人智の
届かぬものを
名づけず
信じて

空は
宇宙へ
開き

草摘む手
泉に
触れる

 草を摘む手が、そのとき草に触れるだけではなく、草の「内部」にある泉に触れると読んだ。谷川が「泉」と名づける前は存在しなかったひとつの「宇宙」である。「摘む」が「触れる」に変わる瞬間の驚き。

 

 

 

 

(自然に帰依せず)

自然に
帰依せず
ヒトは
不吉

言語に
溺れ
数字に
縋り

混沌に
意味
一閃

なお
未明に
夢魔

 「溺れる」と「縋る」は「帰依」とどういう関係にあるか。「自然」と「混沌」はどういう関係か。「言語」「数字」が「意味」なら、「混沌」は「夢魔」か。私は「混沌」を「自然」と考える。無為の状態、と。

 

 

 

 

 

(昼と夜の)

昼と
夜の境に
立ち
闇を待つ

木立が
見えなくなる
人も

暗がりに
身じろぐ
言葉の

ひそやかに
何一つ
指さずに

 「何一つ/指さず」という状態が「混沌」というものではないだろうか。それが、同時に「自然」。自足して、そこにある。何もせず、ただ「足りる」だけがある。ことばにした瞬間、失われてしまうが。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(16)

2021-12-24 10:56:30 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(16)

(悲鳴と喃語)

悲鳴と
喃語
失語と
饒舌

巨大な
火口
大笑い

意味の
素は
無意味

吃る

声の

 最終連、「声の/泡」に私はどきりとした。同級生に吃音の友達がいた。けんかをする。吃音がひどくなる。そのとき口のまわりに泡。見てはいけないものを見た、という記憶が今も頭にこびりついている。

 

 

 

 

(自他の)

自他の
二元を
心は
哀しむ

眼で見つめ
手で掴み
口で
強いるが

億の中で
兆の中で
二は二のまま

一は
私にしか
ない

 私は、そのつど「二」をもとめている。私には一と二と、ゼロ(無)があると考える。「無」から「一」が生まれ、「無」へ帰るためには、「一」を破る「二」が必要だ。「肉体」として生きているあいだは。

 

 

 

 

 

(夜 瓶は)


瓶は
倒れる

湖底には
孕む

少年は
独り
華厳経に
溺れ

暁闇の
野に
綻びる
何の蕾か

 夜、瓶は立ち上がる。湖底の水は龍になって天をつく。少年は経を叩き壊し、ことばの無を龍の眼に託す。蕾は闇を吸収し、大地に送り込む。銀河のような根の広がり。射精しながら、老人は新しい夜を眠る。

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マルケスの文体

2021-12-23 10:54:26 | その他(音楽、小説etc)

マルケスの文体
 マルケス「予告された殺人の記録」はルポルタージュ風の、簡潔な文体の作品である。「百年の孤独」「コレラ時代の愛」「族長の秋」のような、まだつづくのか、という凝った文体が特徴的なわけではない。
 しかし。
 写真は、小説の最初の方の部分だが、「era una costumbre 」以下の部分がいかにもマルケスらしい。(長いので、写真で紹介。)
 現実にはピストルの弾がクロゼットを突き破り、壁をぶち抜き、隣の家、広場を超えて、教会の奥の等身大の石膏像を粉々にしてしまうということはないだろう。まるでミサイルだ。この文章を成り立たせているのが、途中の「con unestruendo de gerra」だね。「戦争のときの轟音のような」とでも言えばいいのか。おおげさだけれど、このおおげさが全体を生き生きさせている。この挿入がなければ「絵空事」だけれど、その「絵空事」を現実にかえることばの運動。これは、文学にだけ許された特権。
 こういうのって、やっぱり好きだなあ。笑い出してしまう。

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